人 物 史

豊臣秀吉 とよとみ ひでよし
生 没 年天文6年(1537)2/6-慶長3年(1598)8/18
出 身尾張国幼 名-
別 称木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉
法 名-
戒 名-
木下弥右衛門なか
兄 弟 姉 妹とも、豊臣秀吉豊臣秀長、朝日
配 偶 者ねね/高台院(浅野長勝の娘)淀/茶々(浅井長政の娘)、月桂院(喜連川頼純の娘)
羽柴秀勝、鶴松、豊臣秀頼豊臣秀次[養子]、豊臣秀勝[養子]、松平秀康[養子]、小早川秀秋[養子]、羽柴秀勝[養子]、前子[猶子](近衛前久の娘)
官 位筑前守、左近衛少将、参議、権大納言、内大臣、関白、太政大臣
役 職-
城 郭小谷城(近江国)、長浜城(近江国)、姫路城(播磨国)、大坂城(摂津国)、伏見城(山城国)
参 考 文 献豊臣秀吉に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる豊臣秀吉の呼称
豊臣秀吉の関連文化財
豊臣秀吉の家臣
豊臣秀吉 年表
天文6年 1537年 2月6日 1歳
豊臣秀吉が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 19歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 22歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 9月1日 22歳
木下秀吉織田信長に仕官する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉公素生」

永禄1年 1558年 11月2日 22歳
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 24歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄4年 1561年 8月-日 25歳
木下秀吉ねねの婚儀が執り行われる。
出典:-

永禄8年 1565年 11月2日 29歳
木下秀吉が坪内利定に知行を宛て行う。
出典:永禄8年11月2日付坪内喜大郎宛判物写(「坪内文書」、『豊臣秀吉文書集』1巻-1号)

永禄9年 1566年 9月1日 30歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)に城を築くべく北方の渡に用材を整え、筏で流す。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月4日 30歳
織田信長が墨俣(美濃国)に向けて小牧山城(尾張国)より出陣する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月5日 30歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて城普請を始める。
斎藤龍興が墨俣(美濃国)で城普請をしている織田信長勢を攻め、織田勢は応戦する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月7日 30歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて普請をした城がおおよそ竣工する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月24日 30歳
斎藤龍興が墨俣城(美濃国)を攻める。墨俣城在番の木下秀吉蜂須賀正勝稲田植元が応戦し、龍興勢を退ける。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄11年 1568年 -月-日 32歳
甥・秀次が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 7月25日 32歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 32歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 32歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 32歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月12日 32歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月14日 32歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月24日 32歳
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 32歳
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 32歳
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 32歳
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 32歳
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 32歳
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 32歳
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 32歳
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 11月22日 32歳
織田信長が不在の京都に佐久間信盛村井貞勝丹羽長秀、良政明印、木下秀吉が軍勢5000にて駐留する。信長は来年2月には上洛すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月20日 33歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月26日 33歳
織田信長が、先陣を木下秀吉として阿坂城(伊勢国)を攻め、城を落とする。阿坂城に滝川一益を置く。
出典:『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」

永禄12年 1569年 8月28日 33歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 33歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 33歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 -月-日 33歳
甥・秀勝が生まれる。
出典:-

永禄13年 1570年 4月20日 34歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 34歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 34歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 34歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 34歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 34歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 34歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 34歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 34歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 34歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 34歳
木下秀吉が、北近江への出陣につき、書状にて今井宗久へ鉄砲薬30斤、硝煙30斤を所望する。
出典:元亀1年6月4日付昨夢斎宛書状(名古屋市博物館所蔵、『豊臣秀吉文書集』1巻-23号)

元亀1年 1570年 6月21日 34歳
織田信長小谷城(近江国)攻めのため虎御前山(近江国)に陣取る。坂井政尚森可成斎藤利治、市橋長勝、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破光治丸毛長照が雲雀山に陣取る。信長の命により、柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆木下秀吉丹羽長秀等が小谷城の在所・谷々を焼き払う。
出典:『信長公記』巻3(7)「たけくらべかりやす取出の事」

元亀1年 1570年 6月26日 34歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 34歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 34歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 7月25日 34歳
木下秀吉が、竹生島宝厳寺の仏田・諸寄進坊地坊領買得分について、臨時課役や謂れのない徴収はしない旨を保証する。また、早崎の地について、宝厳寺の門前として認め、その地の支配は宝厳寺の法令により治めることと天女御供通船は今まで通りとすること保証する。
出典:元亀1年7月25日付竹生島惣中宛判物(「竹生島文書」、『豊臣秀吉文書集』1巻-24号)

元亀1年 1570年 8月20日 34歳
織田信長が摂津国に向け岐阜城(美濃国)を出陣する。横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀2年 1571年 5月6日 35歳
浅井長政が姉川(近江国)まで進出し横山城(近江国)に備えつつ箕浦(近江国)を放火する。下長沢・下坂にて長政と木下秀吉が戦う。
出典:『信長公記』巻4(2)「箕浦合戦の事」、『当代記』巻1同年月日条

元亀2年 1571年 8月16日 35歳
織田信長木下秀吉の在番する横山城(近江国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月18日 35歳
織田信長が横山城(近江国)に着陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月20日 35歳
横山城(近江国)の塀や櫓が暴風によりに倒壊する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月27日 35歳
織田信長が横山城(近江国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 9月12日 35歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月6日 36歳
織田信長が横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月9日 36歳
織田信長が横山城(近江国)に戻る。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 5月4日 36歳
吉田兼見、施薬院全宗織田信長に枇杷1折を贈る。木下秀吉が信長に披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 7月19日 36歳
織田信長小谷城(近江国)を攻めるべく岐阜城(美濃国)を出発し、赤坂(美濃国)に宿泊する。織田信忠が初陣として小谷城攻めに加わる。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月21日 36歳
織田信長が、ひばり山、虎御前山に軍勢を置く。信長の命により小谷城(近江国)に押し寄せ、佐久間信盛柴田勝家木下秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆が城下町を破る。勝家、稲葉良通氏家直昌安藤守就とともに先陣として布陣する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月22日 36歳
織田信長の命により、木下秀吉が阿閉貞征の山本山城(近江国)の麓を放火し、城より出撃してきた阿閉勢を破る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月29日 36歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月-日 36歳
木下秀吉丹羽長秀柴田勝家を慕い、両者の氏から1字ずつをとって羽柴秀吉と名乗るようになる。
出典:-

元亀3年 1572年 11月3日 36歳
小谷城(近江国)に籠城中の浅井長政朝倉義景が、織田方の虎御前砦より宮部村(近江国)まで築かれている築地を破却すべく、浅井七郎を足軽大将として遣わすが、秀吉が退ける。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀4年 1573年 7月4日 37歳
織田信長佐和山城(近江国)に逗留する。佐和山山麓の小松原に大船を建造する。吉田兼見が見舞いとして訪れる。島田秀満が披露。大船建造中の浜にて兼見と対面する。兼見は秀満に帷1、滝川一益に五明5本、羽柴秀吉に五明5本を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 37歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。
織田信長勢:明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝細川忠興
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 37歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 37歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 37歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日 37歳
羽柴秀吉淀城(山城国)に籠る番頭大炊頭、諏訪飛騨守を寝返らせ、岩成友通を孤立させる。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月2日 37歳
岩成友通が籠る淀城(山城国)を細川藤孝が攻める。藤孝の家臣・下津一通が友通を討ち取る。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月8日 37歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 37歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 37歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 37歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 37歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 37歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 37歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 37歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 37歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 37歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 37歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 37歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 37歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 9月26日 37歳
織田信長桑名(伊勢国)に軍勢を遣わし、一向一揆が立て籠る西別所城(伊勢国)の攻撃を佐久間信盛羽柴秀吉蜂屋頼隆丹羽長秀に命じ、同城を落とす。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月8日 37歳
織田信長が東別所(伊勢国)に陣を移す。伊坂氏、萱生氏、赤堀氏、田辺氏、桑部氏、南部氏、長深氏、田辺九郎次郎、中嶋勘解由左衛門が信長に人質を差し出し降伏する。降伏しなかった白山の中嶋将監のもとに佐久間信盛羽柴秀吉蜂屋頼隆丹羽長秀を遣わし、中嶋を破る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 12月-日 37歳
浅野長政羽柴秀吉より111石を給付される。
出典:天正1年12月吉日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』307号)

天正2年 1574年 9月11日 38歳
羽柴秀吉浅野長政に持寺郷内120石を給付する。
出典:天正2年9月11日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』308号)

天正3年 1575年 4月23日 39歳
施薬院全宗のところにいた羽柴秀吉のもとに吉田兼見が訪れる。兼見は秀吉に饅頭50を贈る。
出典:『言継卿記』同年5/4条

天正3年 1575年 5月18日 39歳
織田信長が極楽寺山(三河国)に陣取る。子・信忠は新御堂山(三河国)、徳川家康は高松山、滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀は有海原に陣取る。家康、一益の陣所前に馬防の柵を設ける。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 8月13日 39歳
織田信長羽柴秀吉の居城・小谷城(近江国)に宿泊する。秀吉が信長勢の兵粮を供出する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月15日 39歳
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、佐久間信盛柴田勝家滝川一益羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀別喜右近細川藤孝原田直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉一鉄稲葉貞通氏家直昌安藤守就磯野員昌、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破光治、武藤宗右衛門、神戸信孝津田信澄織田信包北畠信雄率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月16日 39歳
織田信長が敦賀(越前国)を発し、木芽峠(越前国)、鉢伏城(越前国)の一向一揆勢を追う。
越前一向一揆を悉く成敗する。
府中龍門寺(越前国)に陣を張る。今庄(越前国)に福田三河守を置く。朝倉孫三郎が下間筑後、下間和泉、専修寺の首を持参し降伏を願い出るが、孫三郎の願いを拒絶し、向駿河をもって孫三郎を成敗する。
府中(越前国)に在陣中の秀吉のもとに吉田兼見が訪れる。兼見は秀吉に手縄、腹帯を贈る。秀吉は兼見に面会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月3日 40歳
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
羽柴秀吉大坂本願寺攻めのため下京に着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月7日 40歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 40歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月14日 40歳
子・秀勝が死去する。
出典:-

天正4年 1576年 11月20日 40歳
羽柴秀吉が三条町伊藤与右衛門のもとに旅宿しているところ、山科言継が公事の便宜のため訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月13日 41歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日 41歳
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日 41歳
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月17日 41歳
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日 41歳
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 41歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月-日 41歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月22日 41歳
織田信長が香荘に逗留する。雑賀衆に備えるため、佐野村(和泉国)に築城を命じ、佐久間信盛明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉荒木村重を置き、根来寺杉之坊、津田太郎左衛門を定番として置く。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 7月23日 41歳
羽柴秀吉黒田孝高に弟・秀長同然に親しくすると伝える。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 8月8日 41歳
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 8月-日 41歳
羽柴秀吉織田信長に届け出ることなく北国の陣から無断で撤退し、信長の勘気を蒙る。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 9月6日 41歳
織田信長黒田孝高に備前国攻めにあたり羽柴秀吉の派遣を伝える朱印状を発給する。またこの朱印状にて戦の進め方や人質についての取り扱いについて秀吉の指示に従うようと命じる。
出典:(天正5年)9月6日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)

天正5年 1577年 10月9日 41歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将]、松永久通。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月10日 41歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将](自害)、松永久通(自害)。
出典:『多聞院日記』同年月日・11日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月22日 41歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月23日 41歳
羽柴秀吉が播磨国に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(10)中将信忠御位の事

天正5年 1577年 10月27日 41歳
織田信長の指示により京都の羽柴秀吉邸に近衛前久が移る。
出典:『兼見卿記』同年月28日条

天正5年 1577年 10月28日 41歳
羽柴秀吉が播磨国にて諸家より人質を取る。
出典:『信長公記』巻10(10)中将信忠御位の事

天正5年 1577年 11月27日 41歳
羽柴秀吉が上月城(播磨国)を攻める。黒田孝高竹中重治が城攻めに加わる。上月城の後詰にやってきた宇喜多直家勢を破る。
出典:『信長公記』巻10(12)但馬播磨羽柴被申付事

天正5年 1577年 11月28日 41歳
羽柴秀吉が福原助就の佐用城(播磨国)を攻める。攻め衆・黒田孝高。孝高の家臣・竹森次貞が助就とその弟・伊王野土佐、福原家家老・祖父江左衛門を討ち取る。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 11月-日 41歳
羽柴秀吉が但馬国に攻め入り、竹田城(但馬国)を攻め落とす。羽柴秀長が城代として入れ置かれる。
出典:『信長公記』巻10(10)中将信忠御位の事

天正5年 1577年 12月6日 41歳
豊臣秀吉が網干(播磨国)に、羽柴勢による乱妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵粮米の徴収を禁止する禁制を発給する。
出典:同年月日条羽柴秀吉制札(「旧龍野町文書」(姫路市史編集委員会『姫路市史 史料編1』姫路市役所、1974年、696p)

天正5年 1577年 12月-日 41歳
上月城(播磨国)の城兵が城主を殺害し羽柴秀吉に降伏する。秀吉は上月城に山中幸盛を入れ置く。
出典:『信長公記』巻10(12)但馬播磨羽柴被申付事、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 -月-日 41歳
黒田孝高が、織田信長に人質として子・松寿丸安土城に送る。信長は松寿丸を羽柴秀吉の長浜城(近江国)に置く。
出典:『黒田長政事績』

天正6年 1578年 1月1日 42歳
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が織田信長のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・信忠武井夕庵林秀貞滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重、長谷川与二、羽柴秀吉丹羽長秀、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」

天正6年 1578年 2月23日 42歳
羽柴秀吉別所長治の与力で加古川(播磨国)の糟屋内膳の城を借り軍勢を入れ置き、自身は書写山(播磨国)に要害を構え居陣する。
別所長治が三木城(播磨国)に籠城し、織田信長に叛旗を翻す。
出典:『信長公記』巻11(4)「磯野丹波磯貝新左衛門の事」

天正6年 1578年 3月7日 42歳
羽柴秀吉が姫路(播磨国)に到着する。
秀吉の姫路着陣を受け、別所賀相が秀吉を警戒し、別所長治に織田家を叛くよう勧め、長治は織田家に叛き三木城(播磨国)に籠城する。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正6年 1578年 3月20日 42歳
羽柴秀吉が神吉城(播磨国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

天正6年 1578年 3月29日 42歳
羽柴秀吉別所長治の籠る三木城(播磨国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」、『豊臣記』

天正6年 1578年 4月2日 42歳
別府・阿閉(播磨国)にて雑賀衆・毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正6年 1578年 4月-日 42歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正6年 1578年 5月1日 42歳
播磨国に向けて織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が出陣し、郡山に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月2日 42歳
織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月6日 42歳
織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が大久保(播磨国)に到着する。先陣を神吉(播磨国)、志方(播磨国)、高砂(播磨国)に遣わし、加古川(播磨国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月24日 42歳
織田信長竹中重治より八幡山城主が織田家に味方するとの報告を受け、羽柴秀吉に黄金100枚、重治に銀子100両を贈る。
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月16日 42歳
羽柴秀吉が上洛し、織田信長のもとに訪れる。信長は秀吉に神吉(播磨国)、志方(播磨国)を攻め破り、三木城(播磨国)を追い詰めるよう命じる。神吉城(播磨国)攻めの検使として大津長昌、水野九蔵、大塚又一郎、長谷川竹、矢部家定、菅屋長頼万見重元、祝弥三郎を遣わす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月26日 42歳
羽柴秀吉荒木村重が高倉山(播磨国)の陣所を引き払い、書写山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月27日 42歳
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 42歳
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 42歳
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 42歳
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 42歳
羽柴秀吉が志方城(播磨国)を攻める。同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 42歳
織田信長勢が別所長治の籠る居城・三木城(播磨国)を包囲すべく付城を築く。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 10月18日 42歳
羽柴秀吉加藤嘉明に山城国相楽郡内で200石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正6年 1578年 10月21日 42歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月3日 42歳
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月10日 42歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月11日 42歳
羽柴秀吉黒田職隆に、11月10日、織田信長荒木村重討伐につき高槻(摂津国)に到着したこと、高槻城(摂津国)を包囲したところ城主の高山重友が信長に降伏したこと、滝川一益稲葉良通安藤守就氏家直昌・武藤が郡山(摂津国)に陣取り砦を築くことになったこと、職隆が村重に与同せず信長に逆らわなかったことは竹中重治より聞いたので秀吉より信長に伝えたところ信長は喜んでいたことを伝える。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)

