人 物 史

三好義継 みよし よしつぐ
生 没 年天文18年(1549)-天正1年(1573)11/16
出 身-幼 名熊王丸
別 称孫六郎、十河重存、十河重好、義存、義重
法 名-
戒 名-
十河一存
三好長慶[養子]
-
兄 弟 姉 妹三好義継、十河存之
配 偶 者足利義晴の娘
三好義兼、三好義茂、三好長元
官 位左京大夫
役 職-
城 郭高屋城(河内国)、若江城(河内国)
参 考 文 献三好義継に関する参考文献
関 連 デ ー タ三好義継の関連文化財
史料にみえる三好義継の呼称
三好義継 年表
天文18年 1549年 -月-日 1歳
三好義継が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 7歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 10歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄4年 1561年 3月18日 13歳
父・十河一存が死去する。
出典:-

永禄5年 1562年 3月5日 14歳
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 14歳
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄6年 1563年 8月25日 15歳
三好義興が黄疽という病により芥川山城(摂津国)にて死去する。義興の死により三好義継三好長慶の後継となる。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄7年 1564年 5月9日 16歳
三好長慶飯盛山城(河内国)にて弟・安宅冬康を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄7年 1564年 7月24日 16歳
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄8年 1565年 5月5日 17歳
朝廷の使者として勧修寺晴秀が訪れたので饗応する。その場に、三好義継松永久通が訪れる。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月9日 17歳
三好義継勧修寺晴秀のもとに礼に訪れ太刀を贈られる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月18日 17歳
知恩寺にいる三好長逸革堂にいる三好義長のもとに山科言継勧修寺晴豊が礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月19日 17歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月21日 17歳
三好長逸が禁裏にお見舞いとして赴く。足利義輝殺害を朝廷に説明する。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月22日 17歳
幕府奉公衆・奉行衆が三好義長のもとに礼に訪れる。
義長、松永久通が一乗寺に軍勢を遣わし、村人を追い払い、焼き討ちするとともに竹木を伐採する。
出典:『言継卿記』同年月21日条

永禄8年 1565年 5月23日 17歳
三好義長松永久通が一乗寺に軍勢を遣わし、村人を追い払い、焼き討ちするとともに竹木を伐採する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 6月4日 17歳
三好義継松永久通が禁裏に使者(河那部主水佑)を遣わし、東坊城盛長などの勅免を請う。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 8月2日 17歳
内藤宗勝(松永長頼)赤井直正の籠る黒井城(丹波国)を攻めるも、戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月3日条

永禄8年 1565年 11月16日 17歳
夕方、三好長逸三好宗渭岩成友通飯盛山城(河内国)を攻め、長勝軒、金山駿河守を討ち取る。三好義継松永久秀と手切れするよう訴える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月20日 17歳
三好義継清玉上京芝薬師西町阿弥陀寺境内の芥川分二季地子銭200疋(2貫文)を永代に渡り寄進する。
出典:永禄8年12月20日付三好義継書下(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1220号「阿弥陀寺文書」)

永禄8年 1565年 12月-日 17歳
三好義継大徳寺に三好勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、諸塔頭・門前の事、矢銭・兵糧米の賦課、陣取りを停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄8年12月日付三好義継禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1230号「大徳寺文書」)

永禄9年 1566年 2月17日 18歳
上芝の合戦で三好義継三好長逸三好宗渭岩成友通、筒井順興と松永久秀畠山高政安見宗房が戦い、三好三人衆勢が勝利する。敗れた高政、安見宗房に逃れる。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条、『言継卿記』同年月18日条

永禄9年 1566年 4月4日 18歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢5000を率い鳥見荘に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月10日 18歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢4000を率い奈良(大和国)に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月11日 18歳
三好長逸三好宗渭岩成友通、筒井順興が軍勢6000-7000で奈良(大和国)近辺の五本松まで攻め入る。松永久秀多聞山城(大和国)に籠城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月21日 18歳
矢島(近江国)にて一乗院覚慶が還俗し足利義秋と名乗る。左馬頭に任じられる。朝廷へは伝奏を経ず吉田兼右を通じて報告をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月23日 18歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が陣払いをする。筒井平城(大和国)を攻めるため大安寺南辺に引く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月18日 18歳
松永久秀が大和国より河内国へ出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月19日 18歳
大和国より河内国へ出陣したとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月24日 18歳
松永久秀が河内国に向かったのを受け、筒井平城(大和国)を攻めていた三好長逸三好宗渭岩成友通が城攻め用の小屋を破却し河内国に向かう。
久秀は河内国で敗北し軍勢を多く失う。
出典:『多聞院日記』同年月日・25日条、『言継卿記』同年月日阿城

