人 物 史

本多正純 ほんだ まさずみ
生 没 年永禄8年(1565)-寛永14年(1637)3/10
出 身-幼 名-
別 称千穂、弥八郎
法 名-
戒 名-
本多正信-
兄 弟 姉 妹本多正純本多政重、本多忠純、娘(三浦重成の妻)、娘(小栗重勝の妻)
配 偶 者酒井重忠の娘、梅(青木一矩の娘)
本多正勝、娘(太田政治の妻)
官 位上野介
役 職-
城 郭小山城(下野国)、宇都宮城(下野国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ本多正純の関連文化財
史料にみえる本多正純の呼称
本多正純 年表
永禄8年 1565年 -月-日 1歳
本多正純が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 6歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 9歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正8年 1580年 -月-日 16歳
弟・政重が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 18歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

文禄1年 1592年 12月8日 28歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 32歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 34歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 39歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 3月25日 39歳
巳下刻(10時)、徳川家康が参内する。結城秀康細川忠興池田輝政京極高次福島正則、松平忠良、松平飛騨守、松平清直、松平家清本多正純本多康紀本多忠勝石川康通井伊直継本多康俊板倉勝重、本多藤四郎、渡辺守綱、山上弥四郎、島田直時、鵜殿善六、横田弥五左衛門、高木九助、近藤秀用竹中重義森可澄、三好助三郎、三好可正、佐々木勝九郎、近藤政成、松平一生、戸田采女、内藤正成秋元泰朝松平正綱近藤季用大久保忠総、酒井主水、永井直勝三浦重成米津正勝、中山信吉、柴田左近、成瀬正成安藤直次、榊原甚五兵衛、横田尹松、日下部宗好、長谷川久五郎、阿部忠吉、豊島信満、林忠政、花井勝右衛門、伊奈忠政、加藤吉左衛門、高木善三郎、朝比奈弥太郎、石川康次、鳥井九郎左衛門、里見忠重、都築与右衛門が供奉する。将軍宣下の礼として禁裏に銀子1000枚を進上する。午下刻(12時)退出する。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 41歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 8月2日 47歳
徳川義俊徳川頼宣、徳川頼房が藤堂高虎邸を訪れる。埦飯の後、能5番、風流踊あり。義俊等に本多正純成瀬正成永井直勝村越直吉松平正久後藤光次が供をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月17日 47歳
本多正純駿府城(駿河国)の邸宅にて、土井利勝、渡辺山城守、長谷川筑後守等を招き酒宴を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月27日 47歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が駿府(駿河国)の藤堂高虎邸を訪れる。家康に徳川頼宣本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久、水野重央、西尾丹後守、竹腰正信、秋元泰勝、板倉重昌後藤光次長谷川藤広、浅井七平、大岡兵蔵、佐久間頼勝、日根野左京亮、高力河内守、北見長五郎、野尻万介等が供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 47歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩と称して関東の向かうべく駿府城(駿河国)を出立する。供奉は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久後藤光次。駿府八幡辺で鷹狩をする。家康は清水(駿河国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月7日 47歳
朝、徳川家康が清水(駿河国)を出立する。今泉の善応寺に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月8日 47歳
徳川家康が三島(伊豆国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月9日 47歳
徳川家康大久保忠隣を召し出し、忠隣の子・忠常の病の容態を訪ねる。本多正信が迎えとして家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月10日 47歳
徳川家康が中原(相模国)に宿泊する。徳川秀忠の命により安藤重信が家康の御膳を用意する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月11日 47歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月12日 47歳
徳川家康が相模川まで移動するが、雨により中原(相模国)に引き返し逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月13日 47歳
徳川家康が藤沢(相模国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月14日 47歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。江戸城(武蔵国)より徳川秀忠が出向き雑談する。秀忠は江戸城に戻り、家康は神奈川にて宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月15日 47歳
徳川家康が稲毛(武蔵国)に宿泊する。途中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月16日 47歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。江戸詰めの諸大名が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月20日 47歳
朝、徳川秀忠本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に茶と鶴料理を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月25日 47歳
徳川秀忠が茶壺(銘 鎮西)の口を切る。「数寄屋」にて、本多正信本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広を召し、鶴料理と茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月13日 47歳
朝、徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、川越(武蔵国)に到着する。鴻巣(武蔵国)にて鷹狩をしていた徳川秀忠が川越に居る家康のもとに赴く。
秀忠が本多正純安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に黄金・馬・服を下賜する。
夜、源誉存応、成瀬正成土井利勝が上野国より川越にいる家康のもとに赴き、新田義重・義貞の菩提所について旧跡が存在したことを報告する。家康のそのことを喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月23日 48歳
