歴史の目的をめぐって
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歴史
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地 名
総 年 表
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商用利用可能 文化財画像
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コンテンツ
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年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
小田原城(相模国)
おだわらじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒250-0014
神奈川県小田原市城内
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
小田原城(相模国)の関連文化財
リ ン ク
大森氏頼
、
北条早雲
、
北条氏綱
、
北条氏康
、
北条氏政
、
北条氏直
小田原城(相模国) 年表
明応3年 1494年 8月26日
大森氏頼
が死去する。
出典:-
永正16年 1519年 8月15日
韮山城
(伊豆国)にて
北条早雲
が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」
天文4年 1534年 8月22日
山中(甲斐国)にて
北条氏綱
と小山田信有・勝沼信友が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『快元僧都記』同年月日条
天文4年 1534年 8月24日
上杉朝興が川越(武蔵国)より出陣したとの報を受けた
北条氏綱
が
小田原城
(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条
天文7年 1538年 10月2日
足利義明・里見義堯が国府台に出勢したのを受け、
北条氏綱
・
氏康
父子が下総国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条
天文7年 1538年 10月7日
国府台にて足利義明と
北条氏綱
が戦い、氏綱が勝利する。義明、足利義純、足利基頼が戦死する。
出典:『快元僧都記』同年月日条
天文7年 1538年 10月10日
北条氏綱
が
小田原城
(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条
天文10年 1541年 7月19日
北条氏綱
が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」
天文15年 1546年 4月1日
北条氏康
が上杉憲政に包囲されている
川越城
(武蔵国)を救援すべく、軍勢8000を率い
小田原城
(相模国)を発ち、砂窪(武蔵国)に着陣する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条氏康河越城後詰付夜軍ノ事」
天文15年 1546年 4月20日
北条氏康
が
川越城
(武蔵国)を包囲する上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の陣を夜襲し、勝利する。朝定が戦死し、憲政は
平井城
(上野国)に撤退する。上杉勢は
難波田憲重
が戦死する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条氏康河越城後詰付夜軍ノ事」
永禄11年 1568年 12月12日
北条氏政
が
今川氏真
を救援すべく
小田原城
(相模国)より駿河国に向けて出陣する。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)
永禄11年 1568年 12月13日
興津(駿河国)にて
北条氏政
と
武田信玄
が戦う。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)
永禄12年 1569年 1月18日
北条氏康
・
氏政
父子が
武田信玄
に攻められた
今川氏真
を救援すべく、
小田原城
(相模国)より出陣し、心経寺に陣取る。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」
永禄12年 1569年 10月4日
武田信玄
が
北条氏康
・
北条氏政
父子の籠る
小田原城
(相模国)の攻略を諦め、同地より撤退する。
出典:(永禄12年)10月16日付北条氏康書状(『上杉家文書』1-585号)
永禄12年 1569年 10月8日
三増峠(相模国)にて
武田信玄
と
北条氏照
・氏邦・綱成等が戦い、信玄が勝利する。
武田勢:
山高信親
。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「山高信親」の項
永禄13年 1570年 2月2日
北条氏政
が寺尾郷(相模国)の郷民に
小田原城
(相模国)修築の夫役を課す。
