人 物 史

蘆名義広 あしな よしひろ
生 没 年天正3年(1575)-寛永8年(1631)6/7
出 身-幼 名-
別 称佐竹喝食丸、白河義広、平四郎、盛重、義勝
法 名-
戒 名-
佐竹義重
白河義親[養父]
伊達晴宗の娘
兄 弟 姉 妹佐竹義宣蘆名義広、女(江戸実通の妻)、岩城貞隆、岩城宣隆、佐竹義直
配 偶 者蘆名盛興の娘・蘆名盛隆の養女
蘆名盛泰、蘆名盛俊
官 位主計頭
役 職-
城 郭黒川城(陸奥国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
蘆名義広 年表
天正3年 1575年 -月-日 1歳
蘆名義広が生まれる。
出典:-

天正12年 1584年 10月6日 10歳
蘆名盛隆が死去する。
出典:-

天正13年 1585年 8月-日 11歳
佐竹義重の子・義広が蘆名盛隆の娘を娶り、蘆名家に養子入りする。
出典:『蘆名家記』巻第2「蘆名家養子之事」

天正13年 1585年 8月24日 11歳
伊達政宗が小手森城(陸奥国)を攻める。蘆名勢が小手森城の助勢として同城近所に陣取る。蘆名・大内定綱・畠山義継と政宗が戦う。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 11月10日 11歳
佐竹義重蘆名義広、岩城常隆、石川昭光、白河義親の連合軍が須賀川(陸奥国)に陣取る。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 11月16日 11歳
佐竹義重蘆名義広、岩城常隆、石川昭光、白河義親の連合軍が前田沢南ノ原(陸奥国)に陣取り高倉に攻め入るとの報に接した伊達政宗が、岩津野(陸奥国)より本宮(陸奥国)に移る。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 11月18日 11歳
佐竹義重蘆名義広、岩城常隆の諸勢が前田沢(陸奥国)より撤退する。
出典:『伊達日記』上

天正16年 1588年 5月11日 14歳
蘆名盛隆の妻が死去する。
出典:(天正16年)5月13日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-370号)

天正16年 1588年 7月4日 14歳
伊達政宗佐竹義重蘆名義広が戦う。義重旗本50余人が戦死する。
出典:(天正16年)7月4日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-378号)

天正17年 1589年 6月5日 15歳
伊達政宗蘆名義広が戦い、政宗が勝利する。蘆名勢は金上盛備、針生等の馬上300騎、野伏等2000余人が戦死する。
出典:(天正17年)6月5日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-420号)

天正17年 1589年 11月10日 15歳
浅野長政富田信広伊達政宗に、会津(陸奥国)侵攻について、豊臣秀吉が立腹していること、ただし、政宗および蘆名義広双方の言い分を聞いたうえで、会津の領有について裁定を下すことを伝える。
出典:(天正17年)11月10日付浅野長政・富田信広連署状(『伊達家文書』1-440号)

文禄1年 1592年 12月8日 18歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 22歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
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慶長17年 1612年 4月19日 38歳
父・義重が花立村(出羽国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元和1年 1615年 7月13日 41歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 50歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永8年 1631年 6月7日 57歳
蘆名義広が死去する。
出典:-

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