人 物 史

豊臣秀次 とよとみ ひでつぐ
生 没 年永禄11年(1568)-文禄4年(1595)7/15
出 身-幼 名万丸
別 称三好孫七郎、三好信吉、羽柴孫七郎、羽柴信吉、羽柴秀次
法 名-
戒 名瑞泉寺殿高厳一峯道意、善正寺殿高岸道意大居士
三好吉房、豊臣秀吉[養父]とも(瑞龍院日秀)
兄 弟 姉 妹豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保
配 偶 者池田恒興の娘、菊亭晴季の娘、駒(最上義光の娘)、四条隆昌の娘、淡輪隆重の娘
豊臣仙千代、豊臣百丸、豊臣十丸、豊臣土丸、露月院
官 位右近衛権少将、右近衛権中将、参議、権中納言、権大納言、内大臣、関白、左大臣
役 職-
城 郭八幡山城(近江国)、聚楽第(山城国)、清須城(尾張国)
参 考 文 献豊臣秀次に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる豊臣秀次の呼称
豊臣秀次の関連文化財
豊臣秀次の家臣
豊臣秀次 年表
永禄11年 1568年 -月-日 1歳
豊臣秀次が生まれる。
出典:-

永禄12年 1569年 -月-日 2歳
弟・秀勝が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 3歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 6歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正7年 1579年 -月-日 12歳
弟・秀保が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 15歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 15歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 10月25日 15歳
根来寺衆の泉南侵攻にともない、羽柴勢の先勢として浅野長政中村一氏、伊藤掃部、筒井順慶、若江三人衆、三好信吉三好康長が泉南に出陣する。
出典:天正10年10月22日付羽柴秀吉書状(『浅野家文書』9号)

天正11年 1583年 4月21日 16歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正12年 1584年 3月11日 17歳
羽柴秀吉が甥・秀次の軍勢3000を美濃口に遣す。
出典:(天正12年)3月11日付羽柴秀吉判物(『豊臣秀吉文書集成』2-965号「富田氏所蔵文書」)

天正12年 1584年 4月7日 17歳
徳川家康領の三河国を襲撃すべく羽柴秀次池田勝入斎森長可堀秀政が楽田(尾張国)を出陣し小牧(尾張国)に陣取る。
出典:『豊鑑』巻2