天正6年 1578年 11月14日 42歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 42歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 42歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 42歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 1月11日 43歳
羽柴秀吉浅野長政に近江国北郡郷福永内300石を給付される。
出典:天正7年1月11日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』309号)

天正7年 1579年 4月8日 43歳
織田信長が播磨国に不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近堀秀政津田信澄を遣わす。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月26日 43歳
織田信忠三木城(播磨国)に砦を6ヶ所築くように命じる。その後、小寺政職の御着城(播磨国)を攻める。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月28日 43歳
織田信忠が有馬郡・能勢郡に攻め入り、作毛を薙ぐ。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 5月25日 43歳
羽柴秀吉が海蔵寺砦を乗っ取る。
出典:『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」

天正7年 1579年 6月13日 43歳
竹中重治三木城(播磨国)の向城である平山陣所にて病死する。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正7年 1579年 9月2日 43歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月4日 43歳
羽柴秀吉が播磨国より安土城(近江国)にいる織田信長のもとに赴き、宇喜多直家の赦免を請う。信長は、秀吉が事前に相談することなしに、直家の赦免を約束したことに怒り、秀吉を播磨国に追い返す。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月10日 43歳
大村の合戦で、羽柴秀吉別所長治が戦う。長治は谷大膳が籠る羽柴方の付城を一度は落とすも、秀吉が別所甚太夫・別所三太夫・別所左近将監・光枝小太郎・光枝道夕・櫛橋弥五郎・高橋平左衛門・三宅与兵次・小野権左衛門・砥堀孫太夫を討ち取る。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正7年 1579年 9月12日 43歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 43歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 43歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 43歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 43歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 43歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 10月30日 43歳
宇喜多直家織田信長に赦免してもらうため、宇喜多基家を昆陽(摂津国)に在陣中の織田信忠のもとに遣わし、この日、基家が昆陽に到着する。基家は羽柴秀吉の執り成しにより、信忠に礼をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月20日 43歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正7年 1579年 -月-日 43歳
甥・秀保が生まれる。
出典:-

天正8年 1580年 1月6日 44歳
羽柴秀吉別所長治の籠る三木城(播磨国)の宮の上構を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 1月11日 44歳
羽柴秀吉が別所吉親の籠る鷹尾城(播磨国)を攻め落とす。三木城(播磨国)の本丸より火が出る。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 1月15日 44歳
羽柴秀吉に兵糧攻めを受けている三木城(播磨国)の別所長治が、自身と別所賀相・別所友之の自害を条件に籠城している兵卒の助命を、書状をもって浅野長政・別所重棟に伝え、秀吉に請う。秀吉は長治の請いを受け入れる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」

天正8年 1580年 1月17日 44歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正8年 1580年 閏3月29日 44歳
羽柴秀吉が網干地下中に、縄100束・竹100荷を英賀(播磨国)に運ぶよう命じる。
出典:(天正8年)閏3月29日付羽柴秀吉書状(「播磨網干郷文書」(姫路市史編集委員会『姫路市史 史料編1』姫路市役所、1974年、695p)

天正8年 1580年 4月24日 44歳
宇野祐清が宍粟郡(播磨国)にて蜂起する。羽柴秀吉が同郡に攻め入る。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月5日 44歳
夜中、宇野祐清が宍粟郡(播磨国)より逃亡する。木下平太輔、蜂須賀正勝が追撃する。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」

天正8年 1580年 9月1日 44歳
羽柴秀吉黒田孝高に播磨国揖東郡内の福井荘内で6200石、岩見荘2700石、伊勢村上下1100石の都合10000石を給付する。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正8年 1580年 10月28日 44歳
羽柴秀吉龍野町(播磨国)に、市を従来通り立てること、市の日に商人を選ばないこと、諸公事を賦課しないようにすることを伝える制札を発給する。
出典:同年月日条羽柴秀吉制札(「旧龍野町文書」(姫路市史編集委員会『姫路市史 史料編1』姫路市役所、1974年、696p)

天正8年 1580年 11月17日 44歳
織田信長のもとに、羽柴秀吉の使者が到着し、宇喜多直家の織田家にへの降伏を報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正9年 1581年 2月14日 46歳
宇喜多直家が死去する。
出典:-

天正9年 1581年 3月18日 45歳
羽柴秀吉浅野長政に播磨国揖東郡内にて香山上下1376石4斗、網干1255石、小宅荘堂本村591石1斗、小宅荘中村541石7斗および90石3升、727石4斗、松山阿曽村601石9斗、松尾村106石3斗、佐々村300石の合わせて5600石を給付する。
出典:天正9年3月18日付浅野長政知行目録(『浅野家文書』311号)

天正9年 1581年 6月25日 45歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)を攻めるべく姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 6月28日 45歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻める。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 7月1日 45歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻めるべく、付城を築き杉原家次を入れ、鳥取城への路次を封鎖する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 7月5日 45歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を包囲する。
出典:『綿考輯録』巻4、『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正9年 1581年 8月14日 45歳
織田信長鳥取城(因幡国)攻囲中の羽柴秀吉に馬3匹を送る。使者は高山重友
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」

天正9年 1581年 8月23日 45歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)攻めの加勢として松井康之が鳥取に着陣する。
出典:『綿考輯録』巻4

天正9年 1581年 10月23日 45歳
羽柴秀吉が岩屋(淡路国)の船57艘の織田家分国中における灘目廻船の往来を認める。
出典:天正9年10月23日付平三郎宛判物(『豊臣秀吉文書集』1巻-348・349号)

天正9年 1581年 10月25日 45歳
鳥取城(因幡国)を守る吉川経家が、城兵の助命と引き換えに切腹する。検使は堀尾吉晴
羽柴秀吉は経家の首を安土城(近江国)に送る。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)、『豊臣記』

天正9年 1581年 10月26日 45歳
羽柴秀吉が丸山城(因幡国)を落とし、塩屋周防守・奈佐日本介の首を安土城(近江国)に送る。また攻撃中の吉岡城・大崎城が自焼する。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)

天正9年 1581年 10月28日 45歳
吉川元春の攻撃を受けている南条元続・小鴨元清を救うため羽柴秀吉が伯耆国に出陣する。
出典:『信長公記』巻14(13)「伯耆国南条表発向の事」

天正9年 1581年 11月6日 45歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)に入り、各城に在番兵を配置する。
出典:天正9年11月8日付多雲宛書状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-353号)

天正9年 1581年 11月8日 45歳
羽柴秀吉姫路城(播磨国)に入り開陣する。
出典:天正9年11月8日付多雲宛書状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-353号)、『信長公記』巻14(13)「伯耆国南条表発向の事」

天正9年 1581年 11月16日 45歳
羽柴秀吉淡路国へ侵攻につき、先勢を派遣する。また、生駒親正に17日に出陣する旨を伝える。また親正に岩屋城(淡路国)が降伏しないようであれば、攻撃の準備を整えるように命じる。
出典:天正9年11月22日付桑山修理亮宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-357号)・天正9年11月16日付生駒甚介宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-356号)

天正9年 1581年 11月17日 45歳
羽柴秀吉淡路国侵攻につき先勢を遣わす。
出典:天正9年11月22日付桑山修理亮宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-357号)

天正9年 1581年 11月18日 45歳
羽柴秀吉淡路国に侵攻し所々を放火する。洲本城(淡路国)に攻め入るが安宅神五郎が懇望し人質を差し出してきたので和睦する。また野口長宗にもとの在所である三原の古城普請を命じる。
出典:天正9年11月22日付桑山修理亮宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-357号)

天正9年 1581年 11月-日 45歳
掃守・保内・六村(淡路国)に禁制を発給する。
出典:天正9年11月日付掃守亮禁制・同年月日付保内六村こや共宛禁制写(『豊臣秀吉文書集』1巻-359・360号)

天正9年 1581年 11月21日 45歳
夕方、羽柴秀吉姫路城(播磨国)に入り開陣する。
出典:天正9年11月22日付桑山修理亮宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-357号)

天正9年 1581年 11月-日 45歳
羽柴秀吉宮部継潤鳥取城(因幡国)城代として置く。
出典:『信長公記』巻14(12)「因幡国取鳥果口の事」

天正9年 1581年 12月3日 45歳
羽柴秀吉が野口孫五郎に織田信長が孫五郎の降伏を認めた旨を伝えるとともに、12月27・28日には安土城(近江国)に上り、年始の挨拶をする旨にようにと伝える。なお土産についてはで用意するようにとも述べる。
出典:天正9年12月14日付野口孫五郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-364号)

天正10年 1582年 2月9日 46歳
織田信長が信濃国出陣につき、筒井順慶を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・高野山・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、三好康長を四国に遣わすこと、摂津国は池田恒興が留守居としての残り、池田元助輝政兄弟、中川清秀は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、羽柴秀吉は中国地方の抑えとして残ること、細川藤孝忠興父子、一色五郎は丹後国に残ること、明智光秀は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 3月15日 46歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 3月17日 46歳
羽柴秀吉が児島(備前国)を攻める。羽柴秀勝が初陣する。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月17日 46歳
羽柴秀吉が冠城(備中国)を攻める。
出典:『清正記』巻1

天正10年 1582年 3月18日 46歳
羽柴秀吉が乃美宗勝・盛勝に寝返りを勧める書状を送る。
出典:天正10年3月18日付乃美宗勝・盛勝宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-379号)

天正10年 1582年 3月21日 46歳
羽柴秀吉が家臣に知行を宛行う。
片桐貞隆に播磨国揖東郡越部の内で200石
高野七郎に播磨国多可郡比延村の内で45石、同郡越智4ヶ村の内で30石の計75石
水原吉一に播磨国神東郡舟津の内で100石
余田源太郎に播磨国明石郡名はたの内で120石
また、脇坂安治に播磨国布施畑の内で18石、同郡下津橋の内で14石を加増する。
出典:天正10年3月21日付豊臣秀吉領知宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-380~384号)

天正10年 1582年 3月23日 46歳
羽柴秀吉が冠城(備中国)を攻め、攻め落とす。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正10年 1582年 4月24日 46歳
羽柴秀吉が宮路山城・冠山城(備中国)を包囲するとともに、幸山城に籠る小早川隆景を挑発する。
出典:天正10年4月24日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-407号)

天正10年 1582年 4月25日 46歳
羽柴秀吉が冠山城(備中国)を攻撃し落城させ、城主の林重真・松田孫次郎をはじめ300名を討つ。
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月2日 46歳
羽柴秀吉が宮路山城(備中国)の水の手を断ち落城させる。また、賀茂城の端城に攻め入り落とする。その後、居城としていた亀石城に帰る。
出典:天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)、天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月3日 46歳
羽柴秀吉が河屋城を攻め落とす。また、備前国児島の内の郡年寄中に、命じていた縄を送ってくれたことを謝すとともに、冠山城・宮路山城(備中国)を落とし、かつ賀茂城の端城も落としたことを伝える。加えて縄200束の調達を依頼する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)、天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)

天正10年 1582年 5月8日 46歳
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月17日 46歳
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月18日 46歳
羽柴秀吉が得居通幸に高松城(備中国)を水攻めにしている旨を伝える。また、そのうちに瀬戸内海にて得居に警固船の動員を依頼するので、その心づもりでいるようにと伝える。
出典:天正10年5月18日付得居通幸宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-418号)

天正10年 1582年 5月19日 46歳
羽柴秀吉が溝江長澄に備中国攻めのことや村上水軍衆が味方となっていることを伝える。うち高松城(備中国)攻めについては、「この城は平城であるので数年かけて普請をしていて堅くなっており、かつ三方が深田のため攻め口がないことから、周りに堤を築き、近くの川を切って水攻めにした」とし、さらに現状は「端城の土居に水が打ち寄せている状況」で「そのうち落城するだろう」と述べる。
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 6月2日 46歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月4日 46歳
明智光秀安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。
羽柴秀吉毛利輝元吉川元春小早川隆景が起請文を交わす。誓約内容は、輝元・元春・隆景の待遇について、「公儀」=織田信長への執り成しをすること、そのうえで彼ら3人を見放すことはしないこと、互いに裏切ることをしないことの3点。
出典:天正10年6月4日付羽柴秀吉起請文写(『豊臣秀吉文書集』1巻-422号)、『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月4日 46歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正10年 1582年 6月5日 46歳
羽柴秀吉中川清秀織田信長信忠父子が福富秀勝の働きにより膳所(近江国)に逃れ無事であることを伝える。そのうえで秀吉自身は姫路城(播磨国)に戻ることを伝える。清秀に書状を発した際、秀吉は備前国野殿におり、この日のうちに備前国沼まで戻ろうとしていることを清秀に伝える。
岡本良勝に日幡城(備中国)主・上原元祐の人質を預かり世話するように命じる。
出典:天正10年6月5日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-424号)

天正10年 1582年 6月9日 46歳
午刻(11:00-13:00)、羽柴秀吉が明石(播磨国)に入る。
織田信孝に書状を遣わし、明石に入った旨を伝えるとともに、洲本城淡路国)に菅達長が入り蜂起したため、その討伐を10日にするので、11日に尼崎(摂津国)に入る旨を伝える。
洲本城に入城した菅達長の対処すべく、広田内蔵丞に、10日に明石から渡海し、洲本城を攻めるので参陣を促す。
船越景直を使者として遣わしてきた安宅信康に返書を出す。信康が菅達長の籠る洲本城を攻撃したことを賞し、もし達長が退城したならば報告するようにと伝える。また、10日に岩屋城まで渡海することを伝え、高田長左衛門を岩屋城(淡路国)の本丸に置くようにと指示する。
出典:天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-427号)、天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-428号)、天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-429号)

天正10年 1582年 6月10日 46歳
羽柴秀吉中川清秀明智光秀が久我(山城国)あたりに在陣しているという風聞を伝えるとともに、11日には兵庫(摂津国)もしくは西宮まで進軍することを伝える。清秀には摂津国境界を固めるようにと伝える。(秀吉書状)
筒井順慶が秀吉に同心する旨を誓った起請文を発給する。(『多』)
出典:天正10年6月10日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-430号)、『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月12日 46歳
明智光秀が八幡、山崎(以上、山城国)に布陣する。
羽柴秀吉池田恒興とともに摂津国に軍勢を進める。中川清秀高山重友を先陣をつとめ山崎(山城国)に布陣。以下、羽柴勢は山崎から天神馬場(摂津国)に展開する。秀吉は織田信孝を待つため富田(摂津国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年月日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)

天正10年 1582年 6月13日 46歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 6月14日 46歳
羽柴秀吉大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月21日 46歳
羽柴秀吉が尾張国・美濃国に出陣し、人質を取る。その後、清州城(尾張国)に逗留し、国の仕置きをする。
出典:天正10年6月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-444号)

