城 郭 史

江戸城(武蔵国) えどじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒100-0001
東京都千代田区千代田1
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク太田道灌徳川家康徳川秀忠
江戸城 年表
和暦 西暦 事項 出典
康正2年1456--太田資長が江戸(武蔵国)に築城を開始する。『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資長」の項
康正3年145748江戸城(武蔵国)が完成する。『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資長」の項
応仁1年14678-太田道灌が駿河国を攻める。『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資長」の項
応仁1年14679-太田道灌江戸城(武蔵国)に帰城する。『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資長」の項
文明5年14736-太田道灌が駿河国に攻め入る。『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資長」の項
文明5年147310-太田道灌江戸城(武蔵国)に帰城する。『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資長」の項
文明8年1476--太田道灌江戸城(武蔵国)の西に青松寺を建立し雲岡舜徳を住持に迎える。『万年志』
文明9年1477314豊島泰経・泰明が石井神城(武蔵国)と練馬城(武蔵国)を築城したため、江戸城(武蔵国)と川越城(武蔵国)の路次が不自由となったため、太田道灌が夜間に石井神城・練馬城へ攻め寄せようとするが雨により諦める。(文明9年)11月28日付太田道灌書状(『大日本史料』8編9 同年月日条)
文明9年1477413太田道灌江戸城(武蔵国)より出陣し、豊島泰明の籠る城に矢を放つ。豊島泰経が石井神城(武蔵国)・練馬城(武蔵国)より出勢し、城攻め中の道灌に襲い掛かるが、道灌は泰経と江古田原にて戦い勝利し、泰明を討ち取る。(文明9年)11月28日付太田道灌書状(『大日本史料』8編9 同年月日条)
文明18年1486726上杉定正が糟谷の自邸に太田道灌を呼び寄せ、道灌を殺害する。『北条記』巻2「太田最後之事」
天文5年153682大道寺盛昌が江戸城(武蔵国)より鎌倉(相模国)に入る。『快元僧都記』同年月日条
天文7年1538106北条氏綱が国府台に向け江戸城(武蔵国)を出陣する。『快元僧都記』同年月日条
天文7年1538107国府台にて足利義明と北条氏綱が戦い、氏綱が勝利する。義明、足利義純、足利基頼が戦死する。『快元僧都記』同年月日条
天文10年1541719北条氏綱が死去する。『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」
天正18年159066徳川家康が内藤清成に江戸(武蔵国)の視察を命じる。『天正日記』同年月日条
天正19年1591719九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項
慶長3年159892徳川秀忠江戸城(武蔵国)に到着する。『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻8「長政記」
慶長4年15996-下総国上総国武蔵国で大風が吹く。『当代記』巻3同年月条
慶長4年15997-下総国上総国武蔵国で大風が吹く。『当代記』巻3同年月条
慶長4年159997徳川家康大坂城(摂津国)の西ノ丸に入る。『慶長年中卜斎記』上之巻、『当代記』巻3同年月日条
慶長5年16003-徳川家康上杉景勝が不和となる。『当代記』巻3同年月条
慶長5年1600616徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条
慶長5年1600618徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」
慶長5年160072徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』
慶長5年1600713徳川家康榊原康政上杉景勝攻めの先陣を命じ、江戸城(武蔵国)を発たせる。『関原始末記』
慶長5年1600719伏見城(山城国)に留守居として残した鳥居元忠が伏見の増田長盛邸、前田玄以邸を焼き払う。
子・秀忠上杉景勝攻めのため江戸城(武蔵国)を出陣し、宇都宮(下野国)に着陣する。
『義演准后日記』同年月日条、『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」
慶長5年1600719徳川秀忠上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。先陣は榊原康政結城秀康松平忠吉、蒲生秀行、井伊直政本多忠勝松平忠明森忠政、仙石越前守、真田信幸小尾祐光小尾光重津金胤久、成田左衛門尉、石川玄蕃允、皆川広照、日根野徳次郎、多賀谷、山川民部、水谷左京が秀忠に供奉する。この日、宇都宮(下野国)に着陣する。『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第172「小尾祐光」の項、同「小尾光重」の項、同173「津金胤久」の項
慶長5年1600721徳川家康上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。鳩谷に宿泊する。『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』
慶長5年160081徳川家康による石田三成討伐に賛同した浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興清須城(尾張国)に向けて江戸城(武蔵国)を発す。井伊直政本多忠勝が目付として同じく江戸城を発つ。『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』
慶長5年160091徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項
慶長5年160094徳川秀忠の軍勢が小諸城(信濃国)に到着する。『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」
慶長5年160095徳川秀忠真田昌幸の持ち城である砥石城(信濃国)を占拠し、真田信幸を入れ置く。(慶長5年)9月5日付徳川秀忠書状(『浅野家文書』112)
慶長5年160097徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項
慶長5年1600915関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜
慶長5年1600101石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」
慶長6年16014-徳川秀忠江戸城(武蔵国)に下向する『関原始末記』
