人 物 史

浅野長政 あさの ながまさ
生 没 年天文16年(1547)-慶長16年(1611)4/7
出 身尾張国春日井郡北野幼 名-
別 称長吉、弥兵衛
法 名-
戒 名伝正院殿前霜台功山道忠大居士
安井重継
浅野長勝[養父]
浅野長詮の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者やや(長生院)(浅野長勝の娘)
浅野幸長浅野長晟、浅野長重、娘(杉原長房の妻)、娘(堀親良の妻)、娘(松平定綱の妻)、養女(多羅尾光定の妻)
官 位弾正少弼、侍従
役 職-
城 郭坂本城(近江国)、大津城(近江国)、甲府城(甲斐国)
参 考 文 献浅野長政に関する参考文献
関 連 デ ー タ浅野長政の関連文化財
史料にみえる浅野長政の呼称
浅野長政 年表
天文16年 1547年 -月-日 1歳
浅野長政が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 9歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 12歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 24歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 27歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 12月-日 27歳
浅野長政羽柴秀吉より111石を給付される。
出典:天正1年12月吉日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』307号)

天正2年 1574年 9月11日 28歳
羽柴秀吉浅野長政に持寺郷内120石を給付する。
出典:天正2年9月11日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』308号)

天正4年 1576年 -月-日 30歳
子・幸長が生まれる。
出典:『系図纂要』「浅野」

天正7年 1579年 1月11日 33歳
羽柴秀吉浅野長政に近江国北郡郷福永内300石を給付される。
出典:天正7年1月11日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』309号)

天正8年 1580年 1月15日 34歳
羽柴秀吉に兵糧攻めを受けている三木城(播磨国)の別所長治が、自身と別所賀相・別所友之の自害を条件に籠城している兵卒の助命を、書状をもって浅野長政・別所重棟に伝え、秀吉に請う。秀吉は長治の請いを受け入れる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」

天正8年 1580年 1月17日 34歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正9年 1581年 3月18日 35歳
羽柴秀吉浅野長政に播磨国揖東郡内にて香山上下1376石4斗、網干1255石、小宅荘堂本村591石1斗、小宅荘中村541石7斗および90石3升、727石4斗、松山阿曽村601石9斗、松尾村106石3斗、佐々村300石の合わせて5600石を給付する。
出典:天正9年3月18日付浅野長政知行目録(『浅野家文書』311号)

天正10年 1582年 3月15日 36歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 6月4日 36歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正10年 1582年 7月8日 36歳
浅野長政が奉行として興福寺領木津(山城国)の指出の提出を命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 7月24日 36歳
興福寺が木津(山城国)の指出を浅野長政へ提出する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月19日 36歳
羽柴秀吉浅野長政に山科1560石、十一ヶ郷1000石、槙島500石の合わせて3060石を加増する。
出典:天正10年10月19日付羽柴秀吉判物(『浅野家文書』312号)

天正10年 1582年 10月25日 36歳
根来寺衆の泉南侵攻にともない、羽柴勢の先勢として浅野長政中村一氏、伊藤掃部、筒井順慶、若江三人衆、三好信吉三好康長が泉南に出陣する。
出典:天正10年10月22日付羽柴秀吉書状(『浅野家文書』9号)

天正11年 1583年 4月24日 37歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 7月4日 37歳
紀伊より貝塚(和泉国)に到着した本願寺顕如円山内匠をもって浅野長政石田佐吉に書状を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 7月4日 37歳
雑賀衆の案内により紀伊から貝塚(和泉国)に移る。雑賀衆のうち貝塚までは平太夫、根太夫、明道、船頭の佐之助が、嘉祥寺までは刑部助、刑部大夫、刑部大夫弟が案内する。
羽柴秀吉へ音信として円山内匠を遣わし大樽10を贈る。浅野長政石田佐吉堀秀政羽柴秀長にも書状を遣わす。ただし長政には以前に送った音信が留守のため渡せなかったので、下間頼廉の書状にて音信として銀5枚を贈る。
岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月24日 37歳
本願寺顕如が有馬湯治の土産として、羽柴秀吉に錫1対・有馬挽物食籠5つ、浅野長政石田三成に綿10把を贈る。使者は河野越中。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 12月28日 37歳
本願寺顕如が歳暮の礼として羽柴秀吉に小袖3・帯3筋を、浅野長政石田三成増田長盛に銭500疋を遣わす。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月9日 38歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 9月9日 38歳
杉原家次が死去する。
出典:-

