人 物 史

脇坂安治 わきさか やすはる
生 没 年天文23年(1554)-寛永3年(1626)8/6
出 身近江国脇坂荘幼 名-
別 称甚内
法 名-
戒 名-
脇坂安明-
兄 弟 姉 妹脇坂安治、脇坂安景
配 偶 者玄昌院
脇坂安忠、脇坂安元、脇坂安信、脇坂安重、脇坂安経、脇坂安総、脇坂安成、脇坂安済、娘(清水谷実任の妻)、娘(脇坂一盛の妻)、娘(脇坂一長の妻)、娘(田中安義の妻)、娘(脇坂安盛の妻)、娘(脇坂景直の妻)、娘(座光寺某の妻)
官 位中務少輔
役 職-
城 郭洲本城(淡路国)、大洲城(伊予国)
参 考 文 献脇坂安治に関する参考文献
関 連 デ ー タ脇坂安治の関連文化財
脇坂安治 年表
天文23年 1554年 -月-日 1歳
脇坂安治が近江国脇坂荘にて生まれる。
出典:『脇坂家伝記

弘治1年 1555年 10月23日 2歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 5歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 17歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 20歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 3月21日 29歳
羽柴秀吉が家臣に知行を宛行う。
片桐貞隆に播磨国揖東郡越部の内で200石
高野七郎に播磨国多可郡比延村の内で45石、同郡越智4ヶ村の内で30石の計75石
水原吉一に播磨国神東郡舟津の内で100石
余田源太郎に播磨国明石郡名はたの内で120石
また、脇坂安治に播磨国布施畑の内で18石、同郡下津橋の内で14石を加増する。
出典:天正10年3月21日付豊臣秀吉領知宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-380~384号)

天正11年 1583年 4月21日 30歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正12年 1584年 3月4日 31歳
子・安元山城国にて生まれる。
出典:-

天正12年 1584年 4月9日 31歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 5月-日 32歳
羽柴秀吉脇坂安治に摂津国能勢郡で10000石を給付する。
出典:『脇坂家伝記

天正13年 1585年 7月-日 32歳
脇坂安治が従五位下・中務少輔に叙位・任官。
出典:『脇坂家伝記

天正13年 1585年 9月10日 32歳
脇坂安治、宮木藤左衛門が本願寺顕如のもとに礼に訪れる。安治・藤左衛門に顕如は子・教如興正寺顕尊とともに対面する。
石田三成が顕如のもとに礼に訪れ、顕如に1腰・馬を、教如に太刀・馬代を、顕尊に1腰・馬代を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 10月-日 32歳
羽柴秀吉脇坂安治に洲本(淡路国)30000石を給付する。
出典:『脇坂家伝記

天正14年 1586年 12月12日 33歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 33歳
羽柴秀吉蜂須賀家政脇坂安治加藤嘉明に豊前国へ出陣するよう命じる。
出典:『脇坂家伝記

天正14年 1586年 12月28日 33歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に豊後国の戦況について承知したことを伝えるとともに、阿波国勢(蜂須賀家政)、淡路国勢(加藤嘉明脇坂安治)を豊後国に遣わすこと、仙石秀久の所領・讃岐国を召し上げたことを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正15年 1587年 4月28日 34歳
加藤嘉明脇坂安治九鬼嘉隆が平佐城(薩摩国)を攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正18年 1590年 2月25日 37歳
脇坂安治率いる船団が今切湊(遠江国)に到着する。
出典:『脇坂家伝記

天正18年 1590年 2月27日 37歳
脇坂安治率いる船団が清水湊(駿河国)に到着する。
出典:『脇坂家伝記

天正18年 1590年 3月1日 37歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 37歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 12月28日 37歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正20年 1592年 4月19日 39歳
豊臣秀吉が埴生(長門国)を発ち、関門海峡を通過し、小倉城(豊前国)に宿泊する。
秀吉が島津義弘に朝鮮への渡海時は、紀伊国警固船・藤堂高虎九鬼嘉隆脇坂安治加藤嘉明・備前国警固船にも出陣を命じたので、彼等と相談し渡海するよう命じる。
出典:(天正20年)4月19日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-386号)、『太閤さま軍記のうち』

天正20年 1592年 6月5日 39歳
白光彦・李之詩率いる朝鮮軍が脇坂安治勢が守備する龍仁城を囲む。
出典:『脇坂家伝記

天正20年 1592年 6月6日 39歳
卯刻(5-7時)、脇坂安治が龍仁城を囲む白光彦・李之詩率いる朝鮮軍を攻め、安治が勝利する。
出典:『脇坂家伝記

天正20年 1592年 7月7日 39歳
脇坂安治が巨済島に向けて出航する。閑山島付近にて安治と李舜臣が戦い、李舜臣が勝利する。脇坂勢は脇坂左兵衛、渡辺七右衛門等が戦死する。安治の出撃を知り、九鬼嘉隆加藤嘉明も出撃するが、朝鮮水軍の兵船が多かったため、安骨浦に引き上げる。李舜臣は安骨浦まで追撃して嘉隆の船の帆柱を火矢等により打ち砕く。
出典:『脇坂家伝記

文禄1年 1592年 12月8日 39歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

天正20年 1592年 6月14日 39歳
脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明が釜山浦の河口に到着する。
出典:『脇坂家伝記

