人 物 史

山科言継 やましな ときつぐ
生 没 年永正4年(1507)4/26-天正7年(1579)3/2
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名花岳院特進亜相月岑照言大禅定門
山科言綱妙永(亮快の娘)
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者陽春院(葉室頼継の娘)
山科教明、山科言経薄諸光、阿茶、阿子
官 位権大納言
役 職-
職 業-店 名-
店 所 在 地-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ山科言継の関連文化財
山科言継 年表
永正4年 1507年 4月26日 1歳
山科言継が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 15歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永7年 1527年 1月12日 21歳
鞍馬寺山科言継の代理として山科家の雑色が参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 4月7日 21歳
山科言継三十三間堂に参詣。後白河院に焼香を捧げる。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 4月11日 21歳
山科言継行願寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 4月14日 21歳
鞍馬寺山科言継の妻が参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄1年 1528年 8月20日 22歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄2年 1529年 3月16日 23歳
山科言継土佐光茂に扇4本の絵付を依頼する。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄2年 1529年 3月19日 23歳
3月16日に山科言継より扇4本への絵付の依頼を受けた土佐光茂山科言継に扇4本を納品する。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄5年 1532年 1月14日 26歳
清水寺執行円場院が山科言継のもとを訪れ牛玉と香水を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄5年 1532年 5月6日 26歳
善光寺の十穀が山科言継のともを訪れ、勧進帳の書写(仮名書を真名書に変換)を依頼する。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄5年 1532年 5月11日 26歳
5月6日に善光寺の十穀が山科言継に依頼した勧進帳の書写がなり、十穀が請け取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文1年 1532年 7月29日 26歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 9月12日 26歳
山科言継が父・言綱の三回忌法要を自邸にて執り行う。
出典:『二水記』同年月日条

天文2年 1533年 1月5日 27歳
飛鳥井雅綱が参内にあたり山科言継のもとを訪れる。言継に紫組冠懸を授与する。その後、参内する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月6日 27歳
飛鳥井雅綱山科言継に蹴鞠門弟契約につき紫組冠懸を授与することを書状をもって伝える。言継より返状あり。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月7日 27歳
山科言継飛鳥井雅綱のもとに紫組冠懸授与につき返礼に訪れる。酒を勧める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月10日 27歳
飛鳥井雅綱が自邸に山科言継、金粟院、一宮堅成、六角堂松坊、速水親忠、里村弥二郎を招き蹴鞠を行う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月13日 27歳
飛鳥井雅綱山科言継を14日の朝食に誘う。言継より応じるとの返答あり。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月14日 27歳
飛鳥井雅綱が自邸に山科言継を招き朝食をともにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月15日 27歳
飛鳥井雅綱が自邸にて山科言継、四条中将、蔵人、金粟院、速水親忠、淵田与三郎とともに蹴鞠をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月17日 27歳
飛鳥井雅綱山科言継、正親町、勧修寺が賀茂(山城国)より松ヶ崎(山城国)あたりにて鷹狩を行う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月19日 27歳
飛鳥井雅綱山科言継のもとを訪れ参内し、公宴御会に参加する。
鞍馬寺戒光坊が山科言継のもとを訪れ炭1俵、巻数を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月24日 27歳
1月23日に落馬した飛鳥井雅綱のもとに山科言継が見舞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月27日 27歳
飛鳥井雅綱のもとに山科言継が見舞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 2月8日 27歳
万里小路が山科言継を呼び春日祭について説明を受ける。その際、袍が不足していることから、飛鳥井雅綱の袍を借りることにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 2月10日 27歳
山科言継が春日祭で不足している袍を飛鳥井雅綱に借りるべく訪れる。一旦、言継とは別れるが、後に言継が雅綱を訪れたので草餅にて酒を飲む。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月2日 27歳
飛鳥井雅綱山科言継等が尾張国に下向するため京都を出立し坂本(近江国)の善養坊に到着する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月3日 27歳
山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が四時分、坂本(近江国)の善養坊を出立する。船にて琵琶湖を渡り守山の守善寺にて湯漬けをとる。長光寺(近江国)にて宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月4日 27歳
山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が、人夫の調達できなかったため長光寺(近江国)にもう一泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月5日 27歳
山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が、四時分、長光寺を出立する。九過時分に山上(近江国)に到着する。永源寺、含空院、退蔵寺を見物する。雄相庵に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月6日 27歳
山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が、五時分、雄相庵を出立する。八風峠を越え、八過時分に梅戸高実の梅戸城(伊勢国)に到着する。小庵にて宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月7日 27歳
山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が、五時分、梅戸城(伊勢国)の小庵を出立する。八時分に桑名津(伊勢国)に到着する。渡海を予定していたが潮目が悪く桑名津に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月8日 27歳