慶長6年1601115徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。『当代記』巻3同年月日条
慶長6年1601閏112江戸(武蔵国)にて火災が起こる。『当代記』巻3同年月日条
慶長6年1601閏119徳川家康が忍(武蔵国)・川越(武蔵国)にて鷹狩をすべく江戸城(武蔵国)を発つ。『当代記』巻3同年月日条
慶長6年1601閏1128徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。『当代記』巻3同年月日条
慶長7年1602119徳川家康が上洛すべく江戸城(武蔵国)を発つ。『当代記』巻3同年月日条
慶長7年1602102徳川家康江戸城(武蔵国)に戻るべく伏見城(山城国)を発す。醍醐を通過した際、三宝院義演より菓子折1合を贈られ、輿より降りて礼をする。『義演准后日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条
慶長7年16021126徳川家康が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。『当代記』巻3同年月日条
慶長8年1603212朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将となる。
『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条
慶長9年160431徳川家康が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。『当代記』巻3同年月日条
慶長9年1604閏814徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて京都を発す。『慶長日件録』同年月日条
慶長10年160519徳川家康が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長10年1605224徳川秀忠が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。板倉重宗が供奉する。『黒田家譜』巻14「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項
慶長10年1605416徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項
慶長10年1605515徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長10年160564徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長10年1605915徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長10年16051028徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長11年1606--徳川忠長江戸城(武蔵国)西ノ丸にて生まれる。-
慶長15年1610828島津家久が尚寧をともない、江戸城(武蔵国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、礼をする。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項
慶長16年16111016徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。江戸詰めの諸大名が家康を出迎える。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111017徳川家康江戸城(武蔵国)の「新城」に赴き、徳川秀忠と対面する。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111018江戸(武蔵国)詰めの諸大名が徳川家康に対面しようと江戸城(武蔵国)に登城する。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111019江戸湾に白鳥が多く飛んでいるのを見た徳川家康が、鉄砲の名手を引き連れ船にて海上に出るが、波が高く鉄砲の狙いが定まらないため江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111021徳川家康が江戸(武蔵国)近辺にて鷹狩を行う。
江戸城(武蔵国)の南庭にて能10番が催される。家康、徳川秀忠山科言緒冷泉為満舟橋秀賢等が見物する。
『駿府記』同年月日条
慶長16年16111022徳川家康が江戸(武蔵国)にて能を催す。家康は江をはじめ江戸(武蔵国)に人質として来ている諸大名の妻・子女を招く。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111023徳川家康が江戸(武蔵国)近辺にて鷹狩を行う。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111024徳川家康江戸城(武蔵国)の本城に赴く。大門にて徳川秀忠が出迎える。座席の縁上にて徳川竹千代・国松兄弟が家康の左右の手をとる。家康は江とも対面する。その後、埦飯が行われる。
本多正信が家康のもとを訪れ「天下政務」について雑談する。
『駿府記』同年月日条
慶長16年16111025徳川秀忠が茶壺(銘 鎮西)の口を切る。「数寄屋」にて、本多正信本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広を召し、鶴料理と茶を振る舞う。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111027徳川秀忠が金春太夫、下間仲之を召し出し、江戸城(武蔵国)にて能を催す。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111114徳川家康が府中(武蔵国)に到着する。徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
慶長16年16111118徳川家康が鷹狩をする。家康は藤沢(相模国)に到着する。徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
慶長16年1611127徳川家康安藤重信を召し、明年、江戸(武蔵国)の船入の普請を中国・九州の諸大名に命じるよう伝える。『駿府記』同年月日条
慶長17年1612216成瀬正成竹腰正信名古屋(尾張国)より駿府城(駿河国)のいる徳川家康のもとに訪れる。
安藤重信江戸城(武蔵国)の船入の図面を持参し、家康に見せ、意見を伺う。
『駿府記』同年月日条
慶長17年1612313徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康と天下政務について相談すべく、江戸城(武蔵国)を出立する。藤沢(相模国)に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元、井上正就等。『駿府記』同年月日・17日条
