人 物 史

大友義鎮 おおとも よししげ
生 没 年享禄3年(1530)1/3-天正15年(1587)5/6
出 身豊後国府内幼 名塩法師丸
別 称五郎、新太郎、休庵、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎、ドン・フランシスコ
法 名宗滴、宗麟
戒 名瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士
大友義鑑坊城氏の娘
兄 弟 姉 妹大友義鎮大内義長、大友塩市丸、女(一条房基の妻)、女(河野通宣の妻)、女(吉弘鑑哩の妻)、女(小田部鎮元の妻)、女
配 偶 者一色義清の娘、奈多鑑基の娘、一万田親実の娘
大友義統、大谷親家、大友親盛、ジェスタ(一条兼定の妻)、娘(久我三休の妻)、娘(奈多鎮基の妻)、娘(一万田鎮実の妻)、娘(母里友信の妻)、娘(臼杵統尚の妻)、桂(毛利秀包の妻)
官 位左衛門督
役 職室町幕府 相伴衆
豊後国守護、豊前国守護、肥前国守護、肥後国守護、筑前国守護、筑後国守護、九州探題
城 郭府内城(豊後国)、臼杵城(豊後国)
参 考 文 献大友義鎮に関する参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ大友義鎮の関連文化財
大友義鎮の家臣
大友義鎮 年表
享禄3年 1530年 1月3日 -29歳
大友義鎮が生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 -月-日 -27歳
弟・大内義長が生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 -27歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
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天文10年 1541年 7月27日 -18歳
豊後神宮寺に唐船が着津し、明人280名が大友義鎮のもとを訪れる。
出典:『豊薩軍記』巻1「宗麟政務並唐船渡海之事」

天文12年 1543年 8月7日 -16歳
唐船5叟が豊後国に着津する。
出典:『豊薩軍記』巻1「宗麟政務並唐船渡海之事」

天文15年 1546年 -月-日 -13歳
唐船が佐伯浦(豊後国)に着津する。
出典:『豊薩軍記』巻1「宗麟政務並唐船渡海之事」

天文19年 1550年 2月10日 -9歳
田口鑑親・津久見美作守が居館にいた大友義鑑を襲撃し、大友塩市丸が死去する。義鑑は重傷を負う。
出典:-

天文19年 1550年 2月12日 -9歳
父・義鑑が死去する。
出典:-

天文20年 1551年 8月16日 -8歳
大友義鎮が肥後国に向けて府内城(豊後国)より出陣する。佐伯惟教、志賀親安、志賀鑑高、朽網鑑安、田原紹忍。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文20年 1551年 8月19日 -8歳
大友義鎮が坂足(肥後国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文20年 1551年 8月20日 -8歳
大友義鎮が小国(肥後国)に陣取り、満願寺(肥後国)に本陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文20年 1551年 8月-日 -8歳
大友義鎮が、佐伯惟教に合志常陸守の合志城(肥後国)を攻めを命じる。惟教は合志城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文20年 1551年 8月23日 -8歳
大友義鎮が城弥三郎の隈部城(肥後国)に志賀、朽網鑑安を遣わす。弥三郎は義鎮に降伏する。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文20年 1551年 8月28日 -8歳
大友義鎮が宇土佐兵衛の宇土城(肥後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文20年 1551年 9月1日 -8歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文20年 1551年 9月1日 -8歳
宇土佐兵衛が大友義鎮に降伏する。
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」

天文21年 1552年 3月1日 -7歳
大内義長が三田尻(周防国)に到着する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文21年 1552年 3月3日 -7歳
大内義長が山口(周防国)に到着する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻20「大内義長山口入之事」

天文23年 1554年 11月20日 -5歳
木原(豊後国)にて大友義鎮の命を受けた立花道雪が由布惟信・安藤家忠・安藤連忠・小野信幸とともに菊池義武を包囲し、義武は自害する。
出典:-

天文24年 1555年 10月1日 -4歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 -4歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治3年 1557年 4月3日 -2歳
弟・大内義長が死去する。
出典:-