天正10年 1582年 6月27日 46歳
羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興柴田勝家が織田家宿老として知行の宛行いをする。
蒲生氏郷…近江国南郡佐久間分内で1万石
高山重友…摂津国能勢郡内で3000石、近江国佐久間分内で1000石の計4000石
堀秀政…近江国坂田郡25000石(御台所入として)
出典:天正10年6月27日付羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家連署状(『豊臣秀吉文書集』1巻-446・447・448号)

天正10年 1582年 6月28日 46歳
羽柴秀吉が津島(尾張国)経由で長浜城(近江国)に帰城するため、高木貞利に船を用意するよう命じる。
出典:天正10年6月28日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-449号)

天正10年 1582年 7月6日 46歳
『多聞院日記』に「天下の様」は柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興堀秀政の5人で「分取」る状況であると記される。
出典:『多聞院日記』同年月日日条

天正10年 1582年 7月7日 46歳
織田信長死後の所領分配として、織田信雄に伊勢国・尾張国が、織田信孝に美濃国が、柴田勝家に長浜(近江国)20万石が、羽柴秀吉に山城国・河内国が、羽柴秀長に丹波国が、丹羽長秀に近江国高嶋郡・志賀郡が、池田恒興に河内国十七ヶ所・大坂城(摂津国)が、堀秀政に近江国中郡・織田三法師の傅役が、筒井順慶に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が下京の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 7月9日 46歳
羽柴秀吉が京都に入る。
出典:天正10年7月11日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-461号)

天正10年 1582年 9月5日 46歳
羽柴秀吉安宅神五郎の阿波家領田村分と仙石秀久付となった淡路衆7名分以外の本知行分を安堵する。また岩屋(淡路国)の麓に抱えていた90石の地を間嶋氏勝に渡し、替地として90石を仙石秀久知行の内から給付される。
出典:(天正10年)9月5日付羽柴秀吉書状・中村一氏書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1938・1939号、ともに「萩原文書」)

天正10年 1582年 9月9日 46歳
羽柴秀吉勧修寺晴豊に、織田信長の葬儀執行につき、羽柴秀勝に準備を命じているが葬儀を行う寺院については決めていないので、どの寺でも構わないので勅定を下してもらえるよう依頼する。
家臣に所領を宛行う。
川勝秀氏に丹波国何鹿郡内上林三分之二方3535石を宛行う。
堀尾吉晴に丹波国氷上郡内の6284石を宛行う。
出典:天正10年9月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-483号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-484号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-485号)

天正10年 1582年 9月12日 46歳
篠原自遁より羽柴秀吉勝瑞城(阿波国)のことにつき注進があったため、秀吉が仙石秀久に淡路衆を引き連れ出陣するように命じる。また、生駒親正・明石則実に篠原自遁の居城まで渡海するように命じる。加えて黒田孝高に野口孫五郎の居城まで赴き、親正・則実の渡海を支援するように命じる。
出典:天正10年9月12日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-487号)

天正10年 1582年 9月25日 46歳
筒井順慶が26日に山崎(山城国)の財寺城にいる羽柴秀吉のもとへ見舞いに赴くため上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月15日 46歳
羽柴秀吉大徳寺にて織田信長の葬儀を執り行う。葬列で秀吉は位牌と太刀を持つ。
出典:『天正記』「惟任謀叛記」

天正10年 1582年 10月19日 46歳
羽柴秀吉浅野長政に山科1560石、十一ヶ郷1000石、槙島500石の合わせて3060石を加増する。
出典:天正10年10月19日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』312号)

天正10年 1582年 10月20日 46歳
羽柴秀吉船越景直の阿波国在陣を労う。また、秀吉は景直に弓衆を50張でも100張でも揃えて秀吉のもとに参上するようにと命じられる。
出典:(天正10年)10月20日付羽柴秀吉書状(「古文書」国立公文書館蔵(『豊臣秀吉文書集 一』521号))

天正10年 1582年 10月23日 46歳
筒井順慶羽柴秀吉を見舞うため、山崎(山城国)に赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月27日 46歳
羽柴秀吉山崎(山城国)の城より上洛する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月28日 46歳
本圀寺にて羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興が天下を静謐にすることを談合する。
出典:『蓮成院記録』同年月30日条

天正10年 1582年 12月13日 46歳
羽柴秀吉佐和山城(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 12月29日 46歳
羽柴秀吉山崎(山城国)に到着する。
出典:『天正記』「柴田合戦記」

天正10年 1582年 12月-日 46歳
羽柴秀吉が赤坂(美濃国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

天正11年 1583年 1月1日 47歳
羽柴秀吉姫路城(播磨国)に帰城する。
出典:『天正記』「柴田合戦記」

天正11年 1583年 1月2日 47歳
筒井順慶山崎(山城国)にいる羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 閏1月4日 47歳
羽柴秀吉筒井順慶安土城(近江国)にいる織田信雄のもとに礼として赴く。
出典:『多聞院日記』同年月12日条

天正11年 1583年 2月2日 47歳
羽柴秀吉が伊賀国の竹木を買い取るにあたり、奈良中の者が伊賀国の材木を買い取ることがないよう筒井順慶が奈良中に触を出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 2月10日 47歳
羽柴秀吉が伊勢国に出陣し、滝川一益が所持する亀山城(伊勢国)・峯城(伊勢国)・国府城(伊勢国)を包囲する。
出典:(天正11年)3月17日付豊臣秀吉書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2701号)

天正11年 1583年 -月-日 47歳
羽柴秀吉上杉景勝と同盟を結ぶべく誓詞に血判を捺す際、寺内素休が見届け人となる。
出典:(天正11年付)上杉家条書案(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2657号)

天正11年 1583年 3月2日 47歳
羽柴秀吉滝川一益の重臣・滝川益重の籠る峯城(伊勢国)攻める。城攻めには筒井順慶が加わる。益重が羽柴勢を退ける。
出典:『多聞院日記』同年月5・8日条

天正11年 1583年 3月3日 47歳
滝川益氏が籠る亀山城(伊勢国)が羽柴秀吉に降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月8日条

天正11年 1583年 3月17日 47歳
羽柴秀吉柴田勝家に備えるため賤ケ岳(近江)に砦を拵える。
また、秀吉は上杉家家臣・須田満親に滝川一益の持つ伊勢国の諸城を攻撃していることや、賤ケ岳に着陣したことを伝え、あわせて能登国・越中国に攻め入るよう要請する。
出典:(天正11年)3月17日付豊臣秀吉書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2701号)

天正11年 1583年 4月8日 47歳
羽柴秀吉下間頼廉に加賀国で一向一揆を起こすよう要請する。
出典:(天正11年)4月8日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「本願寺文書」)

天正11年 1583年 4月9日 47歳
柴田勝家の近江国侵攻につき、筒井順慶羽柴秀吉より出陣を促されたため出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月19日 47歳
佐久間盛政率いる柴田勝家勢の先陣が、羽柴秀吉方の賤ケ岳砦を攻め、同砦を守る中川清秀を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正11年 1583年 4月20日 47歳
織田信孝羽柴秀吉を裏切り、柴田勝家に寝返ったと奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月21日 47歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正11年 1583年 4月22日 47歳
柴田勝家北之庄城(越前国)に帰城する。
羽柴秀吉が府中城(越前国)に着陣する。
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)

天正11年 1583年 4月23日 47歳
羽柴秀吉柴田勝家の籠る北之庄城(越前国)を攻める。
この日、勝家は自害したと奈良(大和国)にて伝えられる。(『多』)
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)、『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月24日 47歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 4月29日 47歳
織田信孝が野間(尾張国)にて切腹する。
出典:『多聞院日記』同年5月10日条

天正11年 1583年 5月16日 47歳
佐久間盛政の証言により柴田勝家に一味したとして高山友照の高槻城(摂津国)を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月24日 47歳
大乗院尋憲羽柴秀吉を見舞うため上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月24日 47歳
夜、筒井順慶坂本(近江国)にいる羽柴秀吉を見舞うため大和国を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月25日 47歳
奈良(大和国)にて大坂城(摂津国)が池田恒興より羽柴秀吉の所有に移り、恒興は美濃国に移ると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月26日 47歳
大乗院尋憲から多聞院英俊への書状に、羽柴秀吉のいる坂本城(近江国)に、礼に訪れる諸国の大小名の数が多いと記される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月27日 47歳
青蓮院尊朝羽柴秀吉に会うため坂本(近江国)に向かう。秀吉に緞子1端、一柳直次に30疋、杉原家次に10疋を贈る。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正11年 1583年 5月-日 47歳
徳川家康羽柴秀吉に茶壺・初花を贈る。使者は石川数正
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

天正11年 1583年 6月2日 47歳
羽柴秀吉が紫野(山城国)に赴き、織田信長の位牌所として12間4面の建物を新造する。初めて大坂城(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日・6月5日条

天正11年 1583年 6月5日 47歳
羽柴秀吉が、賤ヶ岳の合戦の一番槍の功により、福島正則に5000石、加藤嘉明に3000石を給付する。
出典:天正11年6月5日付豊臣秀吉判物(「近江水口加藤文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-718号)、天正11年6月5日付豊臣秀吉判物(「大坪文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-721号)、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正11年 1583年 6月10日 47歳
羽柴秀吉が播磨国に赴く。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 7月4日 47歳
雑賀衆の案内により紀伊から貝塚(和泉国)に移る。雑賀衆のうち貝塚までは平太夫、根太夫、明道、船頭の佐之助が、嘉祥寺までは刑部助、刑部大夫、刑部大夫弟が案内する。
羽柴秀吉へ音信として円山内匠を遣わし大樽10を贈る。浅野長政石田佐吉堀秀政羽柴秀長にも書状を遣わす。ただし長政には以前に送った音信が留守のため渡せなかったので、下間頼廉の書状にて音信として銀5枚を贈る。
岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 7月5日 47歳
筒井順慶、箸尾が大坂城(摂津国)にいる羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。金子30枚を持参する。
出典:『多聞院日記』同年月8日条

天正11年 1583年 8月1日 47歳
羽柴秀吉船越景直に河内国丹南郡内で1500石、同国錦郡内天野で300石、淡路国本知行分600石の2400石を給付する。
 河内国丹南郡島泉280石1斗・北村391石3斗・向野村247石・錦郡上原庄622石5斗・天野300石、淡路国三原郡日野村600石
出典:天正11年8月1日付羽柴秀吉領知宛行状写・知行目録写(「古文書」国立公文書蔵(『豊臣秀吉文書集 一』788・789号))

天正11年 1583年 8月1日 47歳
羽柴秀吉が芦浦観音寺の知行480石を安堵する。
出典:天正11年8月1日付羽柴秀吉安堵状写(「芦浦観音寺文書」)

天正11年 1583年 9月4日 47歳
大坂城(摂津国)普請につき諸国より人夫が集まり石を曳くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 9月17日 47歳
貝塚動座の礼として本願寺顕如羽柴秀吉へ遣わした下間頼廉、寺内若狭、益田照従大坂城(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は松井友閑前田利家千宗易津田宗及荒木道薫。頼廉は秀吉より馬を賜る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月10日 47歳
大乗院尋憲大坂城(摂津国)にいる羽柴秀吉のもとへ見舞いに赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 10月24日 47歳
本願寺顕如が有馬湯治の土産として、羽柴秀吉に錫1対・有馬挽物食籠5つ、浅野長政石田三成に綿10把を贈る。使者は河野越中。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 12月28日 47歳
本願寺顕如が歳暮の礼として羽柴秀吉に小袖3・帯3筋を、浅野長政石田三成増田長盛に銭500疋を遣わす。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 12月29日 47歳
羽柴秀吉の意向により筒井順慶が家臣の福住、松蔵弥八郎、松蔵弥二郎、森猪介、中西、中坊飛騨、井上九郎三郎、今西、柏木、小和田、中村の知行を加増する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 -月-日 47歳
羽柴秀吉四天王寺に伽藍再興の奉加として銭500貫、米5000石を送る。
出典:『天王寺誌』四巻編年録

天正12年 1584年 1月8日 48歳
青蓮院尊朝、梶井宮最胤が大坂城(摂津国)に下向し羽柴秀吉に年始の礼をする。湯がけ3具を贈る。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正12年 1584年 1月18日 48歳
本願寺顕如羽柴秀吉へ年頭の礼として太刀1腰、馬代1000疋を、増田長盛石田三成に500疋ずつを贈る。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 2月-日 48歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 2月-日 48歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に移る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月6日 48歳
織田信雄長島城(伊勢国)にて岡田重孝、津川義冬、浅井長時を殺害する。羽柴秀吉がこの件に立腹し、信雄に殺害理由を質す。
出典:『宇野主水記』同年月8日条、(天正12年)3月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集成』2-993号、「佐竹文書」)

天正12年 1584年 3月10日 48歳
羽柴秀吉が近江国より出陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月11日 48歳
羽柴秀吉が甥・秀次の軍勢3000を美濃口に遣す。
出典:(天正12年)3月11日付羽柴秀吉判物(『豊臣秀吉文書集成』2-965号「富田氏所蔵文書」)

天正12年 1584年 3月13日 48歳
池田元助森長可犬山城(尾張国)を攻め、落とす。
羽柴秀吉が伊勢国の抑えとして羽柴秀長を守山(近江国)に置く。
秀吉が細川忠興を瀬田(近江国)に置く。
秀吉の命により加藤光泰、木村隼人、堀尾吉晴が甲賀(近江国)に陣取る。
出典:(天正12年)3月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集成』2-993号、「佐竹文書」)

天正12年 1584年 3月14日 48歳
羽柴秀吉滝川一益の峯城(伊勢国)を攻め、落とす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月15日 48歳
羽柴秀吉が尾張国に軍勢を派遣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月17日 48歳
酒井忠次が楽田(尾張国)・羽黒(尾張国)・五郎丸(尾張国)を放火する。忠次が森長可の守る五郎丸砦(尾張国)を攻め、同砦を落とす。
徳川勢:酒井忠次、奥平信昌
羽柴勢:森長可。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

天正12年 1584年 3月21日 48歳
根来寺衆、雑賀奥衆が和泉国に攻め入る。雑賀衆が中村一氏の籠る岸和田城(和泉国)を攻めるが、一氏が退ける。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月22日条

天正12年 1584年 3月23日 48歳
本願寺顕如が尾張国に出陣した羽柴秀吉のもとに見舞いの使者を遣わす。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月-日 48歳
羽柴秀吉徳川家康に備えるため佐和山城(近江国)にて軍勢が集まるのを待つ。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正12年 1584年 4月7日 48歳
徳川家康領の三河国を襲撃すべく羽柴秀次池田勝入斎森長可堀秀政が楽田(尾張国)を出陣し小牧(尾張国)に陣取る。
出典:『豊鑑』巻2

天正12年 1584年 4月9日 48歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 4月10日 48歳
3月23日に本願寺顕如羽柴秀吉のもとに見舞いとして遣わした円山内匠が帰寺。内匠より小牧・長久手の合戦や当該地の情勢を聞き及ぶ。内匠は松島城(伊勢)が秀吉のものとなり伊勢国は秀吉が平定し、尾張国も過半は秀吉が抑えたと述べる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月12日 48歳
羽柴秀吉が3月21日・22日の羽柴勢と根来寺・雑賀衆・湯川勢との戦いで首級を多くあげた生駒親正黒田長政に褒美として2000石を宛行うことを約す。
出典:同年月日付羽柴秀吉判物(『生駒家宝簡集』乾、「黒田文書」7)