慶長17年1612410徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、駿府城(駿河国)本城に赴き父・家康に挨拶する。『駿府記』同年月日条
慶長17年161262江戸(武蔵国)の新開地の町割りが行われる。京都・堺の商人に屋敷を下賜する。後藤光次が奉行となる。『駿府記』同年月日条
慶長17年1612823池田輝政江戸城(武蔵国)にて徳川秀忠に謁す。『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項
慶長18年1613121黒田万徳丸徳川秀忠に謁す。秀忠は万徳に諱を賜い、万徳は忠長と称す。秀忠は忠長に太刀(銘 守家)・脇差(銘 国次)・鹿毛馬を下賜する。その返礼として、秀忠に黒田長政が銀1000両を、忠長が銀3000両を献上する。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長18年1613926徳川家康が藤沢(相模国)を発し、神奈川(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が出迎える。旅館にて父子対面する。その後、秀忠のみ江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613927未刻(13-15時)、徳川家康江戸城(「江戸新城」)(武蔵国)に到着する。諸大名が家康に対面する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613928徳川秀忠江戸城(「江戸新城」)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613101江戸城(武蔵国)にいる徳川家康に諸大名が礼をする。増上寺の源誉存応が家康のもとに出仕する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613102卯刻(5-7時)、徳川家康が葛西にて鷹狩をする。申刻(15-17時)、江戸城(武蔵国)に戻る。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613103江戸城(武蔵国)にて南光坊天海が論義する。題は「現世安穏後世善所」。徳川家康秀忠父子、諸大名、廓山、江戸誓願寺が聴聞する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613104徳川家康江戸城(武蔵国)に南殿に赴く。近習衆が随従する。徳川秀忠が家康のもとを訪れ閑談する。秀忠が去った後、家康は本多正信本多正純父子を召し、閑談する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613106南部利直江戸城(武蔵国)の居る徳川家康に謁す。白根山より産出の黄金を献上する。『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項
慶長18年1613108富田信高坂崎直盛を訴えた件につき、江戸城(武蔵国)南殿にて徳川家康秀忠父子が直盛勝訴の裁許を出す。
夜、浅野幸長の遺物として玉堂肩衝茶入・脇差(銘 吉光)・キネノオレ・古銅花入が家康に進上したことを本多正信が披露する。
『駿府記』同年月日条
慶長18年1613109南光坊天海江戸城(武蔵国)にて論議を行う。徳川家康秀忠父子が聴聞する。持戒、毀戒、威儀、具足、正見、邪見、利根、鈍根、等雨、法雨、煩悩、不断成仏、五逆罪滅について論じる。精義は天海、講師は法輪寺。『駿府記』同年月日条
慶長18年16131018辰刻(7-9時)、徳川家康が復調により江戸城(武蔵国)本丸に赴く。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次、医師衆、近習衆100名程が供奉する。
申刻(15-17時)、浅野長晟が江戸城(武蔵国)にいる家康の前に召し出され、兄・幸長の実子がいなかったため遺領を継ぐことが認められる。
『駿府記』同年月日条
慶長18年16131019卯刻(5-7時)、江戸城(武蔵国)本丸にて、本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次林羅山に料理が振る舞われる。
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が江戸城の新城に赴き、南光坊天海の論議を聴聞する。題は我功徳力、如来加持力、法界力、三具足をもって即身成仏となす。
夜、石川康長の日頃の不義が露見し、また大久保長安に縁座し所領没収となる。康長の所領没収につき、小笠原秀政松本城(信濃国)を請取のため、同城に赴く。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項
慶長18年16131120徳川家康が岩槻(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、越谷(武蔵国)に到着する。
小山(下野国)より本多正純が越谷に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
『駿府記』同年月日条
慶長18年16131129卯刻(5-7時)、徳川家康が葛西を発つ。道中、鷹狩をする。未刻(13-15時)、江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613121江戸城(武蔵国)南御殿にて徳川家康徳川秀忠が対面する。諸大名が家康に礼をする。午刻(11-13時)、南光坊天海と仙波中院が家康の前で仏法について雑談する。その際、天海に仙波(武蔵国)近辺で500石を寄進することと中院に黄金10枚を贈ることを伝える。天海の退出後、源誉存応が家康のもとに出仕し、仏法について雑談する。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613122巳刻(9-11時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康と密談する。未刻(13-15時)、秀忠は江戸城本城に戻る。家康の駿府城(駿河国)帰還につき、供奉の物が秀忠に暇乞いをし、秀忠より黄金・呉服を賜う。『駿府記』同年月日条
慶長18年1613123夜明けに徳川秀忠江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康に暇乞いをする。
辰刻(7-9時)、家康が江戸城を発つ。稲毛に到着する。
『駿府記』同年月日条
慶長18年16131213辰刻(7-9時)、徳川家康が、急遽、中原(相模国)を発ち、申刻(15-17時)、稲毛(武蔵国)に到着する。1月に土気(上総国)・東金(上総国)にて鷹狩をするためで、徳川秀忠が迎えとして、夜、小杉に赴き家康と対面する。対面後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
慶長18年16131214午刻(11-13時)、徳川家康江戸城(武蔵国)「新城」に帰城する。徳川秀忠が家康と対面する。『駿府記』同年月日条
慶長18年16131228徳川家康が節分により越谷(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。徳川秀忠が対面する。『駿府記』同年月日条
