歴史の目的をめぐって
TОP
歴史
人 物 史
城 郭 史
寺 院 史
神 社 史
地 名
総 年 表
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文化財
商用利用可能 文化財画像
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コンテンツ
和暦西暦変換
中世貨幣の価値
年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
大坂城(摂津国)
おおさかじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒540-0002
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
史 料 地 名
-
参 考 文 献
○
大坂城(摂津国)に関する参考文献
関 連 デ ー タ
○
大坂城(摂津国)の関連文化財
リ ン ク
豊臣秀吉
大坂城(摂津国) 年表
天正10年 1582年 春月-日
丹羽長秀
が
大坂城
(摂津国)本丸を
織田信長
より預かる。
出典:『細川忠興軍功記』
天正10年 1582年 6月2日
本能寺
に宿泊中の
織田信長
を、早朝、
明智光秀
が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する
織田信忠
とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:
森成利
(戦死)、
福富秀勝
(戦死)、
野々村正成
(戦死)。
信忠勢:
村井貞勝
(戦死)、
菅屋長頼
(戦死)、
織田信房
(戦死)、
団忠正
(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条
天正10年 1582年 6月5日
大坂(摂津国)にて
神戸信孝
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
が、
明智光秀
の聟・
津田信澄
を殺害する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 7月7日
織田信長
死後の所領分配として、
織田信雄
に伊勢国・尾張国が、
織田信孝
に美濃国が、
柴田勝家
に長浜(近江国)20万石が、
羽柴秀吉
に山城国・河内国が、
羽柴秀長
に丹波国が、
丹羽長秀
に近江国高嶋郡・志賀郡が、
池田恒興
に河内国十七ヶ所・
大坂城
(摂津国)が、
堀秀政
に近江国中郡・織田三法師の傅役が、
筒井順慶
に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が
下京
の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 4月24日
柴田勝家
が
北之庄城
(越前国)にて自害する。
出典:-
天正11年 1583年 5月25日
奈良(大和国)にて
大坂城
(摂津国)が
池田恒興
より
羽柴秀吉
の所有に移り、恒興は美濃国に移ると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 5月-日
池田恒興
が
大坂城
(摂津国)より
大垣城
(美濃国)に、
池田元助
が
伊丹城
(摂津国)より
岐阜城
(美濃国)に、
池田輝政
が
尼崎城
(摂津国)より池尻城(美濃国)に移る。
出典:『池田氏家譜集成』
天正11年 1583年 6月2日
羽柴秀吉
が紫野(山城国)に赴き、
織田信長
の位牌所として12間4面の建物を新造する。初めて
大坂城
(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日・6月5日条
天正11年 1583年 7月5日
筒井順慶
、箸尾が
大坂城
(摂津国)にいる
羽柴秀吉
のもとへ礼に赴く。金子30枚を持参する。
出典:『多聞院日記』同年月8日条
天正11年 1583年 9月4日
大坂城(摂津国)普請につき諸国より人夫が集まり石を曳くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 9月17日
貝塚動座の礼として
本願寺顕如
が
羽柴秀吉
へ遣わした
下間頼廉
、寺内若狭、
益田照従
が
大坂城
(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は
松井友閑
、
前田利家
、
千宗易
、
津田宗及
、
荒木道薫
。頼廉は秀吉より馬を賜る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正11年 1583年 10月10日
大乗院尋憲
が
大坂城
(摂津国)にいる
羽柴秀吉
のもとへ見舞いに赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 11月1日
大坂城
(摂津国)へ人質として赴いていた
吉川広家
が
本願寺顕如
に音信として太刀1腰・緞子10巻を贈る。顕如は宇野主水・
下間頼廉
とともに広家の使者・森脇又左衛門と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正11年 1583年 11月2日
大坂城
(摂津国)へ人質として赴いていた
小早川秀包
が
本願寺顕如
に音信として太刀1腰・緞子10巻を贈る。顕如は宇野主水・
下間頼廉
とともに秀包の使者・桂川民部少輔と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正12年 1584年 1月8日
青蓮院尊朝
、梶井宮最胤が
大坂城
(摂津国)に下向し
羽柴秀吉
に年始の礼をする。湯がけ3具を贈る。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)
天正12年 1584年 4月9日
池田勝入斎
・
池田元助
・
森長可
が
丹羽氏重
の籠る
岩崎城
(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、
織田信雄
・
徳川家康
が
羽柴秀次
・勝入斎・元助・長可・
堀秀政
を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:
榊原康政
、
大須賀康高
、本多康重、
丹羽氏次
、
酒井重忠
、
永井直勝
(池田勝入斎討取)、
渥美友重
(首級2)、
駒井昌長
、
折井次昌
[岡本彦次郎討取]、
野呂守景
、秋鹿朝矩(戦死)、
加藤正次
、
酒井忠次
[小牧山本陣留守居衆]、
石川数正
[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、
豊臣秀吉
は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項
天正12年 1584年 6月28日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正12年 1584年 7月30日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正12年 1584年 8月8日
本願寺顕如
が新たに成った
大坂城
(摂津国)に移徙した
羽柴秀吉
のもとに音信として刀1腰・馬代3000疋を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正12年 1584年 10月10日
筒井定次
が家督相続の礼として
大坂城
(摂津国)にいる
羽柴秀吉
のもとを訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月11日条
天正12年 1584年 10月29日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正12年 1584年 11月28日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 2月14日
細川幽斎
が
大坂城