天正12年 1584年 4月20日 48歳
羽柴秀吉が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に鵜飼八蔵を遣わす。鵜飼は北伊勢での一向一揆蜂起につき、本願寺の関与を問い質す秀吉の書状(下間頼廉益田照従宛)を持参する。秀吉の書状は頼廉・照従宛であったが、顕如が直札をもって北伊勢一向一揆蜂起の不関与を弁明する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月24日 48歳
本願寺顕如羽柴秀吉に陣中見舞いとして河野越中を遣わす。加えて秀吉より問い質された北伊勢一向一揆蜂起の件について、北伊勢坊主中に御書を遣わしよくよく言い聞かせるようにすることを伝えさせる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 5月1日 48歳
延暦寺根本中堂・戒壇院の造営につき、延暦寺僧の豪盛施薬院全宗を本願として再興するようにと命じる。
出典:天正12年5月1日付羽柴秀吉判物(『山門復興文書』)

天正12年 1584年 5月7日 48歳
羽柴秀吉延暦寺に所領を返付し、かつ山王祭の再興を約したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 6月10日 48歳
羽柴秀吉が竹鼻城(尾張国)を攻め、落とす。同城に一柳直末、伊木長三を置く。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 6月28日 48歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 7月9日 48歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。
分部光嘉より織田信雄の軍勢が神戸(伊勢国)に攻め入ったとの報を受けた秀吉は、神戸に軍勢を送るとともに、織田信包へのその旨を周知するように光嘉に伝える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 7月30日 48歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月2日 48歳
本願寺顕如が有馬(摂津国)に湯治に赴いた羽柴秀吉のもとに音信として銭1000疋を遣わす。使者は河野越中。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月8日 48歳
本願寺顕如が新たに成った大坂城(摂津国)に移徙した羽柴秀吉のもとに音信として刀1腰・馬代3000疋を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月13日 48歳
羽柴秀吉が出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 8月26日 48歳
羽柴秀吉が木曽川を越える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月28日 48歳
羽柴秀吉が清須(尾張国)近辺を放火する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 9月9日 48歳
杉原家次が死去する。
出典:-

天正12年 1584年 9月10日 48歳
本願寺顕如羽柴秀吉の陣所へ音信として小袖を送る。使者は円山内匠。また丹羽長秀に音信として小袖2を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 9月晦日 48歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 10月2日 48歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 10月6日 48歳
本願寺顕如羽柴秀吉の帰陣の音信として綿50把を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 10月10日 48歳
筒井定次が家督相続の礼として大坂城(摂津国)にいる羽柴秀吉のもとを訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月11日条

天正12年 1584年 10月20日 48歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 10月24日 48歳
羽柴秀吉が土山(近江国)に着陣する。
出典:天正12年10月24日付羽柴秀吉書状写(『豊臣秀吉文書集成』2-1242「黄薇古簡集」)

天正12年 1584年 10月25日 48歳
羽柴秀吉が神戸(伊勢国)に着陣する。
出典:天正12年10月26日付羽柴秀吉書状写(『豊臣秀吉文書集成』2-1243「可睡斎文書」)

天正12年 1584年 10月29日 48歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 11月6日 48歳
羽柴秀吉桑名(伊勢国)に攻め入り、桑部・柿多の城を落とす。
出典:(天正12年)11月6日付羽柴秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集成』2-1252「近江水口加藤子爵家文書」)

天正12年 1584年 11月17日 48歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 11月28日 48歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 12月22日 48歳
徳川家康の子・於義丸が羽柴秀吉の猶子となるため上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 12月26日 48歳
徳川家康の子・於義丸が羽柴秀吉の猶子となるため大坂城(摂津国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 -月-日 48歳
羽柴秀吉蒲生氏郷に伊勢国5郡12万石を給付する。
出典:『蒲生氏郷記』

天正13年 1585年 1月13日 49歳
本願寺顕如羽柴秀吉に年頭の礼として太刀・馬代1000疋を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 2月16日 49歳
羽柴秀吉が仙洞御所の築地普請を始める。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 2月22日 49歳
織田信雄大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 2月24日 49歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)にて織田信雄を饗応する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 2月27日 49歳
羽柴秀吉淀城(山城国)に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 2月27日 49歳
午刻(11:00-13:00)、羽柴秀吉が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月1日 49歳
公家衆が羽柴秀吉に参礼する。諸大名も出仕。勅使の菊亭晴季・久我敦通・勧修寺晴豊・中山慶親が秀吉に太刀を渡し、秀吉はその太刀を受け取る。次いで織田信雄を大納言に任じる口宣案が読み上げられる。秀吉が信雄の大納言就任を依頼ししたため。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月3日 49歳
羽柴秀吉が仙洞御所に赴く。その後、施薬院全宗邸に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月5日 49歳
羽柴秀吉亀山城(丹波国)に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月6日 49歳
羽柴秀吉亀山城(丹波国)より上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月7日 49歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に下向する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月8日 49歳
羽柴秀吉が惣見寺にて数寄の名物を用い茶会を催す。千宗易津田宗及が200服ばかりの茶を点てる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月9日 49歳
羽柴秀吉が参内する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 3月10日 49歳
羽柴秀吉が内大臣に任じられる。秀吉は施薬院全宗所より参内し、天皇に銀100枚、親王に銀50枚、若宮に銀20枚、局方に銀3枚を献上する。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正13年 1585年 3月15日 49歳
本願寺顕如羽柴秀吉に内大臣就任の礼として1腰、馬代20貫を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月17日 49歳
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)攻めにつき、警固船を動員した小早川隆景に対し、羽柴方の船大将である中村一氏仙石秀久九鬼嘉隆と相談の上、軍事行動をとる事、軍勢および水主の兵粮を羽柴方から供出することを伝える。
出典:(天正13年)3月17日付羽柴秀吉書状(『小早川家文書』1-280号)

天正13年 1585年 3月19日 49歳
羽柴秀吉加藤清正に河内国錦郡内宇礼志村・錦郡村で434石を新恩として宛がう。
出典:天正13年3月19日付羽柴秀吉宛行状(「加藤文書」)(『大史』11-14 p75)

天正13年 1585年 3月20日 49歳
羽柴秀次根来寺・雑賀衆攻め先勢として出陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月21日 49歳
羽柴秀吉根来寺・雑賀衆を攻めるため出陣する。
大津(和泉国)にて、教如興正寺顕尊の迎えを受ける。
八半時、岸和田城(和泉国)に入城する。千石堀城を攻め、籠城した根来寺衆を悉く討ち果たし放火する。秀吉出陣中に百姓持ちの富中城は自焼する。雑賀衆の籠る澤城に攻め寄せるが鉄砲衆に苦戦する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月22日 49歳
根来寺衆が籠城する積善寺城が開城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月23日 49歳
雑賀衆が籠城する澤城が開城する。ついで羽柴秀吉根来寺に軍勢を遣わす。根来寺は雑賀衆と内輪もめを起こし自焼する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月24日 49歳
雑賀御坊より本願寺顕如に注進が入り、羽柴秀吉の雑賀・根来寺討伐につき、雑賀御坊寺内・宇治・岡は無事であるが、添・中島はすべて放火された旨が伝えられる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月25日 49歳
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)に到着する。紀三井寺に参詣する。
秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)に使者として中村一氏と案内者として鈴木重秀を遣わし、降伏を勧めるが、左近はその申し出を拒否する。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『太田水責記』

天正13年 1585年 3月26日 49歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすることとし、朝から城廻りに柵および堤防の普請を始める。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月1日 49歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすべく、宮井・小倉井より注水を開始する。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月9日 49歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにしている最中、酉刻(17-19時)、宇喜多秀家持ち場の堤防が切れる。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月2日 49歳
本願寺顕如羽柴秀吉のもとへ下間頼廉を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月3日 49歳
本願寺顕如が、子・教如興正寺顕尊を紀伊国にいる羽柴秀吉のもとへ陣中見舞いとして遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月4日 49歳
本願寺顕如が遣わした子・教如、興正寺顕尊が土橋平之丞の城内にいた羽柴秀吉と対面する。教如より猩々皮1枚、道服2、銀50枚、顕尊より縮30端、瓶10対を秀吉に贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月18日 49歳
徳川於義伊が陣中見舞いとして羽柴秀吉のいる雑賀(紀伊国)にやってくる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月21日 49歳
羽柴秀吉が太田城(紀伊国)を水攻めにする。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月22日 49歳
蜂須賀正勝、前野長康が起請文をもって、水攻め中の太田城(紀伊国)に籠る太田左近と和睦する。和睦の条件は、羽柴勢が51名戦死したため、太田城側も左近をはじめ主要の者51名の切腹を条件とする。
羽柴秀吉が鉄砲筒・腰刀を徴発する(原刀狩令)。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月1月23日日 49歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 49歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 49歳
雑賀・根来寺攻めの軍勢を開陣する。
本願寺顕如より茶屋にて一献を受ける。相伴は教如興正寺顕尊のみ。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月25日 49歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 49歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月26日 49歳
本願寺顕如にいるとされる羽柴秀吉のもとに、下間頼廉円山内匠を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月27日 49歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)にいたため、本願寺顕如の使者である下間頼廉円山内匠が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、施薬院全宗千宗易・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月28日 49歳
羽柴秀吉下間頼廉に茶を点てる。
頼廉、円山内匠が貝塚本願寺に帰寺する。両名は顕如に秀吉より渡辺(摂津国)に本願寺を移すよう命じられたと伝える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月3日 49歳
本願寺顕如羽柴秀吉より渡辺(摂津国)に与えられた寺内屋敷地を請取るため(移転承知の旨を伝えるため)、下間頼廉円山内匠益田照従を秀吉のもとに遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月4日 49歳
羽柴秀吉が天満本願寺の縄張り打ちをする。敷地は中嶋天満宮の会所から東の河際までの7町、北へ5町で、大坂本願寺より広大となる。
秀吉が黒田孝高に、長宗我部元親成敗につき、6月3日に四国へ向けて出陣・渡海するので、先勢として出陣するように命じる。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正13年 1585年 5月11日 49歳
羽柴秀吉淀城(山城国)に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 5月13日 49歳
羽柴秀吉が諸家当知行分を書面にして提出するよう命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 5月14日 49歳
羽柴秀吉が門跡および公家に対し、領知している所領(本地・新地ともに)を書き上げ提出するよう命じる。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正13年 1585年 5月20日 49歳
羽柴秀吉坂本(近江国)にて体調を崩す。
長宗我部元親討伐につき、羽柴秀吉一柳直末、斎村広英、加藤嘉明、津田小八郎へ6月3日の大坂城(摂津国)よりの出陣を、6月16日に延期することを伝えるとともに、それまでに明石(播磨国)に参集するよう命じる。
出典:『宇野主水記』同年月日条、(天正13年)5月20日付羽柴秀吉朱印状(「加藤子爵家文書」)

天正13年 1585年 5月22日 49歳
羽柴秀吉が体調不良となる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 5月25日 49歳
禁裏が羽柴秀吉の病気平癒の祈祷をするよう吉田兼見に命じられる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 5月26日 49歳
吉田兼見が羽柴秀吉の病気平癒の祈祷をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 5月1月27日日 49歳
羽柴秀吉の病が回復する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 6月16日 49歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 6月27日 49歳
教如大坂城(摂津国)に赴き羽柴秀吉への礼に赴く。茶湯があったものの、秀吉はおらず、千宗易のみ参会する。玉澗の市絵を見物する。
中島(摂津国)にて天満本願寺の屋敷を見物する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月1日 49歳
羽柴秀吉が参内する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月3日 49歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 49歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月6日 49歳
羽柴秀吉が自身を関白に補任してもらうべく、近衛信輔へ1000石を、他の摂関家に500石を給付する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月8日 49歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月9日 49歳
羽柴秀吉への関白宣下が決定する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 49歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。施薬院全宗のもとに赴く。その後、秀吉がその礼として参内する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月12日 49歳
羽柴秀吉のもとへ諸家が参礼する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月15日 49歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻める。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 7月16日 49歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻め、外城を落とす。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 8月5日 49歳
島津領内にて羽柴秀吉勢が四国に渡海し、長宗我部元親の退治と、その後の九州攻めが噂される。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 8月7日 49歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月8日 49歳
巳刻(9-11時)、佐々成政の対治として、羽柴秀吉が軍勢8000ばかりを率い京を発す。秀吉は坂本(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月9日 49歳
羽柴秀吉が、朝早くに坂本(近江国)を出発し、高島(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月20日 49歳
羽柴秀吉率いる軍勢が倶利伽羅峠を越える。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 8月-日 49歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 8月27日 49歳
本願寺顕如佐々成政の対治のため北陸在陣中の羽柴秀吉に陣中見舞いとして河野越中を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月30日 49歳
羽柴秀吉より寺地として得た中島(摂津国)に本願寺(天満本願寺)を移転する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月1月1日日 49歳
教如佐々成政の対治のため北陸にいる羽柴秀吉のもとへ見舞いの使者として赴き大聖寺(加賀国)にて秀吉に謁見する。越前国、加賀国の門徒衆に会うよう秀吉より指示される。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月9日 49歳
羽柴秀吉が加賀国より越前国に入る。
出典:『兼見卿記』同年月12日条

天正13年 1585年 閏8月17日 49歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月21日 49歳
羽柴秀吉堀尾吉晴に近江国内で4万石を給付する。所領は浅井郡西草野3940石、浅井郡山田荘1504石、浅井郡田根荘4500石、坂田郡国友1740石、浅井郡宮部郷・湯次郷4740石、伊香郡ほら戸176石、浅井郡尊勝寺郷1000石、浅井郡中野981石、坂田郡平方472石、坂田郡山科郷3103石、浅井郡上坂5235石、坂田郡今川200石、浅井郡野村主計1095石、坂田郡平野分1104石、坂田郡長澤983石6斗、坂田郡四木995石7斗、坂田郡馬場878石6斗、坂田郡柏原830石5斗、坂田郡醒井377石9斗、犬上郡久徳分3055石、犬上郡松原650石(堀直政分)、坂田郡北はしり159石8斗、坂田郡多和田175石4斗、坂田郡いむら・米原551石9斗、坂田郡忍海454石5斗、坂田郡のとせ・ひくち493石、坂田郡みのうら・ひくち・たるみ・うしうち・あさくら・にう・ひの木畑・夫那・名荷599石4斗。
出典:天正13年閏8/21付堀尾吉晴知行目録(『大』11-19 p327)

天正13年 1585年 閏8月24日 49歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月26日 49歳
羽柴秀吉施薬院全宗のもとで茶湯を催す。全宗の所に近衛龍山大覚寺尊信大乗院尋憲一条内基、梶井宮最胤、飛鳥井雅春、日野輝資、烏丸光宣、吉田兼見が参礼として訪れる。龍山等が秀吉に進上した菓子を前田玄以が披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月27日 49歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月1日 49歳
羽柴秀吉加藤清正に替地として摂津国豊島郡内萱野村で1839石を給付する。
出典:天正13年9月1日付豊臣秀吉朱印状(「加藤文書」)(『大史』11-20 p2)

天正13年 1585年 9月3日 49歳
羽柴秀吉が大和国へ向かう。
秀吉が分国中で国替を実施。大和国の筒井定次を伊賀国に、大和国を弟・秀長に、高山重友を明石(播磨国)に、堀秀政佐和山(近江国)から北之庄(越前国)30万石に、中川秀政を三木(播磨国)に移封する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月8日 49歳
本願寺顕如教如興正寺顕尊羽柴秀吉のもとに礼に訪れる。座敷にて湯漬け、三之膳でもてなす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月14日 49歳
羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成増田長盛大谷吉継千抛筅斎施薬院全宗今井宗久、今井宗薫等が随従する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 10月2日 49歳
羽柴秀吉島津義久に東国の平定を伝え、九州における義久の紛争停止を求め、要請に応じない場合は成敗する旨を伝える。
出典:(天正13年)10月2日付羽柴秀吉書状(『島津家文書』1-344号)

