人 物 史

小早川隆景 こばやかわ たかかげ
生 没 年天文2年(1533)-慶長2年(1597)6/12
出 身安芸国吉田郡山幼 名徳寿丸
別 称又四郎
法 名-
戒 名隆景寺殿前黄門泰雲紹閑大居士、黄梅院泰雲紹閑
毛利元就
小早川興景[養父]
小早川正平[養父]
妙玖(吉川国経の娘)
兄 弟 姉 妹毛利隆元五龍(宍戸隆家の妻)、吉川元春小早川隆景二宮就辰穂井田元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康毛利秀包
配 偶 者問田大方(小早川正平の娘)
小早川秀包[養子]
小早川秀秋[養子]
官 位中務大輔、左衛門佐、侍従、参議、権中納言、中納言
役 職-
城 郭木村城(安芸国)、高山城(安芸国)、新高山城(安芸国)、三原城(備後国)、立花山城(筑前国)、名島城(筑前国)
参 考 文 献小早川隆景に関する参考文献
関 連 デ ー タ小早川隆景の関連文化財
小早川隆景の家臣
小早川隆景 年表
天文2年 1533年 -月-日 1歳
小早川隆景が生まれる。
出典:-

天文9年 1540年 8月10日 8歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 8歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 8歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 8歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月12日 8歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 8歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 8歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 8歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 8歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 8歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 8歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月3日 9歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 9歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 9歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文13年 1544年 12月12日 12歳
小早川徳寿丸より家督相続の祝儀として太刀1腰・馬1疋の贈答を受けた大内義隆が徳寿丸に礼状を発給する。
出典:同年月日条大内義隆書状(『吉川家文書』2-1482号)

天文15年 1546年 -月-日 14歳
弟・二宮就辰が生まれる。父・毛利元就が虎法丸と名付ける。
出典:-

天文16年 1547年 4月26日 15歳
小早川徳寿丸が五ヶ龍王山(備後国)を攻める。
出典:(天文16年)5月3日付小早川徳寿丸感状写(『戦国遺文』瀬戸内水軍編60号「萩藩閥閲録』嶋末与三)

天文17年 1548年 3月-日 16歳
毛利元春が吉川家相続につき、小倉山城(出雲国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文17年 1548年 6月20日 16歳
陶隆房毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景、宍戸元源、宍戸隆家、平賀隆宗、香川光景、己斐豊後守の軍勢10000が山名理興神辺城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 6月23日 16歳
吉川元春神辺城(備後国)より討って出た山名理興が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 8月3日 16歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景熊谷信直香川光景、飯田義武等が、山口(周防国)に居る大内義隆のもとに礼に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文17年 1548年 -月-日 16歳
甥・吉川元長が生まれる。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文18年 1549年 3月-日 17歳
毛利元就吉川元春小早川隆景が山口(周防国)より吉田郡山城(安芸国)に帰城する。毛利隆元は山口に残る。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文20年 1551年 9月1日 19歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文20年 1551年 9月8日 19歳
毛利隆元吉川元春小早川隆景が西条飯田(安芸国)に出陣する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 9月11日 19歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が槌山を攻める。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 -月-日 19歳
弟・穂井田元清が生まれる。
出典:-

天文21年 1552年 -月-日 20歳
弟・毛利元秋が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 1月22日 21歳
甥・毛利輝元が生まれる。
出典:-

天文23年 1554年 5月12日 22歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が神領(安芸国)を放火する。村田入道、杉生彦太郎が五日市(安芸国)に出る。五日市にて元就、熊谷信直、飯田義武と村田・杉生が戦い、元就が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 5月18日 22歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐東郡に攻め入る。元就は井上就方を佐東銀山城(安芸国)城主の栗田時勝、小城の麻生鎮里のもとに遣わし開城を促す。時勝、鎮里は元就に城を明け渡す。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 10月3日 22歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐西郡(安芸国)に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就佐西郡働之事」

天文24年 1555年 9月3日 23歳
陶晴賢が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月7日 23歳
陶晴賢率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月26日 23歳
乃美宗勝が村上通康の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文24年 1555年 9月28日 23歳
陶晴賢勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に熊谷信直・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」

天文24年 1555年 9月30日 23歳
毛利元就が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文24年 1555年 10月1日 23歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 23歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 -月-日 23歳
弟・出羽元倶が生まれる。
出典:-