(摂津国)より上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 2月21日
前田玄以
が
大坂城
(摂津国)に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 2月24日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)にて
織田信雄
を饗応する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 2月26日
織田信雄
が
大坂城
(摂津国)より上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 4月27日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)にいたため、
本願寺顕如
の使者である
下間頼廉
、
円山内匠
が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、
施薬院全宗
・
千宗易
・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 5月20日
羽柴秀吉
が
坂本
(近江国)にて体調を崩す。
長宗我部元親
討伐につき、
羽柴秀吉
が
一柳直末
、斎村広英、
加藤嘉明
、津田小八郎へ6月3日の
大坂城
(摂津国)よりの出陣を、6月16日に延期することを伝えるとともに、それまでに明石(播磨国)に参集するよう命じる。
出典:『宇野主水記』同年月日条、(天正13年)5月20日付羽柴秀吉朱印状(「加藤子爵家文書」)
天正13年 1585年 6月27日
教如
が
大坂城
(摂津国)に赴き
羽柴秀吉
への礼に赴く。茶湯があったものの、秀吉はおらず、
千宗易
のみ参会する。玉澗の市絵を見物する。
中島(摂津国)にて天満本願寺の屋敷を見物する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 10月15日
長宗我部元親
・
信親
父子が土佐国へ帰国するため
大坂城
(摂津国)を発つ。
今井宗久
を介し桑名太郎左衛門を
本願寺顕如
のもとに遣わし、太刀1腰、馬1疋(栗毛)を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 1月30日
羽柴秀吉
が京都より
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 3月4日
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 4月23
-
徳川家康
に嫁ぐことになった
羽柴秀吉
の妹・旭姫が
大坂城
(摂津国)を出立する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 6月12日
上杉景勝
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
増田長盛
の座敷に宿泊する。饗応を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)
天正14年 1586年 6月14日
上杉景勝
が
羽柴秀吉
に出仕する。拍子を見物。
千利休
が景勝を茶湯でもてなす。
大坂城
(摂津国)の天守閣、寝所、詰座敷を見物する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)
天正14年 1586年 10月26日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 10月27日
徳川家康
が
羽柴秀吉
のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 12月1日
豊臣秀吉
が麾下の諸大名に、
島津義久
成敗のため3月1日に出陣すること、さしあたり東国・畿内の諸大名は2月20日までに
大坂城
(摂津国)へ参集することを触れ回る。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」
天正15年 1587年 1月25日
島津義久
成敗につき、
宇喜多秀家
(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 2月1日
島津義久
成敗につき、
宮部継潤
・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月5日
島津義久
成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、
福島正則
(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、
高山重友
(軍勢1300)、
細川忠興
(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月10日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀長
(軍勢15500)、
筒井定次
(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月15日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀勝
(軍勢5000)、
丹羽長重
(軍勢500)、
生駒親正
(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月20日
島津義久
成敗につき、
前田利長
(軍勢3000)、
長谷川秀一
(軍勢1700)、
堀秀政
(軍勢3000)、
木村重玆
(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、
溝口秀勝
(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、
太田一吉
(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月25日
島津義久
成敗につき、
蒲生氏郷
(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、
九鬼嘉隆
(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、
池田輝政
(軍勢1000)、
森忠政
(軍勢1000)、
稲葉典通
(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 3月1日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀吉
(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。
蜂屋頼隆
(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、
石川数正
(軍勢500)、
佐々成政
(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、
矢部家定
(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、
古田重然
(軍勢130)、
稲葉方通
(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、
浅野長政(軍勢1200)
、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、
富田信広
(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、
片桐且元
、
糟屋武則
(軍勢150)、
池田長吉
(軍勢400)、
川尻秀長
(軍勢120)、
加藤清正
(軍勢170)、
古田重勝
(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、
青木一重