五時分に桑名津(伊勢国)を出航した山科言継と言継と同道していたと思われる飛鳥井雅綱等が、八時分に津島(尾張国)に到着する。雅綱が織田信秀に速水親忠を遣わす。信秀は織田定信を迎えの使者として遣わし、信秀の勝幡城(尾張国)に迎える。夜、冷麺と吸物にて酒あり。雅綱が信秀に太刀を贈る。言継一行は勝幡城の新築の座敷に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月9日 27歳
朝食中の山科言継、雅綱のもとに織田信秀、織田光清が訪れる。晩、蹴鞠をする。参加者は、雅綱、言継、蔵人、信秀、光清、速水親忠。見物人が数百人いたという。夕食を信秀が用意し雅綱、言継等をもてなす。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月10日 27歳
織田光清、織田信秀、伴兼久が山科言継のもとを訪れる。
飛鳥井雅綱が勝幡城(尾張国)に訪れる。織田十郎左衛門を使者として、言継、蔵人を城に呼び寄せ、蹴鞠をする。参加者は、雅綱、言継、蔵人、信秀、織田光清、速水親忠、成田左京亮、伴兼久。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月12日 27歳
織田信秀、織田光清が七時分に山科言継のもとを訪れ蹴鞠をする。
織田達勝が言継のもとに礼に訪れる。蹴鞠の参加者は、飛鳥井雅綱、言継、達勝、速水親忠、信秀、光清、成田左京亮。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月13日 27歳
織田信秀山科言継のもとに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月14日 27歳
織田信秀が「盆之料」として飛鳥井雅綱に100疋、山科言継・蔵人に50疋を贈る。
浄土宗寺院に命じ施餓鬼を行う。雅綱が焼香をあげる。
夜、言継が柱松を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月15日 27歳
構の橋の上にて山科言継織田信秀が月見をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月16日 27歳
織田信秀山科言継のもとを訪れる。信秀は飛鳥井雅綱、言継、蔵人を勝幡城(尾張国)に招き切麺にて酒を振舞う。言継より勅筆詩歌2枚、青蓮院門跡筆詩歌1枚が贈られる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月17日 27歳
山科言継織田信秀のもとへ見舞いに赴く。七時分、飛鳥井雅綱、言継、蔵人が近所を見物する。路次にて織田光清と会い、帰宅後、光清が瓜、食籠、徳利を持参してやってきたので酒を飲む。信秀の庭にて蹴鞠あり。参加者は雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、光清、成田左京亮、花井元信。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月18日 27歳
織田信秀の弟・虎千代に青蓮院門跡筆詩歌2枚を贈る。虎千代が礼に訪れる。
矢野寛倫(信秀の与力で斯波武衛の側近)が言継と蔵人のもとへ礼に訪れる。
信秀、織田光清、織田定信が言継のもとを訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、寛倫、光清、定信、滝川勝景、花井元信、成田左京亮。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月19日 27歳
山科言継平手政秀より徳利が贈られたので酒を飲む。
織田信秀、織田光清が言継のもとを訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、光清、花井元信、成田左京亮、伴兼久、滝川勝景。
初夜時分、風流踊があるとのことで招かれたので雅綱、蔵人とともに見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月20日 27歳
平手政秀が自邸にて飛鳥井雅綱山科言継、蔵人を招き朝食を振る舞う。「数寄之座敷一段也」と言継より評される。八時分まで酒、音曲あり。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月21日 27歳
織田信秀、織田光清が言継のもとに見舞いに訪れる。
飛鳥井雅綱の門弟となった織田達順が言継のもとへも礼に訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、織田達順、成田左京亮、光清、織田信吉、花井元信、伴兼久、滝川勝景。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月22日 27歳
織田信秀、織田光清、織田定信が山科言継のもとに見舞いに訪れる。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、織田信吉、花井元信、伴兼久、滝川勝景。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月23日 27歳
織田信秀が自邸にて和歌会を催す。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、信秀、織田達順、安心、矢野寛倫、さいか定直、省方、速水親忠、周徳、斎藤勝秀、織田頼秀、織田光清、小勢秀実、伴兼久、牟藤任貞。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、雅綱、言継、蔵人、今川竹王丸、信秀、親忠、達順、光清、織田信吉、花井元信、滝川勝景、伴兼久。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月24日 27歳
鷹狩に赴く織田信秀に、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人とともに同道する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月25日 27歳
山科言継、織田光清が織田信秀のいる勝幡城(尾張国)を訪れる。雑談する。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、今川竹王丸、信秀、速水親忠、矢野勝倫、織田定信、光清、織田達順、花井元信、平手助次郎。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月26日 27歳
夜、蹴鞠会を行う。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、今川竹王丸、織田信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、織田定信、矢野勝倫、織田信吉、花井元信、伴兼久、滝川勝景。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月27日 27歳
渡辺玄蕃助の望みにより、朝、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱山科言継、蔵人、今川竹王丸、織田信秀、速水親忠、織田達順、織田光清、花井元信。庭を平手政秀がしつらえる。
信秀が雅綱に3000疋、言継・蔵人に200疋を贈る。
清須(尾張国)の織田達勝のもとに雅綱、言継が赴く。信秀が同道する。言継は清州城近くの法華堂に移る。達勝による夕飯の振る舞いあり。信秀は勝幡城(尾張国)に帰宅する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月28日 27歳
山科言継が織田達勝が訪れる。
言継のもとに織田信秀が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 7月29日 27歳
織田信秀山科言継のもとを訪れる。信秀・言継が織田達勝のもとを訪れる。
織田達勝のもとで蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、織田光清、織田定信、速水親忠、毛利敦元、千秋季通、伴兼久、矢野勝倫。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月1日 27歳
織田達勝が飛鳥井雅綱山科言継のもとへ礼に訪れる。
言継のもとへ坂井摂津守、矢野寛倫、赤木対馬守が礼に訪れる。
ちょうど尾張国に在国中の妙心寺学首座が言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月2日 27歳
織田達勝のところにて朝飯あり。飛鳥井雅綱山科言継、達勝、速水親忠、織田達順、矢野寛倫が相伴する。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、雅綱、言継、達勝、親忠、達順、毛利敦元、矢野勝倫。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月3日 27歳
