人 物 史

織田信秀(弾正忠) おだ のぶひで
生 没 年永正8年(1511)-天文20年(1551)3/3
出 身尾張国幼 名三郎
別 称-
法 名-
戒 名-
織田信定いぬい(織田良頼の娘)
兄 弟 姉 妹織田信秀織田信康、織田信正、織田信光、織田信実、織田信次、女(松平信定の妻)、長栄寺、おつや、秋悦院
配 偶 者織田信達の娘、土田御前
織田信広、織田信時、織田信長織田信行織田信包、織田秀孝、織田信治、織田信興、織田秀成、織田信照、織田長益、織田長利
官 位弾正忠、備後守、三河守
役 職-
城 郭古渡城(尾張国)、勝幡城(尾張国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる織田信秀の呼称
織田信秀の関連文化財
織田信秀の家臣
織田信秀(弾正忠) 年表
永正8年 1511年 -月-日 1歳
織田信秀が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 11歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永6年 1526年 3月-日 16歳
織田信秀が津島城(尾張国)を訪れた連歌師 宗長をもてなす。
出典:『宗長手記』

享禄1年 1528年 8月20日 18歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 22歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 -月-日 22歳
織田達勝と織田信秀が和睦する。
出典:『言継卿記』天文2年7月11日条

天文2年 1533年 7月8日 23歳
五時分に桑名津(伊勢国)を出航した山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が、八時分に津島(尾張国)に到着する。雅綱が織田信秀に速水親忠を遣わす。信秀は織田定信を迎えの使者として遣わし、信秀の勝幡城(尾張国)に迎える。夜、冷麺と吸物にて酒あり。雅綱が信秀に太刀を贈る。言継一行は勝幡城の新築の座敷に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月9日 23歳
朝食中の山科言継、雅綱のもとに織田信秀、織田光清が訪れる。晩、蹴鞠をする。参加者は、雅綱、言継、蔵人、信秀、光清、速水親忠。見物人が数百人いたという。夕食を信秀が用意し雅綱、言継等をもてなす。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月10日 23歳
織田光清、織田信秀、伴兼久が山科言継のもとを訪れる。
飛鳥井雅綱が勝幡城(尾張国)に訪れる。織田十郎左衛門を使者として、言継、蔵人を城に呼び寄せ、蹴鞠をする。参加者は、雅綱、言継、蔵人、信秀、織田光清、速水親忠、成田左京亮、伴兼久。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月11日 22歳
織田達勝のもとへ織田信秀、織田与二郎が赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月11日 23歳
織田達勝のもとへ織田信秀織田信康が赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月12日 23歳
織田信秀、織田光清が七時分に山科言継のもとを訪れ蹴鞠をする。
織田達勝が言継のもとに礼に訪れる。蹴鞠の参加者は、飛鳥井雅綱、言継、達勝、速水親忠、信秀、光清、成田左京亮。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月13日 23歳
織田信秀山科言継のもとに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月14日 23歳
織田信秀が「盆之料」として飛鳥井雅綱に100疋、山科言継・蔵人に50疋を贈る。
浄土宗寺院に命じ施餓鬼を行う。雅綱が焼香をあげる。
夜、言継が柱松を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月15日 23歳
構の橋の上にて山科言継織田信秀が月見をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月16日 23歳
織田信秀山科言継のもとを訪れる。信秀は飛鳥井雅綱、言継、蔵人を勝幡城(尾張国)に招き切麺にて酒を振舞う。言継より勅筆詩歌2枚、青蓮院門跡筆詩歌1枚が贈られる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月17日 23歳
山科言継織田信秀のもとへ見舞いに赴く。七時分、飛鳥井雅綱、言継、蔵人が近所を見物する。路次にて織田光清と会い、帰宅後、光清が瓜、食籠、徳利を持参してやってきたので酒を飲む。信秀の庭にて蹴鞠あり。参加者は雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、光清、成田左京亮、花井元信。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月18日 23歳
織田信秀、織田光清、織田定信が山科言継のもとに赴く。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、矢野寛倫、光清、定信、滝川勝景、花井元信、成田左京亮。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月19日 23歳
山科言継平手政秀より徳利が贈られたので酒を飲む。
織田信秀、織田光清が言継のもとを訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、光清、花井元信、成田左京亮、伴兼久、滝川勝景。
初夜時分、風流踊があるとのことで招かれたので雅綱、蔵人とともに見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月21日 23歳
織田信秀、織田光清が言継のもとに見舞いに訪れる。
飛鳥井雅綱の門弟となった織田達順が言継のもとへも礼に訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、織田達順、成田左京亮、光清、織田信吉、花井元信、伴兼久、滝川勝景。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月22日 23歳
織田信秀、織田光清、織田定信が山科言継のもとに見舞いに訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、織田信吉、花井元信、伴兼久、滝川勝景。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月23日 23歳