永禄9年 1566年 5月30日 18歳
にいた松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通が攻める。久秀は逃亡する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月11日 18歳
足利義栄の先陣として、篠原長房率いる軍勢25000が兵庫(摂津)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月23日 18歳
篠原長房越水城(摂津国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月24日 18歳
未刻(13-15時)、真観寺(河内国)にて三好長慶の葬儀を三好義継三好長逸が執り行う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条・同年月26日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄9年 1566年 7月13日 18歳
篠原長房越水城(摂津国)を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 閏8月9日 18歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢1000余を片岡(大和国)に入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月23日 18歳
足利義栄越水城(摂津国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 12月8日 18歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が将軍に擁立する足利義栄越水城(摂津国)から総持寺(摂津国)に移る。
禁裏に米を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 2月16日 19歳
三好義継にて宿所を替える。河内国にて義継が松永久秀と同心したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月18日条

永禄10年 1567年 2月28日 19歳
三好義継三好長逸岩成友通三好宗渭が「悪逆無道」を構え、「大忠」の松永久秀を討たんとしていることにるいて、久秀に味方することを宣言するとともに、味方してくれた椿井政定、古市播磨守に謝意を示す。
出典:(永禄10年)2月28日付三好義継書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1322号「小林氏所蔵文書」、同1323号「宮坂氏所蔵文書」)

永禄10年 1567年 4月6日 19歳
三好義継松永久秀より信貴山城(大和国)に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『足利季世記』巻6「大仏殿焼亡之事」、『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」

永禄10年 1567年 4月12日 19歳
三好義継多聞山城(大和国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」

永禄10年 1567年 4月18日 19歳
三好長逸岩成友通三好宗渭が軍勢10000を率い奈良(大和国)に陣取る。松永久秀の在城する多聞山城(大和国)に攻め寄せる。三人衆の勢は、古市、鹿野薗を放火し白毫寺辺りに野陣する。三好義継、久秀・久通父子は大力、辛碓、東大寺南大門に布陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 4月24日 19歳
三好長逸岩成友通三好宗渭筒井順慶が奈良(大和国)に攻め入りそんき寺から大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 -月-日 19歳
岩成友通がそんき寺を城にする。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 5月2日 19歳
筒井順慶の手引きにて岩成友通の率いる軍勢10000が東大寺大仏殿、念仏堂、二月堂、知足院に陣取る。
松永久秀東大寺戒壇院に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 5月15日 19歳
篠原長房池田勝正松永久秀を攻めるべく大和国に向けて出陣する。
三好宗渭、高畠が東大寺二月堂・同大仏殿に陣取る。それに備えるため三好義継、久秀・久通父子が多聞山城(大和国)、興福寺東大寺戒壇院(以上、大和国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月17日 19歳
池田勝正が西方寺(大和国)に、三好宗渭が天満山より西ノ坂に、岩成友通が念仏堂より氷室山法雲院の後ろの畠に、筒井順慶が大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月18日 19歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が東山より多聞山城(大和国)に攻め入るも松永久秀が退ける。久秀は三好三人衆の軍勢に陣取りをさせないようにするため般若寺、文殊堂、仏餉屋、妙光院、観音院、松井安芸宿所、西院郷、北水門、南水門を焼く。またこの放火の際に放った火が東大寺戒壇院の授戒堂に飛び火する。
夜、久秀が宿院城(大和国)に夜襲をかけ、池田勝正勢が損害を出し最福院に逃れる。最福院は破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条

永禄10年 1567年 5月23日 19歳
朝、池田勝正がマメ山に陣を移す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月24日 19歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が法輪院に入る。これを受け、松永久秀が宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院に火矢を放ち放火する。
夜前、久秀が無量寿院を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 6月4日 19歳
夜、筒井順慶興福寺寺中に火矢を放つ
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄10年 1567年 6月5日 19歳
筒井順慶が龍華院方発心院、中蔵院、千手院、大聖院、安養院、谷坊、慈明院に陣取る。千手院の上に城を築くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月13日 19歳
寅刻から卯半刻(3-6時)まで松永久秀が今御門、餅飯殿、橋本、角振、小西を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月23日 19歳
東大寺にて三好長逸三好宗渭岩成友通松永久秀が戦う。この合戦により東大寺戒壇院、千手院が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 7月27日 19歳
松永久秀合力として柳本弾正忠・波多野・赤井ら兵4000が丹波より西岡(京都)に侵攻し西岡衆と戦う。萬石・下山田を焼く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2日 19歳
松永久秀が大黒ノ尾に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2頃日 19歳
松永久秀合力として根来寺衆8000が和泉国に侵攻する。また、大和国の井戸、郡山(大和国)の辰巳も久秀に加勢する。
出典:『言継卿記』同年月5日条