弘治3年 1557年 7月12日 -2歳
佐伯惟教・戸次鑑連高橋鑑種・臼杵鑑速・田北・朽網・志賀・吉弘・吉岡・田村・小原率いる大友勢20000が秋月文種の籠る古処山城(筑前国)を攻め、同城を落とす。文種は自害する。文種の子・種実は城より脱出する。
出典:『陰徳太平記』巻31「秋月文種切腹付筑紫惟門退防州事」

弘治4年 1558年 2月28日 -1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 -月-日 -1歳
子・義統が生まれる。
出典:-

永禄5年 1562年 4月-日 3歳
足利義輝の調停により毛利元就大友義鎮が和睦する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄5年 1562年 -月-日 3歳
大友義鎮大徳寺の僧・怡雲悦和尚を府内(豊後国)に招請する。
出典:『豊薩軍記』巻1「丹生島築城之事」

永禄5年 1562年 -月-日 3歳
大友義鎮が剃髪し、宗麟と号す。宗麟に倣い、家臣の田原親賢、志賀伊予守、戸次鑑連も出家し、紹忍、道輝、道雪と号す。
出典:『豊薩軍記』巻1「丹生島築城之事」

永禄6年 1563年 1月-日 4歳
大友宗麟が丹生島(豊後国)に築城をするにつき縄張りを打つ。
出典:『豊薩軍記』巻1「丹生島築城之事」

永禄6年 1563年 6月-日 4歳
丹生島城(豊後国)が完成する。
出典:『豊薩軍記』巻1「丹生島築城之事」

永禄8年 1565年 5月17日 6歳
大友義鎮勢が立花鑑載の籠る立花山城(筑前国)を攻め、同城を落とす。
大友勢:戸次鑑連・田原親広・田原親賢・臼杵鑑速・志賀親安・志賀鑑高・朽網鑑安・一万田鑑実。
立花鑑載勢:立花鑑載、原田親種。
出典:『陰徳太平記』巻39「大友宗麟攻立花城付立花鑑載切腹之事」、『西国太平記』巻6「筑前国立花城を逼むる事幷井原田の事」

永禄8年 1565年 5月19日 6歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月7日 8歳
戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢が太宰府(筑前国)に陣取る。鑑速が高橋鑑種の家臣が籠る岩屋城(筑前国)を攻め、同城を落とす。鑑連、鑑理は宝満城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 7月11日 8歳
斎藤鑑実率いる大友勢が筑紫広門の籠る三上山城(肥前国)を攻めるが、退けられる。
出典:『豊薩軍記』巻3「龍造寺蜂起之事」

永禄10年 1567年 7月27日 8歳
筑紫広門が大友宗麟に降伏する。
出典:『豊薩軍記』巻3「龍造寺蜂起之事」

永禄10年 1567年 8月15日 8歳
戸次鑑連・臼杵鑑速率いる大友勢が秋月種実領の嘉摩郡、穂波郡に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 9月3日 8歳
夜、秋月種実が休松(筑前国)に陣取る戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢に夜襲を仕掛け、大友勢は敗走する。大友勢は戸次鑑方、戸次親宗、戸次鑑繁、戸次鑑堅、十時右近、由布五兵衛、安東右馬允、綿貫勘解由が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 11月5日 9歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

永禄12年 1569年 4月4日 10歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢が壇(筑前国)に陣取る。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月4日 10歳
吉川元春小早川隆景等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻めるべく壇(筑前国)を発つ。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月16日 10歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直杉原盛重等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月5日 10歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢の攻撃を受けている立花山城(筑前国)を救うべく、大友勢が同城の後詰めとして到着する。大友勢と毛利勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月18日 10歳
立花山城(筑前国)近くで、吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢と戸次道雪率いる大友勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 -月-日 10歳
吉岡長増が大友宗麟に対し、周防国を大内輝弘に攻めさせるよう提案する。宗麟は長増の提案を容れ、輝弘に軍勢をつける。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月11日 10歳
大内輝弘が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月13日 10歳
大内輝弘が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月14日 10歳
山口(周防国)に陣取る大内輝弘のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 10月15日 10歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 12月-日 10歳
龍造寺隆信秋月種実高橋鑑種を攻めるため、吉弘鑑理・臼杵鑑速・戸次鑑連が豊後国より出陣し、日田・珠洲(豊後国)に陣取る。
出典:『高橋紹運記』巻4「豊州屋形宗麟公於筑後御出張の事」