慶長19年161411巳刻(9-11時)、徳川秀忠が父・家康のもとに礼に赴く。江戸城(武蔵国)南殿にて対面する。秀忠は太刀(銘 守家)・馬代銀100枚を家康に献上する。披露は大沢基宿。奥の座敷で酒宴が行われ、酌を松平正久が、御加を水野金十郎、陪膳を金森左兵衛・北見長五郎・内藤掃部助がつとめる。『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7
慶長19年161415徳川家康江戸城(武蔵国)本丸に赴く。祝儀の後、南殿に赴き、能3番が開催される。徳川国松が勤める。家康、徳川秀忠、女中衆が簾中より見物する。『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7
慶長19年1614118申刻(15-17時)、徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が家康を出迎える。夜、家康が藤堂高虎を召し寄せ密談する。『駿府記』同年月日条
慶長19年161448江戸城(武蔵国)の普請につき根石を置く。『当代記』同年月日条
慶長19年1614520江戸城(武蔵国)の普請について、一の丁場が完成し、二の丁場に近日中に根石を置くことになる。『当代記』同年月日条
慶長19年161464徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、諸大名による江戸城(武蔵国)の石垣を構築が半ば完成していること、雨により延引していること、諸国で洪水が起こり堤や橋が損壊していることを報告する。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614618徳川家康松浦隆信江戸城(武蔵国)普請と平戸(肥前国)領内のキリスト教徒の改宗を命じる。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614624松平忠輝の使者として吉田が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、高田城(越後国)普請の進捗状況を報告する。
徳川秀忠の使者として青山重政が家康のもとに到着し御内書を渡す。家康より江戸城(武蔵国)石垣普請のことを尋ねられ応答する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614727南光坊天海駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。
成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。
家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項
慶長19年161486未刻(13-15時)、江戸(武蔵国)にて大雨あり。
江戸城(武蔵国)石垣普請の浅野長晟の持ち場で石垣が崩れ、多くの人が死亡する。
『当代記』同年月日条
慶長19年1614818板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年1614819片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康方廣寺(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを徳川秀忠に送る。林羅山が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年1614828江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条
慶長19年161498江戸城(武蔵国)石垣普請の黒田長政浅野長晟の持ち場の石垣が崩壊する。『当代記』同年月日条
慶長19年1614918片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。『駿府記』同年月25日条
慶長19年1614925大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
『駿府記』同年月日条・同年10月1日条
慶長19年1614101板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
片桐家秘記
慶長19年1614104徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。『当代記』同年月日条
慶長19年1614105板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614106板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614107江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614108朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614109最上家親が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・義光の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。本多正純が披露する。家康は家親に大坂城(摂津国)攻めにつき、江戸城(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141010江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141011辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、石川忠総柳沢元吉小倉吉次[水野分長勢]
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年16141012申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141013徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141014卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141015徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141016徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141016伊達政宗が軍勢を引き連れ江戸城(武蔵国)に到着する。『当代記』同年月日条
慶長19年16141017未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141018雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条
