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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
地 名 の 歴 史
尼崎(摂津国)
あまがさき
初 見
-
国
摂津国
郡
河辺郡
荘 園
-
中 世 高
-
近 世 領 主
-
近 世 石 高
-
鎮 守
-
神 社
-
寺 院
本興寺
城 郭
尼崎城
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
尼崎(摂津国) 年表
応安6年・文中2年 1373年 3月28日
南朝の行宮・天野を攻めるため大将として細川氏春が
淡路国
を出国し、
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『花営三代記』同年月日条
永正17年 1520年 2月16日
細川澄元
・
三好之長
と
細川高国
が
尼崎
(摂津国)・長洲(摂津国)で戦い、澄元・之長が勝利する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」
大永7年 1527年 9月14日
三好元長
が軍勢を率い
堺
を発ち
尼崎
(摂津国)に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」
享禄4年 1531年 6月4日
細川道永
勢が布陣する
天王寺
、今宮、木津に
三好元長
が攻めかかり、道永方の伊丹国扶、瓦日向守、薬師寺国盛、波々伯部兵庫介が戦死する。道永は
尼崎
(摂津国)に逃亡する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」
享禄4年 1531年 6月5日
尼崎
(摂津国)にいた
細川道永
を三好一秀が捕縛する。一秀より
細川晴元
に捕縛の報告があり、晴元は切腹させるように命じる。
出典:『細川両家記』
天文2年 1533年 1月1日
一向一揆が
尼崎
大物(摂津国)の松井越前守を攻める。
出典:『足利季世記』巻四 所々一揆起ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」
天文16年 1547年 7月12日
三好之虎
が軍勢を率い
尼崎
(摂津国)に向かう。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」
天文18年 1549年 2月26日
細川晴元
が細川晴堅の館がある中島城(摂津国)に入る。
三好長慶
が
尼崎
(摂津国)に出陣する。この日、畠山・
遊佐長教
の軍勢が欠郡(摂津国)・河内十七箇所に陣取る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」
天文18年 1549年 3月-日
三好宗三
が
尼崎
(摂津国)の本興寺・西門前に三好勢による乱妨狼藉、陣取り・寄宿、竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年3月日付三好宗三禁制(「本興寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-224号)
天文18年 1549年 4月29日
三好宗三
、
伊丹親興
が
尼崎
(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」
天文19年 1550年 3月28日
本興寺(
尼崎
(摂津国))にて
三好長慶
と
伊丹親興
が会見し和睦する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」
弘治3年 1557年 8月26日
大風および大雨によりの
尼崎
・別所・島尾・今津・西宮・兵庫・灘(以上、摂津国)・明石(播磨国)に津波が起こる。
出典:『足利季世記』巻5「千部経ノ事」
永禄1年 1558年 8月30日
三好之虎
が
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」
永禄1年 1558年 12月22日
三好之虎
、
安宅冬康
が
堺
から
尼崎
(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻5「高政高屋城ヲ出ル事」
永禄3年 1560年 6月24日
畠山高政
討伐のため
三好長慶
の催促をうけた
三好実休
が四国衆を率い
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」
永禄13年 1570年 1月24日
飛鳥井雅敦
が本興寺(摂津国
尼崎
)は雅敦の所領であるので、陣取等をしないよう
柴田勝家
、
蜂屋頼隆
、
森可成
、
坂井政尚
に依頼する。
出典:(永禄13年)1月24日付飛鳥井雅敦書状(「本興寺文書」『大』10-4、元亀元年2月16日条)
永禄13年 1570年 2月16日
佐久間信盛
、
坂井政尚
、
森可成
、野間長前、
蜂屋頼隆
、
柴田勝家
、竹内秀勝が、本興寺(
尼崎
)に対し、同寺および門前において織田勢の陣取りをしないことを連署状をもって伝える。
出典:(永禄13年)2月16日付佐久間信盛他連署状(「本興寺文書」『大』10-4、同年月日条)
元亀1年 1570年 8月9日
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