織田丹波守、矢野寛倫、坂井摂津守、毛利敦元が山科言継のもとを訪れる。
帷子・鞠の上之布(越後布)の代80疋を言継が織田兵部に遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月4日 27歳
勧進舞の見物に赴く。
織田達勝の所にて蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、達勝、速水親忠、矢野寛倫、織田達順、毛利十郎。
織田光清が訪れるが、病により光清はすぐに帰宅する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月5日 27歳
織田達勝が饅頭1鉢(100個程)を持って山科言継のもとを訪れる。織田達順、矢野寛倫も訪れる。切麺を達順、寛倫、津守、名古屋教久とともに食す。
毛利敦元、寛倫、勝倫が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月6日 27歳
織田信秀、織田達種、織田定信、坂井摂津守、矢野寛倫、毛利敦元、名古屋教久が山科言継のもとを訪れる。赤木対馬守は言継に鈴物1対、食籠を贈る。
夜、蹴鞠が行われる。参加者は、飛鳥井雅綱、言継、蔵人、織田達勝、信秀、速水親忠、敦元、織田達順、織田定信、織田達種。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月7日 27歳
織田信秀山科言継のもとに訪れる。毛利敦元、矢野寛倫が言継のもとに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月8日 27歳
織田信秀山科言継のもとを訪れる。
その後、信秀は体調不良の飛鳥井雅綱のもとを見舞う。
矢野寛倫、毛利敦元が雅綱のもとを訪れ、敦元は雅綱に白粥を贈る。
8時分、矢野寛倫、矢野勝倫、赤木対馬守、名古屋教久、坂井摂津守が雅綱の見舞いに訪れるが、雅綱は熱がひどいため対面せず。対馬守が雅綱の脈を診る。
5時分、寛倫が呼んだ薬師(法華衆)が訪れ服薬する。敦元が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月11日 27歳
山科言継のもとに織田光清が訪れる。
言継のもとに織田信秀、織田丹波守、織田信吉が訪れる。
言継のもとに織田監物、赤林対馬守が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月12日 27歳
平手政秀山科言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月13日 27歳
飛鳥井雅綱の見舞いに訪れた織田達勝と朝飯をともにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月14日 27歳
山科言継のもとに織田光清、赤林対馬守が訪れる。織田達勝が飛鳥井雅綱の見舞いに訪れる。坂井摂津守、毛利敦元が訪れる。
8時分、善哉を食す。
織田信秀平手政秀が訪れる。雅綱の上洛について話し合う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月15日 27歳
織田信秀、織田光清が数度訪れる。織田達勝、織田広孝、織田丹波守、織田勘解由左衛門、滝川勝景、毛利敦元が訪れる。織田丹波守より夕食の案内を受けるが辞去する。戌刻(19-21時)、丹波守が赤粥を持参したので一口食す。
山科大宅郷地頭職・諸散在椥辻等についていまだ世上不安定といって百姓が年貢を納めないことについて、年貢の納入を当所名主沙汰人中および山科七郷中のそれぞれに命じる室町幕府奉行人奉書が発給される。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

天文2年 1533年 8月16日 27歳
織田光清が数度訪れる。
山科言継が宿泊している本養寺の坊主が白粥を言継に振る舞う。
織田達勝、織田丹波守、織田勘解由左衛門、赤林対馬守、矢野寛倫、坂井摂津守が見舞いに訪れる。斯波義達の使者として山本大隅守が訪れる。毛利敦元が訪れる。織田達種に葛袴を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月17日 27歳
織田光清、織田丹波守、毛利敦元、矢野寛倫、名古屋教久、平手政秀が訪れる。
この日、上洛の出発日としていたが、雨のため20日に延引する。織田達勝が暇乞いに訪れる。太刀、馬1疋(代300疋)が贈られる。
織田信秀より折紙銭200疋が到来する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月18日 27歳
平手政秀が訪れる。言継一行の世話をしてもらったことへの御礼として政秀の子・助次郎に葛袴を贈る。政秀より200疋が進上される。
毛利敦元に毛抜6個を贈る。
織田丹波守の子・竹満丸が礼に訪れる。
赤林対馬守、坂井摂津守、矢野寛倫が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月19日 27歳
早朝、矢野勝倫が訪れる。父・寛倫が病のため所領に帰るためという。後花園院勅筆書1通を贈る。
織田達勝が訪れる。扇の指し方を尋ねられる。
毛利敦元、織田光清が訪れる。
坂井摂津守が折紙にて礼を述べる。
矢野勝倫が所望していた制詞和歌、小点詞、天徳歌合を書写し毛利敦元に預ける。
織田光清に青蓮院門跡筆の三社託宣を遣わす。光清より餞として30疋が贈られる。
斯波義敦より四辻への返書が到来する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月20日 27歳
織田兵部丞女房より毛抜が贈られる。
清須(尾張国)を発ち、夜に入り4時分に墨俣に到着する。光明寺に宿泊する。
織田達勝が暇乞いに訪れる。達勝が清須からの20町の道程を付き添う。織田丹波守は1里を付き添う。織田光清は墨俣まで付き添う。毛利敦元、名古屋教久、織田信秀、織田定信、滝川勝景が道にて暇乞いに訪れる。平手政秀より濃州紙1束、毛抜5が贈られる。坂井摂津守が暇乞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月21日 27歳
雨のため墨俣(美濃国)に逗留する。言継一行の朝夕の食事は美濃国守護代 斎藤勘解由左衛門が留守のためその子息・毘沙徳が世話をする。
飛鳥井雅綱、織田光清と歌を詠む。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月22日 27歳
飛鳥井雅綱山科言継が墨俣(美濃国)を発ち、垂井(美濃国)に到着する。墨俣より和田弥九郎が迎えにやってくる。垂井に速水左京亮、織田光清が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月23日 27歳
速水左京亮、織田光清、和田弥九郎が垂井(美濃国)より帰る。長井が迎えとして山科言継と言継と同道している飛鳥井雅綱のもとを訪れ、朝妻(近江国)まで赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月24日 27歳
山科言継と言継と同道している飛鳥井雅綱が朝、八時前に朝妻(近江国)を発ち、七時分、坂本(近江国)の濱の坂井源三右衛門の所に到着する。出発時、勝幡(尾張国)よりの輿舁を帰す。
言継のもとへ坂本の大蓮坊、善養坊、仏頂坊が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月25日 27歳
山科言継坂本(近江国)より帰宅する。
藤三位が訪れる。西専庵、中御門、吉田侍従が訪れる。
中御門のもとを訪れ、母に10疋・毛抜1、中御門に毛抜1、その妻に毛抜1を贈る。柳原の妻に毛抜1、官務の妻に毛抜1を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月28日 27歳
山科言継のもとへ山井景範が訪れる。南都舞人4人(狛忠葛、狛俊葛、大神秀祐、大神行枝)の任官加階について申請があり。よって、披露をし、勅許が下りたこをを万里小路惟房と公敍に伝え口宣案を発給してもらい山井景雄に渡す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月29日 27歳
山科言継のもとに建仁寺光明院(山城国)が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文4年 1535年 2月12日 29歳
山科言継般舟三昧院に、この日より籠居する
出典:『言継卿記』同年月日条

天文5年 1536年 1月1日 30歳
山科言継が、大舘尚氏大舘晴光、大舘兵庫頭、大舘治部大輔、大舘弥三郎、上野与三郎、千秋将監、彦部又四郎、朝日孫右衛門、荒川氏隆本郷光泰、本郷三郎、小笠原民部少輔、一色式部少輔、海老名高助、海老名二郎、細川高久、細川刑部少輔、飯川彦九郎のもとに礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文6年 1537年 2月8日 31歳