天正12年 1584年 4月9日 17歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 3月20日 18歳
羽柴秀次根来寺・雑賀衆攻め先勢として出陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月1月23日日 18歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 18歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 18歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 18歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 6月16日 18歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月3日 18歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 18歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月11日 18歳
叔父・秀吉への関白宣下が行われる。施薬院全宗のもとに赴く。その後、秀吉がその礼として参内する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月15日 18歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻める。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 7月16日 18歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻め、外城を落とす。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正15年 1587年 1月25日 20歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 20歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 20歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 20歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 20歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 20歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 20歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 20歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 20歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 20歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 20歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 20歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 20歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 20歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 20歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 20歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 20歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 20歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 20歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 20歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 20歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 20歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 20歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 4月14日 21歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 21歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「治れる みよぞと祝ふ 松風も 民の草葉も 猶なびくなり」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 7月17日 21歳
毛利輝元が兵庫(摂津国)に逗留する。輝元のもとに豊臣秀長の迎えの使者として藤堂高虎が、豊臣秀次の使者として白井権太夫が訪れる。秀次は輝元に熊皮のあをり3口、さらし帷子20を贈る。また、下代官の増田六右衛門、玉拳入道が輝元に大樽10荷、鱧100喉、鱸10喉、昆布1折を進上する。申刻(15-17時)、蜂須賀家政が輝元の迎えとして兵庫に到着する。
出典:『天正記』同年月日条、『毛利輝元上洛日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月22日 21歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家黒田孝高の案内にて上洛する。淀(山城国)にて豊臣秀吉が迎えの使者として前野長康・浅野長政を、豊臣秀長藤堂高虎を、豊臣秀次が白井権大夫を遣わす。輝元、隆景、広家は京都に入り、輝元は妙顕寺に、隆景は本法寺に、広家は妙蓮寺に宿泊する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月24日 21歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正17年 1589年 11月19日 22歳
豊臣秀次相国寺慈照院を訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月-日 22歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。豊臣秀次は軍勢15000で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 2月10日 23歳
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:渥美友勝、保科正直、保科正光、青木信時柳沢信俊、山高信直、折井次昌加藤正次秋鹿直朝鈴木信光小尾祐光津金胤久跡部久次酒依昌吉
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第174「酒依昌吉」の項、同965「秋鹿直朝」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正18年 1590年 3月1日 23歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 3月29日 23歳
豊臣秀吉が箱根山に着陣する。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 23歳
豊臣秀次が松田康長が籠る山中城(伊豆国)攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀次[大将]、中村一氏[先陣]、一柳直末[先陣](戦死)、渡辺了[中村一氏勢]、薮内匠[中村一氏勢]。
北条勢:松田康長[大将](戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 23歳
豊臣勢が韮山城(伊豆国)を包囲する。
豊臣勢[44100]:織田信雄[軍勢17000]、織田信包[軍勢3200]、蒲生氏郷[軍勢4000]、稲葉貞通[軍勢1200]、細川忠興[軍勢2700]、森忠政[軍勢2100]、中川秀政[軍勢2000]、山崎・岡本良勝[軍勢2200]、筒井定次[軍勢1500]、生駒親正[軍勢2200]、蜂須賀家政[軍勢2500]、福島正則[軍勢1800]、戸田勝隆[軍勢1700]。
北条勢:富田直久(戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 7月6日 23歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 23歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 8月9日 23歳
豊臣秀吉が会津(陸奥国)に入る。会津の検地を豊臣秀次に、白河(陸奥国)及びその近辺の検地を宇喜多秀家に命じる。
出典:(天正18年)8月12日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』59号)

天正18年 1590年 12月28日 23歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正19年 1591年 1月22日 24歳
豊臣秀長が死去する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 3月13日 24歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 24歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月20日 24歳
豊臣秀吉が奥羽の一揆成敗のため豊臣秀次に出陣を命じる。
出典:-

天正19年 1591年 7月19日 24歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月18日 24歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 24歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 24歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正20年 1592年 1月30日 25歳
豊臣秀次が北野社に参詣する。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 7月14日 25歳
豊臣秀吉の母・なか(大政所)重病のため、清水寺愛宕山鞍馬寺、石清水八幡宮、北野社、伊勢内宮、伊勢下宮、多賀社春日社、稲荷社、住吉社、祇園社、下鴨神社、上賀茂神社、金剛峯寺に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

天正20年 1592年 9月9日 25歳
弟・秀勝が朝鮮にて死去する。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 25歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 8月3日 26歳
豊臣秀頼が生まれる。
*『太閤さま軍記のうち』では4日。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 閏9月5日 26歳
木曽から美濃国に送られた柾板2200駄について、近江国の豊臣秀次領内および美濃国の蔵入地の人夫をもって朝妻(近江)まで運送するよう益田照従が命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条

文禄2年 1593年 閏9月14日 26歳
豊後国より豊臣秀次のもとに検地帳がもたらされ、同国の収穫高は42万石とされる。
[代官領知行割]
大野郡 54,201石8斗…太田一吉
直入郡 32,980石9斗3升…熊谷直盛
大分郡 57,929石…早川直政
海士辺郡 44,800石…垣見一直・宮部継潤
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月15日 26歳
本願寺教如大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条

文禄2年 1593年 閏9月16日 26歳
豊臣秀吉が本願寺の住持職について、譲状に基づき、本願寺教如を退け、弟・准如に相続させるよう命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条・同年月17日条