天正13年 1585年 1月5日 39歳
浅野長政中村一氏本願寺顕如のもとへ礼として赴く。顕如は両名に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 39歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月15日 39歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻める。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 7月16日 39歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻め、外城を落とす。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正14年 1586年 1月28日 40歳
子・長晟が近江国滋賀郡坂本にて生まれる。
出典:-

天正14年 1586年 10月27日 40歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 41歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 41歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 41歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 41歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 41歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 41歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 41歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 41歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 41歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 41歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 41歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 41歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 41歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 41歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 41歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 41歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 41歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 41歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 41歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 41歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 41歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 41歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 41歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 1月20日 42歳
肥後国一揆につき、豊臣秀吉浅野長政加藤清正小西行長率いる軍勢20000を派遣する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 7月22日 42歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家黒田孝高の案内にて上洛する。淀(山城国)にて豊臣秀吉が迎えの使者として前野長康・浅野長政を、豊臣秀長藤堂高虎を、豊臣秀次が白井権大夫を遣わす。輝元、隆景、広家は京都に入り、輝元は妙顕寺に、隆景は本法寺に、広家は妙蓮寺に宿泊する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月24日 42歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 -月-日 42歳
浅野長政日吉社大宮の上葺を寄進。
出典:『華頂要略』附録祐能記

天正17年 1589年 9月3日 43歳
伊達政宗の会津(陸奥国)侵攻について、伊達家家臣・上郡山仲為が浅野長政に釈明する。まず、政宗の上洛が遅れていることについては、上杉景勝が伊達領に侵攻しているためとする。次いで会津侵攻について、伊達輝宗の代に、蘆名家へは政宗の弟が入嗣する予定であったが、その約束を違え、蘆名義広が入嗣することになり、かつ義広は白河・石川・岩城・岩瀬・相馬・大崎・黒川・最上義光とともに伊達家を討ち果たさんとしていたため、政宗は応戦したと説明する。なお、陸奥国54郡の支配については、伊達家が探題として任されていることは周知のことであること、釈明が遅れた理由は、景勝と手切れとなり使者の路次確保が困難であったためと伝える。
出典:(天正17年)9月3日付上郡山仲為書状(『伊達家文書』1-431号)

天正17年 1589年 10月1日 43歳
浅野長政の所司代就任を祝い西笑承兌が礼に訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月10日 43歳
浅野長政富田信広伊達政宗に、会津(陸奥国)侵攻について、豊臣秀吉が立腹していること、ただし、政宗および蘆名義広双方の言い分を聞いたうえで、会津の領有について裁定を下すことを伝える。
出典:(天正17年)11月10日付浅野長政・富田信広連署状(『伊達家文書』1-440号)

天正17年 1589年 11月20日 43歳
浅野長政伊達政宗に、会津(陸奥国)侵攻について、豊臣秀吉が政宗の主張する蘆名義広から仕掛けた合戦であるという釈明にも耳を傾けており、政宗と義広の双方の言い分を聞いたうえで、会津の領有について裁定を下すようになっていることを伝える。
出典:(天正17年)11月10日付浅野長政・富田信広連署状(『伊達家文書』1-440号)

