人 物 史

豊臣秀頼 とよとみ ひでより
生 没 年文禄2年(1593)8/3-慶長20年(1615)5/8
出 身-幼 名拾丸
別 称藤吉郎
法 名-
戒 名-
豊臣秀吉淀/茶々(浅井長政の娘)
兄 弟 姉 妹羽柴秀勝、鶴松、豊臣秀頼豊臣秀次[養子]、結城秀康[養子]、小早川秀秋[養子]、羽柴秀勝[養子]、前子[猶子](近衛前久の娘)
配 偶 者千(徳川秀忠の娘)、和期の方(渡部五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘)
豊臣国松、天秀尼
官 位左近衛権中将、中納言、権大納言、内大臣、右大臣
役 職-
城 郭大坂城(摂津国)
参 考 文 献豊臣秀頼に関する参考文献
関 連 デ ー タ豊臣秀頼の関連文化財
史料にみえる豊臣秀頼の呼称
豊臣秀頼の家臣
豊臣秀頼 年表
文禄2年 1593年 8月3日 1歳
豊臣秀頼が生まれる。
*『太閤さま軍記のうち』では4日。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 8月14日 1歳
豊臣秀吉が、お拾を見るため名護屋城(肥前国)を発つ。寺沢広政を名護屋城(肥前国)の留守居として置く。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 10月1日 1歳
豊臣秀吉が、秀吉の子・お拾に甥・豊臣秀次の娘を嫁がせるよう命じる。この婚約につき、前田利家と松の夫妻に仲人を命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月8日 3歳
豊臣秀頼がはしかに罹る。心配した父・秀吉は大坂城(摂津国)を発し伏見城(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月9日 3歳
豊臣秀吉が子・秀頼の見舞いとして生駒内膳を遣わす。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 7月8日 3歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 3歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 3歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 3歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄5年 1596年 1月1日 4歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)にて年越しをする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月13日 4歳
三宝院義演伏見城(山城国)にいる豊臣秀頼に巻数を進上する。使者は北村久次。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月20日 4歳
豊臣秀頼の昇殿が噂される。
出典:『義演准后日記』同年2月20日条

文禄5年 1596年 5月13日 4歳
豊臣秀吉秀頼父子が参内する。秀吉は馬、太刀、銀10枚、沈ホタ5種、綿10000把、袷帷子200、白鳥20を朝廷に進上する。秀頼は摂関家、親王家、女官、公家衆に祝儀物を贈る。摂関家に銀30枚、公卿に銀5枚、殿上人に銀3枚ずつを贈る。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月17日 4歳
豊臣秀吉が禁中において能を興行する。興行後、子・秀頼とともに伏見城(山城国)に戻る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月25日 4歳
伏見城(伏見城)にて公家・門跡・諸大名が豊臣秀吉秀頼父子に惣礼を行う。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 6月7日 4歳
豊臣秀頼が祇園会を見物する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 4歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 5月14日 5歳
豊臣秀頼大坂城(摂津国)より伏見城(山城国)に移る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月17日 5歳
伏見城(山城国)において豊臣秀吉秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われる。勅使をはじめ、八条宮智仁親王、伏見宮邦房親王、九条兼孝一条内基二条昭実近衛信輔鷹司信房、九条忠栄、徳川家康以下諸大名、近衛前久照高院道澄、妙法院常胤、三宝院義演、大覚寺宮空性、聖護院興意、梶井宮最胤、曼殊院覚円、一乗院尊政、大乗院義尋、本願寺准如が参列する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月3日 5歳
豊臣秀吉秀頼父子が参内する。秀頼は四位・中将に叙される。
禁裏御所の東に造営した「新城」がおおよそ完成したという。この新城はさらに南西方面に拡張させるという。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月26日 5歳
豊臣秀吉秀頼父子が参内し、秀頼は四位中将に叙される。
秀吉が、禁裏御所の東に造営した「新城」に子・秀頼を移す。諸大名が秀頼に供奉する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月22日 5歳
豊臣秀吉前田利家邸を訪れる。午刻(11-13時)、子・秀頼も利家邸を訪れる。利家は秀頼に銀子200枚、馬、皆具、服を献じる。そのほか綿子、金子、小袖を数多進上する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月26日 5歳
豊臣秀吉伊達政宗邸を訪れる。小袖20が秀吉に贈られる。また、淀殿にベン花1000斤、秀頼に太刀(光忠)・服3重・茶湯道具1飾が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 3月25日 6歳
15日の醍醐の花見で豊臣秀吉が、秀吉・豊臣秀頼・北政所・女房衆らが詠んだ歌の短冊を三宝院義演に贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 6歳
父・秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 1月8日 7歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)にて諸寺僧の礼を受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 1月10日 7歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 1月22日 7歳
三宝院義演大坂城(摂津国)にいる豊臣秀頼に祈祷の巻数を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月3日 7歳
前田利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