(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として
豊臣秀次
を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 3月29日
豊臣秀吉
が
小倉
(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は
豊臣秀長
を大将に
毛利輝元
・
吉川元長
・
小早川隆景
・
宇喜多秀家
・
黒田孝高
・
宮部継潤
・亀井茲矩・
蜂須賀家政
・
長宗我部元親
・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・
大友義統
の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』
天正15年 1587年 4月1日
豊臣秀勝
、
前田利長
、
蒲生氏郷
率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、
豊臣秀吉
は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1
天正15年 1587年 4月2日
豊臣秀吉
が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した
秋月種実
は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・
種長
とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 4月4日
豊臣秀吉
が
秋月種実
の居城・荒平山城(筑前国)に入る。
生駒親正
が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎
が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」
天正15年 1587年 4月13日
豊臣秀吉
が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月16日
豊臣秀吉
が
熊本城
(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月17日
宮部継潤
が守る根白坂砦(日向国)を
島津家久
が攻める。
豊臣秀長
が救援に赴き、麾下の
藤堂高虎
と
宇喜多秀家
勢の
戸川達安
が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』
天正15年 1587年 4月19日
豊臣秀吉
が
宇土城
(肥後国)に入城する。
熊本城
(肥後国)に
富田知信
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月21日
豊臣秀吉
が
八代城
(肥後国)に入城する。
宇土城
(肥後国)に
加藤清正
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月5日
豊臣秀吉
が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月6日
島津義久
が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」
天正15年 1587年 5月8日
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに剃髪した
島津義久
が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月9日
豊臣秀吉
が
島津義久
に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)
天正16年 1588年 6月6日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)の山里にて茶の湯を催す。
津田宗及
の案内にて、
島津義弘
、
伊集院幸侃
、
細川幽斎
が参会し、
千宗易
が茶を点てる。
出典:(天正16年)6月6日付島津義弘書状(『島津家文書』3-1493号)
天正18年 1590年 3月1日
豊臣秀吉
が
北条氏政
・
氏直
父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条
天正18年 1590年 7月6日
北条氏政
・
氏直
父子が
豊臣秀吉
に降伏する。
脇坂安治
、
片桐且元
、
榊原康政
が
小田原城
(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項
天正18年 1590年 7月12日
北条氏政
・
北条氏照
・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は
榊原康政
。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項
天正18年 1590年 12月28日
豊臣秀吉
が関白職を甥・
秀次
に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」
天正20年 1592年 8月2日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』
天正20年 1592年 9月23日
豊臣秀吉
が
本願寺顕如
のもとに茶湯に赴く。その後、
大仏殿
に赴き、さらに
大坂城
(摂津国)へ向かう。
出典:『言経卿記』同年月日条
文禄2年 1593年 8月25日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』
文禄2年 1593年 9月11日
佐竹義宣
が
大坂城
(摂津国)に到着し、
豊臣秀吉
に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項
文禄2年 1593年 閏9月5日
豊臣秀吉
が有馬(摂津国)より
大坂城
(摂津国)に戻る予定であったが、眼病のため8日に延期となる。
出典:『駒井日記』同年閏9/6条
文禄2年 1593年 閏9月7日
豊臣秀吉
が有馬(摂津国)より
大坂城
(摂津国)に戻る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄2年 1593年 閏9月9日
浅野長政
が
大坂城
(摂津国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月11日条
文禄2年 1593年 閏9月15日
本願寺教如
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
施薬院全宗
、
長束正家
、山中長俊が
豊臣秀吉
の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、
織田信長
にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・
顕如
から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を
准如
に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条
文禄2年 1593年 閏9月20日
申刻(15-17時)、
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)より伏見(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄2年 1593年 12月14日
豊臣秀吉
が伏見(山城国)から船にて
大坂城
(摂津国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 1月29日
豊臣秀次
が
大坂城
(摂津国)を訪問し、叔父・
秀吉
のもてなしを受ける。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 2月14日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)より
