和暦 |
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事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 安宅神五郎が生まれる。 | - |
元亀3年 | 1572 | 4 | 27 | - | 安宅神五郎が西条亀介を三好義継のもとに遣わし情勢報告をする。このことについて、義継がそれを喜ぶとともに交野要害(河内国)への参陣を安宅神五郎に促す。 | (元亀3年)4月27日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1633号、「土佐国蠢簡集竹頭」)) |
天正4年 | 1576 | 5 | 23 | - | 毛利家が大坂本願寺へ船手をもって兵粮を運び入れるとの風聞を聞いた織田信長が安宅神五郎に、もし中国地方より兵粮を運ぶ船が来たならば関船を出して追い落とすようにと命じる。 | (天正4年)5月23日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1746号、「萩原文書」)) |
天正5年 | 1577 | 1 | 10 | - | 小早川隆景が船越景直宛の書状で安宅神五郎の忠儀を賞す。 | (天正5年)1月10日付小早川隆景書状写(『戦国遺文』三好氏編3巻-1749号、「船越文書」)) |
天正9年 | 1581 | 11 | 18 | - | 羽柴秀吉が淡路国に侵攻し所々を放火する。洲本城(淡路国)に攻め入るが安宅神五郎が懇望し人質を差し出してきたので和睦する。また野口長宗にもとの在所である三原の古城普請を命じる。 | 天正9年11月22日付桑山修理亮宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-357号) |
天正10年 | 1582 | 6 | 9 | - | 午刻(11:00-13:00)、羽柴秀吉が明石(播磨国)に入る。 織田信孝に書状を遣わし、明石に入った旨を伝えるとともに、洲本城(淡路国)に菅達長が入り蜂起したため、その討伐を10日にするので、11日に尼崎(摂津国)に入る旨を伝える。 洲本城に入城した菅達長の対処すべく、広田内蔵丞に、10日に明石から渡海し、洲本城を攻めるので参陣を促す。 船越景直を使者として遣わしてきた安宅信康に返書を出す。信康が菅達長の籠る洲本城を攻撃したことを賞し、もし達長が退城したならば報告するようにと伝える。また、10日に岩屋城まで渡海することを伝え、高田長左衛門を岩屋城(淡路国)の本丸に置くようにと指示する。 | 天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-427号)、天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-428号)、天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-429号) |
天正10年 | 1582 | 9 | 5 | - | 羽柴秀吉が安宅神五郎の阿波家領田村分と仙石秀久付となった淡路衆7名分以外の本知行分を安堵する。また岩屋(淡路国)の麓に抱えていた90石の地を間嶋氏勝に渡し、替地として90石を仙石秀久知行の内から給付される。 | (天正10年)9月5日付羽柴秀吉書状・中村一氏書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1938・1939号、ともに「萩原文書」) |
- | - | - | - | - | 安宅神五郎が死去する。 | - |