人 物 史

北条氏政 ほうじょう うじまさ
生 没 年天文7年(1538)-天正18年(1590)7/12
出 身-幼 名松千代丸
別 称新九郎、截流斎
法 名-
戒 名慈雲院松巌傑公
北条氏康瑞渓院(今川氏親の娘)
兄 弟 姉 妹北条氏親、北条氏政、七曲殿、北条氏照、尾崎殿、北条氏規、長林院殿、蔵春院殿、北条氏邦上杉景虎、北条氏忠、北条氏光、桂林院殿、浄光院殿
配 偶 者黄梅院(武田信玄の娘)、鳳翔院
北条氏直、太田源五郎、太田氏房、千葉直重、北条直定、娘(千葉邦胤の妻)
官 位相模守、左京大夫
役 職-
城 郭小田原城(相模国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ北条氏政の関連文化財
北条氏政の家臣
北条氏政 年表
天文7年 1538年 -月-日 1歳
北条氏政が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 7月19日 4歳
祖父・氏綱が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

天文11年 1542年 -月-日 5歳
弟・氏照が生まれる。
出典:-

天文14年 1545年 -月-日 8歳
弟・氏規が生まれる。
出典:-

天文17年 1548年 -月-日 11歳
弟・氏邦が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 18歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 21歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄5年 1562年 4月8日 25歳
叔父・氏堯が死去する。
出典:-

永禄5年 1562年 -月-日 25歳
子・氏直が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 12月12日 31歳
北条氏政今川氏真を救援すべく小田原城(相模国)より駿河国に向けて出陣する。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)

永禄11年 1568年 12月13日 31歳
興津(駿河国)にて北条氏政武田信玄が戦う。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)

永禄12年 1569年 1月18日 32歳
北条氏康氏政父子が武田信玄に攻められた今川氏真を救援すべく、小田原城(相模国)より出陣し、心経寺に陣取る。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月25日 32歳
北条氏康氏政父子が清見寺に向けて発向する。武田信玄は軍勢を興津河原(駿河国)に出す。辰刻(7-9時)、北条勢と武田勢が戦い、北条勢が勝利する。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月26日 32歳
北条氏政が三島(伊豆国)を発ち、薩埵山に陣取る武田信玄勢と戦う。
出典:(永徳12年)2月6日付北条氏政書状(『上杉家文書』1-538号)

永禄12年 1569年 4月23日 32歳
北条氏政伊達輝宗に、武田信玄と交戦中であること、それにともない北条家に上杉謙信が一味することを伝える。
出典:(永禄12年)4月23日付北条氏政書状(『伊達家文書』1-270号)

永禄12年 1569年 4月28日 32歳
薩埵山にて北条氏政武田信玄が戦う。
武田信玄勢:米倉晴継(戦死)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉晴継」の項

永禄12年 1569年 9月10日 32歳
御獄(武蔵国)にて武田信玄と藤田氏邦が戦う。
出典:(永禄12年)9月10日付藤田氏邦書状(『上杉家文書』1-582号)

永禄12年 1569年 9月10日 32歳
武田信玄が藤田氏邦の籠る鉢形城(武蔵国)を攻める。氏邦が信玄勢を退ける。
出典:(永禄12年)9月10日付藤田氏邦書状(『上杉家文書』1-582号)

永禄12年 1569年 10月4日 32歳
武田信玄北条氏康北条氏政父子の籠る小田原城(相模国)の攻略を諦め、同地より撤退する。
出典:(永禄12年)10月16日付北条氏康書状(『上杉家文書』1-585号)

永禄12年 1569年 10月8日 32歳
三増峠(相模国)にて武田信玄北条氏照・氏邦・綱成等が戦い、信玄が勝利する。
武田勢:山高信親
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「山高信親」の項

永禄13年 1570年 2月2日 33歳
北条氏政が寺尾郷(相模国)の郷民に小田原城(相模国)修築の夫役を課す。
出典:『武州文書』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 33歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月25日 33歳
北条三郎と清円院(長尾政景の娘)の婚儀が執り行われる。謙信は三郎に上杉景虎の名を与え、養子とする。
出典:(元亀1年)5月12日付北条氏康書状(『上杉家文書』巻1-609号)

元亀1年 1570年 9月17日 33歳
吉田兼見が北条氏康氏政父子に初めて音信を遣わす。氏康には兎毫30管、氏政には湯がけ3具を贈る。奏者は幸田源次郎。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月-日 34歳
土浦(常陸国)にて北条氏政佐竹義重が対陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀2年 1571年 10月3日 34歳
父・氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀4年 1573年 4月12日 36歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 36歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 3月23日 38歳
北条氏政小田原城(相模国)の小曲輪の門の開閉の時刻等を定める。
出典:『相州文書』同年月日条

天正3年 1575年 4月24日 38歳
上杉謙信北条氏政の退治を祈願する願文を宝前に捧げる。
出典:天正3年4月24日付上杉謙信願文(「上杉家文書」『上越市史』資料編3-894号)

