天正13年 1585年 4月16日 | 丹羽長秀が死去する。 | 出典:- |
天正13年 1585年 7月11日 | 羽柴秀吉への関白宣下が行われる。 | 出典:『兼見卿記』同年月日条 |
天正14年 1586年 10月27日 | 徳川家康が羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。 | 出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正15年 1587年 1月25日 | 島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」 |
天正15年 1587年 2月1日 | 島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条 |
天正15年 1587年 2月5日 | 島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条 |
天正15年 1587年 2月10日 | 島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条 |
天正15年 1587年 2月15日 | 島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条 |
天正15年 1587年 2月20日 | 島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条 |
天正15年 1587年 2月25日 | 島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条 |
天正15年 1587年 3月1日 | 島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元、糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。 | 出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」 |
天正15年 1587年 4月1日 | 豊臣秀勝、前田利長、蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。 豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。 秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。 この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。 | 出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1 |
天正15年 1587年 4月2日 | 豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」 |
天正15年 1587年 4月4日 | 豊臣秀吉が秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 4月11日 | 豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 4月11日 | 豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。 立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」 |
天正15年 1587年 4月13日 | 豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 4月16日 | 豊臣秀吉が熊本城(肥後国)に入城する。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 4月19日 | 豊臣秀吉が宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 4月21日 | 豊臣秀吉が八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。 | 出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 5月5日 | 豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。 | 出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 5月6日 | 島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。 | 出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」 |
天正15年 1587年 5月8日 | 太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。 | 出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」 |
天正15年 1587年 5月9日 | 豊臣秀吉が島津義久に薩摩一国を宛行う。 | 出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号) |
天正17年 1589年 11月-日 | 豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。太田一吉は軍勢300で出陣することが定められる。 | 出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号) |
天正18年 1590年 3月1日 | 豊臣秀吉が北条氏政・氏直父子を討伐するため京都を出陣する。 | 出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正18年 1590年 7月12日 | 北条氏政・北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政。 | 出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項 |
文禄2年 1593年 3月10日 | 豊臣秀吉が牧使城攻めの軍勢を編成する。前田利家(軍勢7000)、蒲生氏郷(軍勢1500)、最上義光(軍勢300)、長谷川秀一(軍勢3000)、細川忠興(軍勢2000)、木村重茲(軍勢2000)、大谷吉継、上杉景勝(軍勢5000)、蜂須賀家政(軍勢5000)、福島正則(軍勢3000)、戸田勝隆(軍勢2500)、中川秀成(軍勢2000)、小野木重次(軍勢600)、牧村政吉(軍勢400)、岡本重政(軍勢300)、糟屋武則(軍勢120)、高田治忠(軍勢180)、太田一吉(軍勢80)、片桐貞隆(軍勢120)、古田重勝(軍勢120)、新庄直定(軍勢180)、秋田実季(軍勢134)、本堂忠親(軍勢25)、大崎左衛門尉(軍勢10)、由利五人衆(軍勢88)の総勢37100。 | 出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号) |
文禄2年 1593年 閏9月14日 | 豊後国より豊臣秀次のもとに検地帳がもたらされ、同国の収穫高は42万石とされる。 [代官領知行割] 大野郡 54,201石8斗…太田一吉 直入郡 32,980石9斗3升…熊谷直盛 大分郡 57,929石…早川直政 海士辺郡 44,800石…垣見一直・宮部継潤 | 出典:『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 1594年 4月26日 | 太田一吉が佐賀関(豊後国)に逗留の近衛信尹に使者を遣わし樽1荷を贈る。 | 出典:『三藐院記』同年月日条 |
慶長2年 1597年 5月26日 | 小早川秀秋が、下関(長門国)に到着する。 太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政、竹中重利が佐賀関に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 5月27日 | 太田一吉が佐賀関(豊後国)より出航し、居城・臼杵城(豊後国)に入る。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 6月25日 | 太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政、竹中重利が佐賀関(豊後国)より出航し、竹田津(豊後国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 6月26日 | 太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政、竹中重利が竹田津(豊後国)より出航し、下関(長門国)に到着する。夕方、下関を出航し地島(筑前国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 6月27日 | 太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政、竹中重利が地島(筑前国)より出航し、名護屋城(肥前国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 6月28日 | 太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政、竹中重利が名護屋城(肥前国)に滞在し、諸大名の着到を確認する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 6月29日 | 小早川秀秋が名護屋城(肥前国)にて諸大名に朝鮮国への渡海を命じ、諸勢が風本(壱岐国)を目指す。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 7月1日 | 小早川秀秋率いる日本勢が風本(壱岐国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 7月2日 | 小早川秀秋率いる日本勢が風本(壱岐国)を出航するも暴風による風本に帰航する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 7月4日 | 亥刻(21-23時)、小早川秀秋率いる日本勢が風本(壱岐国)を出航する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 7月5日 | 戌刻(19-21時)、小早川秀秋率いる日本勢が鴨瀬(対馬国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 7月6日 | 申刻(15-17時)、小早川秀秋率いる日本勢が豊崎浦(対馬国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 8月15日 | 宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久、秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。 