永禄10年 1567年 8月16日 19歳
午刻(11-13時)、松永久秀方の松浦、松永彦十郎が三好長逸三好宗渭岩成友通方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月21日 19歳
池田勝正と超昇寺が戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月23日 19歳
飯盛山城(河内国)の松山安芸守が、三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀に寝返り、河内国の各所を焼く。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月26日 19歳
岩成友通、中村為三の軍勢が河内国に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月5日 19歳
三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房飯盛山城(河内国)に降伏するよう交渉する。
出典:『多聞院日記』同年月6日条

永禄10年 1567年 9月6日 19歳
飯盛山城(河内国)が三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房に降伏すると報告がある。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月22日 19歳
田原の坂上氏が松永久通に寝返る。
松永久秀飯盛山城(河内国)に軍勢500を入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月10日 19歳
松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が陣取る東大寺大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。
氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条

永禄10年 1567年 10月21日 19歳
飯盛山城(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口がに逃亡する。同城は三好長逸篠原長房が請け取り入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月26日 19歳
池田勝正が軍勢を少し奈良(大和国)に残し、摂津国に撤収する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月2日 19歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢と松永久秀の軍勢が春日社大鳥居にて戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月27日 19歳
三好義継春日社春日社山内諸屋での乱妨・強盗、剥ぎ取り、田畠への侵入、神鹿殺害、木材伐採を禁じる禁制を発給する。
春日社防御の制札発給につき多聞院英俊が20疋を義継に贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月1日 20歳
津田城が三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 1月2日 20歳
三好千鶴に着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 1月7日 20歳
三好義継多聞山城(大和国)から津田城へ移る。
出典:『足利季世記』巻6「松山安芸守カ事」

永禄11年 1568年 1月17日 20歳
西之城(大和国)の番替えとして三好長逸勢と池田勝正勢が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月8日 20歳
足利義栄の将軍宣下が行われる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月21日 20歳
西陣へ番替えとして高屋衆(三好備中守、大嶋助兵衛、遊佐安芸守、加地六郎兵衛)、三鬼鎰助、カイノ庄助丞、木村宗也ら1500が着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月25日 20歳
三好義継が伴田に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 5月19日 20歳
篠原長房三好宗渭が津田城より山城国を打ち回る。その後、西京に陣取り、奈良(大和国)には入らず。
長房が西京(大和国)あたりに陣取ることを聞いた筒井順慶が寺中へ陣取らないようにと長房に要請する。
出典:(永禄11年)5月19日付筒井順慶書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1409号「薬師寺文書」)、『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 5月29日 20歳
篠原長房三好宗渭が軍勢を奈良(大和国)に少し残し河内国に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 6月29日 20歳
三好康長信貴山城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日 20歳
マメ山に布陣していた中村為三と筒井順慶勢が入れ替わる。篠原勘介が在番する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月25日 20歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 20歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 8月14日 20歳
織田信長三好義継に、足利義昭を美濃国に移し上洛の手助けを引き受けたこと、上洛のため近々軍勢を発すこと、その際は忠節を求めることを伝える奉書を発給する。
出典:(永禄11年)8月14日付織田信長奉書(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1419号「丹波市教育委員会所蔵文書」)、(『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 8月18日 20歳
松永久秀方の富野城(山城国)が宇治田原の衛門兵衛に攻め落とされる。富野城(山城国)の落城を聴いた多聞院英俊は、久秀がいよいよ滅亡するのではと評す。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

永禄11年 1568年 9月2日 20歳
三好康長が西京(大和国)に布陣する。興福寺からの訴えにより奈良には布陣せず。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月3日 20歳
三好康長多聞山城(大和国)の西北に攻め寄せる。奈良宿を放火する。筒井順慶が多聞山城(大和国)の東に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月4日 20歳
河内国の三好勢が東大寺辺りに攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月5日 20歳
河内国の三好勢が帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 20歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 20歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月12日 20歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月13日 20歳
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城に入る。
出典:『多聞院日記』同年月14日条

永禄11年 1568年 9月14日 20歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月16日 20歳
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城(山城国)を退き西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月24日 20歳
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 20歳
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 20歳
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 20歳
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 20歳
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 20歳
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 20歳
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月-日 20歳
三好義継大山崎に三好義継勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:永禄11年9月日付三好義継禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1425号「離宮八幡宮文書」)

永禄11年 1568年 10月2日 20歳
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月8日 20歳
三好義継の入った飯盛山城(河内国)に久秀も入る。
夕方、筒井順慶が筒井平城(大和国)を放棄する。
出典:『多聞院日記』同年月9日条

永禄11年 1568年 11月10日 20歳
三好義継天王寺に三好義継勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、放火、陣取り、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:永禄11年11月10日付三好義継禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1429号「四天王寺文書」)