飛鳥井雅綱邸にて歌会始が行われる。参加者は、甘露寺、山科言継、雅綱、細川陸奥守、大舘兵庫頭、朽木稙綱、細川刑部少輔、三淵晴員荒川氏隆、本郷三郎、安東平次郎。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文12年 1543年 7月2日 37歳
子・言経が生まれる。
出典:-

天文14年 1545年 2月25日 39歳
細川晴元邸にて千句が行われる。参加者は山科言継、東坊城、細川元常、細川尹隆、細川晴賢、誓願寺西堂、智恵光院重蓮社、最勝院素経、曽我、本郷光泰安威藤備、飯川彦九郎、諏訪信濃守、寿慶、祐乗、春阿弥、飯尾兵部丞。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文14年 1545年 3月26日 39歳
誓願寺鐘鋳供養(3/26-4/7)
北野経王堂にて誓願寺の鐘を鋳る。山科言継、伯卿、薄が見物に訪れる。都鄙の貴賤男女が数えきれないほど参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文14年 1545年 5月7日 39歳
八瀬川入道が三十三間堂奉加帳を請け取りに山科言継のもと訪れる。八瀬川からの依頼により言継が三十三間堂修造について禁裏の沙汰であること、国々での勧進に尽力するようにとする判物を本願 普門坊宛に発給する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文14年 1545年 10月3日 39歳
飛鳥井雅綱が、明日、多賀社へ赴くことを山科言継に伝える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文16年 1547年 -月-日 41歳
子・薄諸光が生まれる。
出典:『系図纂要』「薄」

天文17年 1548年 4月25日 42歳
山科言継・上冷泉が清水寺の千部経へ参詣する。貴賤群集し商売の市が立ち、往還することが困難だったという。それにより言継は、読経僧が見えなかったため清水寺の本願に局へ案内させる。法華経一巻を聴聞の後、僧衆による音楽演奏がある。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

天文18年 1549年 8月27日 43歳
山科言継が長慶の勝利を祝し太刀1腰を長慶に贈る。
禁裏御料所内蔵寮料陸路河上四方八口率分役所について、今村慶満が押領していることを言継が長慶に訴える。
出典:『言継卿記』同年月日条、天文18年8月27日付山科言継書状写(『言継卿記』『戦国遺文 三好氏編』第1巻-251・252号)

天文18年 1549年 11月19日 43歳
京都に住む山伏・石見 慶春(経舜)が山科言継のもとを訪れ、多賀社勧進帳を執筆してくれた礼として20疋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 1月15日 44歳
足利義晴が病を患う。義晴は病の身ながら四過時分、山科言継と高倉父子と対面する。
出典:『言継卿記』同年月3日条

天文19年 1550年 2月22日 44歳
山科言継今村慶満の率分関違乱を三好長慶三好長逸・狩野信濃守に訴える書状を送る。また長慶には勅筆詩歌3枚を、長逸には勅筆詩歌2枚を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月16日 45歳
山科言継が上洛をした三好長慶松永久秀のもとに大沢掃部を遣わす。東寺にいた久秀は、大沢掃部とともに吉祥院(山城国)を居所としていた長慶のもとに赴くが留守であったため大沢掃部と別れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月23日 45歳
山科言継三好長慶を見舞う使者を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月26日 45歳
山崎(山城国)にいる三好長慶のもとに山科言継の使者・大澤掃部が訪れるが逢えず。掃部には松永久秀、鳥養兵部が応対する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 4月3日 45歳
山科言継小山新四郎より薬を購入する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 1月13日 46歳
多賀社不動坊配下の祐賢(宮内卿法師)が、山科言継のもとを訪れ、前年に勅筆を賜ったことへの礼として鳥子紙100枚を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 1月15日 46歳
小山新四郎山科言継のもとに年始の礼として訪れ、砂糖1桶を贈る。言継と対面し酒を賜る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 2月10日 46歳
飛鳥井雅春山科言継を夕飯に呼び、言継の従者である大澤重成とともに狸汁を食す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 2月22日 46歳
千本釈迦堂大報恩寺の養命坊と善法坊が山科言継のもとを鈴一対と台物をもって訪れる。言継は砂糖餅の吸い物を振る舞う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 4月28日 46歳
山科言継、宮内卿が比叡山延暦寺横川元三大師に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 5月10日 46歳
山科言継が南都に向けて出立する。辰下刻(8:00)に出発し、伏見から乗船して小倉まで向い東路を通る。高にて昼休みをし、狛で迎えに来た喜多院が用意した馬に乗る。申初点(15:00)に南都に到着し、転害(大和国)の塞屋に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 5月11日 46歳
山科言継東大寺大仏殿・八幡宮に参詣する。また興福寺大乗院に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 5月14日 46歳
山科言継が、四時分(10:00頃)南都を立ち、多賀において昼休み。小倉から乗船し伏見にて飲酒した後、暮に帰宅する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 6月14日 46歳
山科言継小山新四郎より薬4種を取り寄せる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月17日 46歳
足利義藤が霊山城(山城国)にて山科言継の挨拶をうける。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 1月30日 47歳
三好長慶、斎藤越前守が山科言継のもとを訪れ太刀を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 閏1月1日 47歳
山科言継が1月30日の礼の返礼として三好長慶のもとを訪れ太刀を贈る。また、三好義興・斎藤越前守にも会い、太刀を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 閏1月16日 47歳
三好長慶足利義藤警護として軍勢500を室町(山城国)に駐屯させる。
山科言継が昨日に礼にやってくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月23日 47歳
中御門、山科言継勧修寺晴秀足利義藤の籠る霊山城(山城国)に赴く。一行は義藤と面会する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月12日 47歳
中御門、山科言継が見舞いとして足利義藤のいる霊山城(山城国)に赴き面会する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月25日 47歳
山科言継清凉寺千部経法会に赴く。清凉寺には3000人の読経僧がおり、釈迦堂の東西に仮屋を建てる。参詣者が群参していたが、その多くが「田舎衆」であるという。坤(南東)の塔では念仏が行われているという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月26日 47歳
山科言継清凉寺千部経法会に赴く。朝の読経の後、清凉寺にて二尊院所蔵の足引の御影とその他の霊宝を言継は見物する。三条西公条が参詣も参詣しており、言継と公条が斎をともにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月27日 47歳
