人 物 史

吉見正頼 よしみ まさより
生 没 年永正10年(1513)-天正16年(1588)5/22
出 身-幼 名-
別 称四郎、式部四郎
法 名周鷹
戒 名周鷹寺殿月左鷹公大居士
吉見頼興内藤弘矩の娘
兄 弟 姉 妹吉見興成、吉見隆頼、吉見威俊、吉見周信、吉見正頼、吉見頼盛、吉見頼員、吉見頼実、吉見範弘、女(周布輔興の妻)
配 偶 者大宮(大内義興の娘)、内藤隆春の娘、光井氏の娘
吉見広頼、吉見広正
官 位式部少輔、三河守、大蔵大輔、出羽守
役 職-
城 郭三本松城(石見国)
参 考 文 献吉見正頼に関する参考文献
関 連 デ ー タ吉見正頼の関連文化財
吉見正頼 年表
永正10年 1513年 -月-日 1歳
吉見正頼が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 9歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
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享禄1年 1528年 8月20日 16歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 16歳
大内義興が死去する。
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天文1年 1532年 7月29日 20歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
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天文20年 1551年 9月1日 39歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文24年 1555年 10月1日 43歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 43歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 46歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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永禄6年 1563年 8月4日 51歳
毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄12年 1569年 10月15日 57歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

元亀1年 1570年 4月23日 58歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 61歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正10年 1582年 6月4日 70歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正16年 1588年 5月22日 76歳
吉見正頼が死去する。
出典:-

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