弘治2年 1556年 -月-日 24歳
甥・毛利元氏が生まれる。
出典:-

弘治3年 1557年 3月2日 25歳
毛利元就隆元吉川元春小早川隆景父子が防府(周防国)に陣取る。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)

弘治3年 1557年 4月3日 25歳
大内義長が死去する。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 26歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月晦日日 26歳
吉川元春益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼小笠原長雄の所領・温湯(石見国)の在所を放火する。その火が、長雄館にも引火する。元春は長雄勢を攻め、長雄は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月20日 26歳
毛利元就毛利隆元小早川隆景率いる毛利勢7000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるべく出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月24日 26歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼、宍戸隆家、熊谷信直天野隆重、出羽元祐率いる毛利勢12000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月29日 26歳
小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるにあたり、毛利隆元が笠取山に、吉川元春が温湯城・赤城間に、小早川隆景が小栖山に陣取る。
温湯城(石見国)-赤城間に陣取る吉川元春が、赤城の小笠原勢を攻めると思いこんだ小笠原長雄が、加勢として旗谷に勢を出す。元春は応戦し、小笠原勢を破る。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 6月1日 26歳
吉川元春が、赤城に陣取る小笠原勢を攻める。小笠原勢は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄2年 1559年 -月-日 27歳
弟・天野元政が生まれる。
出典:-

永禄3年 1560年 12月24日 28歳
尼子晴久が死去する。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 28歳
弟・末次元康が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 3月26日 29歳
毛利元就隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に赴べく、吉田郡山城(安芸国)を出立し、椋梨(安芸国)にて宿泊する。
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号)

永禄4年 1561年 3月27日 29歳
毛利元就隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に到着する。元就は井上春忠邸に、隆元は巨真寺(安芸国)に宿泊する。
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号)

永禄4年 1561年 11月1日 29歳
甥・吉川広家が生まれる。
出典:-

永禄5年 1562年 4月-日 30歳
足利義輝の調停により毛利元就大友義鎮が和睦する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 8月4日 31歳
兄・毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄8年 1565年 9月20日 33歳
毛利元就毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景等が率いる軍勢25000が尼子義久の居城・月山富田城(出雲国)を攻めぐべく掠良木山に陣取る。
元就が末次(出雲国)に米原綱寛を、天満城に杉原盛重家臣の菖蒲左馬允・入江大蔵少輔・菊池肥前守を、守山に長屋小次郎を置く。
出典:『陰徳太平記』巻39「富田所々付城並山中鹿ノ助夜討事」

永禄9年 1566年 11月21日 34歳
尼子義久毛利元就に降伏する。
出典:-

永禄9年 1566年 11月28日 34歳
尼子義久月山富田城(出雲国)より退城する。
出典:-

永禄10年 1567年 1月18日 35歳
弟・毛利秀包が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 2月-日 36歳
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月24日 36歳
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。吉川元春小早川隆景が率いる毛利勢が下須戒城(伊予国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 11月5日 36歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