慶長4年 1599年 閏3月7日 7歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月10日 7歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月13日 7歳
午刻(11-13時)、徳川家康伏見城(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 4月13日 7歳
父・秀吉が秘かに東山の阿弥陀ヶ峰に葬られる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 4月19日 7歳
父・秀吉が朝廷より豊国大明神正一位を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 4月30日 7歳
豊臣秀頼が豊国大明神遷座につき、禁裏に銀子1000枚、摂関家・門跡衆に黄金20両を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 9月7日 7歳
徳川家康大坂城(摂津国)の西ノ丸に入る。
出典:『慶長年中卜斎記』上之巻、『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 9月11日 7歳
徳川家康伏見城(山城国)より大坂城(摂津国)西ノ丸に移る。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 月日 7歳
秋、伏見城(山城国)に在勤していた佐竹義宣上杉景勝毛利輝元前田利長が領国に帰国する。
出典:『当代記』巻3

慶長5年 1600年 1月11日 8歳
豊臣秀頼の名代として京極高次が参内する。前田玄以が付き添う。後陽成天皇に太刀1腰、馬代、銀50枚を進上し、親王に太刀、銀20枚を進上する。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』・『慶長日件録』同年月日条

慶長5年 1600年 2月9日 8歳
醍醐寺(山城国)の金堂造営につき応其が作成した見積を前田玄以に届けるべく大坂(摂津国)に遣わした演賀・演俊が、義演のもとに戻る。両名は玄以が金堂造営料について了解した宗と、豊臣秀頼への礼を2月15日にするようにと指示があったことを義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 2月10日 8歳
醍醐寺(山城国)の金堂造営について、義演前田玄以による造営料についての認可が得られたことを応其に伝える。
15日に予定されていた豊臣秀頼への礼が延引となる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 2月-日 8歳
豊臣秀頼森忠政に信濃国更級郡・水内郡・埴科郡・高井郡の137500石を給付し、川中島城(信濃国)の城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項

慶長5年 1600年 3月3日 8歳
応其義演のもとを訪れる。醍醐寺(山城国)の金堂造営料(1700石)の交付を記す折紙を応其が義演に渡す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 3月-日 8歳
徳川家康上杉景勝が不和となる。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長5年 1600年 6月16日 8歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 8歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 8歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、森可澄[徳川家康勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月23日 8歳
大坂城(摂津国)西ノ丸に居た毛利輝元が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を井伊直政本多忠勝福島正則池田輝政浅野幸長藤堂高虎が請け取る。
田中吉政警固のもと石田三成の身柄が大津(近江国)に居る徳川家康のもとへ引き渡される。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月28日 8歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)に入城し、二ノ丸に居す。申刻(15-17時)、徳川家康が大坂城西ノ丸に入る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月29日 8歳
摂関家、公家衆が大坂城(摂津国)にいる徳川家康秀忠父子のもとへ礼に訪れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月1日 8歳
石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長5年 1600年 11月27日 8歳
豊臣秀頼が病を患う。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 11月28日 8歳
豊臣秀頼が病を患う。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 1月29日 9歳
大坂城(摂津国)において豊臣秀頼への諸家の礼が行われる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月7日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼に太刀・馬代300疋、淀殿に杉原10帖・帯1包、大蔵卿局に帯を送る。使者は三河寺主。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月13日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼の祈祷として不動供百座を執行する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月16日 10歳
辰刻(7-9時)、豊臣秀頼の御殿にて大般若経の転読を行う。転読の後、斎を受ける。施主の大名を参加する。布施として三宝院義演は銀子20枚・小袖1重を賜う。良家衆は銀子3枚、平民衆は銀子2枚を賜う。義演供奉の僧は3300疋を賜う。また賄料として米2石を賜う。その後、秀頼と対面し、盃を受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 2月3日 10歳
醍醐寺にて三宝院義演豊臣秀頼の誕生日祈祷を行う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月13日 10歳
徳川家康大坂城(摂津国)に赴き、豊臣秀頼に対面する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 3月21日 10歳
公家衆が大坂城(摂津国)にいる豊臣秀頼のもとへ礼に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月26日条