慶長19年16141019午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141020徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141021徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年16141022徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年16141023卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年16141023徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項
慶長19年16141023豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年16141023前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年16141024二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141025未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年16141026二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141027一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
『駿府記』同年月日条・同年月29日条
慶長19年16141029徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614112吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614113大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614115大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項
慶長19年1614115向井忠勝・向井正通・向井正俊が大坂城(摂津国)攻めのため軍勢600、関船6艘、荷船・小船15艘をもって江戸(武蔵国)を出航する。『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項
慶長19年1614116未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項
慶長19年1614117辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項
慶長19年16141110徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年16141115卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年16141116徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年16141117徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年16141118徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項
慶長19年16141125徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
『佐久間軍記』
慶長19年16141119巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141126上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年16141129朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項
慶長19年16141130豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614123成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年1614124徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年1614129藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項
慶長19年16141211徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141213徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141216徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141217徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141219徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜
慶長19年16141224日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141225辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141227岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。『駿府記』同年月日条
慶長20年161513午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長20年1615112徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
『駿府記』同年月日条
慶長20年1615119申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長20年1615128徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。『駿府記』同年月30日条
慶長20年1615410徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項
慶長20年1615421徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615426徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615427徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615428豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
『駿府記』同年月日・29日条
慶長20年1615429浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条