日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。 | 出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 8月17日 | 南原城を破却する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 8月29日 | 加藤清正、太田一吉が宣州を発ちセンクンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月1日 | 加藤清正、太田一吉がセンクンを発ちクンサンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月2日 | 加藤清正、太田一吉がクムイに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月3日 | 加藤清正、太田一吉が全羅道の山間を通行中、明・朝鮮軍の伏兵に逢い応戦する。チンソンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月4日 | 加藤清正、太田一吉がチンソンに逗留し負傷者の手当てをする。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月5日 | 加藤清正、太田一吉がフンキに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月6日 | 加藤清正、太田一吉が尚州に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月7日 | 加藤清正、太田一吉がユランに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月8日 | 加藤清正、太田一吉がチンセンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月14日 | 加藤清正、太田一吉がチンセンを発ち、チンナンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月15日 | 加藤清正、太田一吉が全羅道の府中ホランに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月16日 | 加藤清正、太田一吉がホキンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月17日 | 加藤清正、太田一吉がアロウに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月18日 | 加藤清正、太田一吉がチンミンに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月19日 | 加藤清正、太田一吉が慶尚道の古都に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月22日 | 加藤清正、太田一吉が慶尚道の古都の大仏殿を焼き払う。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月23日 | 加藤清正、太田一吉が慶尚道の古都を発ち、ユキヤウに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月24日 | 加藤清正、太田一吉がクノイに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月25日 | 加藤清正、太田一吉がクノイに逗留する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月26日 | 加藤清正、太田一吉がシンネに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 9月29日 | 加藤清正、太田一吉がシンネを発ち永川に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 10月3日 | 加藤清正、太田一吉が慶州に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 10月7日 | 加藤清正、太田一吉がキランに到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 10月8日 | 加藤清正、太田一吉が蔚山に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 10月16日 | 太田一吉が加藤清正に帰城し休息をとるよう促す。清正は喜び、加藤重次、加藤清兵衛尉、近藤四郎右衛門尉に鉄砲300挺を一吉に預け、西生海に向かう。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 11月10日 | 浅野幸長、加藤清正が蔚山城の普請を始める。監視役として豊臣秀吉のもとから太田一吉が同城に遣わされる。 | 出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号) |
慶長2年 1597年 11月-日 | 蔚山城が完成する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 12月22日 | 卯刻(5-7時)、明・朝鮮軍が蔚山城を攻める。先陣をつとめる中国衆に明・朝鮮軍が攻めかかる。巳下刻(10時)、中国衆が先陣から撤退し、蔚山城惣構に入る。浅野幸長、加藤清正、太田一吉、宍戸元続が防戦する。
夜、蔚山城を攻めていた明・朝鮮軍が同城の南1里半のところにある「うぢ山」や「東の山まきの島」に陣取る。清正は幸長と談合し、西生浦にいる日本勢に援軍を要請する。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)、『朝鮮記 乾』 |
慶長2年 1597年 12月23日 | 浅野幸長・宍戸元続が築城した蔚山城を加藤清正に引き渡す。 卯刻(5-7時)、明・朝鮮軍が蔚山城の総構の東を攻める。巳下刻(10時)、蔚山城の惣構を明・朝鮮軍が破ったため、籠城していた清正、幸長、太田一吉は本丸・二ノ丸に撤退する。 夜、明・朝鮮軍が蔚山城に攻め寄せる。 | 出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)、浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長2年 1597年 12月25日 | 西生浦から蔚山城に日本勢が援軍として到着する。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長2年 1597年 12月26日 | 明・朝鮮軍が蔚山城の三ノ丸を攻める。三ノ丸の守備を担った加藤重次は、竹束でもって攻め入る明・朝鮮軍に対し、竹束を焼き払う。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長2年 1597年 12月27日 | 毛利吉成、山口宗永が船にて蔚山城の様子をうかがう。船と城とで馬印を振り会う。吉成、宗永は西生浦に戻る。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長2年 1597年 12月28日 | 明・朝鮮軍が蔚山城の三ノ丸を攻める。明・朝鮮軍は三ノ丸の櫓を焼き払うべく柴も持ち出すが、日本勢が退ける。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長2年 1597年 12月29日 | 未刻(13-15時)、毛利秀元、黒田長政、竹中源介、山口宗永が船から蔚山城の様子をうかがう。秀元等は西生浦に戻る。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長3年 1598年 1月2日 | 巳刻(9-11時)、長宗我部元親・盛親父子が船20・30叟にて蔚山城に到着する。未刻(13-15時)、池田秀氏が船にて蔚山城に到着する。 | 出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長3年 1598年 1月3日 | 子刻(23-1時)、明・朝鮮軍が蔚山城を攻める。辰刻(7-9時)、明・朝鮮軍が城攻めを止める。 | 出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長3年 1598年 1月4日 | 巳刻(9-11時)、浅野幸長、加藤清正等の籠る蔚山城を攻めていた明・朝鮮の軍勢が撤退する。夜、蔚山城の救援に赴いていた日本勢が蔚山城に入城する。 | 出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長3年 1598年 1月6日 | 蔚山城に籠城していた日本勢が、同城を発ち、西生浦まで移る。 | 出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号) |
慶長3年 1598年 1月17日 | 1月4日の蔚山城の合戦について報告を受けた豊臣秀吉が毛利輝元、増田長盛、因幡国衆、但馬国衆、紀伊国衆、大和国衆、九鬼嘉隆・守隆父子を同城に遣わしたこと、蔚山を始め諸城の普請を徹底すること、兵粮・弾薬を補充し、少なければ申し出ること、浅野幸長・太田一吉は帰国することを伝える朱印状を発給する。 | 出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』82号) |
慶長3年 1598年 3月17日 | 小早川秀秋が日本に帰国すべく釜山を出航する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長3年 1598年 4月4日 | 小早川秀秋が大坂城(摂津国)に到着する。 | 出典:『朝鮮記 乾』 |
慶長3年 1598年 8月18日 | 豊臣秀吉が死去する。 | 出典:『当代記』巻3同年月日条 |
慶長5年 1600年 9月13日 | 石垣原の合戦で黒田如水と大友義統が戦い、如水が勝利する。 | 出典:『黒田家譜』巻12「如水記」、『関原始末記』 |
元和3年 1617年 -月-日 | 太田一吉が死去する。 | 出典:- |
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