伏見城
(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 2月21日
朝、
伏見城
(山城国)山里丸にて
豊臣秀吉
が甥・
秀次
と茶湯をする。
午刻(11-13時)、秀次は
聚楽第
(山城国)に帰る。
秀吉は
大坂城
(摂津国)に向け出発する。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 3月6日
未刻(13-15時)、
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:『駒井日記』同年月7日条
文禄3年 1594年 4月14日
豊臣秀吉
が伏見の
蒲生氏郷
邸を訪問する。
その後、秀吉は
伏見城
(山城国)を発ち
大坂城
(摂津国)に向かう。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 9月26日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)の
前田利家
邸を訪れ饗応を受ける。
出典:『文禄三年前田亭御成記』(『続群書類従』第23輯下)
文禄4年 1595年 4月8日
豊臣秀頼
がはしかに罹る。心配した父・秀吉は
大坂城
(摂津国)を発し
伏見城
(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄5年 1596年 1月1日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)にて年越しをする。
出典:『義演准后日記』同年月日条
文禄5年 1596年 2月10日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)において諸家の礼を受ける。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条
文禄5年 1596年 9月4日
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)において唐人と対面する。唐人は緞子1000端、唐冠60頭を秀吉に贈る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月9日
朝、
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)に向かう。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月21日
午刻(11-13時)、
豊臣秀吉
が
大坂城
(摂津国)より
伏見城
(山城国)に入る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年 1597年 4月4日
豊臣秀吉
が
伏見城
(山城国)より淀川を下り
大坂城
(摂津国)に向かう。
出典:『義演准后日記』『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年 1597年 5月14日
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)より
伏見城
(山城国)に移る。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 5月21日
朝鮮攻めにつき、
小早川秀秋
が
伏見城
(摂津国)より出陣し、
大坂城
(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 5月22日
小早川秀秋
が、大坂(摂津国)より出航し、兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長3年 1598年 4月4日
小早川秀秋
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長3年 1598年 8月18日
豊臣秀吉
が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長3年 1598年 8月18日
豊臣秀吉
が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長4年 1599年 1月10日
豊臣秀頼
が
伏見城
(山城国)から
大坂城
(摂津国)に移る。
徳川家康
、
前田利家
等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」
慶長4年 1599年 1月22日
三宝院義演
が
大坂城
(摂津国)にいる
豊臣秀頼
に祈祷の巻数を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長4年 1599年 9月7日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)の西ノ丸に入る。
出典:『慶長年中卜斎記』上之巻、『当代記』巻3同年月日条
慶長4年 1599年 9月11日
徳川家康
が
伏見城
(山城国)より
大坂城
(摂津国)西ノ丸に移る。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」
慶長5年 1600年 4月17日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)から
伏見城
(山城国)に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 4月22日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)に向けて出発する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 4月24日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)に下向する。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)
慶長5年 1600年 5月5日
細川忠興
が大坂(摂津国)に到着し、
大坂城
(摂津国)に登城する。
出典:『細川忠興軍功記』
慶長5年 1600年 5月7日
大坂城
(摂津国)にいる
応其
のもとに
三宝院義演
が書状を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 6月16日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)を発し、
伏見城
(山城国)に到着する。
織田有楽斎
・長孝父子、
山名禅高
、
金森長近
・
可重
父子、山岡景友、
池田輝政
、
池田長吉
、
福島正則
・
高晴
兄弟、
浅野幸長
、
黒田長政
、
細川忠興
、
藤堂高虎
、有馬則頼・
豊氏
父子、
筒井定次
、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、
田中吉政
、
蜂須賀至鎮
、
小出吉政
、中村一栄、
山内一豊
、
堀尾吉晴
・忠氏父子、
一柳直盛
、津田信成、津田小平次、
富田信高
、古田重勝、稲葉道通、
古田重然>、市橋長勝、
九鬼守隆
、桑山相模守、亀井茲矩、
寺沢広高
、
石川康長
、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、
丹羽氏次
、
遠藤慶隆
、西尾光教、中川忠勝、三好為三、
大島光義
、長谷川重成、
兼松正吉
、
三好房一
、
船越景直
、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、
森可政
、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、
戸川達安
、
宇喜多詮家
、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、
分部光嘉