本多正純の与力・岡本大八が、有馬晴信に先年の黒船討ち取りの功により肥前国三郡の返付があるとして偽造した朱印状を渡すとともに、幕府老中への謝礼として白銀600枚を納めるようにと指示し、その白銀を横領したことについて、晴信からの疑義があり裁判が行われ、大八は無罪を主張するも、晴信が証拠となる文書を所持していたことから、大八の敗訴となり、大八も白状する。駿府町奉行の彦坂光正が大八を鞭打ちのうえ禁固する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月26日 48歳
駿府城(駿河国)にて田中忠政徳川家康に謁す。忠政は家康に銀子100枚、黒羅紗10間を献上する。
夜、家康が本多正純板倉勝重を召し、3月中旬に徳川秀忠と天下政務の相談をすることを伝える。
生駒正俊が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月18日 48歳
禁獄中の岡本大八が有馬晴信について、長谷川藤広を殺害せんと企んでいると申告する。これにより、大八を牢より出し、大久保長安邸に移し、晴信の居る前で大八に晴信の企てについて述べさせる。晴信は閉口してしまい回答ができなかったため、晴信の身柄を拘束する。大八は再度牢に入れる。これにつき、晴信の所領は子・直純に与え、直純には国の仕置きのため帰国を許す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月21日 48歳
徳川秀忠が加護鼻にて竹腰正信をして鉄砲を放たせる。
岡本大八を牢より出し、府内(駿河国)にて引き回しのうえ、安部川原にて火炙りの刑に処す。徳川家康板倉勝重を召し、キリスト教を禁教とし、京都における南蛮寺の破却を命じる。また、長谷川藤広に暇を与え長崎(肥前国)に赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月16日 48歳
徳川家康駿府城(駿河国)に在府中の一乗院の宿所に本多正純を遣わし、春日社の造替料として米20000石を寄進することを伝える。
2-zinbutu-20-tokugawa-hidetada.htmlの使者として井上正就が駿府城にいる家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月18日 48歳
徳川家康が諸大名に茶を振る舞う。日野輝資、山名禅高が同席する。両名の退席後、家康は黒田長政万徳丸父子を召し、酒盃を下賜す。黒田父子に万徳丸を右衛門佐に任ずことを告げる。また、家康は万徳に刀(銘 長光)・脇差(銘 岡本正宗)・真壺を下賜し、長政に鷹・馬を贈る。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長18年 1613年 1月2日 49歳
豊臣秀頼の名代・速水守久(取次・大沢基宿)、日野唯心水無瀬一斎山名禅高、畠山左近、土岐市正、西尾豊後守、遠藤慶隆竹中重門古田重治、稲葉方通、谷衛友、平野長泰、長谷川縫殿助、片桐且元片桐貞隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
医者衆が家康に年始の礼をする。
宗義智の名代・柳川智永、京・堺・大坂・奈良・伏見の町人が家康に年始の礼をする。
夜、謡始が行われ、家康、徳川義利徳川頼宣、徳川頼房、唯心、禅高、永井直勝本多正純が出席する。観世大夫、梅若大夫に服2領が下付される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月7日 49歳
徳川家康徳川秀忠本多正純を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月13日 49歳
江戸(武蔵国)より本多正純駿府城(駿河国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月15日 49歳
巳刻(9-11時)、源誉存応が報土寺(駿河国)に居す。徳川家康が報土寺に赴く。供は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久等100余名。家康は源誉存応の法問「一念弥陀仏即滅無量罪」を聴聞する。午刻(11-13時)、家康は駿府城(駿河国)に帰城する。その後、家康は南光坊天海邸のもとに赴き仏法について雑談する。夜、帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月4日 49歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に南殿に赴く。近習衆が随従する。徳川秀忠が家康のもとを訪れ閑談する。秀忠が去った後、家康は本多正信本多正純父子を召し、閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月18日 49歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が復調により江戸城(武蔵国)本丸に赴く。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次、医師衆、近習衆100名程が供奉する。
申刻(15-17時)、浅野長晟が江戸城(武蔵国)にいる家康の前に召し出され、兄・幸長の実子がいなかったため遺領を継ぐことが認められる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月19日 49歳
卯刻(5-7時)、江戸城(武蔵国)本丸にて、本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次林羅山に料理が振る舞われる。
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が江戸城の新城に赴き、南光坊天海の論議を聴聞する。題は我功徳力、如来加持力、法界力、三具足をもって即身成仏となす。
夜、石川康長の日頃の不義が露見し、また大久保長安に縁座し所領没収となる。康長の所領没収につき、小笠原秀政松本城(信濃国)を請取のため、同城に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長18年 1613年 11月20日 49歳
徳川家康が岩槻(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、越谷(武蔵国)に到着する。
小山(下野国)より本多正純が越谷に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月24日 50歳
徳川家康が中原(相模国)を発し、未刻(13-15時)、小田原(相模国)に到着する。
夜、本多正信本多正純安藤直次土井利勝安藤重信連判状を大久保忠隣に発給する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月30日 50歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠からの使者として土井利勝が到着する。本多正純と利勝が家康と密談する。
長谷川藤広が献上した砂糖20斤が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月2日 50歳
浅野長晟が駿府(駿河国)に到着する。昨冬、浅野幸長の跡目相続の許可を得たことへの礼のためと、本多正純徳川家康に取り次ぐ。家康は3日に対面する旨、長晟に伝える。
大久保忠佐の居城である沼津城(駿河国)の破却を正純、安藤直次に命じる。この処置は、忠佐が大久保忠隣の叔父であるためという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月21日 50歳
徳川家康土井利勝を召し、本多正純とともに閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月8日 50歳
徳川秀忠の使者として酒井忠世駿府城(駿河国)奥之常之御座にて徳川家康に銀3000枚・太刀(銘 光長)・馬(黒鹿毛)を献上する。本多正純、阿茶局が披露する。