山科言継清凉寺千部経に訪れる。三好長慶が馬上50-60騎を含め700-800人を率い清凉寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月2日 47歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写を始める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月3日 47歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写のため右衛門督より玉葉集の上・中・下を借用する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 5月7日 47歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写のうち4季分6巻の書写を終える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月25日 47歳
山科言継が比叡山に登る。午刻(11:00-13:00)に梶井宮のもとへ参り、西塔院主を安居院が望んでいることを伝える。梶井宮からは石泉院僧正と定法寺なども西塔院主職を望んでいることを伝えられる。次に栄光坊を訪れる。病と聞いていたが看経をするなど回復していた。最後に安居院を訪れ、同院に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月26日 47歳
山科言継が安居院にて斎を受ける。次に言継は梶井宮門跡のもとを訪れ碁を打つ。ついで東塔東谷観仙房へ向かうが、房主は留守。ついで月蔵坊三位のもとへ赴くが留守。最後に再度、梶井宮門跡のもとを訪れ、西塔院主職のことについて安居院が適任であることを口添えする。夕方に安居院に戻る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月27日 47歳
山科言継が安居院にて斎を受ける。言継は梶井宮門跡のもとを訪れ雑談する。その後、安居院と同道して北谷に帰る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月28日 47歳
山科言継が南谷栄光坊を見舞う。病は回復したという。南光坊を訪れるが留守。ついで梶井宮門跡のもとを訪れ干飯にて酒を飲む。再度、西塔院主職について安居院を推す。明日下山するため梶井宮門跡に暇乞いをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 10月25日 47歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写を終える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 12月1日 47歳
三好長慶山科言継に依頼していた玉葉集の書写本を受け取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 12月15日 47歳
三好長慶が玉葉集を書写してくれた山科言継に礼状を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文23年 1554年 3月7日 48歳
鞍馬寺戒光坊が桜の枝を持参し山科言継のもとを訪れる。鞍馬寺の桜が満開であるので、言継に参詣を勧める。
出典:『言継卿記』同年月日条

弘治1年 1555年 10月23日 49歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 52歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 9月17日 52歳
吉祥院の陣所にいた松永久秀山科言継が礼をする。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄7年 1564年 3月5日 58歳
土佐光茂山科言継に命じられた扇(金銀末広)3本を納品する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 3月6日 58歳
山科言継が南都に赴くため京都を発つ。宇治市場桶屋にて昼休み。木津にて渡し船がなかったため修南院に伝えたところ輿で迎えにやってくる。未下刻に春日社但馬屋に到着する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 3月7日 58歳
山科言継が南都を出て転害へ経て、巳刻(9-11時)に転害を発ち輿にて木津まで赴く。木津よりは馬に乗り、宇治市場桶屋にて昼休みしたのち京に帰る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 3月9日 58歳
五辻が山科言継より借用していた『皇年代記』を言継に返却する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 4月23日 58歳
土佐光茂山科言継に命じられた扇(末広両金)・小扇(両金)3本を納品する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 6月30日 58歳
山科言継誓願寺に参詣し新造の庫裏を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月13日 58歳
山科言継大坂本願寺に赴くため京都を発つ。鳥羽(山城国)にて乗船。淀(山城国)にて大船に乗り換える予定であったが、大坂行きの船がなく交渉するもかなわなかったため山崎(山城国)まで赴き水無瀬(摂津国)にて逗留する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月14日 58歳
山科言継が水無瀬(摂津国)を発ち、橋本(山城国)にて船を用意する。若槻伊豆守の過書を用意し、巳下刻(10時)に乗船。申刻(15-17時)に大坂の烏丸亭に到着する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月18日 58歳
巳下刻(10時)、山科言継が住吉・を見物。堺南荘の旭蓮社に参詣。塩風呂町の宿に宿泊する予定であったが、宿がよろしくなかったため弥左衛門(和久与助)のもとに宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月25日 58歳
山科言継が大坂に戻り烏丸亭に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 8月11日 58歳
山科言継が若江荘(河内国)一宮の遷宮法楽猿楽見物のため、辰刻(7-9時)に大坂を出立する。辰下剋(8時)、上洛のため若江荘を発つ。枚方(河内国)にて昼休憩をし、山崎(山城国)にて酒を飲む。申下刻(16時)に帰宅する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 10月25日 58歳
土佐光茂山科言継のもとを訪れ、『源氏物語』首巻を求める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月1日 58歳
山科言継が大黒像を作製するために祇園社の山本のもとに大澤出雲守を遣わし橋の板を求める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月3日 58歳
山科言継が仏師・侍従に長橋局と言継用の大黒像2躯の作製を命じる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月12日 58歳
綿屋文益山科言継のもとを訪れ、御祓箱、長鮑100本を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月13日 58歳
山科言継が仏師 侍従に作製を命じていた大黒像(1寸30)が完成する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月21日 58歳
東寺塔造営の奉加を募るため、東寺にて空海着用の袈裟・念珠・脇息・剃刀箱・水瓶を出展する。山科言継が空海の遺品を見物するべく東寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 12月1日 58歳
春日名号の掛け軸をかけ、笛(笛名:神楽)を吹く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 1月6日 59歳
山科言継小山新四郎より麝香1分2朱を5包を20疋(200文)で取り寄せる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月18日 59歳