出典:『武州文書』同年月日条
元亀2年 1571年 8月-日
土浦(常陸国)にて
北条氏政
と
佐竹義重
が対陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項
元亀2年 1571年 10月3日
北条氏康
が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』
元亀4年 1573年 4月12日
武田信玄
が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項
天正3年 1575年 3月23日
北条氏政
が
小田原城
(相模国)の小曲輪の門の開閉の時刻等を定める。
出典:『相州文書』同年月日条
天正6年 1578年 1月14日
北条氏政
が
小田原城
(相模国)修築のため、同国千津島に人夫を課す。
出典:『相州文書』同年月日条
天正7年 1579年 10月25日
北条氏政
が
武田勝頼
の領国である甲斐国を攻めるべく
小田原城
(相模国)を出陣し、三島(伊豆国)に陣取る。勝頼も足軽を三枚橋(駿河国)に繰り出し対峙する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」
天正10年 1582年 6月19日
神流川(上野国)にて
滝川一益
と
北条氏直
が戦い、氏直が勝利する。一益は
厩橋城
(上野国)に帰城する。
出典:-
天正11年 1583年 3月18日
北条氏政
が
小田原城
(相模国)修築のため、足柄上郡千津島に夫役を課す。
出典:『相州文書』同年月日条
天正11年 1583年 -月-日
徳川家康
の娘・
督
が
北条氏直
にもとに嫁ぐ。介添えは
酒井忠次
。
秋鹿政朝
が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項、同965「秋鹿政朝」の項
天正12年 1584年 1月13日
北條氏直
が
小田原城
(相模国)修築のため、同国千津島に人夫を課す。
出典:『相州文書』同年月日条
天正13年 1585年 3月7日
北條氏直
が
小田原城
(相模国)修築のため、相模怒田・伊豆桑原に人夫を課す。
出典:『相州文書』同年月日条
天正13年 1585年 10月1日
北條氏直
が
小田原城
(相模国)修築のため、同国三田に人夫を課す。
出典:『相州文書』同年月日条
天正18年 1590年 1月5日
北條氏直
が
小田原城
(相模国)修築のため、武蔵鴨井村の百姓に人夫を課す。
出典:『武州文書』同年月日条
天正18年 1590年 1月21日
北條氏直
が
建長寺
(相模国)に蓄えている糧米を
小田原城
(相模国)に運ぶよう命じる。
出典:『武州文書』同年月日条
天正18年 1590年 2月10日
徳川家康
が
豊臣秀吉
の
小田原城
(相模国)攻めにつき
駿府城
(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:
渥美友勝
、保科正直、保科正光、
青木信時
、
柳沢信俊
、山高信直、
折井次昌
、
加藤正次
。
秋鹿直朝
、
鈴木信光
、
小尾祐光
、
津金胤久
、
跡部久次
、
酒依昌吉
。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第174「酒依昌吉」の項、同965「秋鹿直朝」の項、同1156「鈴木信光」の項
天正18年 1590年 3月1日
豊臣秀吉
が
北条氏政
・
氏直
父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条
天正18年 1590年 3月29日
豊臣秀吉
が箱根山に着陣する。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』
天正18年 1590年 3月29日
豊臣秀次
が松田康長が籠る
山中城
(伊豆国)攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀次[大将]、
中村一氏
[先陣]、
一柳直末
[先陣](戦死)、
渡辺了
[中村一氏勢]、薮内匠[中村一氏勢]。
北条勢:松田康長[大将](戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』
天正18年 1590年 3月29日
豊臣勢が
韮山城
(伊豆国)を包囲する。
豊臣勢[44100]:
織田信雄
[軍勢17000]、
織田信包
[軍勢3200]、
蒲生氏郷
[軍勢4000]、
稲葉貞通
[軍勢1200]、
細川忠興
[軍勢2700]、
森忠政
[軍勢2100]、
中川秀政
[軍勢2000]、山崎・岡本良勝[軍勢2200]、筒井定次[軍勢1500]、
生駒親正
[軍勢2200]、
蜂須賀家政
[軍勢2500]、
福島正則
[軍勢1800]、戸田勝隆[軍勢1700]。
北条勢:
富田直久
(戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』
天正18年 1590年 4月1日
豊臣秀吉
が箱根山(相模国)に陣取る。
小田原城
(相模国)を包囲する。豊臣勢:
池田輝政
。
出典:(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)