天正17年 1589年 11月-日 43歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。浅野長政は軍勢3000で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正17年 1589年 12月5日 43歳
前田利家浅野長政伊達政宗に、翌年春に北条氏成敗のため豊臣秀吉が出陣すること、早く上洛することを伝える。
出典:(天正17年)12月5日付前田利家・浅野長政連署状(『伊達家文書』1-457号)

天正17年 1589年 12月5日 43歳
北野社境内地の地子等免許を認める豊臣秀吉朱印状が浅野長政より松梅院禅永に渡される。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 1月21日 44歳
豊臣秀吉浅野長政のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に今出川晴季勧修寺晴豊、中山、日野、高倉、前田利家施薬院全宗が相伴する。
出典:『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号)

天正18年 1590年 3月1日 44歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 5月20日 44歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 44歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 44歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 7月1日 44歳
浅野長政忍城(武蔵国)皿尾口を攻め30名を討ち取る。
出典:(天正18年)7月3日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』21号)

天正18年 1590年 7月6日 44歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 44歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月14日 44歳
織田信雄が、忍城(武蔵国)攻め落とした浅野長政の働きを賞すとともに、手負いを多く出したことを労わる。
出典:(天正18年)7月14日付織田信雄書状(『浅野家文書』20号)

天正18年 1590年 8月11日 44歳
豊臣秀吉が会津(陸奥国)を蒲生氏郷に給付することを浅野長政に伝える。
出典:(天正18年)8月11日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』60号)

天正18年 1590年 12月28日 44歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正19年 1591年 3月13日 45歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 45歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 7月19日 45歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 7月27日 45歳
徳川家康が白河(陸奥国)に在陣中であること、大森(陸奥国)にて豊臣秀次を待つことを、蒲生氏郷浅野長政に伝える。
出典:(天正19年)7月27日付徳川家康書状(『浅野家文書』58号)

天正19年 1591年 8月18日 45歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 45歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 45歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 46歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月18日 47歳
豊臣秀吉鍋島直茂に漢城と釜山浦の間に陣取るよう指示し、具体的な場所については浅野長政黒田孝高と相談して決めるようにとする。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)

文禄2年 1593年 2月26日 47歳
豊臣秀吉浅野長政に、釜山浦にて兵粮米を請け取り蔵へ入れ、必要に応じて諸将に扶持すること、兵粮・軍勢を運んだ船を派遣したので、すぐに請け取り間違いなく船を戻すようにと命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』79号)

文禄2年 1593年 3月10日 47歳
豊臣秀吉が釜山浦に在陣中の浅野長政増田長盛に城普請を命じる。釜山浦に在陣の衆は、長政・浅野幸長伊達政宗(軍勢4900)、織田秀信(軍勢6000)、長盛(軍勢1000)、長盛麾下の宇都宮国綱(軍勢300)、長盛麾下の里見義康(軍勢150)、長盛麾下の那須資晴・成田氏長(軍勢220)の総勢12600。
出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号)

文禄2年 1593年 5月18日 47歳
浅野長政が釜山浦にて城米156石2斗5升を請け取る。
出典:同年月日付浅野長政城米請取状(『浅野家文書』72号)

文禄2年 1593年 5月20日 47歳
豊臣秀吉が牧使城の包囲を命じる。包囲の衆は、鍋島直茂(軍勢7642)、黒田長政(軍勢5082)、加藤清正・相良頼房(軍勢6790)、毛利吉成(軍勢1671)、島津義弘(軍勢2128)、高橋元種(軍勢741)、秋月種長(軍勢388)、島津忠豊(476)、伊東祐兵(706)の総勢30980と小西行長宗義智・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・有馬晴信(軍勢7415)、長谷川秀一(軍勢2470)、細川忠興(軍勢2296)、昌原十一人衆(軍勢4400)、浅野長政長継父子(軍勢4000)、織田秀信(軍勢4018)、伊達政宗(軍勢1258)、黒田孝高(軍勢325)の総勢52000。
出典:文禄3年5月20日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』955号)

