人 物 史

九鬼嘉隆 くき よしたか
生 没 年天文11年(1542)-慶長5年(1600)10/12
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名隆興寺殿泰叟常安大居士
九鬼泰隆-
兄 弟 姉 妹九鬼嘉隆
配 偶 者法輪院、妙天院
九鬼成隆、娘(甲賀左馬助の妻)、娘(豊田五郎左衛門の妻)、九鬼徳隆、九鬼守隆、九鬼主殿助、九鬼五郎七、九鬼五郎八、娘(渡辺数馬の妻)、九鬼有慶、娘(青山豊前の妻)、九鬼長兵衛、九鬼五郎兵衛
官 位右馬允、大隅守
役 職-
城 郭鳥羽城(志摩国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ九鬼嘉隆の関連文化財
九鬼嘉隆 年表
天文11年 1542年 -月-日 1歳
九鬼嘉隆が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 14歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 17歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 29歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 32歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 -月-日 32歳
子・守隆が生まれる。
出典:-

天正2年 1574年 7月15日 33歳
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正6年 1578年 6月26日 37歳
九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月17日 37歳
九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月18日 37歳
九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月20日 37歳
浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。
出典:『多聞院日記』同年月日・21日条

天正6年 1578年 9月27日 37歳
織田信長九鬼嘉隆の大船を見物するため、京都を発ち、八幡に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月28日 37歳
織田信長が八幡を発ち若江(河内国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月29日 37歳
早朝、織田信長天王寺に到着。佐久間信盛のところにて休息。その後、鷹狩をしながら住吉神社に移る。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月30日 37歳
織田信長に到着する。近衛前久、細川、一色が同道。九鬼嘉隆の大船を見物する。今井宗久のもとに茶を飲み、帰る途中、宗養・宗及・道昵の私宅にも寄る。住吉神社に帰る。住吉神社にて嘉隆を召し黄金10・服・ばくろう2折を与え、かつ1000人ずつ扶持を与える。また、犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫大夫の3人に黄金3枚と服を与える。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月1日 37歳
織田信長が住吉神社から河内国を経由し京都に戻る。安見新七郎のもとで休息する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 11月6日 37歳
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正7年 1579年 1月5日 38歳
九鬼嘉隆織田信長のもとに年頭の礼のためより安土城(近江国)に赴く。信長は嘉隆に妻子に会うべく暇を下す。
出典:『信長公記』巻12「安土城年賀の事」

天正10年 1582年 6月2日 41歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 4月9日 43歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 -月-日 43歳
小浜浦にて向井正綱九鬼嘉隆が戦う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井正綱」の項

天正13年 1585年 3月17日 44歳
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)攻めにつき、警固船を動員した小早川隆景に対し、羽柴方の船大将である中村一氏仙石秀久九鬼嘉隆と相談の上、軍事行動をとる事、軍勢および水主の兵粮を羽柴方から供出することを伝える。
出典:(天正13年)3月17日付羽柴秀吉書状(『小早川家文書』1-280号)

天正13年 1585年 7月11日 44歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月-日 44歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正14年 1586年 1月9日 45歳
九鬼嘉隆津田宗及本願寺顕如のもとを訪れる。下間頼廉が取り次ぐ。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 46歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 46歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 46歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 46歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 46歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 46歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 46歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 46歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 46歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 46歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 46歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 46歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 46歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 46歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 46歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 46歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 46歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 46歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 46歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月28日 46歳
加藤嘉明脇坂安治九鬼嘉隆が平佐城(薩摩国)を攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正15年 1587年 5月5日 46歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 46歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 46歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 46歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正20年 1592年 4月19日 51歳
豊臣秀吉が埴生(長門国)を発ち、関門海峡を通過し、小倉城(豊前国)に宿泊する。
秀吉が島津義弘に朝鮮への渡海時は、紀伊国警固船・藤堂高虎九鬼嘉隆脇坂安治加藤嘉明・備前国警固船にも出陣を命じたので、彼等と相談し渡海するよう命じる。
出典:(天正20年)4月19日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-386号)、『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 7月7日 51歳
脇坂安治が巨済島に向けて出航する。閑山島付近にて安治と李舜臣が戦い、李舜臣が勝利する。脇坂勢は脇坂左兵衛、渡辺七右衛門等が戦死する。安治の出撃を知り、九鬼嘉隆加藤嘉明も出撃するが、朝鮮水軍の兵船が多かったため、安骨浦に引き上げる。李舜臣は安骨浦まで追撃して嘉隆の船の帆柱を火矢等により打ち砕く。
出典:『脇坂家伝記

文禄1年 1592年 12月8日 51歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

天正20年 1592年 6月14日 51歳
脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明が釜山浦の河口に到着する。
出典:『脇坂家伝記

天正20年 1592年 7月14日 51歳
豊臣秀吉が「からいさん」に城を築き、脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明に在番を命じるとともに、藤堂高虎織田秀信、「紀州之者」を派遣することを安治に伝える。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 1月-日 52歳
脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明が熊川に在陣する。朝鮮水軍が日本軍占領下の湊に襲撃をかけ石火矢を放ってくるので、日本側も大船に大砲を備え、陸地には鉄砲塚を築く等の対策を講じる。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 2月21日 52歳
朝鮮水軍が熊川湊を襲撃する。脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明が応戦し、朝鮮水軍の番線を乗っ取る。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 -月-日 52歳
年末、九鬼嘉隆加藤嘉明が日本に帰国する。
出典:『脇坂家伝記

文禄3年 1594年 3月-日 53歳
九鬼嘉隆が安骨浦に到着する。嘉隆が、同浦に在番していた脇坂安治に替って在番し、安治は日本に帰国する。
出典:『脇坂家伝記

慶長1年 1596年 10月27日 55歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 9月15日 56歳
宇喜多秀家脇坂安治藤堂高虎九鬼嘉隆、来島通総、加藤嘉明、菅達長が明軍が籠る泗門城(朝鮮国)を攻める。
出典:『脇坂家伝記

慶長3年 1598年 1月17日 57歳
1月4日の蔚山城の合戦について報告を受けた豊臣秀吉毛利輝元増田長盛、因幡国衆、但馬国衆、紀伊国衆、大和国衆、九鬼嘉隆守隆父子を同城に遣わしたこと、蔚山を始め諸城の普請を徹底すること、兵粮・弾薬を補充し、少なければ申し出ること、浅野幸長太田一吉は帰国することを伝える朱印状を発給する。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』82号)

慶長5年 1600年 10月12日 59歳
九鬼嘉隆が死去する。
出典:-

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