人 物 史

島津忠興 しまづ ただおき
生 没 年慶長5年(1600)5/29-寛永14年(1637)6/11
出 身大隅国種子島幼 名-
別 称-
法 名堯秀坊
戒 名青蓮院崇誉原隆
島津以久松木氏の娘
兄 弟 姉 妹島津彰久、入来院重時、女(北郷忠能の妻)、島津忠興、女
配 偶 者丹生氏の娘
島津久雄、島津久富、島津久遐
官 位右馬允、右馬頭
役 職-
城 郭佐土原城(日向国)
参 考 文 献〇『寛政重修家譜』巻第109「島津忠興」
関 連 デ ー タ史料にみえる島津忠興の呼称
島津忠興の関連文化財
島津忠興 年表
慶長5年 1600年 5月29日 1歳
島津忠興が生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 2月12日 4歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 6歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長15年 1610年 4月9日 11歳
父・以久が伏見(山城国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津以久」の項

慶長19年 1614年 6月19日 15歳
島津忠興が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。伽羅・太刀・馬を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月1日 15歳
島津家久の使者が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。家久からは、豊臣秀頼の使者として長崎往来商人の高屋七郎兵衛が家久のもとを訪れ、秀頼黒印状・脇差(銘 正宗)を持参し、家康による大坂城(摂津国)攻めで秀頼に味方するようにとの依頼があったが、家久は関ヶ原の後、家康のおかげで本領安堵を受けているので秀頼に味方することはできないしと、脇差を返却し、使者は商人だったため殺さずに帰したことを報告する。この件は、本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 16歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 17歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 25歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 33歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

寛永14年 1637年 6月11日 38歳
島津忠興が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠興」の項

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