文禄2年 1593年 10月1日 26歳
豊臣秀吉が、秀吉の子・お拾に甥・豊臣秀次の娘を嫁がせるよう命じる。この婚約につき、前田利家と松の夫妻に仲人を命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月2日 26歳
戌刻(19-21時)、豊臣秀次が大垣(美濃国)に到着する。大垣本町助三の所に宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月3日 26歳
未刻(13-15時)、豊臣秀次が清州(尾張国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月9日 26歳
豊臣秀次が伊庭(近江国)に宿泊する。徳永寿昌が膳を進上する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月10日 26歳
豊臣秀次が草津(近江国)に宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月11日 26歳
辰刻(7-9時)、豊臣秀次聚楽第(山城国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月20日 26歳
豊臣秀次が少しく咳をする。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月23日 26歳
豊臣秀次が清州町奉行に池田丹後、昆野下野、三輪五右衛門を補任する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月29日 26歳
豊臣秀保聚楽第(山城国)にいる兄・秀次のもとを訪問する。秀次は秀保に村雲の脇差を贈る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 1月29日 27歳
豊臣秀次大坂城(摂津国)を訪問し、叔父・秀吉のもてなしを受ける。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月16日 27歳
豊臣秀次伏見城(山城国)に居る叔父・秀吉を訪れ夕飯をともにする。秀次は聚楽第(山城国)に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月21日 27歳
朝、伏見城(山城国)山里丸にて豊臣秀吉が甥・秀次と茶湯をする。
午刻(11-13時)、秀次は聚楽第(山城国)に帰る。
秀吉は大坂城(摂津国)に向け出発する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月22日 27歳
豊臣秀次聚楽第(山城国)にて能を催す。能で織田信雄が「百万」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月25日 27歳
豊臣秀次春日社に参詣する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月27日 27歳
豊臣秀吉豊臣秀次が吉野山を登山する。茶屋にて秀吉は「吉野山 梢に残る花のいろ 村消みゆる 雲の明ほの」と、関屋にて秀吉は「芳野山 たかせきとむる わか心 花に心や つきせさるらん」と詠み、秀次は「木々は花 苔地を雪とみよしのの 山分あかぬ 春の袖哉」と詠む。
秀次は桜本坊に宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月28日 27歳
豊臣秀次が吉野に滞在する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 2月30日 27歳
吉野にて花見をする。豊臣秀次が参加する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月2日 27歳
豊臣秀次が弟・秀保大和郡山城(大和国)に入り、城内の山里丸に宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月3日 27歳
豊臣秀次大和郡山城(大和国)の舞台にて能を催す。秀次自ら「八島」「源氏供養」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月4日 27歳
豊臣秀次大和郡山城(大和国)の藤堂高虎邸を訪問する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月17日 27歳
豊臣秀次が妙心寺辺りを訪れる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月25日 27歳
豊臣秀次が三条口より聚楽第(山城国)に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月2日 27歳
豊臣秀吉施薬院全宗所を訪問する。その後、秀吉は甥・秀次に対面する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月11日 27歳
豊臣秀吉が甥・秀次近衛信輔を薩摩国に配流するよう命じる。具体的には秀次から細川幽斎、里村紹巴に命じ、両人から近衛龍山聖護院道澄を通じ信輔に伝えるよう指示する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月12日 27歳
4月15日の近衛信輔の薩摩国配流につき奉行の一人となった幽斎が、当日は尼崎(摂津国)まで信輔を移送する旨を豊臣秀次に報告する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月15日 27歳
豊臣秀次聚楽第(山城国)において能を催す。織田信雄が「かんたん」「海士」を、徳川家康が「松風」を、前田利家が「杜若」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月16日 27歳
織田信雄(山城国)において能を催す。織田信雄が「直盛」「せかい」(「せかい」は春日大夫とともに)を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月10日 28歳
豊臣秀次聚楽第(山城国)より豊臣秀吉のいる伏見城(山城国)を訪れる。秀吉は能を催す。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月15日 28歳
豊臣秀次前田玄以と協議のうえ、三十三間堂において弓矢を射ることを禁止する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月16日 28歳
弟・秀保が十津川(大和国)にて死去する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『駒井日記』同年月18日条

文禄4年 1595年 7月3日 28歳
豊臣秀次に謀叛の疑いがあるとして、豊臣秀吉前田玄以富田一白増田長盛石田三成を秀次のもとに遣わす。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月8日 28歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 28歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 28歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 28歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

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