知恩寺にいる三好長逸革堂にいる三好義長のもとに山科言継勧修寺晴豊が礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月18日 59歳
松永久通が大森寿観の所(常徳院の内)に宿泊する。
勧修寺晴秀山科言継が礼のため訪れる。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月20日 59歳
東寺の本願 賢広が山科言継のもとを訪れ雑談する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月21日 59歳
山科言継一条内基を訪れ、東寺本願 賢広から依頼のあった土佐国での勧進裁許を申請する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 1月3日 60歳
粟津与三左衛門尉山科言継を訪れカマスを贈られる。与三左衛門が伏見雑喉公事代官職を所望し、澤路筑後守代官が公事銭20疋の納入であったのに対し、与三左衛門尉はそれよりも多い50疋の公事銭納入を約したため、言継は与三左衛門を代官職に補任する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 1月4日 60歳
粟津与三左衛門尉山科言継に伏見雑喉公事代官職の請文を提出し、毎年5月4日に500文の公事銭納入を約束する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 3月26日 60歳
今村慶満が木幡・大津坂本の関所を押領していることについて山科言継三好長逸三好康長に訴える。
出典:『言継卿記』同年3/27条

永禄9年 1566年 6月16日 60歳
山科言継三好長逸三好康長・七条左近にでの合戦の勝利を祝す書状を調える。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 7月17日 60歳
三好長逸が禁裏に参内し樽代100疋、美物3種、雁2羽、鮎1折を進上する。小御所の庭にて御酒を賜る。また山科言継のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 7月18日 60歳
山科言継三好長逸のもとに礼に訪れ太刀を贈る。奏者は磯与右衛門尉。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月7日 60歳
正親町実彦が大坂(摂津国)に下向するとされる。それを聞き山科言継が実彦のもとに訪れ小漬にて酒を1盃飲む。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月23日 60歳
朽木藤綱が若狭国より密かに上洛する。山科言継と雑談する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月25日 60歳
朽木藤綱山科言継のもとを訪れる。五霊膏、豆〓散等の処方を言継に請い教示してもらう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月25日 60歳
山科言継朽木藤綱の望みにより、藤綱に五霊膏、豆〓散等の処方を教示する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月28日 60歳
申下刻(16時)、朽木藤綱山科言継のもとを訪れ、言継に預けておいた唐櫃3、革籠1を返してもらう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 10月1日 60歳
朽木藤綱、沢路常継が山科言継のもとに礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 10月2日 60歳
朽木藤綱山科言継のもとを訪れる。五疳保童円の処方を言継に請い教示してもらう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 12月20日 60歳
本満寺を旅宿としていた三好長逸のもとに山科言継が礼として訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月1日 61歳
清玉行願寺で3月2日より開催する千部経法会に音楽にて結縁するように山井景長に依頼する。依頼を受けた景長は山科言継にその旨を伝える。言継は参加する旨を表明する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月2日 61歳
清玉行願寺(革堂)で千部経法会(3/2-3/11)を催す。山科言継・四辻相公・山井景長・隆秋が行願寺で行われる千部経法会に参加する。夕座の際、清玉が言継に酒を勧める。言継は清玉に奉加20疋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月3日 61歳
山科言継・大沢右兵衛大夫・小川松夜叉・孫左衛門尉が行願寺千部経法会に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月4日 61歳
山科言継が四辻・楽人を連れ行願寺千部経に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月5日 61歳
山科言継・四辻相公・薄が行願寺千部経に赴く。高倉永相が同じく聴聞にやってくる。遍照院が笙を吹く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月6日 61歳
山科言継・持明院・薄が行願寺千部経に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月7日 61歳
山科言継・持明院・四辻相公・倉部・薄とともに行願寺千部経に赴く。高倉永相・甘露寺・中院・松夜叉・下冷泉児・下冷泉中将が聴聞に訪れる。遍照院が笙を吹く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月8日 61歳
山科言継行願寺千部経に赴く。葉室が清水寺・行願寺の千部経を聴きに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月9日 61歳
対馬守弟越後入道が山科言継のもとを訪れ、行願寺の千部経法会を差配している清玉から預かっている20疋を言継に渡す。言継は持明院・四辻相公・薄・山井景長隆秋とともに行願寺に赴く。四辻相公が結縁として筝をひく。朝経の後、行願寺別当 少納言の所に千部経参加の公家衆・楽人衆・導師僧67人・雲松軒・養命坊中将(筝演奏者)を饗応する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月10日 61歳
山科言継・持明院・四辻相公・薄・山井景長・隆秋が行願寺に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月11日 61歳
行願寺千部経が結願(最終日)。山科言継・持明院・四辻 相公・薄・山井 景長・隆秋が行願寺に赴く。午刻過ぎに読経が終わる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 3月12日 61歳
対馬守弟越後入道が行願寺千部経を差配していた清玉の使いとして山科言継を訪れ、言継に千部経参加のお礼として樽代30疋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月3日 61歳
山科言継勧修寺晴秀が富田(摂津国)に居す足利義栄のもとへ赴き、太刀をもって礼をする。義栄と対面する。義栄の父・足利義冬にも礼をする。申次は畠山伊豆守。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月7日 63歳
勘解由小路室町に建設中の城の西側の石積みがおおよそ完成する。高さ4間1尺(約7.5m)。城の普請場にいる織田信長のもとに山科言継が見舞いに訪れる。
言継が聖護院道澄のもとに見舞いに訪れる。
言継が三好義継のもとに見舞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 閏5月9日 63歳
鞍馬寺戒光坊が山科言継のもとを訪れる。6月3日より三千燈勧進を行うことをうけ、言継は33燈分の奉加10疋(100文)を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 6月18日 63歳
日吉社社家 行丸が日乗のもとへ赴く。行丸は日乗のもとにやってきた山科言継に社頭修理のため本院執行代の申状と社家連署状をもって禁裏奉加奉加の綸旨発給を依頼する。日乗の口添えもあり、言継は長橋局に綸旨発給を申請する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月1日 63歳