織田信秀が自邸にて和歌会を催す。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、信秀、織田達順、安心、矢野寛倫、さいか定直、省方、速水親忠、周徳、斎藤勝秀、織田頼秀、織田光清、小勢秀実、伴兼久、牟藤任貞。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、雅綱、言継、蔵人、今川竹王丸、信秀、親忠、達順、光清、織田信吉、花井元信、滝川勝景、伴兼久。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月24日 23歳
鷹狩に赴く織田信秀に、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人とともに同道する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月25日 23歳
山科言継、織田光清が織田信秀のいる勝幡城(尾張国)を訪れる。雑談する。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、今川竹王丸、信秀、速水親忠、矢野勝倫、織田定信、光清、織田達順、花井元信、平手助次郎。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月26日 23歳
夜、蹴鞠会を行う。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、今川竹王丸、織田信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、織田定信、矢野勝倫、織田信吉、花井元信、伴兼久、滝川勝景。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月27日 23歳
渡辺玄蕃助の望みにより、朝、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、今川竹王丸、織田信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、花井元信。庭を平手政秀がしつらえる。
信秀が雅綱に3000疋、言継・蔵人に200疋を贈る。
清須(尾張国)の織田達勝のもとに雅綱、言継が赴く。信秀が同道する。言継は清州城近くの法華堂に移る。達勝による夕飯の振る舞いあり。信秀は勝幡城(尾張国)に帰宅する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月28日 23歳
山科言継が織田達勝が訪れる。
言継のもとに織田信秀が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月29日 23歳
織田信秀山科言継のもとを訪れる。信秀・言継が織田達勝のもとを訪れる。
織田達勝のもとで蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、織田光清、織田定信、速水親忠、毛利敦元、千秋季通、伴兼久、矢野勝倫。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月6日 23歳
織田信秀、織田達種、織田定信、坂井摂津守、矢野寛倫、毛利敦元、名古屋教久が山科言継のもとを訪れる。赤木対馬守は言継に鈴物1対、食籠を贈る。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、織田達勝、信秀、速水親忠、敦元、織田達順、織田定信、織田達種。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月7日 23歳
織田信秀山科言継のもとに訪れる。毛利敦元、矢野寛倫が言継のもとに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月8日 23歳
織田信秀山科言継のもとを訪れる。
その後、信秀は体調不良の飛鳥井雅綱のもとを見舞う。
矢野寛倫、毛利敦元が雅綱のもとを訪れ、敦元は雅綱に白粥を贈る。
8時分、矢野寛倫、矢野勝倫、赤木対馬守、名古屋教久、坂井摂津守が雅綱の見舞いに訪れるが、雅綱は熱がひどいため対面せず。対馬守が雅綱の脈を診る。
5時分、寛倫が呼んだ薬師(法華衆)が訪れ服薬する。敦元が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月9日 23歳
体調不良の飛鳥井雅綱のもとに乗円房が訪れ脈を診る。服薬する。
織田信秀が2、3度見舞いに訪れる。織田達勝、織田広孝(達勝弟)、織田光清、織田定信、矢野寛倫、坂井摂津守が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月10日 23歳
体調が悪化した飛鳥井雅綱を、織田信秀、織田光清、織田定信、織田丹波守、織田達種、赤林対馬守が見舞う。対馬守が雅綱に薬を進める。
渡辺玄蕃助の所より貝鮑50、荒巻20、鯨、樽代50疋が贈られる
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月11日 23歳
山科言継のもとに織田光清が訪れる。
言継のもとに織田信秀、織田丹波守、織田信吉が訪れる。
言継のもとに織田監物、赤林対馬守が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月13日 23歳
飛鳥井雅綱のもとに使者として内藤を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月14日 23歳
織田信秀平手政秀飛鳥井雅綱山科言継のもとを訪れる。雅綱の上洛について言継と話し合う。
信秀の命により雅綱の病気平癒のため近所の庵にて大般若経の転読が行われる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月15日 23歳
山科言継のもとを訪れる。飛鳥井雅綱より槍を貰う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月17日 23歳
織田光清、織田丹波守、毛利敦元、矢野寛倫、名古屋教久、平手政秀が訪れる。
この日、上洛の出発日としていたが、雨のため20日に延引する。織田達勝が暇乞いに訪れる。太刀、馬1疋(代300疋)が贈られる。
織田信秀より折紙銭200疋が到来する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月20日 23歳
織田兵部丞女房より毛抜が贈られる。
清須(尾張国)を発ち、夜に入り4時分に墨俣に到着する。光明寺に宿泊する。
織田達勝が暇乞いに訪れる。達勝が清須からの20町の道程を付き添う。織田丹波守は1里を付き添う。織田光清は墨俣まで付き添う。毛利敦元、名古屋教久、織田信秀、織田定信、滝川勝景が道にて暇乞いに訪れる。平手政秀より濃州紙1束、毛抜5が贈られる。坂井摂津守が暇乞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文3年 1534年 5月12日 24歳
子・信長が生まれる。
出典:-