天正13年 1585年 10月4日 49歳
細川幽斎施薬院全宗の所で茶会を催す。その茶会に羽柴秀吉が参会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 10月6日 49歳
10月7日に小御所で開催予定の正親町天皇進上茶会について羽柴秀吉千宗易が小御所に赴き段取りを確認する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 10月7日 49歳
小御所にて羽柴秀吉千利休が茶道として正親町天皇進上茶会を催す。ついで端の座での茶湯にて利休が茶道をつとめる(台子の茶湯)。
出典:『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 10月23日 49歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)帰城につき、本願寺顕如教如興正寺顕尊が川向かいにて出迎える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月13日 49歳
石川数正羽柴秀吉のもとに出奔する。出奔時、数正は松平近正に天野又左衛門を遣わし、秀吉方に加わるよう勧誘するが、近正は再度訪れた場合は切ると言って勧誘を拒絶する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項

天正13年 1585年 11月21日 49歳
小早川隆景吉川元長大坂城(摂津国)にいる羽柴秀吉のもとに礼に訪れる。毛利輝元より銀1000枚、隆景より銀500枚、元長より銀300枚が進上される。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月24日 49歳
羽柴秀吉小早川隆景吉川元長をもてなすため金剛又兵衛大夫による能を催す。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月25日 49歳
小早川隆景吉川元長が帰国のため羽柴秀吉のもとに暇乞いに訪れる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月23日 49歳
羽柴秀吉の使者として織田長益滝川雄利、土方久元が遣わされ、酒井忠次のもとから岡崎城(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日白

天正13年 1585年 11月-日 49歳
岡崎城(三河国)城主の石川数正小笠原秀政が出奔し、大坂(摂津国)に至りて羽柴秀吉に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項、『同』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正13年 1585年 12月10日 49歳
養子・羽柴秀勝丹波亀山城(丹波国)にて死去する。
出典:-

天正14年 1586年 1月3日 50歳
本願寺顕如羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。下間頼廉が供をする。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月17日 50歳
羽柴秀吉が上洛する。金茶室(座敷)の建材を京都へ送り内裏にて組み立てる。
本願寺顕如が秀吉に見舞いとして大蒲100を贈る。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月27日 50歳
織田信雄が、豊臣秀吉徳川家康の和睦を仲介すべく、岡崎(三河国)に赴き、家康と対面する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正14年 1586年 1月30日 50歳
羽柴秀吉が京都より大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 2月21日 50歳
大谷吉継の悪瘡治癒のため1000人の血が必要とのことから「千人切」として大坂の町人で人夫風情の者をを討ち殺すとの風聞が出る。これを聞いた羽柴秀吉は事実無根とし町奉行衆の任を解く。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月3日 50歳
羽柴秀吉が上洛する。
秀吉の聚楽第(山城国)普請につき、本願寺顕如が音信として河野越中を遣わし、鍬100挺を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月4日 50歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月16日 50歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月晦日 50歳
本願寺顕如が4月1日の祝儀として羽柴秀吉のもとに円山内匠を遣わし袷2を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 4月23
-
徳川家康に嫁ぐことになった羽柴秀吉の妹・旭姫が大坂城(摂津国)を出立する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 5月22日 50歳
蜂須賀正勝が死去する。
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」

天正14年 1586年 5月26日 50歳
徳川家康の使者として榊原康政が上洛し、富田知信邸に入る。康政は同邸を訪れた羽柴秀吉に謁す。秀吉は康政に、小牧・長久手の合戦時に康政が廻文をもって秀吉を蔑んだことを怒り、康政の首を取れと厳命したことを話すとともに、今はその行いが主のための行為であったので遺恨には思っていないことを伝える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正14年 1586年 5月27日 50歳
徳川家康の使者として榊原康政聚楽第(山城国)に赴き、家康の上洛を羽柴秀吉に伝える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正14年 1586年 6月14日 50歳
上杉景勝羽柴秀吉に出仕する。拍子を見物。千利休が景勝を茶湯でもてなす。大坂城(摂津国)の天守閣、寝所、詰座敷を見物する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月16日 50歳
羽柴秀吉上杉景勝を茶湯に招く。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月20日 50歳
朝早く、羽柴秀吉が上洛する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月20日 50歳
羽柴秀吉が参内する。その後、上杉景勝を連れ仙洞御所を案内する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月25日 50歳
黒田孝高島津義久討伐の先勢として、軍勢3000を率い京都(山城国)を出立する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 7月27日 50歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 7月29日 50歳
在京中の羽柴秀吉に八朔の礼として帷子3、紅帯を贈る。使者は湊口半左衛門。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 9月9日 50歳
滝川一益が死去する。
出典:-

天正14年 1586年 10月2日 50歳
羽柴秀吉島津義久に諸大名との停戦を命じ、従わない場合は成敗すると伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 10月10日 50歳
徳川家康羽柴秀吉に臣従するため上洛するにあたり、秀吉が母・なかを家康のもとに人質として送る。ただしなかの下向理由は家康に嫁いだ旭姫に会うためとする。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月26日 50歳
徳川家康が大坂城(摂津国)に到着する。
羽柴秀吉の南北の堀を埋めるよう命じる。この日、堀を埋める工事が始まる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月27日 50歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月28日 50歳
羽柴秀長邸にて、徳川家康をもてなす金春大夫の能が催される。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月28日 50歳
仙石秀久長宗我部元親、十河存保が上原(豊後国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 10月29日 50歳
羽柴秀吉が上洛する。
出典:『宇野主水記』同年11月1日条

天正14年 1586年 11月2日 50歳
豊臣秀吉加藤嘉明に淡路国津名郡・三原郡内にて15000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正14年 1586年 11月7日 50歳
吉川元春元長父子、黒田孝高が宇留津城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:(天正14年)11月20日付豊臣秀吉書状(『吉川家文書』1-98号)、『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月1日 50歳
豊臣秀吉が麾下の諸大名に、島津義久成敗のため3月1日に出陣すること、さしあたり東国・畿内の諸大名は2月20日までに大坂城(摂津国)へ参集することを触れ回る。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月7日 50歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月8日 50歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月9日 50歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月10日 50歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻め、城が落ちる。宗魚は戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 50歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 50歳
羽柴秀吉蜂須賀家政脇坂安治加藤嘉明に豊前国へ出陣するよう命じる。
出典:『脇坂家伝記

天正14年 1586年 12月22日 50歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に、秋月種実が降伏を申し出たこと、来年1月末には先勢を九州に遣わし、2月初めには弟・秀長を、2月20日には秀吉が九州に向けて出陣することを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月27日 50歳
豊臣秀吉教如のもとに赴き茶湯に訪れる。また、秀吉が本願寺顕如を見舞う。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 12月28日 50歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に豊後国の戦況について承知したことを伝えるとともに、阿波国勢(蜂須賀家政)、淡路国勢(加藤嘉明脇坂安治)を豊後国に遣わすこと、仙石秀久の所領・讃岐国を召し上げたことを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月29日 50歳
豊臣秀吉黒田孝高に、来年1月25日に宇喜多秀家を遣わすことを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月-日 50歳
近衛龍山の娘・前子が豊臣秀吉の猶子となり後陽成天皇に入内する。
出典:-

天正15年 1587年 1月1日 51歳
豊臣秀吉堀秀政に九州攻めの陣立書を発給する。陣立書に秀吉は3月1日に出陣の旨が記される。
出典:天正15年1月1日付豊臣秀吉朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

天正15年 1587年 1月25日 51歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 51歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 51歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月6日 51歳
森忠政が従四位下・侍従に叙位・任官。豊臣秀吉が忠政に羽柴姓を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項

天正15年 1587年 2月10日 51歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 51歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 51歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 51歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 51歳
大坂城山里丸にて山岡対馬守、神屋宗湛が豊臣秀吉の茶の湯に参会する。
出典:『見聞記』同年月日条・『神屋宗湛日記 一 飾付』同年月日条(『茶道文化研究』第7輯所収)

天正15年 1587年 3月1日 51歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月5日 51歳
豊臣秀吉が片上(備前国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月16日 51歳
豊臣秀吉が関田(安芸国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月25日 51歳
豊臣秀吉が下関(長門国)に到着する。時枝(長門国)にて城を築くように命じる。
出典:『清正記』巻1

天正15年 1587年 3月28日 51歳
豊臣秀吉が時枝城(長門国)に移る。
出典:『清正記』巻1

天正15年 1587年 3月29日 51歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 51歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 51歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 51歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 51歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 51歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 51歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 51歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 51歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 51歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 51歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月28日 51歳
加藤嘉明脇坂安治九鬼嘉隆が平佐城(薩摩国)を攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正15年 1587年 5月5日 51歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 51歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 51歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 51歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 5月21日 51歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)を発ち、山崎城に入る。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 5月22日 51歳
豊臣秀吉が祁答院の陣を見て回った後、山崎城に戻る。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月23日 51歳
豊臣秀吉が鶴田城(薩摩国)、大口城(薩摩国)に赴く。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月25日 51歳
豊臣秀吉島津義弘に新恩地として大隅国を給付する。ただし、大隅国の内、肝属郡は伊集院忠棟に給付する。
出典:天正15年5月25日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-378号)

天正15年 1587年 6月5日 51歳
豊臣秀吉立花宗茂に柳川(筑後国)132200石を給付する。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 6月6日 51歳
豊臣秀吉が大宰府(筑前国)に到着する。大宰府天満宮、大宰府旧跡、観世音寺、思川、染川、崇福寺を見物する。島津義久が茶屋を設え秀吉に茶を献じる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月7日 51歳
豊臣秀吉が大宰府(筑前国)を発ち、博多(筑前国)を経由し、筥崎(筑前国)に到着する。秀吉は筥崎宮を宿所とする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月-日 51歳
豊臣秀吉黒田孝高石田三成に博多(筑前国)の町割・民屋復興を命じる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月11日 51歳
博多(筑前国)の町の指図ができる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月12日 51歳
博多(筑前国)の町割が行われる。町割の奉行は滝川雄利長束正家・山崎片家・小西行長
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 6月18日 51歳
豊臣秀吉が、筥崎(筑前国)の海辺にて歌会を催す。山名禅高細川幽斎等が参加する。
日向国・大隅国の仕置きを終えた小早川隆景が箱崎に到着する。
秀吉が九州の国替えを行う。
隆景に筑前国、肥前国基肄郡・養父郡、筑後国三井郡・三原郡を給付する。隆景は立花山城(筑前国)に入城する。
隆景の伊予国23000石の所領を、安国寺恵瓊に給付する。
秀吉が秋月種長を財部(日向国)に移し30000石を給付する。
立花宗茂を立花山城から筑後国下三郡に移す。
高橋統増に筑後国三池郡を給付する。
小早川秀包に筑後国上三郡を給付する。
筑紫広門に筑後国上妻郡を給付する。
高橋元種を香春(豊前国)より県(日向国)に移す。
龍造寺政家の肥前国の本領を安堵するとともに三郡を加増する。
大友義統に豊後国を安堵する。
相良長毎、伊東祐兵、有馬、平戸、大村、五島、宗義智の本領を安堵する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 7月1日 51歳
豊臣秀吉が筥崎(筑前国)を発ち、宗像(筑前国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 7月2日 51歳
豊臣秀吉が宗像(筑前国)を発ち、小倉城(豊前国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 7月3日 51歳
豊臣秀吉小倉城(豊前国)を発ち、下関(長門国)に到着する。
秀吉が黒田孝高に豊前国京都郡・築城郡・中津郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡を、毛利高政に豊前国規矩郡・田河郡を給付する。
孝高は馬ヶ嶽城(豊前国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 9月7日 51歳
豊臣秀吉が毛利吉成・黒田孝高に肥後国一揆につき、領内を固め、小早川隆景とともに一揆を成敗するよう命じる。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 9月13日 51歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)に移徙する。
秀吉が、肥後国一揆について、小早川秀包、龍造寺政家、筑後国勢が出陣したこと、小早川隆景が久留米城(筑後国)に在陣していることを理解したうえで、毛利吉成・黒田孝高小早川隆景とともに一揆を成敗するよう改めて命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 9月24日 51歳
豊臣秀吉が、黒田孝高の妻子堪忍分として河内国丹北郡矢田部村500石を給付する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 9月28日 51歳
豊臣秀吉が蔵入地である高島五カ荘・善積荘・新保中荘の13195石8斗5升の運上を芦浦観音寺に命じる。
出典:天正15年9月28日付豊臣秀吉朱印御蔵入目録(「芦浦観音寺文書」)

天正16年 1588年 1月20日 52歳
肥後国一揆につき、豊臣秀吉浅野長政加藤清正小西行長率いる軍勢20000を派遣する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 4月1日 52歳
豊臣秀吉の召しにより尾藤知宣が大坂(摂津国)に到着する。
出典:『清正記』巻1

天正16年 1588年 4月3日 52歳
豊臣秀吉の召しにより佐々成政が大坂(摂津国)に到着する。
出典:『清正記』巻1

天正16年 1588年 4月10日 52歳
豊臣秀吉佐々成政に切腹を命じる。上使として加藤清正を成政の居る尼崎(摂津国)に遣す。
出典:『清正記』巻1

天正16年 1588年 4月14日 52歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 52歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「万代の 君が行幸に なれなれむ みとり木高き 軒の玉松」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月18日 52歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)より還幸する。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 5月12日 52歳
大仏殿建立につき石壇が積み上げられ、盛土が行われる。また洛中上京下京の衆に餅・酒が下行する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 5月15日 52歳
豊臣秀吉の命により三十三間堂の北に大仏殿の地築がなる。また京の町衆による風流踊や金春・観世座の能も行われる。
出典:『言経卿記』『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 5月16日 52歳
豊臣秀吉大仏殿の屋敷に赴く。上京下京の町人に踊りを命じる。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正16年 1588年 5月20日 52歳
方廣寺大仏殿の石据えが行われ、五重大柱の礎石となる大石が置かれる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 閏5月14日 52歳
豊臣秀吉の命により尼崎(摂津国)にて佐々成政が切腹する。
出典:『清正記』巻1

天正16年 1588年 閏5月15日 52歳
豊臣秀吉加藤清正熊本城(肥後国)の城主とすることを朱印状をもって伝える。
出典:『清正記』巻1

天正16年 1588年 6月4日 52歳
京都にて島津義弘豊臣秀吉に謁す。
出典:(天正16年)6月6日付島津義弘書状(『島津家文書』3-1493号)、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

天正16年 1588年 6月6日 52歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)の山里にて茶の湯を催す。津田宗及の案内にて、島津義弘伊集院幸侃細川幽斎が参会し、千宗易が茶を点てる。
出典:(天正16年)6月6日付島津義弘書状(『島津家文書』3-1493号)