、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条
慶長5年 1600年 7月1日
石田三成
が蟄居中の
佐和山城
(近江国)を出て
大坂城
(摂津国)に入る。
徳川家康
に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を
石田三成
・
前田玄以
・
増田長盛
・
長束正家
の連署で発給する。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 7月2日
徳川家康
が
江戸城
(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』
慶長5年 1600年 7月15日
長束正家
、
増田長盛
、
前田玄以
が
大坂城
(摂津国)惣構の各口番手を定める。浜の橋…
毛利高政
、高麗橋…
高田治忠
・
藤懸永勝
、平野町橋…
宮城豊盛
、かんとうし町橋…
服部正栄
、うなき谷町橋・横橋…
小野木重次
、天王寺口…
横浜茂勝
、甲津口…
上田重安
、南方ほりつめの口…
奥山正之
、平野口新屋…
小出吉政
、玉造口…
多賀秀種
・
杉若氏宗
、京口小橋…
谷衛友
、中の渡…
山崎家盛
、福島口…
山崎定勝
、天王寺南口…
石川貞通
、天王寺平野口…赤松上総介、天王寺小坂水所…
木下秀規
、大和口…
川尻秀長
、福島川口…
脇坂安治
・
菅三郎兵衛
・菅右衛門八。
出典:『当代記』巻3
慶長5年 1600年 7月17日
毛利輝元
が
大坂城
(摂津国)西の丸に入る。
徳川家康
に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を
石田三成
・
前田玄以
・
増田長盛
・
長束正家
が連署で発給する。
増田長盛
が伏見城(山城国)の留守居であった
鳥居元忠
に退城を促すが断られる。
出典:『義演准后日記』同年月18日条
慶長5年 1600年 7月29日
三宝院義演
が
大坂城
(摂津国)に使者を派遣し、醍醐寺領内での軍勢の乱暴狼藉等を抑制する禁制を請う。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 7月30日
増田長盛
・
長束正家
・
前田玄以
連署で醍醐寺領内での軍勢の乱暴狼藉・放火・山林竹木伐採・田畠の作毛刈り取りを禁じる禁制が
大坂城
(摂津国)より発給される。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 9月11日
大津城
(近江国)の
京極高次
を攻めるため
立花宗茂
、
毛利秀包
が大坂(摂津国)より出陣する。
出典:『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)
慶長5年 1600年 9月15日
関ヶ原の合戦で
徳川家康
と
石田三成
が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。
黒田長政
・
加藤嘉明
・
細川忠興
・
金森長近
が
石田三成
と、
福島正則
・
松平忠吉
・
井伊直政
が
宇喜多秀家
・
小西行長
と、
藤堂高虎
が
大谷吉継
と戦い、
池田輝政
・
浅野幸長
が南宮山の
毛利秀元
・
吉川広家
・
安国寺恵瓊
・
長束正家
・
長宗我部盛親
と対峙する。戦中、
小早川秀秋
が寝返り、
大谷吉継
勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。
島津義弘
・
島津豊久
は伊勢路からの撤退を企て、
井伊直政
の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、
酒井重忠
[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、
松平康安
[徳川家康勢]、
小栗忠政
[徳川家康勢]、
花房職秀
[徳川家康勢]、
油川信貞
[徳川家康勢]、
三枝守英
[徳川家康勢]、
岩瀬氏与
[徳川家康勢・使番]、
鈴木重次
[徳川家康勢]、
鈴木信光
[徳川家康勢 御使番]、
森可澄
[徳川家康勢]、
加藤正次
[徳川家康勢]、
酒依昌吉
[徳川家康勢]、
小倉吉正
[水野重央勢]、
黒田一成
[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、
池田利隆
[池田輝政勢]、
池田長吉
[池田輝政勢]、
伊木忠次
[池田輝政勢]、
森可政
[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、
川尻秀長
(戦死)、
島清興
[石田三成勢](戦死)、
大谷吉治
[大谷吉継勢]、
湯浅隆貞
[大谷吉継勢](戦死)、
福留政親
[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『
菅氏世譜
』
慶長5年 1600年 9月21日
毛利輝元
、
増田長盛
が
黒田長政
、
井伊直政
を介し
徳川家康
との和睦を請う。家康は和睦の申し出を受け入れる。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 9月23日
大坂城
(摂津国)西ノ丸に居た
毛利輝元
が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を
井伊直政
、
本多忠勝
、
福島正則
、
池田輝政
、
浅野幸長
、
藤堂高虎
が請け取る。
田中吉政
警固のもと
石田三成
の身柄が大津(近江国)に居る
徳川家康
のもとへ引き渡される。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 9月28日
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)に入城し、二ノ丸に居す。申刻(15-17時)、
徳川家康
が大坂城西ノ丸に入る。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 9月29日
摂関家、公家衆が
大坂城
(摂津国)にいる
徳川家康
、
秀忠
父子のもとへ礼に訪れる。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 11月16日
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)を発し上洛する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』
慶長5年 1600年 11月28日
徳川義直
が
大坂城
(摂津国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-
慶長6年 1601年 1月29日
大坂城
(摂津国)において
豊臣秀頼
への諸家の礼が行われる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条
慶長6年 1601年 3月23日
徳川家康
徳川家康が
大坂城
(摂津国)より
伏見城
(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長6年 1601年 3月24日
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)より
伏見城
(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』
慶長7年 1602年 3月13日
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)に赴き、
豊臣秀頼
に対面する。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長7年 1602年 3月21日
公家衆が
大坂城
(摂津国)にいる
豊臣秀頼
のもとへ礼に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月26日条
慶長7年 1602年 5月16日
三宝院義演
が
大坂城
(摂津国)にて大般若経を転読する。