永禄12年 1569年 4月4日 37歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢が壇(筑前国)に陣取る。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月4日 37歳
吉川元春小早川隆景等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻めるべく壇(筑前国)を発つ。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月16日 37歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直杉原盛重等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月5日 37歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢の攻撃を受けている立花山城(筑前国)を救うべく、大友勢が同城の後詰めとして到着する。大友勢と毛利勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月18日 37歳
立花山城(筑前国)近くで、吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢と戸次道雪率いる大友勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月-日 37歳
尼子勝久山中幸盛、立原久綱、横道正光、横道高宗、真木宗右衛門、吉田三郎左衛門、吉田八郎左衛門、川副右京亮、川副三郎左衛門、川副次郎左衛門、目黒助次郎、米原助十郎、月坂助太郎、力石九郎兵衛、平野加兵衛、平野源助、宇山弥次郎、三吉五郎左衛門、三吉甚次郎、小林甚助、青砥助次郎、日野又五郎、大塚弥三郎、大野平兵衛、日野助五郎、福山内蔵允、中井与次郎、片桐治部丞、江美源内左衛門が隠岐国に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 6月23日 37歳
尼子勝久が忠山(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 -月-日 37歳
吉岡長増が大友宗麟に対し、周防国を大内輝弘に攻めさせるよう提案する。宗麟は長増の提案を容れ、輝弘に軍勢をつける。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月11日 37歳
大内輝弘が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月13日 37歳
大内輝弘が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月14日 37歳
山口(周防国)に陣取る大内輝弘のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 10月13日 37歳
吉川元春小早川隆景が、出雲国で蜂起した尼子勝久、周防国で蜂起した大内輝弘を討つべく、軍勢を立花山城(筑前国)より撤退するにあたり、同城への留守居として坂就清、乃美宗勝を置く。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月15日 37歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月24日 37歳
山口(周防国)に在陣中の大内輝弘に向けて毛利元就吉川元春熊谷信直率いる軍勢10000を長府(長門国)より差し向ける。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月25日 37歳
茶臼山にて大内輝弘が自害する。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月28日 37歳
毛利元就毛利輝元小早川隆景が長府(長門国)より防府(周防国)に移る。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄13年 1570年 1月16日 38歳
毛利元就尼子勝久を攻めるべく、吉田郡山城(安芸国)より毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景を出陣させる。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月8日 38歳
毛利輝元小早川隆景が津賀(石見国)に陣取る。先陣の吉川元春吉川元長吉川経言が赤穴(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月9日 38歳
吉川元春元長経言父子が福山次郎左衛門・遠藤甚九郎・川副右京亮率いる尼子勝久勢の籠る多久和城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月14日 38歳
布部山(出雲国)にて毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢と山中幸盛・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月24日 38歳
末次城(出雲国)に籠る尼子勝久を攻めるべく、吉川元春元長経言が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 4月15日 38歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景が牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻めるべく、当地へ出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月16日 38歳
吉川元春勢の今田経忠、香川春継等が抜け駆けして牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月17日 38歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景が牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻め、同城を落とす。牛尾弾正忠は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月18日 38歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢が、熊野城、高瀬城を攻めるため十倉に移動する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

元亀1年 1570年 4月23日 38歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 10月3日 38歳
尼子勝久が末次城(出雲国)を攻める。
勝久の末次城攻撃を月山富田城(出雲国)で聞いた吉川元春が末次城救援のため月山富田城を発つ。途中、杉原盛重、南条元清、三刀屋久扶、三沢為清、益田藤兼、山田重直が元春に合流し、末次城近くに陣取る。元春は元清・重直を新山攻めを命じる。勝久・幸盛・久綱は元春が後詰にやってきたことを受け、新山に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀1年 1570年 10月10日 38歳
吉川元春尼子勝久山中幸盛、立原久綱等が籠る新山城(出雲国)より撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀2年 1571年 6月14日 39歳
父・毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 8月10日 39歳
弟・出羽元倶が死去する。
出典:-

元亀2年 1571年 -月-日 39歳
末吉城に籠っていた山中幸盛が宍戸隆家・口羽通良を介し吉川元春に降伏を申し出る。元春は幸盛の処刑を主張するが、隆家・通良が助命を主張し、結果、幸盛を毛利家で召し抱えることになる。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 8月25日 39歳
吉川元春、宍戸隆家、口羽通良、杉原盛重、南条元清、三沢為清、三刀屋久扶等の軍勢7000が、尼子勝久の籠る新山城(出雲国)を攻める。勝久は城より脱出し、隠岐国に逃れる。
出典:『陰徳太平記』巻48「山中鹿助出奔付尼子勝久逃走於隠州之事」

天正1年 1573年 7月28日 41歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 7月16日 42歳
姉・五龍が死去する。
出典:-

天正4年 1576年 5月14日 44歳
英賀(播磨国)にて毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:(天正5年)5月16日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正4年 1576年 6月16日 44歳
荒木村重より毛利家の水軍衆が警固100艘ばかりをもって岩屋(淡路国)に到着したため、尼崎(摂津国)に向かい船を揃えたという報告を受けた織田信長がその対応を評価するとともに、佐久間信盛・淡輪とともに防戦するように伝える。
出典:(天正4年カ)6月16日付織田信長黒印状(「佐藤孝雄氏所蔵文書」)

天正4年 1576年 7月12日 44歳
毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英戸川秀安・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉が岩屋(淡路国)を出航し、貝塚(和泉国)に着岸する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)