天正16年 1588年 6月10日 52歳
豊臣秀長大仏殿建立につき仏師を召し連れ上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月17日 52歳
多聞院英俊が、豊臣秀吉の刀狩りについて、大仏の釘として用い、百姓の後生安穏を保証するという方便で実施しているが、実は一揆停止のためであると述べる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月20日 52歳
豊臣秀吉が大坂(摂津国)に滞在中の毛利輝元小早川隆景吉川広家に慰労の使者として前野長康を遣わす。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月22日 52歳
奈良(大和国)で刀狩りが行われ騒ぎが起こる。刀狩りに対して「人の迷惑ばかりなり」という意見が起こる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月22日 52歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家黒田孝高の案内にて上洛する。淀(山城国)にて豊臣秀吉が迎えの使者として前野長康・浅野長政を、豊臣秀長藤堂高虎を、豊臣秀次が白井権大夫を遣わす。輝元、隆景、広家は京都に入り、輝元は妙顕寺に、隆景は本法寺に、広家は妙蓮寺に宿泊する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月24日 52歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月25日 52歳
豊臣秀吉の執奏により毛利輝元が従四位上・侍従に、小早川隆景吉川広家が従五位下・侍従に叙位・任官。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月28日 52歳
豊臣秀吉同道のもと毛利輝元小早川隆景吉川広家が参内する。輝元は参議に任じられ、隆景・広家は従四位下に叙される。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月29日 52歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家豊臣秀長邸に赴く。豊臣秀吉も秀長邸に赴き、聖護院道澄今出川晴季織田信雄勧修寺晴豊、中山親綱、日野輝資、徳川家康豊臣秀次宇喜多秀家上杉景勝蜂屋頼隆細川忠興島津義久、龍造寺政家、立花宗茂が相伴する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 8月15日 52歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)にて和歌会を催す。聖護院道澄今出川晴季飛鳥井雅春、中山親綱、徳川家康宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元、飛鳥井雅継、細川忠興長谷川秀一小早川隆景吉川広家安国寺恵瓊細川玄旨前田玄以、里村紹巴、里村昌叱、大村由己が参加する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正17年 1589年 3月2日 53歳
豊臣秀吉の屋敷の南の鉄門に秀吉のことをなじった落書が発見されたことについて、落書の書き手を磔にする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 5月27日 53歳
豊臣秀吉淀城(山城国)に赴く。淀殿が棄(鶴松)を出産する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)、『鹿苑日録』同年月28日条

天正17年 1589年 7月21日 53歳
真田昌幸が領有する沼田城(上野国)を北条氏直に引き渡すべく、榊原康政富田信広、津田信勝が沼田城に赴く。沼田城が氏直に引き渡された後、氏直は上洛し豊臣秀吉に礼をすることになっているという。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正17年 1589年 8月13日 53歳
小笠原秀政豊臣秀吉の命により、登久(松平信康の娘)を娶る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正17年 1589年 8月22日 53歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)に赴くべく京都を発つ。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正17年 1589年 9月5日 53歳
寧々が大坂より聚楽第(山城国)に移る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正17年 1589年 10月10日 53歳
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

天正17年 1589年 11月22日 53歳
豊臣秀吉が洛中の検地を開始する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月-日 53歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 1月21日 54歳
豊臣秀吉浅野長政のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に今出川晴季勧修寺晴豊、中山、日野、高倉、前田利家施薬院全宗が相伴する。
出典:『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号)

天正18年 1590年 2月10日 54歳
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:渥美友勝、保科正直、保科正光、青木信時柳沢信俊、山高信直、折井次昌加藤正次秋鹿直朝鈴木信光小尾祐光津金胤久跡部久次酒依昌吉
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第174「酒依昌吉」の項、同965「秋鹿直朝」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正18年 1590年 2月13日 54歳
子・鶴松が初めて上洛する。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 2月16日 54歳
北条氏政攻めのため、前田利家利長父子が金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「上州松枝之城主成降人事」

天正18年 1590年 3月1日 54歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 3月4日 54歳
豊臣秀吉柏原(近江国)に到着する。
出典:『脇坂家伝記

天正18年 1590年 3月27日 54歳
豊臣秀吉が三枚橋(駿河国)に到着する。
出典:(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)

天正18年 1590年 3月28日 54歳
豊臣秀吉が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正18年 1590年 3月29日 54歳
豊臣秀吉が箱根山に着陣する。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 54歳
豊臣秀次が松田康長が籠る山中城(伊豆国)攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀次[大将]、中村一氏[先陣]、一柳直末[先陣](戦死)、渡辺了[中村一氏勢]、薮内匠[中村一氏勢]。
北条勢:松田康長[大将](戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 54歳
豊臣勢が韮山城(伊豆国)を包囲する。
豊臣勢[44100]:織田信雄[軍勢17000]、織田信包[軍勢3200]、蒲生氏郷[軍勢4000]、稲葉貞通[軍勢1200]、細川忠興[軍勢2700]、森忠政[軍勢2100]、中川秀政[軍勢2000]、山崎・岡本良勝[軍勢2200]、筒井定次[軍勢1500]、生駒親正[軍勢2200]、蜂須賀家政[軍勢2500]、福島正則[軍勢1800]、戸田勝隆[軍勢1700]。
北条勢:富田直久(戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月-日 54歳
南部信直利直父子が豊臣秀吉小田原城攻め(相模国)に参陣する。利直は前田利家を加冠親として元服し、利家の諱を賜り「利直」と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

天正18年 1590年 4月1日 54歳
豊臣秀吉が箱根山(相模国)に陣取る。小田原城(相模国)を包囲する。豊臣勢:池田輝政
出典:(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)

天正18年 1590年 5月20日 54歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 54歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 54歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月27日 54歳
佐竹義宣、宇都宮国綱が小田原城(相模国)包囲中の豊臣秀吉のもとに参陣する。義宣、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義種が秀吉に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正18年 1590年 6月9日 54歳
巳刻(9-11時)、伊達政宗豊臣秀吉のもとに出仕する。
出典:同年月日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-513号)

天正18年 1590年 6月10日 54歳
朝、豊臣秀吉伊達政宗を茶の湯に招く。
出典:同年月日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-513号)

天正18年 1590年 6月17日 54歳
松田憲秀の豊臣秀吉への内通が発覚する。
前田利家上杉景勝の軍勢が小田原城(相模国)攻めの豊臣勢陣中に到着する。豊臣秀吉は鉢形城(武蔵国)の降伏を受け入れ、城を攻撃しなかったことに立腹する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 6月24日 54歳
豊臣秀吉が、小田原城(相模国)に籠城している北条氏政氏直父子に降伏を促すため、同城に黒田如水滝川雄利を遣わす。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月3日 54歳
豊臣秀吉が小田原(相模国)から会津(陸奥国)まで横3間の道を作ることを命じる。道作の奉行は、御使番の垣見弥五郎、水原亀介、西川八右衛門、杉山源兵衛、友松継右衛門。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『伊達家文書』2-519号)

天正18年 1590年 7月6日 54歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 54歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 54歳
豊臣秀吉小田原城(相模国)より会津(陸奥国)に出立するにあたり道普請を命じる。奉行は西川八右衛門・杉山源兵衛・水原亀介・垣見一直・友松次右衛門。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 7月13日 54歳
豊臣秀吉小田原城(相模国)に入城する。
秀吉が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国への移封を拒否した織田信雄の所領を改易する。
秀吉が加藤光泰に甲斐国240000石を給付する。
出典:『小田原日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

天正18年 1590年 7月18日 54歳
豊臣秀吉が南部信直の本領を安堵する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部信直」の項

天正18年 1590年 7月26日 54歳
豊臣秀吉が宇都宮(下野国)に到着する。
出典:(天正18年)7月26日付木下吉隆書状(『伊達家文書』2-524号)

天正18年 1590年 8月1日 54歳
豊臣秀吉が常陸国の旗頭に佐竹義重を指名する。しかし、義重は隠居の身であるため固辞し、子・義宣にその任を与えるよう請い、秀吉は義宣を常陸国旗頭とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正18年 1590年 8月6日 54歳
豊臣秀吉が白河(睦国)に到着する。
出典:(天正18年)8月6日付浅野長政書状(『伊達家文書』2-527号)

天正18年 1590年 8月9日 54歳
豊臣秀吉が会津(陸奥国)に入る。会津の検地を豊臣秀次に、白河(陸奥国)及びその近辺の検地を宇喜多秀家に命じる。
出典:(天正18年)8月12日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』59号)

天正18年 1590年 8月11日 54歳
豊臣秀吉が会津(陸奥国)を蒲生氏郷に給付することを浅野長政に伝える。
出典:(天正18年)8月11日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』60号)

天正18年 1590年 8月15日 54歳
豊臣秀吉蒲生氏郷に陸奥国会津郡大沼・河沼・稲川・山部・猪苗代・南ノ山・白河・石川・岩瀬・安積・二本松の70万石を宛行う。この日、氏郷が会津に入る。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 9月1日 54歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)に帰城し、北条氏政氏直攻めの軍勢を開陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 9月18日 54歳
巳刻(9-11時)、豊臣秀吉毛利輝元邸を訪れる。供は聖護院道澄今出川晴季石田正澄
出典:『天正十八年毛利亭御成記』(『続群書類従』第23輯下)

天正18年 1590年 9月-日 54歳
豊臣秀吉池田輝政を岐阜城(美濃国)から吉田城(三河国)に移し、152000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

天正18年 1590年 12月28日 54歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正19年 1591年 1月20日 55歳
豊臣秀吉本願寺顕如に天満本願寺からの移転を命じる。場所は北は下鳥羽から南は下淀までの間で所望の地を与える旨を言い渡される。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 1月22日 55歳
弟・秀長が死去する。
出典:『言経卿記』同年同月日条

天正19年 1591年 閏1月8日 55歳
これより先、豊臣秀吉本願寺顕如に1万石を給付する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 2月28日 55歳
千利休が切腹する。
出典:-

天正19年 1591年 3月2日 55歳
豊臣秀吉徳川家康のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年同月日条

天正19年 1591年 3月13日 55歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 3月-日 55歳
豊臣秀吉本願寺顕如に本願寺を京都西六条へ移転するよう命じる。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

天正19年 1591年 5月20日 55歳
大仏殿の柱立が行われる。柱立ては5・6本なされたという。豊臣秀吉がその場に臨み、諸大工に餅を配る。
出典:『時慶卿記』同年月日条、『言経卿記』同年同月22日条

天正19年 1591年 6月14日 55歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月20日 55歳
豊臣秀吉が奥羽の一揆成敗のため豊臣秀次に出陣を命じる。
出典:-

天正19年 1591年 7月11日 55歳
大仏殿柱立が行われる。
出典:『時慶卿記』同年月日条

天正19年 1591年 7月19日 55歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月5日 55歳
子・鶴松が死去する。秀吉は悲歎のあまり髻を切り、諸大名のそれに倣う。鶴松の葬礼が妙心寺にて執り行われ、秀吉は東福寺に籠る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正19年 1591年 8月6日 55歳
豊臣秀吉東福寺に赴く。
入唐のことについて西笑承兌、惟杏、有節瑞保に供をするように伝える。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正19年 1591年 8月18日 55歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 55歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 55歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月18日 55歳
午刻(11-13時)、有節瑞保が大坂(摂津国)の足利昌山の屋敷に訪れる。冷麺、松茸吸物でもてなす。豊臣秀吉の入唐のことについて話す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正20年 1592年 1月3日 56歳
豊臣秀吉が近江国諸浦の水夫を全て調べ上げ、上・中・下のランク付を行い、浦ごとに5分の1ずつ徴発し、出征させるよう、芦浦観音寺・早川長政・石川光元に命じる。
出典:(天正20年)1月3日付豊臣秀吉朱印状(「居初寅夫家文書」)

天正20年 1592年 1月5日 56歳
豊臣秀吉加藤清正小西行長を召し出し、朝鮮出兵につき、清正に鍋島直茂・相良頼房を付し、行長に宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄を付すことを伝える。また、清正に朝鮮国内での制札、軍書、南妙法蓮華経の旗を、行長に朝鮮国内での制札、軍書、馬(銘 大黒)を与える。
出典:『清正記』巻2

天正20年 1592年 3月26日 56歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めのため名護屋(肥前国)に向けて京都を出立する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 3月27日 56歳
豊臣秀吉が兵庫(摂津国)に到着。増田長盛の宿所に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 3月28日 56歳
豊臣秀吉が未明に兵庫(摂津国)を出立。明石(播磨国)で休息。加古川(播磨国)では糟屋武則が秀吉のため茶屋をしつらえ酒一献を進上する。姫路城(播磨国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 3月29日 56歳
豊臣秀吉が朝早くに姫路城(播磨国)を出立。飾磨津にて船に乗り、岡山城(備前国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月8日 56歳
豊臣秀吉が三原(備後国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月11日 56歳
豊臣秀吉が広島(安芸国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月15日 56歳
豊臣秀吉が広島(安芸国)を出立する。草津(安芸国)にて船に乗り厳島神社に参詣する。高森(周防国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月16日 56歳
豊臣秀吉がはなをり(周防国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月17日 56歳
豊臣秀吉が天神の講(周防国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月18日 56歳
豊臣秀吉が埴生(長門国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月19日 56歳
豊臣秀吉が埴生(長門国)を発ち、関門海峡を通過し、小倉城(豊前国)に宿泊する。
秀吉が島津義弘に朝鮮への渡海時は、紀伊国警固船・藤堂高虎九鬼嘉隆脇坂安治加藤嘉明・備前国警固船にも出陣を命じたので、彼等と相談し渡海するよう命じる。
出典:(天正20年)4月19日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-386号)、『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月20日 56歳
豊臣秀吉が宗像(筑前国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月21日 56歳
豊臣秀吉が名島(筑前国)に宿泊する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月24日 56歳
豊臣秀吉が名島(筑前国)を発ち、昼前に深江に宿泊する。深江にて4月12日に小西行長宗義智が朝鮮の釜山に着岸し朝鮮軍を攻め、同地を落としたとの報を受ける。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 4月25日 56歳
豊臣秀吉が名護屋城(筑前国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 5月5日 56歳
佐竹義宣豊臣秀吉に謁し、帷子・羽織を賜る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正20年 1592年 7月14日 56歳
豊臣秀吉の母・なか(大政所)重病のため、清水寺愛宕山鞍馬寺、石清水八幡宮、北野社、伊勢内宮、伊勢下宮、多賀社春日社、稲荷社、住吉社、祇園社、下鴨神社、上賀茂神社、金剛峯寺に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

天正20年 1592年 7月22日 56歳
豊臣秀吉が母・大政所の病を聞き、名護屋城(筑前国)を発つ。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 8月2日 56歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 8月11日 56歳
豊臣秀吉が伏見(山城国)の地に赴く。同地に城普請を命じる。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 9月9日 56歳
甥・秀勝が朝鮮にて死去する。
出典:-

天正20年 1592年 9月23日 56歳
豊臣秀吉本願寺顕如のもとに茶湯に赴く。その後、大仏殿に赴き、さらに大坂城(摂津国)へ向かう。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 10月1日 56歳
豊臣秀吉が名護屋城(肥前国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 11月24日 56歳
大仏殿の柱立てが終わる。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 56歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

天正20年 1592年 7月14日 56歳
豊臣秀吉が「からいさん」に城を築き、脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明に在番を命じるとともに、藤堂高虎織田秀信、「紀州之者」を派遣することを安治に伝える。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 1月5日 57歳
豊臣秀吉蠣崎慶広が蝦夷国を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

文禄2年 1593年 2月26日 57歳
豊臣秀吉浅野長政に、釜山浦にて兵粮米を請け取り蔵へ入れ、必要に応じて諸将に扶持すること、兵粮・軍勢を運んだ船を派遣したので、すぐに請け取り間違いなく船を戻すようにと命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』79号)

文禄2年 1593年 5月23日 57歳
豊臣秀吉佐竹義宣に朝鮮への渡海を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄2年 1593年 6月20日 57歳
豊臣秀吉が豊後国を蔵入地とする。
出典:(文禄2年)6月20日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-351号)

