人 物 史

林秀貞 はやし ひでさだ
生 没 年?-天正8年(1580)
出 身尾張国幼 名-
別 称新五郎、通勝
法 名-
戒 名-
林通安-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
林光時、林光之、林勝吉、林通政の妻
官 位佐渡守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ林秀貞の関連文化財
史料にみえる林秀貞の呼称
林秀貞 年表
- -年 -月-日 
林秀貞が生まれる。
出典:-

天文2年 1533年 7月27日 
渡辺玄蕃助の望みにより、朝、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、今川竹王丸、織田信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、花井元信。庭を平手政秀がしつらえる。
林秀貞が雅綱の門弟となる。
信秀が雅綱に3000疋、言継・蔵人に200疋を贈る。
清須(尾張国)の織田達勝のもとに雅綱、言継が赴く。信秀が同道する。達勝による夕飯の振る舞いあり。信秀は勝幡城(尾張国)に帰宅する。
出典:『言継卿記』同年月日条

- -年 -月-日 
織田信長の傅役として林秀貞平手政秀青山与三右衛門内藤勝介が付けられる。
出典:『信長公記』(首巻)おわり国かみ下わかちの事

天文15年 1546年 -月-日 
吉法師が古渡城(尾張国)にて元服する。織田三郎信長と名乗る。林秀貞平手政秀青山与三左衛門尉内藤勝介が供をする。
出典:『信長公記』(首巻)吉法師殿御元服の事

天文20年 1551年 3月3日 
織田信秀が死去する。
出典:-

天文22年 1553年 閏1月13日 
平手政秀が死去する。
出典:-

弘治2年 1556年 8月24日 
稲生(尾張国)にて織田信長織田信行が戦い、信長が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、森可成、佐久間盛重、佐久間信盛丹羽長秀前田利家渥美友勝
織田信行勢:織田信行[大将]、林秀貞柴田勝家
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

永禄1年 1558年 11月2日 
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄11年 1568年 9月12日 
織田安房守、林秀貞氏家直元、平手汎秀、稲葉良通安藤守就蜂屋頼隆不破光治の軍勢7000が和田山城(近江国)に対峙する。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄12年 1569年 8月12日 
山科言継岐阜城下の林秀貞のもとへ礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月3日 
山科言継、松木、三条新少将、白川侍従、局務が織田信長のもとに赴く。取次は林秀貞
その後、言継等は徳川家康畠山高政松永久秀のもとに赴く。
次いで三好義継のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正2年 1574年 7月15日 
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正6年 1578年 1月1日 
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が織田信長のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・信忠武井夕庵林秀貞滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重、長谷川与二、羽柴秀吉丹羽長秀、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」

天正6年 1578年 6月27日 
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正8年 1580年 8月17日 
織田信長が大坂(摂津国)より京都に入る。林秀貞安藤守就丹羽氏勝に領内からの追放を命じる。
出典:『信長公記』巻13(10)「宇治橋御見物の事」(11)「佐久間、林佐渡、丹羽右近、伊賀伊賀守の事」、『当代記』巻2同年月日条

- -年 -月-日 
林秀貞が死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.