忠世が家康に礼をする。蝋燭500挺・太刀・馬を献上する。家康は忠世に刀(銘 長光)を下賜する。忠世は江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
加藤忠広の名代として加藤正方が駿府城の礼をする。蒲生秀行の娘を秀忠の養女としたうえで忠広に嫁がせたことを謝し、緋繻子20、黒繻子20、服10領
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 5月19日 50歳
加藤明成駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに礼をする。3年間、腫物のため伊予国に3年間居住し、家康の礼が遅れる。明成は銀100・綿200把・袷衣10領を家康に献上する。本多正純が家康に披露する。この間、加藤嘉明は江戸(武蔵国)に在府する。
板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。五畿内で大雨があり洪水が起こり、賀茂川の堤防が切れ、町家に流れる。また、瀬田橋の板が傾き落ちる。板倉重昌がその旨を家康に伝える。瀬田橋の修復を家康は命じる。
前田利長が死去した旨が家康に伝えられる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月13日 50歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、前田利長の隠居領である能登国160000石について、前田利光に給付すべきか否か相談する。家康は前田家家老の前田長種、水原新左衛門、奥村栄頼本多政重を呼び、利光の妻である珠に30000石を給付すること、利光は若年によりよくよく後見するようにと命じる。家老衆は感涙し退出する。家老衆はそれぞれ家康に加賀絹50疋を献上する。また、利長の遺物である脇差(銘 不動正宗)・刀(銘 備前三郎)を家康に献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月17日 50歳
午刻(11-13時)、駿府(駿河国)にて風雨があり、夜、風が強くなる。
仙石忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に父・秀久死去につき、継目の礼をする。銀100枚・絹50疋・帷子・単物10領、秀久遺物として金100枚・脇差(銘 長光)・茶壺を献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月20日 50歳
飛鳥井中納言が新歌撰写を家康に献上する。
谷衛友駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。江戸(武蔵国)詰めのため家康が衛友に暇を下す。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月20日 50歳
徳川家康以心崇伝本多正純方廣寺(山城国)に棟札・鐘銘がどこで食い違ったのか、また豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることについて不審の念を述べる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 50歳
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 8月30日 50歳
徳川家康の使者として本多正純徳川秀忠のもとに赴くべく、駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月7日 50歳
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月14日 50歳
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河)に到着する。土井利勝が利勝の到着を密かに徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月16日 50歳
前田利光が駿府(駿河国)に到着する。午刻(11-13時)、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに利光が礼をする。利光は黄金100枚・紅染絹200疋・白絹100疋を献上し、家康に対面する。家康は利光に太刀(銘 守家)・脇差(銘 長光)を賜う。本多正純が下賜物を伝達する。利光の家臣である奥村栄明奥村栄頼が家康と対面する。服を献上する。
夜、家康が利光に継目の朱印状を発給する。正純、土井利勝が利光のもとに持参する。
家康が利光に、17日朝に徳川秀忠のもとに戻るよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 50歳
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月25日 50歳
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 10月1日 50歳
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 50歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 50歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 50歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月7日 50歳
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 50歳
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月9日 50歳
最上家親が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・義光の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。本多正純が披露する。家康は家親に大坂城(摂津国)攻めにつき、江戸城(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 50歳
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月11日 50歳
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、石川忠総柳沢元吉小倉吉次[水野分長勢]
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 50歳
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 50歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 50歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 50歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 50歳
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 50歳
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 50歳
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 50歳
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 50歳
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 50歳
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 50歳