天正4年 1576年 7月13日 44歳
大坂本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉、宇喜多家の戸川秀安が雑賀衆ととともに津より住吉(摂津国)に出船した際、木津川河口にて織田家の水軍衆に遭遇する。織田方は真鍋貞友、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、野口が300艘にて応戦。14日早朝まで戦闘が繰り広げられる。村上水軍衆の焙烙火矢により織田方の船が焼き崩される。織田信長も当地に向かうが、向った時には毛利勢による兵糧の運び入れが終わっていたため撤退する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)、『信長公記』巻9(5)「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事」、(天正4年)7月27日付吉川元春書状(『上杉家文書』2-646号)

天正5年 1577年 1月10日 45歳
小早川隆景船越景直宛の書状で安宅神五郎の忠儀を賞す。
出典:(天正5年)1月10日付小早川隆景書状写(『戦国遺文』三好氏編3巻-1749号、「船越文書」))

天正6年 1578年 4月-日 46歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正6年 1578年 5月10日 46歳
小早川隆景が羽床資載により讃岐国を追われ備後国に逃れた香川信景を帰国させるべく、乃美宗勝・井上伯耆守に軍勢5000を付し三原(備後国)より出陣させる。
出典:『南海通紀』巻13「香川民部少輔服従毛利家記」

天正6年 1578年 7月3日 46歳
上月城(播磨国)にて尼子勝久・豊若丸・常若丸父子、尼子氏久、尼子通久、神西元通が自害する。山中幸盛は毛利家の捕虜となる。
出典:-

天正6年 1578年 11月6日 46歳
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正7年 1579年 2月-日 47歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢40000が宇喜多直家領の美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月12日 47歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の小寺畑城(美作国)を攻め落とす。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月16日 47歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の大寺畑城(美作国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 11月7日 47歳
甥・毛利秀元が生まれる。
出典:-

天正8年 1580年 1月17日 48歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正9年 1581年 2月14日 50歳
宇喜多直家が死去する。
出典:-

天正9年 1581年 6月25日 49歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)を攻めるべく姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 6月28日 49歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻める。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 7月1日 49歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻めるべく、付城を築き杉原家次を入れ、鳥取城への路次を封鎖する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 10月25日 49歳
鳥取城(因幡国)を守る吉川経家が、城兵の助命と引き換えに切腹する。検使は堀尾吉晴
羽柴秀吉は経家の首を安土城(近江国)に送る。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)、『豊臣記』

天正10年 1582年 3月15日 50歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 4月24日 50歳
羽柴秀吉が宮路山城・冠山城(備中国)を包囲するとともに、幸山城に籠る小早川隆景を挑発する。
出典:天正10年4月24日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-407号)

天正10年 1582年 4月25日 50歳
羽柴秀吉が冠山城(備中国)を攻撃し落城させ、城主の林重真・松田孫次郎をはじめ300名を討つ。
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月2日 50歳
羽柴秀吉が宮路山城(備中国)の水の手を断ち落城させる。また、賀茂城の端城に攻め入り落とする。その後、居城としていた亀石城に帰る。
出典:天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)、天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月3日 50歳
羽柴秀吉が河屋城を攻め落とす。また、備前国児島の内の郡年寄中に、命じていた縄を送ってくれたことを謝すとともに、冠山城・宮路山城(備中国)を落とし、かつ賀茂城の端城も落としたことを伝える。加えて縄200束の調達を依頼する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)、天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)

天正10年 1582年 5月8日 50歳
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月18日 50歳
羽柴秀吉が得居通幸に高松城(備中国)を水攻めにしている旨を伝える。また、そのうちに瀬戸内海にて得居に警固船の動員を依頼するので、その心づもりでいるようにと伝える。
出典:天正10年5月18日付得居通幸宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-418号)

天正10年 1582年 6月2日 50歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月4日 50歳
羽柴秀吉毛利輝元吉川元春小早川隆景が起請文を交わす。誓約内容は、輝元・元春・隆景の待遇について、「公儀」=織田信長への執り成しをすること、そのうえで彼ら3人を見放すことはしないこと、互いに裏切ることをしないことの3点。
出典:天正10年6月4日付羽柴秀吉起請文写(『豊臣秀吉文書集』1巻-422号)、『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月4日 50歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正11年 1583年 4月24日 51歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正13年 1585年 3月17日 53歳
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)攻めにつき、警固船を動員した小早川隆景に対し、羽柴方の船大将である中村一氏仙石秀久九鬼嘉隆と相談の上、軍事行動をとる事、軍勢および水主の兵粮を羽柴方から供出することを伝える。
出典:(天正13年)3月17日付羽柴秀吉書状(『小早川家文書』1-280号)

