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人 物 史
大内輝弘
おおうち てるひろ
生 没 年
永正17年(1520)-永禄12年(1569)10/25
出 身
-
幼 名
-
別 称
太郎左衛門尉
法 名
-
戒 名
-
父
大内高弘
母
-
兄 弟 姉 妹
大内輝弘
配 偶 者
-
子
大内武弘
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
○
大内輝弘に関する参考文献
関 連 デ ー タ
-
大内輝弘 年表
永正17年 1520年 -月-日 1歳
大内輝弘
が生まれる。
出典:-
大永1年 1521年 8月23日 2歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-
享禄1年 1528年 8月20日 9歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-
天文1年 1532年 7月29日 13歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-
天文20年 1551年 9月1日 32歳
大内義隆
が
陶隆房
の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」
弘治1年 1555年 10月23日 36歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-
弘治4年 1558年 2月28日 39歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-
永禄12年 1569年 -月-日 50歳
吉岡長増が
大友宗麟
に対し、周防国を
大内輝弘
に攻めさせるよう提案する。宗麟は長増の提案を容れ、輝弘に軍勢をつける。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 9月11日 50歳
大内輝弘
が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 9月13日 50歳
大内輝弘
が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 9月14日 50歳
山口(周防国)に陣取る
大内輝弘
のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 10月15日 50歳
吉川元春
、
小早川隆景
、宍戸隆家、
福原貞俊
、
桂元澄
、志道広好、
吉見正頼
、三沢為清、三刀屋久扶、
益田藤兼
、
杉原盛重
、
熊谷信直
等からなる毛利勢が、
立花山城
(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」
永禄12年 1569年 10月24日 50歳
山口(周防国)に在陣中の
大内輝弘
に向けて
毛利元就
が
吉川元春
・
熊谷信直
率いる軍勢10000を長府(長門国)より差し向ける。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」
永禄12年 1569年 10月25日 50歳
茶臼山にて
大内輝弘
が自害する。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」
永禄12年 1569年 10月28日 50歳
毛利元就
、
毛利輝元
、
小早川隆景
が長府(長門国)より防府(周防国)に移る。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」
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