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 50歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 50歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項

慶長19年 1614年 10月23日 50歳
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 50歳
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 50歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 50歳
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 50歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 50歳
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月29日 50歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日 50歳
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 50歳
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月4日 50歳
徳川家康二条城(山城国)南御殿に出る。近衛、一条兼遐が家康に対面する。公家衆が家康に礼をする。公家衆のうち数人が出仕しなかったことについて、本多正純板倉勝重を呼び出し立腹したことを伝える。
夜、片桐且元が大坂(摂津国)の絵図を家康に献じる。家康は正純、勝重、安藤直次成瀬正成を呼び出し、大坂の絵図を見せるとともに、中井正清に大坂近辺の絵図の作成を命じる。
家康は10月28日より大坂城(摂津国)より退城した者の口上を後藤光次に報告させる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 50歳
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 50歳
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月6日 50歳
毛利宗瑞の使者として宍戸元続徳川家康に愛面する。ともに本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月7日 50歳
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月10日 50歳
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月11日 50歳
午刻(11-13時)、徳川秀忠伏見城(山城国)より徳川家康のいる二条城(山城国)に赴き、奥御座間にて対面する。秀忠は家康に到着を待ってくれたことを謝す。
家康は本多正純成瀬正成安藤直次板倉勝重酒井忠世土井利勝安藤重信を召し出し、13日に大坂城(摂津国)に向かうべく、二条城を発つことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月15日 50歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日 50歳
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 50歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 50歳
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 50歳
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 50歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月22日 50歳
豊臣秀頼の使者として塩江甚助が、秀頼の書状を携え池田利隆の陣所に赴き、秀頼に与同するように伝える。利隆は甚助を捕縛し、住吉(摂津国)にいる徳川家康のもとに送る。この件を本多正純が家康に披露する。家康は、どの大名に秀頼の書状が遣わされたのか究明するよう甚助への尋問を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月26日 50歳
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月28日 50歳
本多正純安藤直次成瀬正成がしんけいより中島(摂津国)まで道を造る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 50歳
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月29日 50歳
伊達忠宗徳川家康に対面する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 50歳
福島忠勝、忠勝の家老・尾関正勝、忠勝後見人・竹中重利徳川家康に対面する。忠勝は豊臣秀頼より書状があったことを本多正純を介し伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月30日 50歳
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 50歳
徳川家康が茶臼山(摂津国)に赴く。4日に当地へ陣を移すという。家康は単騎で大坂城(摂津国)近くまで赴き、敵勢の様子を確かめる。これを聞き、徳川秀忠が平野(河内国)より家康のもとに合流する。本多正信本多正純成瀬正成安藤直次のみ供をする。申刻(15-17時)、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 50歳
夜、本多忠政徳川家康のもとに赴き、忠政と松平清正の陣所が定まっていないので、本多正純を介して家康の意向を問う。家康はまだ定まっていないと返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 50歳
有馬直純が徳川家康に対面する。家康・秀忠高橋元種の旧領である延岡(日向国)60000石を直純に給付する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 50歳
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 50歳
本多正純が物見として大坂城(摂津国)辺りを見回る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 50歳
細川忠利徳川家康に対面する。本多正純が取り次ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 50歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月8日 50歳
浅野長晟山内忠義、山内政豊が徳川家康に対面する。本多正純が、7日に大坂城(摂津国)より長晟の陣所に矢文があったことを報告する。その内容は、城内では和睦の話が出ているが、牢人衆が承知していないというもの。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 50歳
大坂城(摂津国)より織田有楽大野治長の返状が徳川家康のもとに届く。本多正純後藤光次が密かに家康に披露する。長益使者は村田吉蔵、治長使者は米村権右衛門。牢人衆の宥免があるか、秀頼の国替えがどこを希望しているか、開城の条件などを協議する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月9日 50歳
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月10日 50歳