慶長7年 1602年 5月1日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼のために愛染護摩祈祷、不動護摩祈祷を修す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月4日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼へ当月の祈祷の巻数、樽3荷、菓子折(金銀絵入り)、蒸し竹子を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月7日 10歳
巳刻(9-11時)、前田玄以が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月8日条

慶長7年 1602年 6月1日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼のために醍醐寺灌頂堂にて理趣三昧、愛染百座を修す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 6月-日 10歳
豊臣秀頼が住吉社(摂津国)にて万句会を興行する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 8月3日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日につき大般若経を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 8月29日 10歳
東寺金堂の建立は豊臣秀頼によるとされる。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 9月3日 10歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日につき大般若経を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月16日 10歳
大坂城(摂津国)にて三宝院義演が大般若経を転読する。豊臣秀頼は義演と対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 10月11日 10歳
文珠院勢誉三宝院義演に、豊臣秀頼より東寺金堂の本尊新造が命じられたことを伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 12月4日 10歳
辰刻(7-9時)、方廣寺(山城国)の大仏殿内にて本尊の鋳造が行われるが、鋳造中の本尊より出火し、後光に引火して、大仏殿堂内にも火が回り、午刻(11-13時)、大仏殿が灰燼に帰す。この火災で照高院、鳥辺野の芝が焼ける。妙法院(山城国)、豊国神社(山城国)は災を免れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 11歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月19日 11歳
公家衆が豊臣秀頼へ年頭の礼のために大坂城(摂津国)に下向する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 -月-日 11歳
実善豊臣秀頼の再建した白髭神社の別当となる。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「実蔵坊」の項(『天台宗全書』)