永禄13年 1570年 1月11日 11歳
龍造寺隆信秋月種実高橋鑑種を攻めるため、大友宗麟が出陣する。吉弘鑑理・臼杵鑑速・戸次鑑連は高良山(筑前国)に陣替えする。
出典:『高橋紹運記』巻4「豊州屋形宗麟公於筑後御出張の事」

永禄13年 1570年 3月16日 11歳
三好義長松永久秀大友宗麟の使僧、太田垣氏の使者、宇喜多直家の使者、和泉国衆、河内国衆の20人程が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 11歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 11歳
阿弥(肥前国)・境原(肥前国)に陣取る立花道雪、臼杵鑑速に対し、龍造寺隆信鍋島直茂が奇襲をかける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 6月18日 11歳
大友親貞が龍造寺隆信の籠る佐賀城(肥前国)を攻めるべく今山(肥前国)・大願寺村(肥前国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 7月6日 11歳
大友宗麟の命により筑後国衆が浮盃津を攻める。龍造寺勢が応戦し、筑後国衆を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 7月7日 11歳
大友宗麟の命により筑後国衆が浮盃津を攻める。龍造寺勢が応戦し、筑後国衆を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 8月17日 11歳
大友宗麟の命により筑後国衆が北端津を攻める。龍造寺勢が応戦し、筑後国衆を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 8月21日 11歳
卯刻(5-7時)、龍造寺隆信が、今山(肥前国)に陣取る大友親貞を奇襲し、成松信勝が親貞を討ち取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 10月3日 11歳
大友宗麟龍造寺隆信が和睦する。
出典:『豊薩軍記』巻3「龍造寺蜂起之事」

元亀2年 1571年 6月14日 12歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 6月23日 12歳
島津貴久が薩摩国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

元亀2年 1571年 -月-日 12歳
戸次鑑連が筑前国守護代になるとともに、立花家の名跡を継ぎ、立花山城(筑前国)城主となる。
出典:『高橋紹運記』

天正1年 1573年 7月28日 14歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 9月16日 14歳
一条兼定が隠居し、家督を一条内政に譲る。兼定は妻の生家である大友宗麟のもとに身を寄せる。
出典:『陰徳太平記』巻50「一条兼定卿御流離之事」

天正3年 1575年 -月-日 16歳
臼杵浦(豊後国)に唐船が着津する。
出典:『豊薩軍記』巻1「宗麟政務並唐船渡海之事」

天正4年 1576年 6月-日 17歳
大友宗麟が南蛮人より大砲を贈られる。宗麟はそれを「国崩」を名付ける。
出典:『豊薩軍記』巻1「豊州流言之事」

天正6年 1578年 3月-日 19歳
大友宗麟が日向国の土持親成を攻めるべく軍勢を遣わす。先陣は佐伯惟教・惟真父子・志賀親教、二陣は田北紹鉄・田北鎮周、三陣は田原親貫・田原紹忍、四陣は吉岡統定・田村・小原、五陣は吉弘鎮信、六陣は朽網鑑康、七陣は戸次道雪・戸次玄柵で総勢30000。
出典:『豊薩軍記』巻2「土持叛逆並大友宗麟日州発向之事」