天正13年 1585年 4月1月23日日 53歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 53歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 53歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 53歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 5月5日 53歳
弟・毛利元秋が死去する。
出典:-

天正13年 1585年 6月16日 53歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月3日 53歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 53歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月11日 53歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 11月19日 53歳
小早川隆景吉川元長に着津する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月20日 53歳
19日に小早川隆景吉川元長に着津したのをうけ、本願寺顕如が隆景、元長に馬2疋(羽柴秀吉よりの馬と教如よりの馬)を贈る。使者は下間頼廉
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月21日 53歳
小早川隆景吉川元長大坂城(摂津国)にいる羽柴秀吉のもとに礼に訪れる。毛利輝元より銀1000枚、隆景より銀500枚、元長より銀300枚が進上される。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月24日 53歳
羽柴秀吉小早川隆景吉川元長をもてなすため金剛又兵衛大夫による能を催す。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月25日 53歳
小早川隆景吉川元長が帰国に先立ち本願寺顕如のもとへ礼に訪れる。隆景より1腰・5000疋、元長より1腰・虎豹皮3枚・馬代銀2枚が顕如に贈られる。元長の使者は吉川又五郎。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月25日 53歳
小早川隆景吉川元長が帰国のため羽柴秀吉のもとに暇乞いに訪れる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 8月10日 54歳
吉川元春小早川隆景島津義久討伐のため安芸国を出陣する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 8月16日 54歳
毛利輝元島津義久討伐のため広島城(安芸国)より出陣する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 10月2日 54歳
羽柴秀吉島津義久に諸大名との停戦を命じ、従わない場合は成敗すると伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 10月4日 54歳
毛利輝元高橋元種が籠る小倉城(豊前国)を包囲する。元種は降伏する。
出典:(天正14年)10月14日付羽柴秀吉書状(『吉川家文書』1-99号)

天正14年 1586年 11月15日 54歳
兄・吉川元春が小倉(豊前国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月12日 54歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月22日 54歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に、秋月種実が降伏を申し出たこと、来年1月末には先勢を九州に遣わし、2月初めには弟・秀長を、2月20日には秀吉が九州に向けて出陣することを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月28日 54歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に豊後国の戦況について承知したことを伝えるとともに、阿波国勢(蜂須賀家政)、淡路国勢(加藤嘉明脇坂安治)を豊後国に遣わすこと、仙石秀久の所領・讃岐国を召し上げたことを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正15年 1587年 1月25日 55歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 55歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 55歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 55歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 55歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 55歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 55歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 55歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 55歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 55歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 55歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 55歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 55歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 55歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 55歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 55歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 55歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 55歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 55歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 55歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 55歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 55歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 55歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 6月5日 55歳
甥・元長が日向国にて死去する。
出典:-