義演が大坂の
織田有楽斎
亭を訪れる。義演は長益のことを「秀頼卿御親類執事」と日記に記す。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長7年 1602年 9月16日
大坂城
(摂津国)にて
三宝院義演
が大般若経を転読する。
豊臣秀頼
は義演と対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長8年 1603年 2月19日
公家衆が
豊臣秀頼
へ年頭の礼のために大坂城(摂津国)に下向する。
出典:『慶長日件録』同年月日条
慶長8年 1603年 7月28日
徳川秀忠の娘・千が
豊臣秀頼
のもとに入嫁する。千は
伏見城
(山城国)より船にて
大坂城
(摂津国)に向かう。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長10年 1605年 1月16日
三宝院義演
が、
大坂城
(摂津国)に登城し、
豊臣秀頼
への祈祷として大般若経を転読する。
午刻(11~13時)に宿坊へ帰り、17日参内する予定ができたためすぐに上洛する。しかし、帰路で参内は延期の旨、連絡が入ったため、醍醐寺に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長10年 1605年 1月28日
大坂城
(摂津国)にて秀頼への公家・門跡の年始の礼が行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長10年 1605年 5月10日
将軍・
徳川秀忠
の名代として
松平忠輝
が
大坂城
(摂津国)に居る豊臣秀頼のもとに赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長10年 1605年 5月15日
三宝院義演
が大坂(摂津国)に赴くべく、卯刻(5-7時)、醍醐寺を出立。伏見(山城国)より乗船し、午刻(11-13時)、大坂に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長10年 1605年 5月16日
三宝院義演
が
大坂城
(摂津国)に登城し、大般若経を転読する。法会後、
豊臣秀頼
に対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長10年 1605年 5月22日
豊臣秀頼
が右大臣となる。勅使が大坂城(摂津国)に下向する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長16年 1611年 3月27日
豊臣秀頼
が
二条城
(山城国)にて
徳川家康
と会見すべく、
大坂城
(摂津国)を発つ。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長16年 1611年 3月28日
二条城(山城国)にて
徳川家康
と
豊臣秀頼
が会見する。
会見後、秀頼は、未上刻(13時)、
豊国神社
に参詣する。その後、船にて
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長19年 1614年 7月17日
織田信包
が大坂(摂津国)にて死去する。
出典:『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 8月18日
板倉重昌
が京都より
駿府城
(駿河国)の
徳川家康
のもとに戻る。
方廣寺
大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、
南光坊天海
、
以心崇伝
、
林羅山
を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元
が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 8月19日
片桐且元
が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康
が
方廣寺
(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを
徳川秀忠
に送る。
林羅山
が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 8月28日
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。
伊達政宗
、
前田利光
の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠
の使者として
水野忠元
が
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
と対面する。
本多正純
を交え、
大坂城
(摂津国)にて
豊臣秀頼
が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条
慶長19年 1614年 9月7日
本多正純
が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。
徳川家康
が
片桐且元
のもとに正純・
金地院崇伝
を遣わし、家康の意向として、
豊臣秀頼
から且元・
片桐貞隆
に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・
秀忠
父子を調伏しているとの風説があることを伝える。
大蔵卿局
にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 9月18日
片桐且元
が駿府(駿河国)より
大坂城
(摂津国)に戻る。且元は
豊臣秀頼
・
淀殿
に、今後、
徳川秀忠
との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと
徳川家康
より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条
慶長19年 1614年 9月23日
大坂城
(摂津国)城内にて
片桐且元
・
貞隆
兄弟を殺害するとの風聞があったため、且元・貞隆が登城を控える。
出典:『
片桐家秘記
』、『駿府記』同年月25日条
慶長19年 1614年 9月25日
大坂(摂津国)にて
豊臣秀頼
の命により
大野治長
、
青木一重
、石川貞政、
薄田兼相
、
渡辺糺
、
木村重成
、織田頼長等が、
片桐且元
を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・
淀/茶々
に、
徳川秀忠
との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が
大坂城
(摂津国)を出て国替えに応じるか
徳川家康
より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。
本多正純
が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条
慶長19年 1614年 9月28日
石川貞政が妻子を引き連れ
大坂城
(摂津国)より大野に退く。貞政が
片桐且元
の縁者であるためとされる。
豊臣秀頼
が且元の知行を改易する。
大野治長
・伏屋飛騨守の命によるとされる。
出典:『駿府記』同年10月7日条
慶長19年 1614年 10月1日
板倉勝重
よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて
豊臣秀頼
の命により
大野治長
、
青木一重
、石川貞政、
薄田兼相
、
渡辺糺
、
木村重成
、織田頼長等が、
片桐且元
を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、
本多正純
・
板倉重昌
が
徳川家康
に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、
徳川秀忠
にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を
大坂城
(摂津国)より追い出し、
織田常真
