人 物 史

大友義統 おおとも よしむね
生 没 年永禄1年(1558)-慶長15年(1610)7/19
出 身豊後国幼 名長寿丸
別 称五郎、吉統、中庵、コンスタンチノ、豊後侍従
法 名宗厳
戒 名中庵宗厳
大友義鎮奈多鑑基の娘
兄 弟 姉 妹大友義統、大友親家、ジュスタ(一条兼定の妻)、テクラ、女(奈多鎮基の妻)、女(一万田鎮実の妻)、女(母里友信の妻)、女(臼杵統尚の妻)、レジナ(伊東義賢の妻)、桂(小早川秀包の妻)、女
配 偶 者尊寿院(吉弘鑑理の娘)
大友義乗、大友貞勝、娘(一尾通春の妻)、佐古局、松野正照、娘
官 位左衛門督、侍従
役 職豊後国守護
城 郭府内城(豊後国)
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ大友義統の関連文化財
大友義統の家臣
大友義統 年表
永禄1年 1558年 -月-日 1歳
大友義統が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正6年 1578年 3月-日 21歳
大友宗麟が日向国の土持親成を攻めるべく軍勢を遣わす。先陣は佐伯惟教・惟真父子・志賀親教、二陣は田北紹鉄・田北鎮周、三陣は田原親貫・田原紹忍、四陣は吉岡統定・田村・小原、五陣は吉弘鎮信、六陣は朽網鑑康、七陣は戸次道雪・戸次玄柵で総勢30000。
出典:『豊薩軍記』巻2「土持叛逆並大友宗麟日州発向之事」

天正6年 1578年 11月12日 21歳
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と島津義久が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」

天正7年 1579年 1月11日 22歳
大友宗麟が家督を子・義統に譲る。
出典:『豊薩軍記』巻3「大友義統探題職の事」

天正8年 1580年 2月24日 23歳
大友義統が浦部城(豊後国)に籠る田原親貫を攻める。
出典:『豊薩軍記』巻3「田原右馬頭親貫叛逆の事」

天正8年 1580年 8月12日 23歳
織田信長が、大友宗麟島津義久の和睦を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正13年 1585年 8月5日 28歳
島津領内にて羽柴秀吉勢が四国に渡海し、長宗我部元親の退治と、その後の九州攻めが噂される。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 8月8日 28歳
島津家久が上井覚兼に伊地知某を遣わす。伝えた内容は、大友義統一が阿蘇惟光と通じ、三田井親武・甲斐宗摂に鎧・兜を送り、義統自身は県に到着していると伝える。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 9月11日 28歳
立花道雪が死去する。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花鑑連」

天正14年 1586年 2月5日 29歳
甲斐宗摂が山伏をもって高森城(日向国)の高森惟直が大友義統に属したことから、新納忠元とともに惟直を攻め、討ち取ったと上井覚兼に書状をもって伝える。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 2月5日 29歳
志賀親守が大友義統の勘気を蒙り、迦住城に隠居する。道輝は義統との関係を絶ち、入田義実と一味する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 2月16日 29歳
入田宗和よりの使者が上井覚兼のもとに到着する。宗和は志賀道益が大友義統の勘気を蒙り菅迫に隠居させられたが、道益は宗和と一味し、島津義久に豊後国へ攻め入るよう促す。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 7月13日 29歳
高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻めるため、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が太宰府観世音寺に陣取る。龍造寺政家、秋月種実高橋元種等が城を包囲する。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月14日 29歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻める。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月27日 29歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 7月29日 29歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が立花宗茂の籠る立花山城(筑前国)を攻めるべく、岩屋城(筑前国)を出立する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 10月2日 29歳
仙石秀久大友義統が、朽網鑑康・一万田鑑実を豊後国に残し、豊前国に陣替えする。
出典:『上井覚兼日記』同年月10日条

