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軍役から石高算出
城 郭 史
志知城(淡路国)
しちじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒656-0321
兵庫県南あわじ市志知122
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
加藤嘉明
志知城(淡路国) 年表
天正14年 1586年 12月12日
羽柴秀吉
が
蜂須賀家政
、
脇坂安治
、
加藤嘉明
に豊前国へ出陣するよう命じる。
出典:『
脇坂家伝記
』
天正14年 1586年 12月28日
豊臣秀吉
が
小早川隆景
・
安国寺恵瓊
・
黒田孝高
に豊後国の戦況について承知したことを伝えるとともに、阿波国勢(
蜂須賀家政
)、淡路国勢(
加藤嘉明
・
脇坂安治
)を豊後国に遣わすこと、
仙石秀久
の所領・讃岐国を召し上げたことを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」
天正20年 1592年 4月19日
豊臣秀吉
が埴生(長門国)を発ち、関門海峡を通過し、
小倉城
(豊前国)に宿泊する。
秀吉が
島津義弘
に朝鮮への渡海時は、紀伊国警固船・
藤堂高虎
・
九鬼嘉隆
・
脇坂安治
・
加藤嘉明
・備前国警固船にも出陣を命じたので、彼等と相談し渡海するよう命じる。
出典:(天正20年)4月19日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-386号)、『太閤さま軍記のうち』
天正20年 1592年 7月7日
脇坂安治
が巨済島に向けて出航する。閑山島付近にて安治と李舜臣が戦い、李舜臣が勝利する。脇坂勢は脇坂左兵衛、渡辺七右衛門等が戦死する。安治の出撃を知り、
九鬼嘉隆
、
加藤嘉明
も出撃するが、朝鮮水軍の兵船が多かったため、安骨浦に引き上げる。李舜臣は安骨浦まで追撃して嘉隆の船の帆柱を火矢等により打ち砕く。
出典:『
脇坂家伝記
』
天正20年 1592年 6月14日
脇坂安治
、
九鬼嘉隆
、
加藤嘉明
が釜山浦の河口に到着する。
出典:『
脇坂家伝記
』
天正20年 1592年 7月14日
豊臣秀吉
が「からいさん」に城を築き、
脇坂安治
、
九鬼嘉隆
、
加藤嘉明
に在番を命じるとともに、
藤堂高虎
、
織田秀信
、「紀州之者」を派遣することを安治に伝える。
出典:『
脇坂家伝記
』
文禄2年 1593年 1月-日
脇坂安治
、
九鬼嘉隆
、
加藤嘉明
が熊川に在陣する。朝鮮水軍が日本軍占領下の湊に襲撃をかけ石火矢を放ってくるので、日本側も大船に大砲を備え、陸地には鉄砲塚を築く等の対策を講じる。
出典:『
脇坂家伝記
』
文禄2年 1593年 2月21日
朝鮮水軍が熊川湊を襲撃する。
脇坂安治
、
九鬼嘉隆
、
加藤嘉明
が応戦し、朝鮮水軍の番線を乗っ取る。
出典:『
脇坂家伝記
』
文禄2年 1593年 -月-日
年末、
九鬼嘉隆
、
加藤嘉明
が日本に帰国する。
出典:『
脇坂家伝記
』
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