毛利宗瑞吉川広家福原広俊を連れて徳川家康に対面し、子・秀就を引き立ててくれていることに礼をいう。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 50歳
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 50歳
伊達政宗徳川家康に対面する。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 50歳
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 50歳
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 50歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣が岡山の陣所より徳川家康の陣所に赴く。その場に本多正信本多正純藤堂高虎も赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 50歳
徳川家康松平忠直と対面する。本多正純土井利勝が取り次ぐ。忠直の成長を見て、徳川秀忠が忠直を重宝していることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 50歳
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 50歳
常高院が大坂城(摂津国)より出て、京極忠高の陣所に赴く。阿茶局、本多正純が忠高の陣所に赴き、申刻(15-17時)、阿茶局・正純が徳川家康のもとに戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 50歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月20日 50歳
徳川家康秀忠父子と豊臣秀頼の和睦につき、徳川勢・豊臣勢ともに鉄砲の撃ち合いを止める。双方、堀際の戦死者の遺体を回収する。
豊臣方の人質請取のため、後藤光次、寺田将監(本多正純家老)が大坂城(摂津国)に赴く。豊臣方は織田有楽の子と大野治長の幼児を人質として差し出すが、光次は治長の子息について幼児を出したことに激昂し、嫡子を差し出すように交渉する。治長は幼児を改め治徳を差し出す。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月24日 50歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 50歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 50歳
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月3日 51歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月12日 51歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 51歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 51歳
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長20年 1615年 2月1日 51歳
徳川家康が中泉(遠江国)に逗留する。家康のもとに本多正純が大坂(摂津国)より到着する。正純は大坂城(摂津国)の二ノ丸、三ノ丸、堀、門、櫓を悉く崩し埋めたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月5日 51歳
徳川秀忠の使者として井上正就が中泉(遠江国)にいる徳川家康のもとに到着する。正就は、秀忠が4日に岡崎城(三河国)に到着したこと、7日には中泉に到着予定なので対面を望んでいることを伝える。本多正純が家康に披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月7日 51歳
徳川秀忠が中泉(遠江国)に到着する。徳川家康、秀忠、本多正信本多正純で密談をする。後に、この密談に土井利勝が加わる。秀忠の退出後、家康は供奉の近習衆とひとりずつと対面する。対面した供奉衆は、酒井忠世土井利勝本多正信本多正重安藤重信水野忠元井上正就神尾守世、小山吉久、青山忠俊
午刻(11-13時)、秀忠が中泉を出立し、申刻(15-17時)、掛川(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月28日 51歳
池田家の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、22日に池田忠継が死去したことを徳川家康に伝える。取次は本多正純。家康は驚き、愁傷する。家康は忠継の兄・池田利隆と忠継の舅・森忠政のもとに森可澄を遣わし、備前国の仕置きをするように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月14日 51歳
徳川家康の使者として阿茶局、本多正純が、駿府(駿河国)滞在中の常光院等のもとに遣わされ、15日に駿府城(駿河国)に登城するように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月6日 51歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。徳川秀忠の使者として板倉重宗が家康のもとに到着する。重宗は家康の道中のご機嫌伺いのため遣わされる。家康は本多正純を通じて、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国の諸大名に軍勢を、伏見・鳥羽(山城国)まで進めるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月10日 51歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項

慶長20年 1615年 4月21日 51歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月22日 51歳
徳川秀忠伏見城(山城国)を発ち、二条城(山城国)にいる徳川家康と密談する。本多正信土井利勝本多正純が加わる。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 51歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 51歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 51歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 51歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月1日 51歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月3日 51歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月4日 51歳
本多正純金地院崇伝が花隈(摂津国)に在陣中の細川忠興に対し、藤堂高虎に加勢するようにと命を下す。
出典:『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 5月5日 51歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月6日 51歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 51歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、小倉吉次小倉吉正柳沢元吉丹羽秀重[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項