慶長10年 1605年 1月5日 13歳
三宝院義演豊臣秀頼への祈祷のため大般若経の転読を行う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月7日 13歳
三宝院義演豊臣秀頼へ年頭の礼として馬代300疋・太刀1腰を、淀殿に杉原20帖・帯1包を、千姫に杉原20帖・帯1包・巻数を、大蔵卿局に帯1包を、片桐且元に杉原30帖を送る。使者は井内経紹。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月10日 13歳
豊臣秀頼の命により新造された九条兼孝の邸宅を三宝院義演が見物する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月16日 13歳
三宝院義演が、大坂城(摂津国)に登城し、豊臣秀頼への祈祷として大般若経を転読する。
午刻(11~13時)に宿坊へ帰り、17日参内する予定ができたためすぐに上洛する。しかし、帰路で参内は延期の旨、連絡が入ったため、醍醐寺に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月21日 13歳
妻・千姫が、この頃、疱瘡を患ったという。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月22日 13歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経240巻を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 1月22日 13歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経170巻を転読する。秀頼より息災である旨返事が来る。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 1月23日 13歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経90巻を転読し結願を迎える。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 1月28日 13歳
大坂城(摂津国)にて秀頼への公家・門跡の年始の礼が行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 2月3日 13歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日(3日)につき大般若経の転読を行う。義演一人で130巻を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 3月21日 13歳
徳川秀忠が伏見城(山城国)に到着する。秀忠上洛の前陣として榊原康政伊達政宗等の諸大名と秀忠勢の鉄砲600・槍400-500・騎馬徒歩立衆200-300が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 4月8日 13歳
徳川家康が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月10日 13歳
徳川家康が参内する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月12日 13歳
豊臣秀頼が内大臣となる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 4月16日 13歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 4月26日 13歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下につき参内する。榊原康政康勝父子、酒井忠世板倉重宗が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康政」の項、同「榊原康勝」の項、同巻第59「酒井忠世」の項、同巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 5月10日 13歳
将軍・徳川秀忠の名代として松平忠輝大坂城(摂津国)に居る豊臣秀頼のもとに赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月16日 13歳
三宝院義演大坂城(摂津国)に登城し、大般若経を転読する。法会後、豊臣秀頼に対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月22日 13歳
豊臣秀頼が右大臣となる。勅使が大坂城(摂津国)に下向する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月29日 13歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読を、辰刻、醍醐寺にて開始する。導師は三宝院義演。名代として養源院成伯が訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月1日 13歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月2日 13歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月3日 13歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月4日 13歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。巳刻(9-11時)、結願する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長12年 1607年 2月20日 15歳
北野社(山城国)の松梅院より板倉勝重を介して高台院に依頼した北野社の造営について、高台院は豊臣秀頼淀殿に支援を求めると松梅院に返答したうえで、大坂(摂津国)に赴く。
出典:『北野社家日記』同年月日条

慶長12年 1607年 2月21日 15歳
高台院北野社(山城国)の松梅院より依頼を受けた北野社造営への豊臣秀頼淀殿の支援要請について、秀頼・淀殿の承諾が得られたことが松梅院にもたらされる。
出典:『北野社家日記』同年月20日条

慶長12年 1607年 8月1日 15歳
北野社の造営につき、松梅院・能長・能閑・能運・能金・随伝・能円・能専・能範が豊臣秀頼に礼をする。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 8月2日 15歳
北野社の手斧始が大坂(摂津国)河崎にて執り行われる。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 9月5日 15歳
豊臣秀頼の支援による北野社(山城国)の造営が始まる。
*『当代記』には秀頼による寺社造営について、「秀頼公幼稚にまします、御袋(淀殿)の発願歟」と記す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長12年 1607年 12月13日 15歳
北野社の棟上が行われる。槌打ちは、中井五郎左衛門と弁慶とで相論となり決着がつかなかったため、豊臣秀頼の大工である和泉がつとめる。
遷宮も執り行われる。秀頼の名代として大野治房山崎家盛が法事の際に花籠の役者を勤める。片桐且元が樽2つ・折1を、板倉勝重が洗米樽2つを北野社に贈る。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長14年 1609年 -月-日 17歳
春、豊臣秀頼方廣寺(山城国)の大仏殿建立の準備をする。慶長13年(1608)冬より浦々にて材木を買い取り、西国・中国・四国・北国の大名より3000-20000石の兵粮米の寄進を受ける。
出典:『当代記』同年春条

