天正14年 1586年 2月5日 | 志賀親守が大友義統の勘気を蒙り、迦住城に隠居する。道輝は義統との関係を絶ち、入田義実と一味する。 | 出典:『上井覚兼日記』同年月日条 |
天正14年 1586年 2月16日 | 入田宗和よりの使者が上井覚兼のもとに到着する。宗和は志賀道益が大友義統の勘気を蒙り菅迫に隠居させられたが、道益は宗和と一味し、島津義久に豊後国へ攻め入るよう促す。 | 出典:『上井覚兼日記』同年月日条 |
天正15年 1587年 5月23日 | 大友宗麟が死去する。 | 出典:- |
文禄2年 1593年 閏9月14日 | 豊後国より豊臣秀次のもとに検地帳がもたらされ、同国の収穫高は42万石とされる。 [代官領知行割] 大野郡 54,201石8斗…太田一吉 直入郡 32,980石9斗3升…熊谷直盛 大分郡 57,929石…早川直政 海士辺郡 44,800石…垣見一直・宮部継潤 | 出典:『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 1594年 2月-日 | 豊臣秀吉の命により中川秀成が三木(播磨国)より豊後国大野郡・直入郡・大分郡内で74000余石をに移封となり、岡城(豊後国)城主となる。 | 出典:『寛政重修諸家譜』巻第260「中川秀成」の項 |
慶長17年 1612年 8月14日 | 中川秀成が岡城(豊後国)にて死去する。 | 出典:『寛政重修諸家譜』巻第260「中川秀成」の項 |
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