人 物 史

佐竹義重 さたけ よししげ
生 没 年天文16年(1547)2/16-慶長17年(1612)4/19
出 身-幼 名徳寿丸
別 称次郎
法 名-
戒 名通庵闐信知足院
佐竹義昭岩城重隆の娘
兄 弟 姉 妹佐竹義重、女(岩城親隆の妻)、佐竹義尚、小場義宗、女(石川昭光の妻)、女(宇都宮広綱の妻)
配 偶 者宝寿院(伊達晴宗の娘)、那須政胤の娘
佐竹義宣蘆名義広、女(江戸実通の妻)、岩城貞隆、岩城宣隆、佐竹義直
官 位常陸介
役 職-
城 郭太田城(常陸国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項
関 連 デ ー タ佐竹義重の家臣
佐竹義重 年表
天文16年 1547年 2月16日 1歳
佐竹義重が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

弘治1年 1555年 10月23日 9歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 12歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 5月19日 19歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 24歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 8月-日 25歳
土浦(常陸国)にて北条氏政佐竹義重が対陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀2年 1571年 10月3日 25歳
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀3年 1572年 1月9日 26歳
佐竹義重が那須(下野国)に攻め入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀3年 1572年 12月26日 26歳
佐竹義重が皆川広照を攻めるため下野国に向け出陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀4年 1573年 2月13日 27歳
佐竹義重が宇都宮(下野国)に帰陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

天正1年 1573年 7月28日 27歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 -月-日 29歳
子・蘆名義広が生まれる。
出典:-

天正4年 1576年 6月10日 30歳
佐竹義重が従五位下・常陸介に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

天正8年 1580年 9月20日 34歳
武田勝頼佐竹義重をはじめとする関東諸家の足利(下野)侵攻にあわせ、上野国に向けて出陣する。
出典:(天正8年)10月12日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2051号)

天正10年 1582年 5月11日 36歳
田村清顕が、伊達輝宗政宗父子の仲介により佐竹義重蘆名盛隆と和睦できたことについて、輝宗に礼をする。
出典:(天正10年)5月11日付田村清顕書状(『伊達家文書』1-246・247号)

天正12年 1584年 10月6日 38歳
蘆名盛隆が死去する。
出典:-

天正13年 1585年 8月-日 39歳
佐竹義重の子・義広が蘆名盛隆の娘を娶り、蘆名家に養子入りする。
出典:『蘆名家記』巻第2「蘆名家養子之事」

天正13年 1585年 11月10日 39歳
佐竹義重蘆名義広、岩城常隆、石川昭光、白河義親の連合軍が須賀川(陸奥国)に陣取る。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 11月16日 39歳
佐竹義重蘆名義広、岩城常隆、石川昭光、白河義親の連合軍が前田沢南ノ原(陸奥国)に陣取り高倉に攻め入るとの報に接した伊達政宗が、岩津野(陸奥国)より本宮(陸奥国)に移る。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 11月18日 39歳
佐竹義重蘆名義広、岩城常隆の諸勢が前田沢(陸奥国)より撤退する。
出典:『伊達日記』上

天正14年 1586年 -月-日 40歳
佐竹義重佐竹義宣に家督を譲る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正16年 1588年 7月4日 42歳
伊達政宗佐竹義重蘆名義広が戦う。義重旗本50余人が戦死する。
出典:(天正16年)7月4日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-378号)

天正17年 1589年 6月2日 43歳
午刻(11-13時)、佐竹義重義宣父子が須賀川(陸奥国)に出陣する。
出典:(天正17年)6月3日付伊達政宗書状写(『伊達家文書』1-419号)

天正18年 1590年 5月27日 44歳
佐竹義宣、宇都宮国綱が小田原城(相模国)包囲中の豊臣秀吉のもとに参陣する。義宣、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義種が秀吉に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正18年 1590年 8月1日 44歳
豊臣秀吉が常陸国の旗頭に佐竹義重を指名する。しかし、義重は隠居の身であるため固辞し、子・義宣にその任を与えるよう請い、秀吉は義宣を常陸国旗頭とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄1年 1592年 12月8日 46歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 閏9月6日 47歳
佐竹義宣水戸城(常陸国)に帰城する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄3年 1594年 10月-日 48歳
佐竹義宣の所領の検地が行われ、常陸国久慈郡・筑波郡・多賀郡・茨城郡・鹿島郡・行方郡・新治郡・真壁郡・信太郡・河内郡・江戸崎領、陸奥国南郷、下野国武茂・松野・茂木等で総石高545760石とされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄4年 1595年 6月19日 49歳
豊臣秀吉佐竹義宣の所領の545760石の内、父・義重に50000石、佐竹義久に60000石、与力家来衆に168800石、公料10000石、義久代官得分1000石、石田三成増田長盛に各3000石を知行割するよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長1年 1596年 10月27日 50歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長5年 1600年 9月15日 54歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長6年 1601年 4月15日 55歳
佐竹義重が上洛し、伏見城(山城国)にて徳川家康に謁す。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義重」の項

慶長7年 1602年 5月8日 56歳
徳川家康佐竹義宣榊原康政花房職之を上使として遣わし、義宣の常陸国・下野国・陸奥国の全所領を没収し出羽国にて所領を宛行う旨を伝える。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長7年 1602年 5月12日 56歳
佐竹家の国替えについて、常陸国に在国中の佐竹義重のもとへ徳川家康が使者を遣わす。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月14日 56歳
佐竹義宣水戸城(常陸国)を徳川家康に明け渡す。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月21日 56歳
徳川家康佐竹義宣の知行をすべて没収するとの噂が流れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月-日 56歳
佐竹義宣が水戸(常陸国)から秋田(出羽国)に移封となる。父・義重は六郷(出羽国)に居住する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

慶長7年 1602年 7月27日 56歳
徳川家康佐竹義宣に出羽国秋田郡・仙北郡を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長7年 1602年 9月17日 56歳
佐竹義宣が湊城(出羽国)に入城する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長8年 1603年 5月-日 57歳
佐竹義宣が神明山に久保田城(出羽国)の築城を開始する。梶原政景・渋江政光を普請奉行とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長9年 1604年 8月28日 58歳
佐竹義宣が湊城(出羽国)より久保田城(出羽国)に移る。湊城は破却する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長17年 1612年 4月19日 66歳
佐竹義重が花立村(出羽国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

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