慶長15年 1610年 6月16日 18歳
方廣寺(山城国)の大仏殿造営のため90本ずつ三重に、計180本の柱立てが行われる。柱1本につき銀16貫目、仏前は8間と間が広いため巨木を用いる必要から1本で銀100貫目する木材が使われる。これにより豊臣秀吉が蓄えた金銀が「払底」したとされる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長16年 1611年 3月27日 19歳
豊臣秀頼二条城(山城国)にて徳川家康と会見すべく、大坂城(摂津国)を発つ。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 3月28日 19歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼が会見する。
会見後、秀頼は、未上刻(13時)、豊国神社に参詣する。その後、船にて大坂城(摂津国)に帰城する。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 6月24日 19歳
加藤清正が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 12月2日 19歳
徳川義俊の疱瘡平癒を祝す豊臣秀頼の直書が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに届く。
家康が在駿府の諸侍に関東での鷹狩で得た白鳥を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月14日 19歳
朝、徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて織田有楽に茶を賜う。日野唯心山名禅高が相伴する。楢柴肩衝、朱衣肩衝、虚堂の掛物、古銅の花入で数寄屋を設える。花は家康が生け、茶は有楽斎が点てる。
その後、有楽が家康に黄金3枚、御服5領を献上する。
徳川義俊の疱瘡平癒を賀すとして豊臣秀頼が銀300枚、御服10領を義俊に贈る。使者は石川貞政。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月18日 20歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。鶴を豊臣秀頼に贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 -月-日 20歳
豊臣秀頼による鞍馬寺(山城国)の修復がなる。
出典:『当代記』慶長13年10月3日条

慶長17年 1612年 7月7日 20歳
豊臣秀頼の使者・佐々孫平が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。星節につき黄金10枚・単物・帷子を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月27日 20歳
豊臣秀頼が贈った鶴が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに届く。
三河国より松平和泉守、松平忠利水野忠元本多康紀、本多康俊、菅沼左近、丹羽氏信が家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月2日 21歳
豊臣秀頼の名代・速水守久(取次・大沢基宿)、日野唯心水無瀬一斎山名禅高、畠山左近、土岐市正、西尾豊後守、遠藤慶隆竹中重門古田重治、稲葉方通、谷衛友、平野長泰、長谷川縫殿助、片桐且元片桐貞隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
医者衆が家康に年始の礼をする。
宗義智の名代・柳川智永、京・堺・大坂・奈良・伏見の町人が家康に年始の礼をする。
夜、謡始が行われ、家康、徳川義利徳川頼宣、徳川頼房、唯心、禅高、永井直勝本多正純が出席する。観世大夫、梅若大夫に服2領が下付される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月25日 21歳
申刻(15-17時)、池田輝政が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 6月-日 21歳
鞍馬寺(山城国)の本尊・毘沙門天の開帳が始まる。
出典:『当代記』同年10月3日条

慶長18年 1613年 8月25日 21歳
辰刻(7-9時)、浅野幸長和歌山(紀伊国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年9月1日条、『当代記』同年月日条、『慶長年録』同年月日条、『浅野考譜』

慶長18年 1613年 9月3日 21歳
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する、家康は且元に10000石を加増する。これは、豊臣秀頼が給付したものである、且元は家康に憚り、加増を受けなかったので、家康が給付したところ拝領したという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月3日 21歳
鞍馬寺(山城国)の本尊・毘沙門天の開帳が終わる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月19日 21歳
卯刻(5-7時)、後陽成天皇の禁裏の移徙が行われる。
出典:『駿府記』同年月22日条

慶長19年 1614年 4月16日 22歳
卯刻(5-7時)、方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳が行われる。
出典:『駿府記』同年月19日条