文禄2年 1593年 8月3日 57歳
子・秀頼が生まれる。
*『太閤さま軍記のうち』では4日。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 8月14日 57歳
豊臣秀吉が、お拾を見るため名護屋城(肥前国)を発つ。寺沢広政を名護屋城(肥前国)の留守居として置く。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 8月25日 57歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 9月11日 57歳
佐竹義宣大坂城(摂津国)に到着し、豊臣秀吉に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄2年 1593年 閏9月5日 57歳
豊臣秀吉が有馬(摂津国)より大坂城(摂津国)に戻る予定であったが、眼病のため8日に延期となる。
出典:『駒井日記』同年閏9/6条

文禄2年 1593年 閏9月7日 57歳
豊臣秀吉が有馬(摂津国)より大坂城(摂津国)に戻る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月14日 57歳
豊後国より豊臣秀次のもとに検地帳がもたらされ、同国の収穫高は42万石とされる。
[代官領知行割]
大野郡 54,201石8斗…太田一吉
直入郡 32,980石9斗3升…熊谷直盛
大分郡 57,929石…早川直政
海士辺郡 44,800石…垣見一直・宮部継潤
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月15日 57歳
本願寺教如大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条

文禄2年 1593年 閏9月16日 57歳
豊臣秀吉が本願寺の住持職について、譲状に基づき、本願寺教如を退け、弟・准如に相続させるよう命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条・同年月17日条

文禄2年 1593年 閏9月20日 57歳
申刻(15-17時)、豊臣秀吉大坂城(摂津国)より伏見(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月22日 57歳
豊臣秀吉が葛西・大崎一揆を扇動していたとする伊達政宗を赦免するが、身上については保留とする。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月22日 57歳
伏見城(山城国)にて口切の茶事が行われる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月23日 57歳
伏見城(山城国)にて口切の茶事が行われる。口切の茶壷は四十石が用いられる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月24日 57歳
朝、豊臣秀吉が伏見(山城国)の池田伊予守邸へ茶の湯に赴く。
晩、木下吉隆邸に赴く。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月25日 57歳
朝、豊臣秀吉織田有楽斎邸へ赴く。
晩、秀吉は堀尾吉晴邸に赴く。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月1日 57歳
豊臣秀吉が、秀吉の子・お拾に甥・豊臣秀次の娘を嫁がせるよう命じる。この婚約につき、前田利家と松の夫妻に仲人を命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月5日 57歳
豊臣秀吉前田利家施薬院全宗所に赴く。茶の湯の後、全宗が名護屋(肥前国)にて購入した壺を25枚(金?)にて召し上げる。
参内する。禁裏にて能を催す。
全宗所に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 11月10日 57歳
豊臣秀吉脇坂安治に、来春、秀吉が朝鮮に渡海する余邸であること、朝鮮水軍の乗っ取りは今後芙蓉てあること、玉薬を遣わすこと、兵粮の蓄え・城の普請に精を入れること、船着きから漢城まで街道にある城々を整え往還が自由にできるようにすること等を命じる。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 11月12日 57歳
豊臣秀吉下間頼廉を赦免する。
出典:『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条

文禄2年 1593年 11月20日 57歳
豊臣秀吉浅野長政幸長父子に甲斐国一国を給付すること、伊達政宗、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長を与力として付すことを伝える。
出典:同年月日付豊臣秀吉判物(『浅野家文書』321号)

文禄2年 1593年 12月7日 57歳
豊臣秀吉桑名(伊勢国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月8日条

文禄2年 1593年 12月8日 57歳
豊臣秀吉が土山(近江国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月10日 57歳
豊臣秀吉が大津(近江国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月11日 57歳
豊臣秀吉が伏見(山城国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月14日 57歳
豊臣秀吉が伏見(山城国)から船にて大坂城(摂津国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月29日 57歳
大仏殿の瓦下地が完成し、瓦葺きを開始する。西洞院時慶が東寺再興と大仏殿造営の順調な進捗をみて「雖末世奇特ノ事共也、大閤御威光又木食興山上人生相不思儀ノ事也、」と豊臣秀吉応其を評する。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄3年 1594年 1月29日 58歳
豊臣秀次大坂城(摂津国)を訪問し、叔父・秀吉のもてなしを受ける。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月14日 58歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)より伏見城(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月16日 58歳
豊臣秀次伏見城(山城国)に居る叔父・秀吉を訪れ夕飯をともにする。秀次は聚楽第(山城国)に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月17日 58歳
豊臣秀吉山内一豊を折檻し朝鮮攻めに参陣するよう命じる。
秀吉は伏見城(山城国)より大津(近江国)に赴く。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月19日 58歳
豊臣秀吉大津(近江国)より伏見城(山城国)に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月21日 58歳
朝、伏見城(山城国)山里丸にて豊臣秀吉が甥・秀次と茶湯をする。
午刻(11-13時)、秀次は聚楽第(山城国)に帰る。
秀吉は大坂城(摂津国)に向け出発する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月26日 58歳
豊臣秀吉が当麻(大和国)に滞在する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月27日 58歳
豊臣秀吉豊臣秀次が吉野山を登山する。茶屋にて秀吉は「吉野山 梢に残る花のいろ 村消みゆる 雲の明ほの」と、関屋にて秀吉は「芳野山 たかせきとむる わか心 花に心や つきせさるらん」と詠み、秀次は「木々は花 苔地を雪とみよしのの 山分あかぬ 春の袖哉」と詠む。
秀次は桜本坊に宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月29日 58歳
豊臣秀吉が吉野の仮屋形にて歌会を催す。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月30日 58歳
吉野にて花見をする。豊臣秀次が参加する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月-日 58歳
豊臣秀吉の命により中川秀成が三木(播磨国)より豊後国大野郡・直入郡・大分郡内で74000余石をに移封となり、岡城(豊後国)城主となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第260「中川秀成」の項

文禄3年 1594年 3月1日 58歳
豊臣秀吉が吉野にて能を催す。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月2日 58歳
豊臣秀吉高野山に参詣するため吉野を発つ。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月3日 58歳
朝、高野山に到着する。検校に50石、大舎利に100石、平僧100名に100石、新発意100名に200石、行人2000人に2000石、応其に1000石、木食内竪に100石を下行する。
出典:『駒井日記』同年月4日条

文禄3年 1594年 3月4日 58歳
高野山内にある母・なかの位牌所にて法事を執り行う。聖護院道澄が参列する。
出典:『駒井日記』同年月6日条

文禄3年 1594年 3月5日 58歳
豊臣秀吉高野山にて能を催す。
出典:『駒井日記』同年月6日条

文禄3年 1594年 3月6日 58歳
未刻(13-15時)、豊臣秀吉大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:『駒井日記』同年月7日条

文禄3年 1594年 3月11日 58歳
豊臣秀吉船越景直邸を訪問する。景直に金子2枚、小袖2重を下付する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月17日 58歳
未刻(13-15時)、豊臣秀吉伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月20日 58歳
島津忠恒豊臣秀吉に謁見する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

文禄3年 1594年 3月25日 58歳
巳刻(9-11時)、豊臣秀吉大津(近江国)へ下向する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月27日 58歳
豊臣秀吉大津(近江国)より伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月28日 58歳
豊臣秀吉が宇治(山城国)に向かう。未刻(13-15時)、伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月2日 58歳
豊臣秀吉施薬院全宗所を訪問する。その後、秀吉は甥・秀次に対面する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月5日 58歳
豊臣秀吉施薬院全宗所から前田玄以所を訪れる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月6日 58歳
豊臣秀吉北野社に参詣する。
その後、秀吉は前田利家邸を訪れ宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月8日 58歳
豊臣秀吉施薬院全宗所から正式に前田利家邸を訪問する。能あり。全宗所に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月10日 58歳
施薬院全宗所から豊臣秀吉前田玄以を召し連れ前田利家邸を訪問する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月11日 58歳
豊臣秀吉前田利家邸から伏見城(山城国)に帰城する。
近衛信輔を薩摩国に配流するようにと甥・秀次に命じる。具体的には秀次から細川幽斎、里村紹巴に命じ、両人から近衛龍山聖護院道澄を通じ信輔に伝えるよう指示する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月12日 58歳
豊臣秀吉伏見城(山城国)に新しく建てた蔵に物を入れる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月14日 58歳
豊臣秀吉が伏見の蒲生氏郷邸を訪問する。
その後、秀吉は伏見城(山城国)を発ち大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 8月21日 58歳
豊臣秀吉が伏見(山城国)に大光明寺を建立し、西笑承兌を住持とする。当寺は秀吉の命にて諸大名の勧進によって賄われる。勧進奉行は山中山城守、有馬刑部法印、織田有楽斎
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

文禄3年 1594年 9月26日 58歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)の前田利家邸を訪れ饗応を受ける。
出典:『文禄三年前田亭御成記』(『続群書類従』第23輯下)

文禄4年 1595年 2月7日 59歳
蒲生氏郷が死去する。
出典:『蒲生氏郷記』、『佐久間軍記』

文禄4年 1595年 3月28日 59歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)の徳川家康邸を訪れる。家康は秀吉に銀3000枚、小袖100、綿1000把、八丈島500端、褶300端、太刀(光長)、腰物(光忠)、脇差(行光)、馬1疋(黒毛鞍置)を進上する。徳川秀忠は秀吉に銀500枚、小袖50、越後布100端、太刀1腰、馬1疋を進上する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄4年 1595年 4月8日 59歳
豊臣秀頼がはしかに罹る。心配した父・秀吉は大坂城(摂津国)を発し伏見城(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月9日 59歳
豊臣秀吉が子・秀頼の見舞いとして生駒内膳を遣わす。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月10日 59歳
豊臣秀次聚楽第(山城国)より豊臣秀吉のいる伏見城(山城国)を訪れる。秀吉は能を催す。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月16日 59歳
甥・秀保が十津川(大和国)にて死去する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『駒井日記』同年月18日条

文禄4年 1595年 6月19日 59歳
豊臣秀吉佐竹義宣の所領の545760石の内、父・義重に50000石、佐竹義久に60000石、与力家来衆に168800石、公料10000石、義久代官得分1000石、石田三成増田長盛に各3000石を知行割するよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄4年 1595年 7月3日 59歳
豊臣秀次に謀叛の疑いがあるとして、豊臣秀吉前田玄以富田一白増田長盛石田三成を秀次のもとに遣わす。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月8日 59歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 59歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 59歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 59歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄4年 1595年 9月21日 59歳
豊臣秀吉聖護院道澄大仏殿の住持に補任する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条

文禄4年 1595年 9月25日 59歳
大仏殿経堂において大政所の父母である栄雲院道円・栄光院妙円の弔いとして八宗(真言宗・天台宗・律宗・禅宗・日蓮宗・浄土宗・時宗・浄土真宗)の僧100名ずつを召し寄せ、寅下刻(4時)より申刻(15-17時)まで法会を開催する。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄4年 1595年 11月4日 59歳
豊臣秀吉が上洛する。
出典:『親綱卿記』

文禄4年 1595年 11月17日 59歳
豊臣秀吉の病につき青蓮院尊朝を導師として不動法が修される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄4年 1595年 11月27日 59歳
豊臣秀吉の病につき神楽が行われる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄4年 1595年 11月晦日日 59歳
豊臣秀吉の病につき下京より祇園において十二釜湯立ておよび能が行われる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄4年 1595年 12月1日 59歳
豊臣秀吉の病につき上京にて御祈祷として七釜湯立て行われる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄4年 1595年 12月22日 59歳
豊臣秀吉の病につき毛利輝元が内侍所にて神楽を行う。秀吉は見物せず。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月1日 60歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)にて年越しをする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月12日 60歳
豊臣秀吉の病が再発したとの噂が流れる。
秀吉の病につき2月1日に予定されていた諸大名の秀吉への惣礼は3月1日に延期に延期になるのではと噂される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月29日 60歳
豊臣秀吉が母・なかのため大仏殿妙法院にて八宗の僧侶による千僧会を執行する。三宝院義演等が出仕する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月3日 60歳
豊臣秀吉延暦寺に寺領2000石を寄進する。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』)

文禄5年 1596年 2月10日 60歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)において諸家の礼を受ける。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月14日 60歳
豊臣秀吉が病が癒えたため伏見城(山城国)に移る。
出典:『義演准后日記』同年2月20日条

文禄5年 1596年 2月27日 60歳
豊臣秀吉が諸大名に伏見城(山城国)の対城である向島城(山城国)の普請を命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 4月27日 60歳
豊臣秀吉長宗我部元親邸に赴く。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月6日 60歳
豊臣秀吉伏見城(山城国)より上洛する。大仏殿にて公家衆が出迎える。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月13日 60歳
豊臣秀吉秀頼父子が参内する。秀吉は馬、太刀、銀10枚、沈ホタ5種、綿10000把、袷帷子200、白鳥20を朝廷に進上する。秀頼は摂関家、親王家、女官、公家衆に祝儀物を贈る。摂関家に銀30枚、公卿に銀5枚、殿上人に銀3枚ずつを贈る。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月15日 60歳
豊臣秀吉が禁裏において能8番を興行する。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月17日 60歳
豊臣秀吉が禁中において能を興行する。興行後、子・秀頼とともに伏見城(山城国)に戻る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月25日 60歳
伏見城(伏見城)にて公家・門跡・諸大名が豊臣秀吉秀頼父子に惣礼を行う。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月29日 60歳
母・なかのため大仏殿妙法院において僧衆800による法会を執行する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月15日 60歳
木幡山(山城国)を本丸とする伏見城(山城国)の築城が開始する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月12日 60歳
大地震(慶長大地震)により多くの死者が出る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月13日 60歳
大地震により伏見城(山城国)の大天守、門、御殿が大破し、多数の死者を出す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月16日 60歳
地震が続くため、御所の庭に天皇の仮住まいとして設けられた仮屋に豊臣秀吉も移る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 9月4日 60歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)において唐人と対面する。唐人は緞子1000端、唐冠60頭を秀吉に贈る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 10月10日 60歳
伏見城(山城国)の本丸普請が完了する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 60歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 61歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 3月8日 61歳
前触れもなく豊臣秀吉徳川家康が花見として醍醐寺を訪れ、三宝院義演が仰天して迎える。馬場の桜、金剛輪院の桜を観た後、醍醐寺内に入り破損した塔婆を見た秀吉が、1500石を給付する旨を義演に伝える。ついで秀吉が菩提寺の糸桜を観た後、膳を用意し、秀吉・家康とともに詠歌を読む。その後、秀吉は上醍醐まで登り、帰路、馬場にて義演に石木を取ることを禁止する禁制を発給する旨を伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月9日 61歳
朝、豊臣秀吉大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月21日 61歳
午刻(11-13時)、豊臣秀吉大坂城(摂津国)より伏見城(山城国)に入る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月22日 61歳
豊臣秀吉西笑承兌のもとを訪れ雑談する。秀吉は承兌に木綿2端を下付する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月29日 61歳
西笑承兌伏見城(山城国)の豊臣秀吉のもとを訪れる。ともに飯を食べ、その後、秀吉が石垣普請を見分するのに付き添う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月2日 61歳
豊臣秀吉前田利家邸を訪問する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月4日 61歳
豊臣秀吉伏見城(山城国)より淀川を下り大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『義演准后日記』『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月19日 61歳
豊臣秀吉が高麗国成敗として十万騎を近日中に渡海させるとの命を出したと噂される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月24日 61歳
豊臣秀吉が上洛する。方廣寺大仏殿で行われている千僧会に出席する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月25日 61歳
豊臣秀吉施薬院全宗所に入る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月26日 61歳
内裏の東「ワカゼカ池」という所に豊臣秀吉の屋敷を建てるという命が出されたという。これにより普請中の三条御屋敷の普請は停止となったという。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月27日 61歳
豊臣秀吉が参内する。銀50枚、白鳥3、杉原10束、太刀を朝廷に進上する。徳川家康前田利家が供奉する。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月28日 61歳
早朝、豊臣秀吉伏見城(山城国)に帰城する。西笑承兌を伴に従え伏見城の普請を見物する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月1日 61歳
豊臣秀吉が青木一矩邸に赴く。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月5日 61歳
豊臣秀吉伏見城(山城国)殿守に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月17日 61歳
伏見城(山城国)において豊臣秀吉秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われる。勅使をはじめ、八条宮智仁親王、伏見宮邦房親王、九条兼孝一条内基二条昭実近衛信輔鷹司信房、九条忠栄、徳川家康以下諸大名、近衛前久照高院道澄、妙法院常胤、三宝院義演、大覚寺宮空性、聖護院興意、梶井宮最胤、曼殊院覚円、一乗院尊政、大乗院義尋、本願寺准如が参列する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月18日 61歳
豊臣秀吉相国寺内に内裏新造を命じたという噂が流れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月20日 61歳
豊臣秀吉伏見城(山城国)にて能を興行する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月21日 61歳
朝鮮攻めにつき、小早川秀秋伏見城(摂津国)より出陣し、大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月22日 61歳
豊臣秀吉が上洛する。屋敷の縄張りを行う。施薬院全宗所に入る。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』・『左大史孝亮記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月29日 61歳
豊臣秀吉が大仏千僧会を見物する。天台宗の導師は照高院道澄。天台宗、真言宗、禅宗(妙心寺派)、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧2400名が参加する。秀吉に西笑承兌が供奉する
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 6月12日 61歳
小早川隆景三原城(備後国)にて死去する。
出典:『陰徳太平記』巻79「太閤秀吉公御遊楽付黄門隆景卿逝去之事」、『黒田家譜』巻8「長政記」