元亀1年 1570年 8月13日
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
天正4年 1576年 6月16日
荒木村重
より毛利家の水軍衆が警固100艘ばかりをもって岩屋(
淡路国
)に到着したため、
尼崎
(摂津国)に向かい船を揃えたという報告を受けた
織田信長
がその対応を評価するとともに、
佐久間信盛
・淡輪とともに防戦するように伝える。
出典:(天正4年カ)6月16日付織田信長黒印状(「佐藤孝雄氏所蔵文書」)
天正6年 1578年 12月4日
滝川一益
、
丹羽長秀
が一の谷(摂津国)を放火する。その後、両人は
荒木村重
が籠る
有岡城
(摂津国)を攻めるべく塚口(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事
天正7年 1579年 9月2日
荒木村重
が5、6名を召し連れ、
有岡城
(摂津国)から
尼崎
(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」
天正7年 1579年 9月12日
織田信忠
が
有岡城
(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、
荒木村重
が逃亡した
尼崎
(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・
高山重友
と
中川清秀
・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」
天正7年 1579年 9月22日
荒木村重
が
有岡城
(摂津国)より脱出し、
尼崎
(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正7年 1579年 11月19日
有岡城
(摂津国)を守備していた荒木久左衛門が、城中に妻子を人質として残し置き、織田方の
津田信澄
を城に入れ、
尼崎
(摂津国)にいる
荒木村重
のもとに赴き、尼崎・花隈(摂津国)を
織田信長
に進上するよう進言する。
出典:『信長公記』巻12(15)「伊丹の城にこれある年寄共、妻子・兄弟捨置退出の事」
天正7年 1579年 11月20日
荒木村重
の
有岡城
(摂津国)が開城し、
織田信長
に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条
天正11年 1583年 5月-日
池田恒興
が
大坂城
(摂津国)より
大垣城
(美濃国)に、
池田元助
が
伊丹城
(摂津国)より
岐阜城
(美濃国)に、
池田輝政
が
尼崎城
(摂津国)より池尻城(美濃国)に移る。
出典:『池田氏家譜集成』
天正16年 1588年 4月10日
豊臣秀吉
が
佐々成政
に切腹を命じる。上使として
加藤清正
を成政の居る
尼崎
(摂津国)に遣す。
出典:『清正記』巻1
天正16年 1588年 閏5月14日
豊臣秀吉
の命により
尼崎
(摂津国)にて
佐々成政
が切腹する。
出典:『清正記』巻1
文禄3年 1594年 4月12日
4月15日の
近衛信輔
の薩摩国配流につき奉行の一人となった幽斎が、当日は
尼崎
(摂津国)まで信輔を移送する旨を
豊臣秀次
に報告する。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 4月15日
近衛信尹
が淀(山城国)にて
細川幽斎
と別れる。淀より船に乗り、
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『三藐院記』同年月日条
文禄3年 1594年 4月16日
近衛信尹
が川口(摂津国)にて海船に乗り換える。大倉谷(播磨国)に到着する。夜、出船する。
出典:『三藐院記』同年月日条
慶長19年 1614年 5月21日
徳川家康
が
延暦寺
(山城国)の正覚院、
南光坊天海
、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊と
駿府城
(駿河国)にて対面する。仏法について雑談をする。天台宗僧の退出後、奥ノ間にて
南光坊天海
が家康に血脈を相伝する。
家康が池田備後守の知行を没収する。
尼崎(摂津国)代官の池田越前守が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月-日
向井忠勝
が軍勢700を率い
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項
慶長20年 1615年 4月29日
向井忠勝
が堺にて火の手が上がったのをみて、
尼崎
(摂津国)より堺に向けて出航し、
大野治房
勢と戦う。この戦いで忠勝は船上にて敵の砲撃を受け胸を負傷し、尼崎に戻って療養する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項
慶長20年 1615年 5月7日
向井忠勝
が
大坂城
(摂津国)の惣攻めに加わるも、城中に火の手があがったため極楽橋より
尼崎
(摂津国)に戻る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項
慶長20年 1615年 6月2日
島津家久
が
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項
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