を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・
貞隆
兄弟が大坂城を退去し、居城・
茨木城
(摂津国)に入る。
出典:『
片桐家秘記
』
慶長19年 1614年 10月4日
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)の
豊臣秀頼
を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月5日
板倉勝重
の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月6日
板倉勝重
の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の
織田有楽
の書状を
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に届ける。有楽の書状には、
片桐且元
による家康との交渉が不調に終わったことを
豊臣秀頼
が折檻したため、且元・
貞隆
兄弟は
茨木城
(摂津国)に退くことになり、
大坂城
(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・
秀忠
父子に対する野心はない伝える。
江戸城
(武蔵国)普請役を終えた
細川忠利
が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・
忠興
が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと
本多正純
を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた
中川久盛
が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に
岡城
(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌
の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・
松平忠明
が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから
加納城
(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月6・7日
京都にいた牢人の内、
長宗我部盛親
、
後藤基次
、仙石秀範、
明石全登
、松浦重政等の1000人余が
豊臣秀頼
に金銀にて召し抱えられ、
大坂城
(摂津国)に籠城する。
出典:『駿府記』同年10月12日条
慶長19年 1614年 10月7日
江戸城
(武蔵国)普請役を終えた
京極高知
、
京極忠高
、
森忠政
、
田中忠政
が駿府(駿河国)に到着する。
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元
・
貞隆
兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は
本多正純
を介し、且元・貞隆が
大坂城
(摂津国)より
茨木城
(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が
駿府城
(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が
彦坂光正
に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が
沼津城
(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月8日
朝、
徳川家康
が
藤堂高虎
に
大坂城
(摂津国)攻めの先陣として、
天王寺
(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠
の使者として
土井利勝
が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、
豊臣秀頼
が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、
江戸城
(武蔵国)の留守居を
松平忠輝
、
蒲生忠郷
、
奥平家昌
、
最上家親
、
鳥居忠政
、
酒井重忠
、
酒井忠利
、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた
竹中重利
が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が
福島正則
と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が
織田長益
、
大野治長
、
木村重成
、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、
豊臣秀吉
は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・
忠勝
が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月9日
最上家親
が駿府(駿河国)に到着する。
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・
義光
の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。
本多正純
が披露する。家康は家親に
大坂城
(摂津国)攻めにつき、
江戸城
(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月10日
江戸城
(武蔵国)の普請を終えた
浅野長晟
、
鍋島勝茂
、
山内忠義
、
蜂須賀至鎮
、
小出吉英
、
稲葉典通
、
遠藤慶隆
、
毛利高政
が駿府(駿河国)に到着し、
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に対面する。家康は
大坂城
(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月11日
辰刻(7-9時)、
大坂城
(摂津国)攻めのため
徳川頼宣
が
駿府城
(駿河国)より出陣する。
安藤直次
・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、
徳川家康
が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、
本多正純
指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、
石川忠総
、
柳沢元吉
、
小倉吉次
[水野分長勢]
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 10月12日
申刻(15-17時)、
徳川家康
が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに
茨木城
(摂津国)より大野治純と
片桐且元
の使者が到着する。家康は治純を召し出し、
大坂城
(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、
豊臣秀頼
による籠城の準備は、
織田有楽
、織田頼長、
木村重成
、
渡辺糺
、
大野治長
等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる
板倉勝重
より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、
長宗我部盛親
、
後藤基次
、仙石秀範、
明石全登
、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・
貞隆
兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が
堺
(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を