慶長20年 1615年 5月8日 51歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 閏6月2日 51歳
池田利隆忠雄兄弟が二条城(山城国)にいる徳川家康と対面する。本多正純が取り次ぐ。利隆・忠雄は、徳川秀忠の命により池田忠継の遺領である備前国を忠雄が拝領したことへの礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月6日 51歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥之座にて閑談する。本多正信本多正純が同席する。
二条城前殿で真言論議が行われる。題は「十悪起不起、身三口四意三、同時起耶、各別耶」。宝性院、無量寿院、遍明院、正智院、金剛三昧院、如意輪寺、庵室、北室院が参加。講者は多聞院。家康、秀忠、徳川義俊徳川頼宣松平忠直伊達政宗前田利常京極忠高藤堂高虎、正信、日野唯心も参席する。
未刻(13-15時)、徳川秀忠伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月10日 51歳
本多忠政、忠刻、政朝が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。忠政の弟・忠朝が5月7日の天王寺・岡山の戦いで戦死したため、政朝が忠朝の娘・千代を娶り大多喜(上総国)50000石を相続するようにと徳川秀忠の命があり、その礼として家康にもとに赴く。本多正純が披露する。
松浦久信が、父・鎮信の遺物の刀1腰と銀200枚を家康に献上する。正純が披露する。。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月20日 51歳
蜂須賀蓬庵二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。本多正純が取次。蓬庵が刀・脇差を家康に献上する。松平正久が受け取る。家康は蓬庵の早々の上洛を称す。蓬庵は、子・蜂須賀至鎮よりすぐに上洛して礼をするようにといわれていたが、阿波国は波が高く渡海が延引したと述べる。また、淡路国の拝領につき、由緒のある国を得て厚恩余りある旨を述べる。家康は至鎮の大坂城(摂津国)攻めでの忠節を賞すとともに、嫡孫聟でもあるので公達と同じ扱いであることを述べる。蓬庵は感涙を抑えて退出する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月22日 51歳
片桐孝利が二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚、父・且元の遺物の刀・脇差・茶壺を献上する。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月29日 51歳
本多正純成瀬正成安藤直次二条城(山城国)にいる徳川家康のもとで織田信重と織田信則の訴訟について家康の意向を問う。家康は信重の主張は認められないとして信重の所領没収を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月11日 51歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、奥座間にて対面する。本多正信本多正純が同席する。7月19日に秀忠は江戸城(武蔵国)に戻るべく京都(山城国)を発つと述べる。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 51歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月5日 51歳
早朝、徳川家康が、守山・草津(近江国)で起こった松平忠輝による徳川秀忠の家臣の長坂、伊丹が理不尽に殺害された旨を伝え聞く。家康は本多正純に命じて事件の詳細を調査させるも噂しかないため、家康は近江代官の長野友秀、小野宗左衛門、観音寺を召し出し事件の顛末を聞くと、長坂・伊丹が忠輝の前に出たため「狼藉」といって切り殺されたという。
巳刻(9-11時)、家康が矢橋(近江国)より船に乗り、水口(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月10日 51歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、佐竹義宣が大鷹2連を、伊達政宗が大鷹1連を、最上家親が大鷹2連を献上する。本多正純安藤直次が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月15日 51歳
諸士が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に出仕するが、家康の出座はなし。
細川忠興が服20を献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月29日 51歳
午刻(11-13時)、徳川家康が関東での鷹狩のため、駿府城(駿河国)を発つ。本多正純松平正久、秋元泰勝、板倉重昌など100余人が供奉する。申刻(15-17時)、清水(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月1日 51歳
未刻(13-15時)、徳川家康善徳寺(駿河国)に到着する。道中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月2日 51歳
徳川家康善徳寺(駿河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月3日 51歳
徳川家康が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月4日 51歳
徳川家康が小田原(相模国)に到着する。箱根(伊豆国)にて安藤重信、近藤秀用が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月5日 51歳
徳川家康が中原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月6日 51歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月7日 51歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月8日 51歳
徳川家康が藤沢(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月9日 51歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が神奈川にて家康を出迎える。対面の後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月10日 51歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。諸大名が路次にて出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 52歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和2年 1616年 6月7日 52歳
父・正信が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 7月3日 53歳
叔父・正重が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 60歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永1年 1624年 4月-日 60歳
改易された本多正純・正勝父子の身柄を佐竹義宣が横手城(出羽国)にて預かる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

寛永14年 1637年 3月10日 73歳
本多正純が死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.