- -年 -月-日 24歳
子・信長の傅役を林秀貞平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介に命じる。
出典:『信長公記』(首巻)おわり国かみ下わかちの事

- -年 -月-日 24歳
織田信秀が那古野城(尾張国)を子・信長に譲り、古渡(尾張国)に新城を築き居城とする。
出典:『信長公記』(首巻)おわり国かみ下わかちの事

天文9年 1540年 6月6日 30歳
安城(三河国)にて織田信秀と松平長家が戦い、信秀が勝利する。長家、松平康忠が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第2「松平長家」「松平康忠」の項

天文11年 1542年 8月10日 32歳
小豆坂にて織田信秀と今川義元勢が戦う。
織田信秀勢:織田信秀[大将]、内藤勝介
出典:『享禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)、『信長公記』(首巻)あづき坂合戦の事

天文12年 1543年 2月14日 33歳
奈良(大和国)にて織田信秀が内裏4面の築地の蓋を修理して進上したと噂される。修理に要した費用は4000貫という。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文12年 1543年 7月17日 33歳
子・信包が生まれる。
出典:-

天文13年 1544年 9月22日 34歳
織田信秀斎藤道三の籠る稲葉山城(美濃国)を攻める。加納口で道三が織田勢を急襲し、信秀を退ける。織田信康が戦死する。
出典:-

天文15年 1546年 -月-日 36歳
子・吉法師が古渡城(尾張国)にて元服する。織田三郎信長と名乗る。林秀貞平手政秀青山与三左衛門尉内藤勝介が供をする。
出典:『信長公記』(首巻)吉法師殿御元服の事

天文16年 1547年 9月3日 37歳
織田信秀が美濃国に攻め入る。
出典:『信長公記』(首巻)みのゝ国へ乱入し五千討死の事

天文16年 1547年 9月22日 37歳
織田信秀が稲葉山城(美濃国)を攻撃する。青山与三左衛門尉が戦死する。
出典:『信長公記』(首巻)みのゝ国へ乱入し五千討死の事

天文16年 1547年 -月-日 37歳
子・長益が生まれる。
出典:-

天文17年 1548年 3月19日 38歳
小豆坂(三河国)にて織田信秀松平広忠・太原雪斎率いる今川勢が戦い、松平・今川勢が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項

天文20年 1551年 3月3日 41歳
織田信秀が死去する。
出典:-

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