天正6年 1578年 1月14日 41歳
北条氏政小田原城(相模国)修築のため、同国千津島に人夫を課す。
出典:『相州文書』同年月日条

天正7年 1579年 3月24日 42歳
上杉景勝上杉景虎の籠る鮫尾城(越後国)を攻める。景虎は切腹する。
出典:(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正7年 1579年 10月25日 42歳
北条氏政武田勝頼の領国である甲斐国を攻めるべく小田原城(相模国)を出陣し、三島(伊豆国)に陣取る。勝頼も足軽を三枚橋(駿河国)に繰り出し対峙する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正8年 1580年 3月10日 43歳
北条氏政織田信長に礼として、白鳥20、熨斗1箱、鮑300、煎海鼠1箱、江川酒3種2荷を贈る。使者は笠原越前守・間宮若狭守・原和泉守。佐久間信盛が披露する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月13日 43歳
織田信長北条氏政の使者である笠原越前守・間宮若狭守に金銀100枚を贈る。使者は矢部家定
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月21日 43歳
織田信長北条氏政への贈答品である虎皮20枚、縮緬300端、猩々皮15を北条家の使者の笠原越前守に渡す。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正9年 1581年 6月5日 44歳
北条氏政織田信長に馬3匹を贈る。取次は滝川一益
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正10年 1582年 2月1日 45歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 45歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 45歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 45歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 3月11日 45歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 3月21日 45歳
北条氏政織田信長に馬、江川酒、白鳥等を贈る。使者は端山。取次は滝川一益
出典:『信長公記』巻15(15)「木曽義政出仕の事」

天正10年 1582年 3月25日 45歳
滝川一益が小幡信貞とともに給地の上野国に赴く。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月26日 45歳
北条氏政織田信長に馬の飼料として米1000俵を贈る。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 6月18日 45歳
岩窪(甲斐国)にて、武田家旧臣が川尻秀隆を襲撃し、三井弥一郎が秀隆を討ち取る。
出典:-

天正10年 1582年 6月19日 45歳
神流川(上野国)にて滝川一益北条氏直が戦い、氏直が勝利する。一益は厩橋城(上野国)に帰城する。
出典:-

天正10年 1582年 7月9日 45歳
徳川家康が府中(甲斐国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正10年 1582年 8月12日 45歳
上口山(甲斐国)にて北条氏忠と鳥居元忠・水野勝成・松平清宗・三宅康貞が戦い、鳥居等が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清宗」の項

天正10年 1582年 10月29日 45歳
徳川家康北条氏直が和睦する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正11年 1583年 3月18日 46歳
北条氏政小田原城(相模国)修築のため、足柄上郡千津島に夫役を課す。
出典:『相州文書』同年月日条

天正11年 1583年 -月-日 46歳
徳川家康の娘・北条氏直にもとに嫁ぐ。介添えは酒井忠次秋鹿政朝が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項、同965「秋鹿政朝」の項

天正14年 1586年 3月9日 49歳
三島(伊豆国)にて徳川家康北条氏政が対面する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正14年 1586年 3月11日 49歳
沼津(駿河国)にて徳川家康北条氏政が対面する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正17年 1589年 7月21日 52歳
真田昌幸が領有する沼田城(上野国)を北条氏直に引き渡すべく、榊原康政富田信広、津田信勝が沼田城に赴く。沼田城が氏直に引き渡された後、氏直は上洛し豊臣秀吉に礼をすることになっているという。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正17年 1589年 10月10日 52歳
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

天正18年 1590年 2月10日 53歳
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:渥美友勝、保科正直、保科正光、青木信時柳沢信俊、山高信直、折井次昌加藤正次秋鹿直朝鈴木信光小尾祐光津金胤久跡部久次酒依昌吉
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第174「酒依昌吉」の項、同965「秋鹿直朝」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正18年 1590年 3月1日 53歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 3月29日 53歳
豊臣秀吉が箱根山に着陣する。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 53歳
豊臣秀次が松田康長が籠る山中城(伊豆国)攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀次[大将]、中村一氏[先陣]、一柳直末[先陣](戦死)、渡辺了[中村一氏勢]、薮内匠[中村一氏勢]。
北条勢:松田康長[大将](戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 53歳
豊臣勢が韮山城(伊豆国)を包囲する。
豊臣勢[44100]:織田信雄[軍勢17000]、織田信包[軍勢3200]、蒲生氏郷[軍勢4000]、稲葉貞通[軍勢1200]、細川忠興[軍勢2700]、森忠政[軍勢2100]、中川秀政[軍勢2000]、山崎・岡本良勝[軍勢2200]、筒井定次[軍勢1500]、生駒親正[軍勢2200]、蜂須賀家政[軍勢2500]、福島正則[軍勢1800]、戸田勝隆[軍勢1700]。
北条勢:富田直久(戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 4月1日 53歳
豊臣秀吉が箱根山(相模国)に陣取る。小田原城(相模国)を包囲する。豊臣勢:池田輝政
出典:(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)

天正18年 1590年 6月17日 53歳
松田憲秀の豊臣秀吉への内通が発覚する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 6月24日 53歳
豊臣秀吉が、小田原城(相模国)に籠城している北条氏政氏直父子に降伏を促すため、同城に黒田如水滝川雄利を遣わす。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 53歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月9日 53歳
北条氏政氏照兄弟の身柄が田村安栖のもとに移される。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月12日 53歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

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