慶長2年 1597年 6月22日 61歳
豊臣秀吉が伏見向島に瓜見に赴く。供応其等。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 6月27日 61歳
豊臣秀吉が伏見向島に門跡を召し連れ瓜見をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月18日 61歳
応其の差配のもと善光寺阿弥陀如来が大津(近江国)から大仏殿に遷座する。その行列には、天台宗・真言宗の僧侶各々50口を先頭に応其、警護の浅野長政が続き、さらに照高院道澄・妙法院常胤・三宝院義演・聖護院興意・梶井宮応胤・曼殊院覚円といった諸門跡が続く。行列を一目見ようと貴賤が群集し、伏見の大名衆は桟敷を構えて行列を眺めたという。
大仏殿到着後は宝塔に善光寺阿弥陀如来が安置される。
この日より、「大仏」を改め「善光寺如来堂」と号す(『鹿苑日録』)。
西笑承兌は大仏は織田信長、大仏を倒した地震は明智光秀、善光寺如来は豊臣秀吉になぞらえる。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 7月24日 61歳
ルソン国より使者が到来し、豊臣秀吉に黒象1双、銀盤・銀椀等16種を贈る。伏見城(山城国)内にてルソン国の使者をもてなすため能3番を催す。徳川家康上杉景勝前田利長が相伴する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 7月28日 61歳
豊臣秀吉が、7月18日に大仏殿に遷座した善光寺阿弥陀如来を見物するべく大仏殿に参詣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 8月3日 61歳
豊臣秀吉秀頼父子が参内する。秀頼は四位・中将に叙される。
禁裏御所の東に造営した「新城」がおおよそ完成したという。この新城はさらに南西方面に拡張させるという。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 8月4日 61歳
バタン国より使者が豊臣秀吉のもとに到来し、エンブ鳥1匹、インコ1双、水瓶却老薬1瓶、龍脳1瓶、華席1枚、帯2筋、沈香10斤、丁香20斤、胡椒200斤、スソウ1000斤が贈られる。バタン国封海王より書札あり。使者は船頭の沈徳。秀吉がバタン国よりの献納物のうち胡椒2斤、丁香10両を西笑承兌に下付する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月5日 61歳
バタン国への返書の草案を西笑承兌が作成し、豊臣秀吉に見せる。徳川家康が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月9日 61歳
豊臣秀吉が、西笑承兌作成したバタン国への返書を確認のうえ、承兌に金印を捺させ長束正家に渡す。
朝鮮より注進がある。唐島に駐屯し豊臣軍の軍船を止めていた朝鮮軍に対し、小西行長藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明島津忠恒島津義弘が唐島に夜襲をしかけ、数千人を討ち取るとともに船を焼く。この注進を受け、秀吉は朝鮮に出陣するとの意向を示す。徳川家康上杉景勝前田利家を呼び出す。利家は病のため召しに応じることができず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月13日 61歳
伏見城(山城国)の本丸で豊臣秀吉西笑承兌に対面する。晩飯をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月23日 61歳
堀尾吉晴が自身の木屋にて催した茶会に豊臣秀吉を茶会に招く。西笑承兌に粥を振る舞う、
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月28日 61歳
福島正則仙石秀久豊臣秀吉の屋敷に赴く。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長2年 1597年 8月29日 61歳
28日に足利義昭が死去したとの報告を施薬院全宗より受ける。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月4日 61歳
西笑承兌足利義昭の葬儀を等持院で執行することを豊臣秀吉に提案し許される。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月16日 61歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。木屋の普請場にて西笑承兌豊臣秀吉に対面する。
朝鮮より注進があり。加藤清正が捕らえ日本に送還された朝鮮の正官が秀吉の前に召された際、承兌が筆談し明国、朝鮮の軍勢について問う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日 61歳
善光寺如来堂前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」として大施食の執行を命じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月20日 61歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。木屋の普請場にて豊臣秀吉に対面し、その後、殿中にて秀吉の帰りを待つ。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月24日 61歳
早朝、大谷吉継邸に豊臣秀吉、象使、徳川家康富田一白織田有楽斎西笑承兌が訪れる。吉継は病のため、吉継の子・吉治が出迎える。吉継は数寄屋にて茶を振る舞う。ついで広間にて太刀、金鞍皆具、腰物、火緞子小袖20、銀子100枚、綿子100把を吉継が秀吉に進上する。午刻(11-13時)、御膳。本印坊と利元、秀吉と宗具の碁が行われる。晩におよび小漬の後、皆帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月25日 61歳
26日に開催予定であった善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食執行が延期となる。延期理由は、朝鮮出兵戦死者の塚(「大明朝鮮闘死群霊所」)が小さいため、拡大してから施食をしてはとの意見があったためであるが、このことについて応其西笑承兌より問われた秀吉は、先に施食を行った後、塚を広げるようにとの指示する。よって、応其と承兌は28日に大施食を執行すると決し前田玄以に伝えるが、玄以は忙しく返答がなし。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月26日 61歳
豊臣秀吉秀頼父子が参内し、秀頼は四位中将に叙される。
秀吉が、禁裏御所の東に造営した「新城」に子・秀頼を移す。諸大名が秀頼に供奉する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月28日 61歳
善光寺如来堂堂(大仏殿)前の耳塚にて五山禅僧が施餓鬼を行う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 10月1日 61歳
伏見城(山城国)の普請場にて松葉が目に刺さる。
出典:『鹿苑日録』同年月2日条

慶長2年 1597年 10月4日 61歳
豊臣秀吉のもとに朝鮮唐島にて日本軍が奪取した朝鮮の船にあった諸道具が送られてくる。同船内にあった書物について、秀吉は西笑承兌のもとに福原長堯を遣わし、承兌を呼び寄せ、目の前にて読ませる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月6日 61歳
京の御殿にて西笑承兌と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月18日 61歳
豊臣秀吉伏見城(山城国)の普請場に顔を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月20日 61歳
豊臣秀吉が京極修理大夫邸を訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月22日 61歳
豊臣秀吉前田利家邸を訪れる。午刻(11-13時)、子・秀頼も利家邸を訪れる。利家は秀頼に銀子200枚、馬、皆具、服を献じる。そのほか綿子、金子、小袖を数多進上する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月26日 61歳
豊臣秀吉伊達政宗邸を訪れる。小袖20が秀吉に贈られる。また、淀殿にベン花1000斤、秀頼に太刀(光忠)・服3重・茶湯道具1飾が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月27日 61歳
豊臣秀吉京極高次邸を訪問する。茶の湯あり。早々に伏見城(山城国)に帰る。体調を悪くする。
出典:『鹿苑日録』・『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 10月28日 61歳
体調が少し回復するも食事は摂れず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月1日 61歳
体調が少し回復する。食事も少し摂る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月5日 61歳
午刻(11-13時)、伏見城(山城国)松丸にて豊臣秀吉が象駕を発す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月13日 61歳
豊臣秀吉徳川家康に文梨小壺を、前田利家に富士茄子壺を、織田有楽斎に寺西肩衝を、宗凡に円座肩衝を贈る。また、家康、利家に台子茶の湯を認可する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月17日 61歳
伏見城(山城国)内にて豊臣秀吉が、前田利家織田有楽斎西笑承兌とともに閑談する。秀吉が金子70枚で針屋源十郎から購入した星肩衝、で購入した小肩衝、金森可重より進上のシリブクラの小壺、虚堂墨蹟(の若狭屋宗加→大友宗麟蒲生氏郷→秀吉)を見せる。虚堂墨蹟は承兌に賜う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月21日 61歳
伏見城(山城国)内にて前田利家西笑承兌とともに閑談する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月29日 61歳
豊臣秀吉が終日、灸治にて療養する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月2日 61歳
明・朝鮮の軍勢が浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城を攻める。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)

慶長2年 1597年 12月6日 61歳
薩摩国にて破損した南蛮船の船中にあった諸道具を豊臣秀吉が諸氏に与える。西笑承兌に如油壺1個、青地徳利1個、茶碗5個、唐鍋2個、唐櫛5個、唐扇2本、線香3束(1束5把)、唐墨2挺が与えられる。
出典:『鹿苑日録』同年月7日条

慶長2年 1597年 12月19日 61歳
夜、伏見城(山城国)にて西笑承兌に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 1月4日 62歳
巳刻(9-11時)、浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城を攻めていた明・朝鮮の軍勢が撤退する。夜、蔚山城の救援に赴いていた日本勢が蔚山城に入城する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月17日 62歳
1月4日の蔚山城の合戦について報告を受けた豊臣秀吉毛利輝元増田長盛、因幡国衆、但馬国衆、紀伊国衆、大和国衆、九鬼嘉隆守隆父子を同城に遣わしたこと、蔚山を始め諸城の普請を徹底すること、兵粮・弾薬を補充し、少なければ申し出ること、浅野幸長太田一吉は帰国することを伝える朱印状を発給する。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』82号)

慶長3年 1598年 2月15日 62歳
増田長盛前田玄以長束正家が醍醐寺を訪れ、豊臣秀吉の醍醐寺での花見のため座敷惣構の普請を命じていく。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月16日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。三宝院、馬場に行き、築地つきの東西15間・南北9間の寝殿を建立するように命じる。それにつき寺領の給付も伝える。護摩堂の指図を自ら作成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月20日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。膳には三宝院義演が相伴する。泉水の縄張り、中島に護摩堂1宇を檜皮葺で造り橋を架け、滝を2筋拵えることを義演に伝える。また聚楽第(山城国)より名石を移すと義演に述べる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月22日 62歳
増田長盛前田玄以長束正家が醍醐寺を訪れ、豊臣秀吉の醍醐寺での花見のための仮屋の普請を命じていく。非時を三宝院義演とともにする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月23日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。醍醐寺を再興することを伝え、門跡である三宝院義演に1000石を給付する。その内300を六坊再興に用い、残り700石を門跡の蔵(義演)が納めるようにと命じる。再興につき、金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・五重塔・湯屋・三門の建立を命じる。金堂等の建物は大和もしくは河内の1、2ヶ寺の堂舎を移すようにと命じる。造営奉行は応其に命じる。三宝院門跡の寝殿普請は増田長盛に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月28日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。膳を受けている途中、応其が大和国よりやってきて、伽藍に用いる堂舎の指図を秀吉に見せる。また、醍醐寺鎮守拝殿に、先年、秀吉が興福寺に参詣した折に作らせた舞台・楽屋を移築する旨、応其が提案する。その提案に対し秀吉は、楽屋については、建設予定の寝殿と大きさが似ているため、寝殿に転用するようにと命じる。ついで六坊へ各々50石ずつ給付することを伝える。三宝院の建物は六坊へ下行(移築)するようにと三宝院義演に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月1日 62歳
増田長盛前田玄以長束正家が醍醐寺を訪れ、豊臣秀吉の醍醐寺での花見のための仮屋・ヤリ山の普請の様子を見舞う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月3日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。醍醐寺五重塔の二重目の瓦を葺く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月10日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く予定であったが、雨のため延期する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月11日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。まず山上に登り、その後、五重塔の前に舞台・楽屋を設置すべく縄張りをする。3月中に完成させるようにと命じる。その後、三宝院に赴き膳を受ける。醍醐寺の伽藍は、16日に移築するようにと命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月13日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺での花見を15日に開催する旨、醍醐寺三宝院義演に申し伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月14日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月15日 62歳
豊臣秀吉が醍醐寺にて諸大名を召し連れ花見を催す。三宝院義演へ銀100枚を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月16日 62歳
15日に開催された醍醐の花見の礼として醍醐寺三宝院義演豊臣秀吉のもとを訪れる。前田玄以が取次をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月25日 62歳
15日の醍醐の花見で豊臣秀吉が、秀吉・豊臣秀頼・北政所・女房衆らが詠んだ歌の短冊を三宝院義演に贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 4月4日 62歳
小早川秀秋大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 4月4日 62歳
早朝、小早川秀秋大坂城(摂津国)を出立し、伏見城(山城国)に到着する。太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が秀秋に供奉する。豊臣秀吉をはじめ徳川家康福島正則前田利家前田利長、青木一矩、京極高次伊達政宗上杉景勝最上義光細川忠興結城秀康が秀秋を迎える。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 4月15日 62歳
豊臣秀吉が上洛する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長3年 1598年 5月3日 62歳
豊臣秀吉加藤嘉明に37100石を新たに給付する。嘉明は松前城(伊予国)を居城とし総じて100000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

慶長3年 1598年 5月7日 62歳
醍醐寺金堂の普請について着手してもよいかを応其豊臣秀吉に伺ったところ早急に建立すべきの旨を言い渡される。
出典:『義演准后日記』同年月9日条

慶長3年 1598年 5月8日 62歳
醍醐寺金堂の普請について豊臣秀吉より早急に建立するようにと応其が言い渡されたことを、応其が三宝院義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月9日条

慶長3年 1598年 6月2日 62歳
豊臣秀吉が病を患う。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長3年 1598年 6月18日 62歳
豊臣秀吉芦浦観音寺に宛てて「江州湖上往還之船定条々」を定める。
出典:慶長3年6月18日付豊臣秀吉朱印状(「芦浦観音寺文書」)

慶長3年 1598年 8月18日 62歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 4月13日 
豊臣秀吉の遺体が秘かに東山の阿弥陀ヶ峰に葬られる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 4月19日 
豊臣秀吉が禁裏より豊国大明神正一位を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月13日 
豊臣秀吉追善のため、大仏殿の坊舎にて、応其三宝院義演より結縁灌頂を授かる。東寺の寺僧が残らず出仕したという。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条条

慶長20年 1615年 7月9日 
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

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