慶長20年161555巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長20年161556八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長20年161558豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』・『言緒卿記』同年月日条(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)
慶長20年161561午刻(11-13時)、江戸(武蔵国)にて大地震が起こり、家屋が倒壊する。『駿府記』同年月8日条
元和1年1615719卯刻(5-7時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。永原(近江国)に宿泊する。『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」
元和1年16151010徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。諸大名が路次にて出迎える。『駿府記』同年月日条
元和1年16151011徳川秀忠徳川家康のもとを訪れ閑談する。『駿府記』同年月日条
元和1年16151015徳川家康江戸城(武蔵国)の本丸に赴く。『駿府記』同年月日条
元和1年1615112徳川秀忠が鷹狩のため鴻巣(武蔵国)に到着する。『駿府記』同年月日条
元和1年1615119徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
『駿府記』同年月日条
元和1年16151123徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。『駿府記』同年月日条
元和1年16151127徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。
本多正信が昨年の秋より患っていた病痾が回復する。家康は正信の復調を喜ぶ。
『駿府記』同年月日条
元和1年16151128徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。『駿府記』同年月日条
元和1年1615123徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。徳川秀忠が家康のもとに赴き閑談する。その席に本多正信が加わる。『駿府記』同年月日条
元和1年1615124辰刻(7-9時)、徳川家康江戸城(武蔵国)を発つ。午刻(11-13時)、稲毛(武蔵国)に到着する。『駿府記』同年月日条
元和1年16151229細川忠興江戸城(武蔵国)に赴き、徳川秀忠に謁す。『綿考輯録』巻20、『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項
元和2年1616417徳川家康が死去する。-
元和3年1617913徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、伏見城(山城国)を発つ。『本光国師日記』同年月日条
寛永3年1626915が死去する。-
寛永4年1627914徳川家光が江戸城(武蔵国)西ノ丸に細川三斎・忠利父子、松平光通、立花宗茂を召し、口切の茶事を行う。『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」・「細川忠利」の項
寛永4年1627916徳川秀忠江戸城(武蔵国)西ノ丸の数寄屋にて鍋島勝茂に茶を振る舞う。『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項目
寛永6年16291023徳川秀忠江戸城(武蔵国)新山里に池田輝澄を招き、茶を賜う。『寛政重修諸家譜』巻第266「池田輝澄」
寛永7年1630819佐竹義宣が自ら江戸城(武蔵国)三ノ丸の修造を願い出でる。『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項
寛永9年1632124徳川秀忠が死去する。-
寛永10年1633120以心崇伝江戸城(武蔵国)城内にある金地院にて死去する。-
寛永13年1636328徳川家光の日光東照宮参詣につき、松平信綱が江戸城(武蔵国)の留守居をつとめる。『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項
寛永14年16371-酒井忠勝江戸城(武蔵国)本丸中仕切鉄門扉の普請に従事する。『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項
寛永15年1638513松平信綱・輝綱父子が江戸城(武蔵国)に登城し、徳川家光に島原の一揆の様子を報告する。『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項
寛永16年1639811江戸城(武蔵国)の大奥より出火する。-
寛永16年1639825能勢頼之が江戸城(武蔵国)の復旧につき、山中(伊豆国)にて料材の視察に赴く。『寛政重修諸家譜』巻第274「能勢頼之」の項
寛永18年164183徳川家綱が武蔵国江戸城にて生まれる。-
寛永19年164283徳川竹千代の1歳の誕生日を祝し、松平信綱が江戸城(武蔵国)二ノ丸にて御膳を献じる。『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項
正保3年164618徳川綱吉が武蔵国江戸城にて生まれる。-
慶安4年1651420徳川家光が死去する。-
延宝8年168058徳川家綱が死去する。-
元禄14年1701314江戸城(武蔵国)内の松の廊下にて浅野長矩が吉良義央に斬りかかり、義央は負傷する。長矩は取り押さえられ、田村建顕邸にて身柄預かりとなる。夕方、長矩は切腹する。『岡島常樹覚書』
元禄14年1701319江戸城(武蔵国)にて浅野長矩が吉良義央に斬りかかり、義央に傷を負わせたこと、長矩の身柄が田村建顕預かりとなっていることが、早水満堯・萱野重実によって赤穂城(播磨国)にいる城代家老・大石良雄のもとに伝えられる。『岡島常樹覚書』
宝永6年1709110徳川綱吉が死去する。-
宝永6年170973徳川家継が生まれる。-
正徳1年17111221徳川家重が武蔵国江戸赤坂の和歌山藩邸にて生まれる。-
正徳2年17121014徳川家宣が死去する。-
享保1年1716430徳川家継が死去する。-
元文2年1737522徳川家治が武蔵国江戸城西ノ丸にて生まれる。-
寛延4年1751620徳川吉宗が死去する。-
宝暦11年1761612徳川家重が死去する。-
寛政5年1793514徳川家慶が武蔵国江戸城が生まれる。-
文政8年182448徳川家定が武蔵国江戸城にて生まれる。-
天保12年1841閏17徳川家斉が死去する。-
弘化3年1846閏524徳川家茂が生まれる。-
嘉永6年1853622徳川家慶が死去する。-
安政5年185876徳川家定が死去する。-
慶応2年1866720徳川家茂が死去する。-
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