慶長19年 1614年 5月20日 22歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康片桐且元が暇を下す。家康は豊臣秀頼に鷹を、且元に鷹・馬を賜う。
申刻(15-17時)、延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月3日 22歳
8月3日に方廣寺大仏殿の大仏開眼供養が行われ、導師は仁和寺門跡であるとの勅諚が出たことを、金地院崇伝徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月7日 22歳
徳川秀忠の使者・水野忠元が七夕の祝儀として駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き帷子5領を進上する。家康より江戸城(武蔵国)普請のことを尋ねられる。
豊臣秀頼の使者として山口左馬允が家康のもとを訪れ、七夕の祝儀として黄金10枚を贈る。また左馬允からの進物として紫皮10枚・太刀・馬を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月8日 22歳
南光坊天海徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月17日 22歳
織田信包が大坂(摂津国)にて死去する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月18日 22歳
京都(山城国)の板倉勝重片桐且元より以心崇伝をもって駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養について報告がある。8月3日の朝、仁和寺門跡を導師とし、日中の供養は天台宗を左座とすること、鷹司が大仏殿に着座し、公家衆は堂内に着座することなどを伝える。なお、頼朝時代の開眼供養について、家康が『吾妻鑑』を読ませる。
多武峰(大和国)が崩れ、大織冠社檀が破損したこと、ただし藤原鎌足像は無事で他所に移したことを崇伝と竹林坊が家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月21日 22歳
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。
駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月26日 22歳
南光坊天海徳川家康に天台血脈を伝授する。
片桐且元板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純金地院崇伝をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月2日 22歳
中井正清駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は東福寺(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、徳川秀忠に送る。担当は林羅山
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月4日 22歳
中井正清より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに方廣寺(山城国)大仏殿の棟札写しがもたらされる。棟札執筆者は照高院道勝。家康は棟札の文章に不快感を示す。鐘の銘文についても、奈良の大仏の鐘銘になぞらえるようにと伝えたのに異なっていたこと、また豊臣秀頼が京都(山城国)に赴くならば、供奉の者を諸大夫に任官すべきと伝えたが、諸大夫の任官だけして秀頼の京行きは中止となったことに不審の念を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月5日 22歳
片桐且元より駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)大仏殿の鐘銘・棟札が到着する。4日に中井正清が提出したものと同文であることを確認する。家康は鐘銘の善悪を五山衆に問うべく、板倉重昌を京都(山城国)に遣わすこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 22歳
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月19日 22歳
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康方廣寺(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを徳川秀忠に送る。林羅山が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月20日 22歳
徳川家康以心崇伝本多正純方廣寺(山城国)に棟札・鐘銘がどこで食い違ったのか、また豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることについて不審の念を述べる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 22歳
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 8月29日 22歳
夜、大蔵卿局が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月7日 22歳
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月12日 22歳
朝、片桐且元が上洛すべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 22歳
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月23日 22歳
大坂城(摂津国)城内にて片桐且元貞隆兄弟を殺害するとの風聞があったため、且元・貞隆が登城を控える。
出典:『片桐家秘記』、『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月25日 22歳
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 9月28日 22歳
石川貞政が妻子を引き連れ大坂城(摂津国)より大野に退く。貞政が片桐且元の縁者であるためとされる。
豊臣秀頼が且元の知行を改易する。大野治長・伏屋飛騨守の命によるとされる。
出典:『駿府記』同年10月7日条

慶長19年 1614年 10月1日 22歳
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 22歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 22歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 22歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6・7日 22歳
京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余が豊臣秀頼に金銀にて召し抱えられ、大坂城(摂津国)に籠城する。
出典:『駿府記』同年10月12日条

慶長19年 1614年 10月7日 22歳
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 22歳
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月9日 22歳
最上家親が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・義光の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。本多正純が披露する。家康は家親に大坂城(摂津国)攻めにつき、江戸城(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 22歳
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月11日 22歳
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。石川忠総が随従する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。田中に到着した家康のもとに板倉勝重よりの飛脚が到着する。豊臣秀頼の籠城の様子について、金銀を取り出し、大坂(摂津国)近辺の米を買い入れ、武具を城内に入れ、惣構に壁を構築し、番匠を雇い入れ櫓に置いていると伝える。
彦坂光正が天龍川に架ける舟橋について、家康の通行以前に諸人の往来をしてもよいか家康に伺う。家康は諸人の往来は許すが、軍勢が渡った後は、他の軍勢の追撃を受けないよう舟橋を破却するようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 22歳
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 22歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 22歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 22歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 22歳
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 22歳
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 22歳
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 22歳
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 22歳
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 22歳
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 22歳
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 22歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 22歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同161「青木信安」の項