天正20年 1592年 7月14日 39歳
豊臣秀吉が「からいさん」に城を築き、脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明に在番を命じるとともに、藤堂高虎織田秀信、「紀州之者」を派遣することを安治に伝える。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 1月-日 40歳
脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明が熊川に在陣する。朝鮮水軍が日本軍占領下の湊に襲撃をかけ石火矢を放ってくるので、日本側も大船に大砲を備え、陸地には鉄砲塚を築く等の対策を講じる。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 2月21日 40歳
朝鮮水軍が熊川湊を襲撃する。脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明が応戦し、朝鮮水軍の番線を乗っ取る。
出典:『脇坂家伝記

文禄2年 1593年 11月10日 40歳
豊臣秀吉脇坂安治に、来春、秀吉が朝鮮に渡海する余邸であること、朝鮮水軍の乗っ取りは今後芙蓉てあること、玉薬を遣わすこと、兵粮の蓄え・城の普請に精を入れること、船着きから漢城まで街道にある城々を整え往還が自由にできるようにすること等を命じる。
出典:『脇坂家伝記

文禄3年 1594年 1月2日 41歳
蜂須賀家政脇坂安治が蔚山(朝鮮国)に到着する。
出典:『脇坂家伝記

文禄3年 1594年 3月-日 41歳
九鬼嘉隆が安骨浦に到着する。嘉隆が、同浦に在番していた脇坂安治に替って在番し、安治は日本に帰国する。
出典:『脇坂家伝記

文禄4年 1595年 -月-日 42歳
脇坂安治が朝鮮に渡海し、安骨浦にて在番する。
出典:『脇坂家伝記

文禄5年 1596年 春月-日 43歳
脇坂安治が日本に帰国する。
出典:『脇坂家伝記

慶長1年 1596年 10月27日 43歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 44歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 7月16日 44歳
15日夜より16日にかけて、巨済島沖の漆川梁に停泊中の朝鮮水軍を、藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明島津義弘島津豊久秋月種長高橋元種毛利高政が攻める。朝鮮水軍の三道水軍統制使・元均が戦死する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)、『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月-日 44歳
朝鮮国攻めにつき、諸将の攻め口を定める。船手は熊谷直盛・早川長政を奉行に、毛利秀元九鬼守隆寺沢広高長宗我部元親、池田秀氏、小川祐滋、中川秀成伊東祐兵立花宗茂脇坂安治、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、宍戸元続安国寺恵瓊を宛て、陸路北方は太田一吉を奉行に加藤清正を宛て、陸路中方は竹中重利を奉行に、加藤嘉明蜂須賀家政生駒親正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房を宛て、陸路南方は毛利高政を奉行に、宇喜多秀家小西行長藤堂高虎島津義弘を宛てる。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月12日 44歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を包囲する。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月13日 44歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月14日 44歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月15日 44歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月17日 44歳
南原城を破却する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月15日 44歳
宇喜多秀家脇坂安治藤堂高虎九鬼嘉隆、来島通総、加藤嘉明、菅達長が明軍が籠る泗門城(朝鮮国)を攻める。
出典:『脇坂家伝記

慶長2年 1597年 12月29日 44歳
午刻(11-13時)、蜂須賀家政、生駒一正、加藤嘉明脇坂安治鍋島直茂勝茂父子、早川長政が西生浦に到着する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)、『脇坂家伝記

慶長3年 1598年 8月18日 45歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月15日 47歳
長束正家増田長盛前田玄以大坂城(摂津国)惣構の各口番手を定める。浜の橋…毛利高政、高麗橋…高田治忠藤懸永勝、平野町橋…宮城豊盛、かんとうし町橋…服部正栄、うなき谷町橋・横橋…小野木重次、天王寺口…横浜茂勝、甲津口…上田重安、南方ほりつめの口…奥山正之、平野口新屋…小出吉政、玉造口…多賀秀種杉若氏宗、京口小橋…谷衛友、中の渡…山崎家盛、福島口…山崎定勝、天王寺南口…石川貞通、天王寺平野口…赤松上総介、天王寺小坂水所…木下秀規、大和口…川尻秀長、福島川口…脇坂安治菅三郎兵衛・菅右衛門八。
出典:『当代記』巻3

慶長5年 1600年 9月16日 47歳
徳川家康が石田正継・正澄父子が留守居として籠城していた石田三成の居城・佐和山城(近江国)を攻める。池田輝政福島正則が城を攻囲する中、小早川秀秋が先陣をつとめ二ノ丸を落とす。井伊直政は水の手より攻める。夜、正継は降伏を願い出る。家康は石田一族の自害と引き換えに城兵の命を助けるとし、正継は承諾する。
徳川勢:徳川家康[大将]、小早川秀秋[先陣]、池田輝政、福島正則、脇坂安治。
石田勢:石田正継[大将]、石田正澄。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』、『当代記』巻3同年月日条、『脇坂家伝記

慶長5年 1600年 9月17日 47歳
石田正継・正澄佐和山城(近江国)に火を放ち自害する。
出典:『関原始末記』

慶長8年 1603年 2月12日 50歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 52歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長14年 1609年 9月-日 56歳
徳川家康が脇坂安治に伊予国喜多郡・浮穴郡・風早郡の53000石を給付する。
出典:『脇坂家伝記

慶長16年 1611年 6月24日 58歳
加藤清正が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 7月13日 62歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 -月-日 62歳
脇坂安治が家督を子・安元に譲る。
出典:『脇坂家伝記

元和3年 1617年 -月-日 64歳
脇坂安治が西洞院(山城国)に隠棲する。
出典:『脇坂家伝記

寛永1年 1624年 2月30日 71歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永3年 1626年 8月6日 73歳
脇坂安治が京都(山城国)にて死去する。
出典:『脇坂家伝記

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