天正15年 1587年 6月-日 55歳
豊臣秀吉黒田孝高石田三成に博多(筑前国)の町割・民屋復興を命じる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月11日 55歳
博多(筑前国)の町の指図ができる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月12日 55歳
博多(筑前国)の町割が行われる。町割の奉行は滝川雄利長束正家・山崎片家・小西行長
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月18日 55歳
豊臣秀吉が、筥崎(筑前国)の海辺にて歌会を催す。山名禅高細川幽斎等が参加する。
日向国・大隅国の仕置きを終えた小早川隆景が箱崎に到着する。
秀吉が九州の国替えを行う。
隆景に筑前国、肥前国基肄郡・養父郡、筑後国三井郡・三原郡を給付する。隆景は立花山城(筑前国)に入城する。
隆景の伊予国23000石の所領を、安国寺恵瓊に給付する。
秀吉が秋月種長を財部(日向国)に移し30000石を給付する。
立花宗茂を立花山城から筑後国下三郡に移す。
高橋統増に筑後国三池郡を給付する。
小早川秀包に筑後国上三郡を給付する。
筑紫広門に筑後国上妻郡を給付する。
高橋元種を香春(豊前国)より県(日向国)に移す。
龍造寺政家の肥前国の本領を安堵するとともに三郡を加増する。
大友義統に豊後国を安堵する。
相良長毎、伊東祐兵、有馬、平戸、大村、五島、宗義智の本領を安堵する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 9月7日 55歳
豊臣秀吉が毛利吉成・黒田孝高に肥後国一揆につき、領内を固め、小早川隆景とともに一揆を成敗するよう命じる。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 9月13日 55歳
豊臣秀吉が、肥後国一揆について、小早川秀包、龍造寺政家、筑後国勢が出陣したこと、小早川隆景が久留米城(筑後国)に在陣していることを理解したうえで、毛利吉成・黒田孝高へ隆景とともに一揆を成敗するよう改めて命じる。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 1月20日 56歳
肥後国一揆につき、豊臣秀吉浅野長政加藤清正小西行長率いる軍勢20000を派遣する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 2月15日 56歳
名島城(筑前国)の普請を開始する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正16年 1588年 7月7日 56歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家が上洛すべく安芸国を出立する。
輝元は辰刻(7-9時)、吉田郡山城(安芸国)を出立する。平佐就言、佐世元嘉、二宮就辰が供奉する。午刻(11-13時)、可部渡(安芸国)に到着する。熊谷信直・元直が茶屋にて出迎え饗応する。申刻(15-17時)、草津(安芸国)に到着し、海蔵寺にて宿泊する。児玉就英が饗応する。輝元のもとに平賀元相が礼に訪れる。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月8日 56歳
午刻(11-13時)、毛利輝元が草津(安芸国)を出立し、厳島(安芸国)に到着する。厳島社(安芸国)に参詣する。吉川広家が輝元一行に合流する。申刻(15-17時)、輝元は厳島を出立し、似島(安芸国)に到着し宿泊する。穂井田元清秀元が輝元に合流する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月9日 56歳
卯刻(5-7時)、毛利輝元が似島(安芸国)を出立し、巳刻(9-11時)、音戸瀬戸(安芸国)にて潮待ちする。輝元は音戸瀬戸にて行水。午刻(11-13時)、音戸瀬戸を出立し、亥刻(21-23時)、忠海に到着する。船中にて一宿する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月10日 56歳
卯刻(5-7時)、毛利輝元が宮床大明神に参詣する。辰刻(7-9時)、忠海を出立し、午刻(11-13時)、三原糸崎(備後国)に到着する。小早川隆景が饗応する。申刻(15-17時)、糸崎を出立し、宇賀島に着船する。亥刻(21-23時)、大風により尾道(備後国)にて難を避け、笹岡屋にて宿泊する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月11日 56歳
辰刻(7-9時)、木梨元恒が泉屋にて毛利輝元を饗応する。巳刻(9-11時)、小早川隆景が輝元に合流する。尾道(備後国)を出立し、巳刻(9-11時)、阿伏兎の観音堂にて潮待ちする。申刻(15-17時)、鞆(備後国)に到着する。鞆の観音堂にて宿泊する。村上左衛門大夫が饗応する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月12日 56歳
巳刻(9-11時)、毛利輝元が鞆(備後国)を出立する。船中にて連歌会を催す。以笋軒春盛、井原元良、佐世元嘉が参会する。未刻(13-15時)、塩飽(讃岐国)に到着する。福原元俊口羽春良が合流する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月13日 56歳
毛利輝元が順風でない(東風)ため塩飽(讃岐国)に逗留する。午刻(11-13時)、村上弾正忠が茶屋を立て輝元を饗応する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月14日 56歳
辰刻(7-9時)、毛利輝元が塩飽(讃岐国)を出立する。日比中島(備前国)にて潮待ちをする。申刻(15-17時)、牛窓(備前国)に到着する。当所に黒田孝高の使者として久野五兵衛が、安国寺恵瓊の使者として佐武三郎右衛門が輝元のもとに到着し、京都・大坂の様子を伝える。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月15日 56歳
巳刻(9-11時)、毛利輝元が牛窓(備前国)を出立する。片上島(備前国)にて潮待ちをする。未刻(13-15時)、室(播磨国)に到着する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月16日 56歳
巳刻(9-11時)、毛利輝元が室(播磨国)を出立する。絵島・岩屋(淡路国)にて潮待ちをする。申刻(15-17時)、兵庫(摂津国)に到着する。船を和田岬(摂津国)に停泊させ、正直屋宗養(豊臣秀吉定宿)に宿泊する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月17日 56歳