文禄2年 1593年 6月29日 47歳
黒田孝高浅野長政が牧使城を攻め落とす。
出典:(文禄2年)8月9日付豊臣秀次朱印状(『浅野家文書』84号)

文禄2年 1593年 閏9月9日 47歳
浅野長政大坂城(摂津国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月11日条

文禄2年 1593年 閏9月23日 47歳
浅野長政が甲斐国を給付される。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 11月20日 47歳
豊臣秀吉浅野長政幸長父子に甲斐国一国を給付すること、伊達政宗、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長を与力として付すことを伝える。
出典:同年月日付豊臣秀吉判物(『浅野家文書』321号)

文禄2年 1593年 6月24日 47歳
宇喜多秀家毛利秀元小早川隆景吉川広家黒田長政加藤清正小西行長浅野長政率いる軍勢45000が晋州城を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻79「遊撃将軍請和並晋州城落去之事」

文禄3年 1594年 4月13日 48歳
浅野長政が甲斐国より上洛す。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 7月8日 49歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 49歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 49歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 49歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 50歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 5月28日 51歳
徳川家康浅野長政有馬豊氏山名禅高相国寺を訪れる。家康より米10石が、長政より生絹帷2、晒帷3が、有馬豊氏より生絹帷1、晒1が、山名禅高より双樽、海苔が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 7月18日 51歳
応其の差配のもと善光寺阿弥陀如来が大津(近江国)から大仏殿に遷座する。その行列には、天台宗・真言宗の僧侶各々50口を先頭に応其、警護の浅野長政が続き、さらに照高院道澄・妙法院常胤・三宝院義演・聖護院興意・梶井宮応胤・曼殊院覚円といった諸門跡が続く。行列を一目見ようと貴賤が群集し、伏見の大名衆は桟敷を構えて行列を眺めたという。
大仏殿到着後は宝塔に善光寺阿弥陀如来が安置される。
この日より、「大仏」を改め「善光寺如来堂」と号す(『鹿苑日録』)。
西笑承兌は大仏は織田信長、大仏を倒した地震は明智光秀、善光寺如来は豊臣秀吉になぞらえる。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月1日 51歳
金森長近浅野長政織田有楽斎山名禅高徳川家康のもとを訪れる。晩、西笑承兌が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月5日 51歳
浅野長政西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。承兌と長政は碁を指し、飯をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長4年 1599年 1月10日 53歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 閏3月3日 53歳
前田利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

慶長4年 1599年 閏3月7日 53歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月9日 53歳
徳川家康が、福島正則蜂須賀家政浅野長政石田三成佐和山城(近江国)に蟄居処分としたことを伝える。
出典:同年月日付徳川家康書状(『浅野家文書』110号)

慶長4年 1599年 閏3月10日 53歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月13日 53歳
午刻(11-13時)、徳川家康伏見城(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 9月7日 53歳
徳川家康大坂城(摂津国)の西ノ丸に入る。
出典:『慶長年中卜斎記』上之巻、『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 10月28日 53歳
富田一白が死去する。
出典:-

慶長5年 1600年 6月16日 54歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 54歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月24日 54歳
徳川家康浅野長政に、子・秀忠の軍勢を信濃口に遣わしたので出陣を依頼する。
出典:同年月日付徳川家康書状

慶長7年 1602年 5月7日 56歳
巳刻(9-11時)、前田玄以が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月8日条

慶長8年 1603年 2月12日 57歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月17日 59歳
浅野長政が東本願寺御影堂に参詣する。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長10年 1605年 9月-日 59歳
京都より江戸城(武蔵国)に帰城途上の徳川家康掛川城(遠江国)の松平定勝のもとを訪れる。その際、家康が定勝に対し、子・定行に島津忠恒の娘を、子・定綱に浅野長政の娘を娶るよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長16年 1611年 4月7日 65歳
浅野長政が死去する。
出典:-

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