地 名 の 歴 史

尾張国[国] おわりのくに
初 見-
尾張国
愛知郡知多郡、春日部郡、山田郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡、海部郡、海東郡、海西郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社熱田神宮
寺 院-
城 郭尾張国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
尾張国[国] 年表
享禄3年 1530年 -月-日 
杉原家次が尾張国にて生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 -月-日 
織田達勝と織田信秀が和睦する。
出典:『言継卿記』天文2年7月11日条

- -年 -月-日 
織田信秀が那古野城(尾張国)を子・信長に譲り、古渡(尾張国)に新城を築き居城とする。
出典:『信長公記』(首巻)おわり国かみ下わかちの事

天文4年 1535年 12月5日 
阿部正豊が森山(尾張国)にて、松平清康を殺害する。
出典:『当代記』巻1

天文13年 1544年 9月22日 
織田信秀斎藤道三の籠る稲葉山城(美濃国)を攻める。加納口で道三が織田勢を急襲し、信秀を退ける。織田信康が戦死する。
出典:-

天文14年 1545年 -月-日 
山内一豊が尾張国にて生まれる。
出典:-

天文20年 1551年 3月3日 
織田信秀が死去する。
出典:-

弘治2年 1556年 8月24日 
稲生(尾張国)にて織田信長織田信行が戦い、信長が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、森可成、佐久間盛重、佐久間信盛丹羽長秀前田利家渥美友勝
織田信行勢:織田信行[大将]、林秀貞柴田勝家
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

永禄1年 1558年 -月-日 
森長可尾張国蓮台にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森長一」の項

永禄2年 1559年 -月-日 
毛利高政尾張国苅安賀にて生まれる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄11年 1568年 -月-日 
奥村栄明が尾張国荒子にて生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 9月7日 
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

元亀1年 1570年 6月28日 
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

天正1年 1573年 -月-日 
福島高晴が尾張国海東郡にて生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 8月14日 
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 -月-日 
弟・高晴が尾張国海東郡にて生まれる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正11年 1583年 4月29日 
織田信孝が野間(尾張国)にて切腹する。
出典:『多聞院日記』同年5月10日条

天正12年 1584年 3月6日 
織田信雄長島城(伊勢国)にて岡田重孝、津川義冬、浅井長時を殺害する。羽柴秀吉がこの件に立腹し、信雄に殺害理由を質す。
出典:『宇野主水記』同年月8日条、(天正12年)3月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集成』2-993号、「佐竹文書」)

天正12年 1584年 4月9日 
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正17年 1589年 10月10日 
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

天正18年 1590年 7月13日 
豊臣秀吉小田原城(相模国)に入城する。
秀吉が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国への移封を拒否した織田信雄の所領を改易する。
秀吉が加藤光泰に甲斐国240000石を給付する。
出典:『小田原日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

慶長3年 1598年 -月-日 
福島忠勝が尾張国清須城にて生まれる。
出典:-

慶長6年 1601年 2月-日 
徳川家康松平忠吉に清須(尾張国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長12年 1607年 閏4月26日 
徳川家康徳川義直を甲府(甲斐国)より名古屋(尾張国)に転封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長16年 1611年 12月30日 
平岩親吉名古屋城(尾張国)二ノ丸にて死去する。
出典:『当代記』慶長17年1月4日条

慶長17年 1612年 1月28日 
徳川家康名古屋城(尾張国)の屋敷普請、堀普請を命じる。
浅野幸長が使者をもって家康に御服5領を献上する。家康は幸長に鶴を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月6日 
辰刻(7-9時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。徳川秀忠の使者として板倉重宗が家康のもとに到着する。重宗は家康の道中のご機嫌伺いのため遣わされる。家康は本多正純を通じて、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国の諸大名に軍勢を、伏見・鳥羽(山城国)まで進めるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

地名リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.