天正18年 1590年 4月2日
徳川家康
が小田原(相模国)に着陣し、
小田原城
(相模国)の包囲に加わる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信時」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同250「保科正直」の項、同250「保科正光」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項
天正18年 1590年 5月27日
堀秀政
が
小田原城
(相模国)早川口の陣中にて死去する。
出典:-
天正18年 1590年 6月5日
小田原城
(相模国)城内の和田氏が自身の陣所を焼き出奔する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『天正日記』同年月日条
天正18年 1590年 6月17日
松田憲秀の
豊臣秀吉
への内通が発覚する。
前田利家
、
上杉景勝
の軍勢が小田原城(相模国)攻めの豊臣勢陣中に到着する。豊臣秀吉は鉢形城(武蔵国)の降伏を受け入れ、城を攻撃しなかったことに立腹する。
出典:『天正日記』同年月日条
天正18年 1590年 6月24日
豊臣秀吉
が、
小田原城
(相模国)に籠城している
北条氏政
・
氏直
父子に降伏を促すため、同城に
黒田如水
、
滝川雄利
を遣わす。
出典:『天正日記』同年月日条
天正18年 1590年 7月6日
北条氏政
・
氏直
父子が
豊臣秀吉
に降伏する。
脇坂安治
、
片桐且元
、
榊原康政
が
小田原城
(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項
天正18年 1590年 7月10日
徳川家康
が
小田原城
(相模国)に入城する。
出典:『天正日記』同年月日条
天正18年 1590年 7月12日
北条氏政
・
北条氏照
・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は
榊原康政
。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項
天正18年 1590年 7月12日
豊臣秀吉
が
小田原城
(相模国)より会津(陸奥国)に出立するにあたり道普請を命じる。奉行は西川八右衛門・杉山源兵衛・水原亀介・垣見一直・友松次右衛門。
出典:『太閤さま軍記のうち』
天正18年 1590年 7月13日
豊臣秀吉
が
小田原城
(相模国)に入城する。
秀吉が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国への移封を拒否した
織田信雄
の所領を改易する。
秀吉が
加藤光泰
に甲斐国240000石を給付する。
出典:『小田原日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項
天正18年 1590年 8月15日
徳川家康
が
小田原城
(相模国)に大久保忠世を入れる。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正18年 1590年 -月-日
徳川家康
が
松平康元
に
小田原城
(相模国)の守備を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項
文禄3年 1594年 9月15日
大久保忠世
が死去する。
出典:-
慶長5年 1600年 8月2日
細川忠興
が、小田原(相模国)に到着する。
出典:『細川忠興軍功記』
慶長5年 1600年 9月3日
徳川家康
が
小田原城
(相模国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』
慶長16年 1611年 10月11日
朝、
大久保忠常
が死去する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長16年 1611年 11月20日
徳川家康
が鷹狩をする。家康は
小田原城
(相模国)に到着する。小田原城主・
大久保忠隣
は子・忠常の死去につき、憚って家康との対面を遠慮する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長17年 1612年 3月14日
徳川秀忠
が
小田原城
(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 9月20日
徳川家康
が
善徳寺
(駿河国)を発し、三島(伊豆国)に到着する。
大久保忠隣
が三島にて家康を出迎える。浮島原にて伊豆銀山の者が
大久保長安
の悪名について家康に進言する。家康は長安が生きているうちに報告せず、死後になって報告することを叱責する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 9月21日
徳川家康
が
小田原城
(相模国)に到着する。
徳川秀忠
の命にて、
本多正信
、加藤助右衛門が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 9月22日
徳川家康
が
小田原城
