人 物 史

冷泉隆豊 れいぜい たかとよ
生 没 年永正10年(1513)-天文20年(1551)9/1
出 身-幼 名-
別 称五郎、隆祐、五郎左衛門
法 名-
戒 名洞泉寺鳳仙道麒
冷泉興豊-
兄 弟 姉 妹冷泉隆豊、吉安豊英
配 偶 者平賀弘保の娘
冷泉元豊、冷泉元満、娘(周布元兼の妻)
官 位大夫判官、左衛門少尉
役 職-
城 郭佐藤銀山城(安芸国)
参 考 文 献冷泉隆豊に関する参考文献
関 連 デ ー タ冷泉隆豊の関連文化財
冷泉隆豊 年表
永正10年 1513年 -月-日 1歳
冷泉隆豊が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 9歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 16歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 16歳
大内義興が死去する。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 20歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文11年 1542年 1月12日 30歳
大内義隆月山富田城(出雲国)の尼子晴久を攻めるべく、山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 2月-日 30歳
大内義隆尼子晴久を攻めるべく出雲国に向けて出陣する。陶隆房、内藤興盛、毛利元就等が参加する。新庄西禅寺に大内勢が陣取る。
出典:『江濃記』「京極生害之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月23日 30歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を包囲する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月27日 30歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を攻め、同城を落とす。光清は戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 5月7日 31歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)の本陣を払い、湯谷より船にて山口(周防国)に撤退せんとする。義隆の養子・晴持が海路にて周防国に帰国する最中、船が転覆して溺死する。
出典:『陰徳太平記』巻14「大内義隆朝臣殿軍付晴持最後之事」、『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 9月1日 39歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。冷泉隆豊は辞世「みもや立つ 雲も煙も なか空に さそいし風の 末ものこさず」を残し、義隆に従い陶勢と戦い戦死する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.