天正6年 1578年 4月-日 19歳
大友勢が土持親成の籠る行縢城(日向国)を攻め、同城を落とす。親成は捕縛される。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 4月-日 19歳
大友宗麟の命により土持親成が切腹する。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 4月-日 19歳
立花道雪、志賀親教が土持家家臣・奈津田弾左衛門が籠る橋岸砦(日向国)を攻め、同砦を落とす。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 4月-日 19歳
大友勢が土持親成の籠る松尾城(日向国)を攻め、同城を落とす。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 10月-日 19歳
大友義鎮が丹生島城(豊後国)を発ち、無鹿(日向国)に陣取る。当地にて領国内の諸勢が集まるのを待つ。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 10月-日 19歳
大友義鎮が御門(日向国)に柴田礼能、柴田五右衛門、山田匡徳の軍勢1200を、坪矢城に斎藤内記兵衛、塩手佐助、胡麻津留新助の軍勢1300を、高城(日向国)に佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、田北鎮周、田原紹忍、田原親貫、臼杵統景の軍勢38000を遣わす。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 10月10日 19歳
高城(日向国)に向かった佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、田北鎮周、田原紹忍、田原親貫、臼杵統景の軍勢38000が名貫川を渡り名貫原に陣取る。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 10月11日 19歳
佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、田北鎮周、田原紹忍、田原親貫、臼杵統景の軍勢38000が島津家家臣・山田有信の籠る高城(日向国)を包囲する。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 11月12日 19歳
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と島津義久が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」

天正6年 1578年 11月14日 19歳
大友宗麟臼杵城(豊後国)に帰城する。
出典:『豊薩軍記』巻2「豊州勢敗北並田北三郎兵衛事」

天正7年 1579年 1月11日 20歳
大友宗麟が家督を子・義統に譲る。
出典:『豊薩軍記』巻3「大友義統探題職の事」

天正8年 1580年 2月24日 21歳
大友義統が浦部城(豊後国)に籠る田原親貫を攻める。
出典:『豊薩軍記』巻3「田原右馬頭親貫叛逆の事」

天正8年 1580年 8月12日 21歳
織田信長が、大友宗麟島津義久の和睦を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正10年 1582年 6月2日 23歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 3月24日 25歳
沖田畷(肥前国)にて、龍造寺隆信島津家久が戦い、隆信は戦死し、家久が勝利する。川上忠堅が隆信を討ち取る。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正13年 1585年 8月5日 26歳
島津領内にて羽柴秀吉勢が四国に渡海し、長宗我部元親の退治と、その後の九州攻めが噂される。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 8月8日 26歳
島津家久が上井覚兼に伊地知某を遣わす。伝えた内容は、大友義統一が阿蘇惟光と通じ、三田井親武・甲斐宗摂に鎧・兜を送り、義統自身は県に到着していると伝える。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 9月11日 26歳
立花道雪が死去する。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花鑑連」

天正14年 1586年 2月5日 27歳
志賀親守が大友義統の勘気を蒙り、迦住城に隠居する。道輝は義統との関係を絶ち、入田義実と一味する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 2月16日 27歳
入田宗和よりの使者が上井覚兼のもとに到着する。宗和は志賀道益が大友義統の勘気を蒙り菅迫に隠居させられたが、道益は宗和と一味し、島津義久に豊後国へ攻め入るよう促す。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 7月13日 27歳
高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻めるため、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が太宰府観世音寺に陣取る。龍造寺政家、秋月種実高橋元種等が城を包囲する。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月14日 27歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻める。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月27日 27歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 7月29日 27歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が立花宗茂の籠る立花山城(筑前国)を攻めるべく、岩屋城(筑前国)を出立する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 10月2日 27歳
仙石秀久大友義統が、朽網鑑康・一万田鑑実を豊後国に残し、豊前国に陣替えする。
出典:『上井覚兼日記』同年月10日条

天正14年 1586年 12月12日 27歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正15年 1587年 1月25日 28歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 28歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 28歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 28歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 28歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 28歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 28歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 28歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 28歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 28歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 28歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 28歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 28歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 28歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 28歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 28歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 28歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 28歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 28歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 28歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月23日 28歳
大友宗麟が死去する。
出典:-

慶長2年 1597年 11月17日 
伏見城(山城国)内にて豊臣秀吉が、前田利家織田有楽斎西笑承兌とともに閑談する。秀吉が金子70枚で針屋源十郎から購入した星肩衝、で購入した小肩衝、金森可重より進上のシリブクラの小壺、虚堂墨蹟(の若狭屋宗加→大友宗麟蒲生氏郷→秀吉)を見せる。虚堂墨蹟は承兌に賜う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

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