(相模国)を発し、中原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 12月19日
徳川家康
・
秀忠
父子が、キリスト教徒を追放すべく、
大久保忠隣
に京都へ赴くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 12月26日
キリスト教徒追放のため京都へ赴くことを命じられた
大久保忠隣
が、用意のため、江戸(武蔵国)を発し、
小田原城
(相模国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月5日
大久保忠隣
が京都(山城国)のキリスト教徒退治のため、
小田原城
(相模国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月17日
大久保忠隣
が京都(山城国)に到着する。西京にある南蛮寺を焼き払い、四条にある南蛮寺は町中につき類火を恐れ、破却の後に火をつける。忠隣は京都の
藤堂高虎
邸に宿泊する。
出典:『当代記』同年月18日条
慶長19年 1614年 1月19日
徳川家康
が
本多正信
を召し寄せる。家康は
大久保忠隣
と
山口重政
が家康・秀忠父子の許可を得ず、婚姻を結んだことを咎め、大久保教隆・幸信兄弟を追放し、
安藤重信
をして
小田原城
(相模国)を接収させ、忠隣家臣を城より追い出すよう正信の命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月21日
朝、
安藤重信
が
大久保忠隣
の
小田原城
(相模国)接収につき、江戸(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月24日
徳川家康
が中原(相模国)を発し、未刻(13-15時)、小田原(相模国)に到着する。
夜、
本多正信
・
本多正純
・
安藤直次
・
土井利勝
・
安藤重信
連判状を
大久保忠隣
に発給する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月25日
未刻(13-15時)、
徳川秀忠
が
小田原城
(相模国)に到着する。秀忠は小田原にいた父・家康と対面する。対面中に、
本多正信
、
藤堂高虎
が加わり密談する。秀忠は小田原城二ノ丸に戻る。
26日の早朝より、小田原城を破却するように家康が命じる。それにより、江戸・駿府の諸卒が、早くも石垣を崩し、大門を破却する。家康は江戸・駿府の諸卒に対し勝手な行為をしないように命じる。
最上家親
の飛脚が江戸(武蔵国)より小田原に到着し、18日に
最上義光
が死去したことを、正信を介し家康に報告する。これにより、家康は家親に領国へ帰国し、後処理をするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月26日
前田利光
より小田原(相模国)にいる
徳川家康
のもとに使者が到着する。利光より、
高山重友
、
内藤如庵
をキリスト教徒により捕らえ、京都所司代の
板倉勝重
のもとに移送したこと、領内のキリスト教について宗旨替えしない者を記録し、家康の献上したことを、
本多正信
・
正純
父子を介し家康に報告する。家康より、日本国内のキリスト教徒について、宗旨替えしない者については津軽(陸奥国)に流罪とすることを、正信・正純父子に命じ、両名がその触をする。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月27日
徳川家康
が小田原(相模国)を発し、三島(伊豆国)に到着する。保田甚兵衛、島弥左衛門が、27日の家康の箱根山通行の安全を期すため、26日の夜より三島に駐留し往来の者を止める。
徳川秀忠
よりの使者として
成瀬正武
が家康のもとに到着し、酒肴を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 2月1日
大久保忠隣
が伏見(山城国)にて切腹したと出羽国にて噂される。
出典:『梅津政景日記』同年月日条
元和1年 1615年 10月4日
徳川家康
が小田原(相模国)に到着する。箱根(伊豆国)にて
安藤重信
、近藤秀用が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 12月13日
徳川家康
が中原(相模国)を発ち、小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 12月14日
徳川家康
が三島(伊豆国)に到着する。12月15日は吉日であるため隠居所地の選定を行う意向を示す。
出典:『駿府記』同年月日条
寛永13年 1636年 11月19日
小田原城
(相模国)二の丸で火災が発生する。
出典:『北鹿事迹隔?記』同年月日条
文化14年 1817年 2月-日
小田原城
(相模国)で火災が発生する。
出典:『廻状留』三月十二日条
嘉永6年 1853年 2月2日
東海道諸国で地震。相模国が最も被害が多く
小田原城
(相模国)が壊れる。
出典:『高麗環雑記』嘉永六年二月十九日条
嘉永6年 1853年 4月27日
幕府、
小田原城
(相模国)主大久保忠殻、地震の災を賑し、金一万両を貸す。
出典:『非蔵人日記』同年月日条
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