毛利輝元が兵庫(摂津国)に逗留する。輝元のもとに豊臣秀長の迎えの使者として藤堂高虎が、豊臣秀次の使者として白井権太夫が訪れる。秀次は輝元に熊皮のあをり3口、さらし帷子20を贈る。また、下代官の増田六右衛門、玉拳入道が輝元に大樽10荷、鱧100喉、鱸10喉、昆布1折を進上する。申刻(15-17時)、蜂須賀家政が輝元の迎えとして兵庫に到着する。
出典:『天正記』同年月日条、『毛利輝元上洛日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月18日 56歳
辰刻(7-9時)、毛利輝元吉川広家小早川隆景蜂須賀家政が朝食をともにする。酉刻(17-19時)、輝元は松王小茅ヶ御影堂を見物する。
出典:『天正記』同年月日条、『毛利輝元上洛日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月19日 56歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家が難波浦に到着する。夜、黒田孝高が自邸にて輝元、隆景、広家を饗応する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月20日 56歳
豊臣秀吉が大坂(摂津国)に滞在中の毛利輝元小早川隆景吉川広家に慰労の使者として前野長康を遣わす。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月22日 56歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家黒田孝高の案内にて上洛する。淀(山城国)にて豊臣秀吉が迎えの使者として前野長康・浅野長政を、豊臣秀長藤堂高虎を、豊臣秀次が白井権大夫を遣わす。輝元、隆景、広家は京都に入り、輝元は妙顕寺に、隆景は本法寺に、広家は妙蓮寺に宿泊する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月24日 56歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月25日 56歳
豊臣秀吉の執奏により毛利輝元が従四位上・侍従に、小早川隆景吉川広家が従五位下・侍従に叙位・任官。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月28日 56歳
豊臣秀吉同道のもと毛利輝元小早川隆景吉川広家が参内する。輝元は参議に任じられ、隆景・広家は従四位下に叙される。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月29日 56歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家豊臣秀長邸に赴く。豊臣秀吉も秀長邸に赴き、聖護院道澄今出川晴季織田信雄勧修寺晴豊、中山親綱、日野輝資、徳川家康豊臣秀次宇喜多秀家上杉景勝蜂屋頼隆細川忠興島津義久、龍造寺政家、立花宗茂が相伴する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 8月4日 56歳
聖護院道澄毛利輝元小早川隆景吉川広家を招待し、蹴鞠会を催す。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 8月15日 56歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)にて和歌会を催す。聖護院道澄今出川晴季飛鳥井雅春、中山親綱、徳川家康宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元、飛鳥井雅継、細川忠興長谷川秀一小早川隆景吉川広家安国寺恵瓊細川玄旨前田玄以、里村紹巴、里村昌叱、大村由己が参加する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正18年 1590年 3月1日 58歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 58歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 58歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 12月28日 58歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

文禄1年 1592年 12月8日 60歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 1月16日 61歳
李如松率いる明軍が開城府に入城する。
出典:『黒田家譜』巻7「長政記」

文禄2年 1593年 8月10日 61歳
福原貞俊が死去する。
出典:-

文禄2年 1593年 6月24日 61歳
宇喜多秀家毛利秀元小早川隆景吉川広家黒田長政加藤清正小西行長浅野長政率いる軍勢45000が晋州城を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻79「遊撃将軍請和並晋州城落去之事」

文禄4年 1595年 7月8日 63歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 63歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 63歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 63歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 64歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 65歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 5月9日 65歳
光源院の仏事料について、小早川隆景が銀子20枚を、毛利輝元が銀子20枚を西笑承兌に贈る。足利昌山に納める隆景よりの銀子20枚のうち、5枚を等持院に送り、5枚を本院に送る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 6月12日 65歳
小早川隆景三原城(備後国)にて死去する。
出典:『陰徳太平記』巻79「太閤秀吉公御遊楽付黄門隆景卿逝去之事」、『黒田家譜』巻8「長政記」

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