織田信長岐阜城下(美濃国)に滞在中の山科言継今井宗久、江西、武井夕庵松井友閑、島田弥右衛門、金余等を岐阜城の山城に案内し饗応する。饗応には信長も同席する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月11日 63歳
山科言継、烏丸が岐阜城下を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月12日 63歳
岐阜城下にいる勧修寺門跡のもとへ赴き雑談する。丹羽長秀のもとへ礼に赴くが、長秀が眼病のため会えず。林秀貞のもとへ礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月14日 63歳
岐阜城(美濃国)の織田信長のもとへ烏丸光康光宣父子、山科言継飛鳥井雅春が赴き暇乞いする。信長に鳥1、太刀(金作り)、馬代(金10両)、居唐金鉢を送る。信長の子・帰命(奇妙)に一本緞子1端(赤地)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 11月6日 63歳
久我晴通山科言継邸の真向かいの家を購入し同家に移る。言継は柳2荷を持参するが晴通は外出中のため会えず。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月3日 64歳
安見宗房山科言継に年頭の礼をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月13日 64歳
山科言継安見宗房のもとを年頭の礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月26日 64歳
未下刻(14時)より室町幕府奉公衆方の竹内治部少輔(美濃国下向中)・三淵藤英・三淵弥四郎・一色藤長・曽我助乗・明智光秀(美濃国下向中)・摂津晴門・大和治部少輔・朽木刑部少輔・竹田法印、竹田治部卿、荒川与三、三福寺、清和院、真下式部少輔、疋田弥九郎、松林院に年頭の礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月27日 64歳
飛鳥井雅春が歌会を催す。参加者は中山孝親、四辻、山科言継山科言経、三条実澄、飛鳥井雅敦、鑑林、細川藤孝一色藤長飯川信堅、曽我助乗。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月5日 64歳
足利義昭が御所にて初卯の八幡御法楽連歌会を催す。参会者は聖護院道澄、大覚寺義性、三条実澄、山科言継飛鳥井雅敦、不断光院清誉、細川藤孝飯川信堅、上野輝加、曽我助乗、飯川秋共、春阿弥で、執筆者は覚勝院の児子である松千代。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月8日 64歳
山科言継清水寺に参詣する。先に子安観音に参る。越前国の松尾兵部少輔に嫁いだ阿茶が産月にあたるため祈念柱をうがつ。その後、清水寺・祇園を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月12日 64歳
禁裏御所の御作事奉行である村井貞勝が禁裏の作事小屋にいることを山科言継が聞きつけ言継が訪れるが貞勝は外出中のため面会できず。言継は貞勝に樽代20疋(200文)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月13日 64歳
村井貞勝日乗山科言継のもとに礼に赴く。門外にて対面する。樽代30疋(300文)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月26日 64歳
村井貞勝が曼殊院覚恕のもとを訪れる。曼殊院覚恕、山科言継村井貞勝日乗と湯漬を相伴する。みな下戸であるので中酒は形ばかりを繕う。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月4日 64歳
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れる。しかし、信長は頭痛のため伏しており、対面できず。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日 64歳
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れ、銭30疋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月10日 64歳
中山孝親勧修寺晴右山科言継、甘露寺経元、庭田重通、日野、中院、局務師廉ら僧俗貴賤60名ほどが織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日 64歳
禁裏の作事を見舞う。長橋局にて禁裏御作事奉行の村井貞勝に麺にて酒1盞を勧める。加田新左衛門とともに相伴する。ただし、貞勝は下戸なため形式ばかりで済ます。
山科言継葉室頼房足利義昭のもとに当年の礼に赴く。申次は細川藤孝
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 64歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月29日 64歳
山科言継織田信長の京都(山城国)の宿所を訪れ、同所留守居の島田秀満、佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆と雑談する。
信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月1日 64歳
山科言継が日野、武井夕庵のもとに澤路隼人佑を遣わし越前国からの無事の帰国を喜んでいることを伝える。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月3日 64歳
山科言継、松木、三条新少将、白川侍従、局務が織田信長のもとに赴く。取次は林秀貞
その後、言継等は徳川家康畠山高政松永久秀のもとに赴く。
次いで三好義継のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月23日 64歳
上泉信綱山科言継のもとを訪れる。信綱は言継に軍配を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月25日 64歳
山科言継村井貞勝に瓜1蓋(20個)を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 64歳
上泉信綱山科言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 64歳
上泉信綱山科言継のもとを訪れ、四位の叙位について礼をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月22日 64歳
多賀社新蔵坊が山科言継のもとを訪れる。永禄12年秋に中御門家に依頼した綸旨文章について言継に執筆を依頼する。言継に対面し、札1枚、小刀2腰を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 3月21日 65歳
中御門の誘いのにより山科言継、勧修寺頭弁、薄が東寺御影供に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 4月11日 65歳
山科言継真如堂の仏殿の作事を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 4月16日 65歳
里村紹巴邸で和漢会が行われる。参加者は大覚寺殿、仁如、策彦周良、細川藤孝山科言継
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 4月27日 65歳
久我晴通が落馬する。そのため愛洲薬を山科言継に所望する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 4月27日 65歳
山科言継、左兵衛督、中御門宣政、白川、雲松軒、戒光院が清水寺千部経の聴聞に赴く。貴賤男女が群集する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月12日 65歳
山科言継細川藤孝のもとを訪れるが、藤孝は病のため面会せず。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月16日 65歳
中御門宣政、室町町衆 友田八郎二郎・浮島平次郎、久河与七郎と他3名が山科言継のもとを訪れ、将棋・双六・音曲を楽しむ。
近所の六町衆の踊りを見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月17日 65歳
中御門宣政、雲松軒が山科言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月18日 65歳