慶長19年 1614年 10月23日 22歳
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 22歳
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 22歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 22歳
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 22歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 22歳
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月29日 22歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月1日 22歳
島津家久の使者が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。家久からは、豊臣秀頼の使者として長崎往来商人の高屋七郎兵衛が家久のもとを訪れ、秀頼黒印状・脇差(銘 正宗)を持参し、家康による大坂城(摂津国)攻めで秀頼に味方するようにとの依頼があったが、家久は関ヶ原の後、家康のおかげで本領安堵を受けているので秀頼に味方することはできないしと、脇差を返却し、使者は商人だったため殺さずに帰したことを報告する。この件は、本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日 22歳
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 22歳
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 22歳
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 22歳
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月6日 22歳
豊臣勢が天王寺(摂津国)を焼き討ちする。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月7日 22歳
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月10日 22歳
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月15日 22歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日 22歳
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 22歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 22歳
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 22歳
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 22歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月22日 22歳
豊臣秀頼の使者として塩江甚助が、秀頼の書状を携え池田利隆の陣所に赴き、秀頼に与同するように伝える。利隆は甚助を捕縛し、住吉(摂津国)にいる徳川家康のもとに送る。この件を本多正純が家康に披露する。家康は、どの大名に秀頼の書状が遣わされたのか究明するよう甚助への尋問を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月23日 22歳
大野治長の使者が池田忠雄のもとに使者を遣わし、諸大名は豊臣秀頼と内々に通じているので、忠雄も秀頼に味方するようにと伝える。また、忠雄の所領である淡路国の百姓が秀頼に通じ一揆を起こすことになっていると忠雄の家老のもとに豊臣方の使者が訪れる。忠雄は治長の使者等を捕らえ、住吉(摂津国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月26日 22歳
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月29日 22歳
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月29日 22歳
福島忠勝、忠勝の家老・尾関正勝、忠勝後見人・竹中重利徳川家康に対面する。忠勝は豊臣秀頼より書状があったことを本多正純を介し伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月30日 22歳
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 22歳
豊臣勢が高麗橋を焼き落そうとしたため、石川忠総がそれを阻止しようと高麗橋に進軍し鉄砲を撃ち合う。これをきいた徳川家康は佐久間政実、山城忠久を遣わし、制止を試みるも戦闘は停止しなかったため、永井直勝が、再度、忠総に加勢すべきか停戦を促すか家康に尋ねたところ、命令のない攻撃は禁止すると応え、加賀爪忠澄を忠総のもとに遣わし、忠総の攻撃を止める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 22歳
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 22歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月8日 22歳
大坂城(摂津国)より織田有楽大野治長の返状が徳川家康のもとに届く。本多正純後藤光次が密かに家康に披露する。長益使者は村田吉蔵、治長使者は米村権右衛門。牢人衆の宥免があるか、秀頼の国替えがどこを希望しているか、開城の条件などを協議する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月9日 22歳
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月11日 22歳
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 22歳
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 22歳
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 22歳
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 22歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月20日 22歳
徳川家康秀忠父子と豊臣秀頼の和睦につき、徳川勢・豊臣勢ともに鉄砲の撃ち合いを止める。双方、堀際の戦死者の遺体を回収する。
豊臣方の人質請取のため、後藤光次、寺田将監(本多正純家老)が大坂城(摂津国)に赴く。豊臣方は織田有楽の子と大野治長の幼児を人質として差し出すが、光次は治長の子息について幼児を出したことに激昂し、嫡子を差し出すように交渉する。治長は幼児を改め治徳を差し出す。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月21日 22歳
朝、徳川勢による大坂城(摂津国)の堀埋め立てが始まる。
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月24日 22歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 22歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 22歳
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月3日 23歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月10日 23歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
徳川秀忠の使者・永井尚政が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の堀埋めについて進捗状況を報告する。16・17日には大方堀埋めが完了することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月12日 23歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月18日 23歳
岡山にいる徳川秀忠の使者として青山重政が徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸までの堀埋め普請が完了し、本城のみ残ったことを報告する。秀忠は19日に伏見城(山城国)に移る予定であることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 23歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月23日 23歳
徳川家康のもとに豊臣秀頼の使者として吉田玄蕃允が到着する。秀頼より小夜着物3、蒲団3、蒔絵枕、紅梅枕掛を、大野治長より羽二重10疋を、玄蕃允より鷹緒10筋を家康に献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 23歳
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長20年 1615年 2月26日 23歳
織田有楽斎の家臣・村田吉蔵が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。吉蔵は有楽の大坂城(摂津国)よりの退去の許可を家康に求め、許可を得る。ただし、家康より徳川秀忠の意向を問うとの返答を受ける。
大坂冬の陣で江戸城(武蔵国)の留守居衆だった松平忠輝が駿府城にて家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月13日 23歳
豊臣秀頼の使者として常光院、二位局、大蔵卿、正永尼、青木一之が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月14日 23歳
徳川家康の使者として阿茶局、本多正純が、駿府(駿河国)滞在中の常光院等のもとに遣わされ、15日に駿府城(駿河国)に登城するように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月15日 23歳
豊臣秀頼の使者として、青木一重駿府城(駿河国)南御殿にて徳川家康と対面する。秀頼の進物として金襴10巻と秀頼の書状を、一重の礼物として鷹のうちつき蒔絵10枚を家康に献上する。常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼が淀殿の使者として家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月5日 23歳
大野治長の使者が田中(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。使者は、豊臣秀頼淀殿が大坂からの国替を拒否していることを家康に伝える。家康はその返答を受け、どうしようもないことであると返答する。
家康のもとに伏見町奉行・長田喜兵衛の書状が到来する。永井直勝後藤光次が喜兵衛の書状の内容を家康に報告する。喜兵衛は大坂(摂津国)が殊の外物騒で、その影響は京都・伏見(山城国)にも及んでいると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月9日 23歳
夜、大野治長が弟・大野治房の従者に左脇を脇差にて刺され負傷する。
出典:『駿府記』同年月12日条