永禄12年 1569年 1月1日 21歳
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 21歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 21歳
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 21歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄12年 1569年 1月7日 21歳
1月6日の七条の合戦で三好義継の戦死が噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月7日 21歳
山科言継三好義継のもとに見舞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 3月8日 21歳
布施氏、越智氏を対治するため、三好義継松永久秀畠山高政が摂津国・河内国・和泉国の諸勢を率い片岡(大和国)を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月16日 21歳
三好義継松永久秀久通父子、畠山高政が攻めていた片岡城(大和国)が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月18日 21歳
松永久秀久通父子が万歳(大和国)に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月1日 22歳
織田信長畠山昭高畠山高政三好義長、畠山播磨守、鷲巣、大舘輝光、大舘晴忠等が足利義昭のもとに礼に赴く。
信長が参内する。太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が長橋局に参り1000疋(10貫)を進上する。
信長が誠仁親王のもとに参り対面する。誠仁親王に太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が新大典侍に参り折紙1000疋を進上する。
信長が半井驢庵のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日 22歳
足利義昭が鷹狩に出る。織田信長三好義長松永久通が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月16日 22歳
三好義長松永久秀大友宗麟の使僧、太田垣氏の使者、宇喜多直家の使者、和泉国衆、河内国衆の20人程が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月14日 22歳
足利義昭が御所竣工につき能を催す。織田信長徳川家康松永久秀三好義継が参会する。義昭は織田信長の位階をあげることを勧めるが信長は拒否する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月20日 22歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。三好義継は織田勢を京都(山城国)にて見送る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 22歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 5月3日 22歳
山科言継、松木、三条新少将、白川侍従、局務が織田信長のもとに赴く。取次は林秀貞
その後、言継等は徳川家康畠山高政松永久秀のもとに赴く。
次いで三好義継のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月10日 22歳
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 22歳
三好義継池田勝正が上洛する。
三好長逸岩成友通池田城(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 22歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 7月27日 22歳
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 22歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 22歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 22歳
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 22歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月28日 22歳
織田信長天王寺に陣取る。織田勢は信長、畠山昭高三好義継松永久秀等が大坂(摂津国)の西の川端に軍勢20000-30000で布陣する。義継、久秀、和田惟政は川を越え天満森に布陣する。
野田・福島(摂津国)に陣取る香西佳清、三好為三が信長のいる天王寺に降伏するためやってくる。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月14日 23歳
明日、三好義継松永久秀が和田城(摂津国)に攻めるため出陣すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月4日 23歳
午刻(11-13時)、信貴山城(大和国)から出陣した松永久秀三好義継とともに大安寺に陣取る。筒井順慶が辰市に築いた辰市城(大和国)を攻めるが、順慶と郡山の援軍に敗れる。松永勢は甥・左馬進、甥・孫四郎、松永久三郎、河那辺伊豆守、渡辺兵衛尉、松岡左近、福智、赤沢蔵介、栄林院、竹田対馬守、豊田、山崎久助、安倍、来栖、延泉、山田、中岡藤市など500名が討死する。久秀は多聞山城(大和国)に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月6日 23歳
早朝、松永久秀信貴山城(大和国)に戻る。
筒井順慶は辰市城(大和国)の合戦で討ち取った松永久秀・三好義継勢の首を京都に送る。
高田城、ノカイト、番原、森屋蔵堂城を接収する。
出典:『多聞院日記』同年月日・7日条

元亀2年 1571年 9月22日 23歳
竹内秀勝が若江(河内国)にて死去する。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

元亀3年 1572年 -月-日 24歳
三好義継松永久秀久通父子が織田信長に叛旗を翻し、畠山昭高の家臣・安見新七郎の交野城(河内国)を攻める。
出典:『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 4月16日 24歳
三好義継松永久秀久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長佐久間信盛柴田勝家明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆斎藤利治稲葉良通氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長の軍勢20000を遣わす。
松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 4月27日 24歳
安宅神五郎が西条亀介を三好義継のもとに遣わし情勢報告をする。このことについて、義継がそれを喜ぶとともに交野要害(河内国)への参陣を安宅神五郎に促す。
出典:(元亀3年)4月27日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1633号、「土佐国蠢簡集竹頭」))

元亀4年 1573年 7月18日 25歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月20日 25歳
足利義昭三好義継のいる若江(河内国)へ移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 25歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 25歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 25歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 25歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 11月-日 25歳
織田信長の命をうけた佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)、『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 11月-日 25歳
佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川
義継家臣の多羅尾右近・池田教正・野間佐吉が信盛に内通し、金山武春を殺害して、若江城(河内国)城内に織田勢を引き入れる。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月16日 25歳
若江城(河内国)にて三好義継が自害する。那須久右衛門、岡飛騨守、江川が殉死する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

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