天正14年 1586年 12月7日 29歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月8日 29歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月9日 29歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月10日 29歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻め、城が落ちる。宗魚は戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 29歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正15年 1587年 1月25日 30歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 30歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 30歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 30歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 30歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 30歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 30歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 30歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 30歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 30歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 30歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 30歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 30歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 30歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 30歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 30歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 30歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 30歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 30歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 30歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 30歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 30歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 30歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 5月23日 30歳
父・宗麟が死去する。
出典:-

天正15年 1587年 6月18日 30歳
豊臣秀吉が、筥崎(筑前国)の海辺にて歌会を催す。山名禅高細川幽斎等が参加する。
日向国・大隅国の仕置きを終えた小早川隆景が箱崎に到着する。
秀吉が九州の国替えを行う。
隆景に筑前国、肥前国基肄郡・養父郡、筑後国三井郡・三原郡を給付する。隆景は立花山城(筑前国)に入城する。
隆景の伊予国23000石の所領を、安国寺恵瓊に給付する。
秀吉が秋月種長を財部(日向国)に移し30000石を給付する。
立花宗茂を立花山城から筑後国下三郡に移す。
高橋統増に筑後国三池郡を給付する。
小早川秀包に筑後国上三郡を給付する。
筑紫広門に筑後国上妻郡を給付する。
高橋元種を香春(豊前国)より県(日向国)に移す。
龍造寺政家の肥前国の本領を安堵するとともに三郡を加増する。
大友義統に豊後国を安堵する。
相良長毎、伊東祐兵、有馬、平戸、大村、五島、宗義智の本領を安堵する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正20年 1592年 10月27日 35歳
李如松率いる明軍50000が山海関を出立する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄1年 1592年 12月8日 35歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月25日 35歳
李如松率いる明軍50000が鴨緑江を渡る。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月3日 36歳
李如松率いる明軍50000が安定館に到着する。小西行長大友義統黒田長政小早川秀包に加勢を依頼する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月6日 36歳
李如松率いる明軍43000と朝鮮軍8000が、小西行長宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄が守る平壌を攻める。行長が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月8日 36歳
夜、小西行長が平壌城より撤退する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月9日 36歳
8日夜に平壌城を撤退し明軍の追撃を受けていた小西行長が黒田家家臣・小河信章の守る龍泉寺に入城する。信章は行長を追う明を退ける。黒田長政が行長を白川城に迎える。行長は撤退を勧めるが、長政および小早川秀包は応戦を主張し、行長には撤退を勧める。龍泉城の信章は栗山利安の陣取る江陰に入り、秀包は牛峯に陣取る。
明軍は江陰を攻め、黒田勢の利安・黒田直之・母里友信・後藤基次・衣笠景延が応戦する。黒田勢は長政本陣の白川城まで引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月10日 36歳
黒田長政が籠る白川城を明軍が攻める。長政が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月16日 36歳
李如松率いる明軍が開城府に入城する。
出典:『黒田家譜』巻7「長政記」

慶長1年 1596年 10月27日 39歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長5年 1600年 9月7日 43歳
大友義統が上関(周防国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月10日 43歳
黒田如水勢が高田城(豊後国)の竹中重信の軍勢と合流し、赤根峠に陣取る。
夜、大友義統が浜脇(豊後国)に到着する。大友勢は松井康之有吉立行の籠る杵築城(豊後国)を攻める。孝高は井上之房・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平大夫・母里与三兵衛・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の軍勢3000を援軍として遣す。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月11日 43歳
黒田如水が垣見理右衛門・藤井九左衛門の籠る富来城(豊後国)を包囲する。如水は杵築城(豊後国)の救援に向かうため、同城より引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月12日 43歳
黒田如水が安岐城(豊後国)の近くに陣取る。如水勢と安岐城を守っていた熊谷次郎介が戦う。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月13日 43歳
石垣原の合戦で黒田如水大友義統が戦い、如水が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 43歳
大友義統黒田如水に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長15年 1610年 7月19日 53歳
大友義統が死去する。
出典:-

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