慶長20年 1615年 4月10日 23歳
徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。名古屋にて家康は常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼、青木一重と対面し、豊臣秀頼がいまだに牢人衆を追放せず召し抱えていることに憤っている旨を伝える。常光院、二位局はすぐに大坂に戻り、家康の意を伝えると返答する。大蔵卿、正永尼、一重は京都にて家康の上洛を待つ旨を伝える。これらの女中の動きについて、家康は後藤光次を通じて板倉勝重に伝える。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長20年 1615年 4月10日 23歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同1153「野呂守景」の項

慶長20年 1615年 4月12日 23歳
豊臣秀頼が牢人へ金銀を配り、武具の用意を命じる。
出典:『駿府記』同年月16日条

慶長20年 1615年 4月13日 23歳
織田有楽・尚長父子が名古屋(尾張国)にいる徳川家康のもとを訪れる。長益・尚長は、豊臣秀頼の軍勢の状況について、牢人衆を三手に分け、大野治長後藤基次で一手を、木村重成渡辺糺真田信繁明石全登で一手を、大野治房長宗我部盛親・毛利勝永・仙石秀範で一手をなしていることを伝える。
家康は、14日の昼には桑名(伊勢国)に赴くことを事前に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月18日 23歳
徳川家康水口(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、大津(近江国)、膳所(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、二条城(山城国)に到着する。
徳川義俊徳川頼宣が京都に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月21日 23歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月24日 23歳
徳川家康が、豊臣秀頼淀殿への使者として常光院、二位局を遣わし、三ヶ条の書付を遣わす。また、大蔵卿局、正永尼に大坂城(摂津国)に戻るよう命じ、両名は、朝、大坂に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 23歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 23歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 23歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 23歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月1日 23歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月3日 23歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月5日 23歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月6日 23歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 23歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項

慶長20年 1615年 5月8日 23歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 5月21日 
伏見(山城国)の農人橋に隠れていた豊臣国松が捕縛される。国松は「容貌美麗」だったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月23日 
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、密談する。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
未刻(13-15時)、豊臣国松が六条河原(山城国)にて処刑される。国松の乳母の子・田中六左衛門も同時に処刑される。乳母は赦免される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 2月29日 
小出吉政が死去する。
出典:-

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