山科言継が自邸の真向かいの久我晴通邸を訪問する。干飯にて酒を飲む。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月19日 65歳
母・妙永の忌日につき清和院寿興が斎に来る。
中山孝親に以前依頼されていた堂上次第を用意し送る。
畠山次郎より依頼のあった躍之歌3色(すきの茶、鷹野、はねをとり)を送る。
勧修寺晴右より踊之歌、嵯峨が所望しているというので2色(松の名所、色のをとり)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月29日 65歳
持明院基孝は、女房衆が赤痢を患ったため、山科言継のもとを訪れ薬を所望する。言継は中散5服、鶯粟1両を処方する。
中御門宣政が言継のもとを訪れ、徳大寺実満の四位の口宣案を用意する。
葉室頼房が言継に鮎4を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月8日 65歳
下京の粟津与五郎が山科言継に伏見の者が鰤・鮭の商売を新たに始めたことは非法であると訴える。これを受け、言継は細川藤孝に伏見の鰤・鮭商売の停止を依頼する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 67歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 1月10日 70歳
小山新四郎山科言継のもとに年始の礼として訪れ、扇1本を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 1月20日 70歳
近衛信基邸で和歌始が行われる。聖護院道澄山科言継山科言経、西洞院時通、広橋兼勝、冷泉、北小路俊孝、上野民部少輔、丹波頼景、丹波頼慶、進藤長治が参加する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 2月1日 70歳
山科言継山科言経、日野輝資、広橋兼勝烏丸光宣村井貞勝のもとを訪れる。茶・吸物・酒でのもてなしを受ける。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 2月1日 70歳
山科言継近衛信基のもとを訪れる。信基は吸物、酒でもてなす。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月2日 70歳
伊勢国山田の松木兵部少輔が錫・食籠を持って祭主・山崎右近を伴い言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月3日 70歳
山科言継近衛信基のもとに礼に訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月28日 70歳
二条晴良邸が織田信長の命により報恩寺に移ることになり、その普請を山科言継山科言経葉室長教が見物する。明智光秀が晴良邸の普請奉行を命じられる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月7日 70歳
山科言継二条晴良邸を普請中の報恩寺を見物する。大概完成しており、大工は見えず、壁塗りばかりが行われている状態であったという。貴賎男女も見物していたという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月9日 70歳
報恩寺二条晴良邸の作事がおおよそ完了する。この日、晴良が移徙を予定していたが、悪日のため10日に延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月16日 70歳
山科言継が烏丸の店屋にある遊行魔利支天像1幅を見物し感激する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月24日 70歳
山科言継が嵯峨祭の見物に赴く。松尾神社経所の月次連歌会に参加する。参加者は15・16人程でいつもどおり。十穀に薬1包を送り、夕飯あり。申刻(15-17時)に終わる。その後、松室左衛門佐の所に行き宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 70歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月5日 70歳
山科言継山科言経冷泉為純葉室頼房村井貞勝のもとへ礼に訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月6日 70歳
織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良昭実父子、近衛前久信基父子、飛鳥井雅敦勧修寺晴豊烏丸光康光宣父子、山科言継言経父子、持明院基孝中山孝親庭田重保葉室頼房広橋兼勝冷泉為純薄以継大乗院尋憲一乗院尊政大覚寺尊信聖護院道澄が訪れ、対面する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天文4年 1576年 6月16日 70歳
鑓屋新左衛門尉山科言継より薬1包を貰うも死去する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月24日 70歳
義弟・葉室頼房が死去する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月28日 70歳
葉室頼房の弔いに玄忠院へ山科言継言経薄以継父子が赴く。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 7月1日 70歳
山科言継言経父子が貞勝のもとを訪れる。両者に対面する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 9月1日 70歳
山科言継言経父子が貞勝のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月25日 70歳
山科言継村井貞勝のもとを訪れ、織田信長の館の作事を見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月20日 70歳
羽柴秀吉が三条町伊藤与右衛門のもとに旅宿しているところ、山科言継が公事の便宜のため訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 12月18日 70歳
愛宕山伏・但馬が山科言継のもとを訪れ書状を持参し、言継より酒を振る舞われる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 12月19日 70歳
愛宕山伏・但馬が山科言継のもとを訪れ、越前北ノ庄にいる言継娘の書状を持参し、様子を雑談し、また酒を振る舞われる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月21日 71歳
孫・言緒が生まれる。
出典:『諸家伝』

天正5年 1577年 4月18日 71歳
妻・陽春院が死去する。
出典:『言経卿記』天正7年4月18日条

天正7年 1579年 1月14日 73歳
山科言継が内侍所に赴く。その後、上御霊社、北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月27日 73歳
山科言継誓願寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月27日 73歳
誓願寺で千部経法会を始める。
山科言継が参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月28日 73歳
山科言継誓願寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月1日 73歳
山科言継山科言経父子が織田信長のもとに礼に赴くが対面はなし。その後、父子は村井貞勝のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月2日 73歳
山科言経薄諸光兄弟が山科言継のもとに夕飯に赴く。夕食中、言継の心臓が痛み、一度は落ち着くが、言継は死去する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月3日 
山科言経薄諸光兄弟が、父・言継の遺体を花開院に葬送する。阿弥陀寺長老の源蓮が引導を勤める。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 4月6日 
山科言継の菩提を弔うため、山科言経が法華経一部を、薄諸光が三部経を書写する。
出典:『言経卿記』同年月日条

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