大坂城
(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月13日
徳川家康
が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。
徳川秀忠
より家康のもとへ
板倉重宗
が到着する。
福島正則
の使者と
竹中重利
の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と
淀殿
の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は
本多正純
が内容を確かめる。その書状には、
方廣寺
(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より
長谷川藤広
の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と
高山重友
、
内藤如庵
、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と
安藤直次
所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を
堺
(和泉国)に出す。
片桐且元
が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は
尼崎
(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月14日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に
浜松
(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、
大坂城
(摂津国)の様子に変わりはないものの、
豊臣秀頼
が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は
高野山
(紀伊国)にいた
真田信繁
が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、
若原良長
が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、
淀殿
縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠
の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城
(武蔵国)の普請を終えた
加藤忠広
が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。
松平正久
が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた
脇坂安元
が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、
藤堂高虎
に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が
本多正純
を召し出し、
本多忠政
を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直
の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊
が
名古屋城
(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光
が
金沢城
(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月14日
大坂城
(摂津国)攻めにつき、
石川忠総
勢が
大垣城
(美濃国)より出陣する。
出典:『石川忠総家臣大坂陣覚書』
慶長19年 1614年 10月15日
徳川家康
が
吉田
(三河国)に到着する。
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に
豊臣秀頼
が
堺
(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を
大坂城
(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月16日
徳川家康
が
岡崎
(三河国)に到着する。
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に
豊臣秀頼
が槙島昭光を大将に軍勢300を
堺
(和泉国)に出す。
片桐且元
が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は
尼崎
(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則
が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を
江戸城
(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠
の使者として
成瀬正武
が家康のもとに到着する。正武は、
伊達政宗
、
上杉景勝
、
佐竹義宣
が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直
が
坂本
(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月17日
未刻(13-15時)、
徳川家康
が
名古屋
(尾張国)に到着する。
古田重然
、半井驢庵が家康を出迎え、家康は
名古屋城
(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊
が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月18日
雨により
徳川家康
が
名古屋
(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光
の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に
金沢城
(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直
の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に
坂本
(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・
山崎
(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊
が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条
慶長19年 1614年 10月19日
午刻(11-13時)、
徳川家康
が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より
豊臣秀頼
の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、
片桐且元
に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を
本多正純
が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ
織田有楽
・
大野治長
が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から
前田利長
に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている
福島正則
からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、
利光
より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、
島津家久
、
毛利宗瑞
、
鍋島直茂
、
黒田長政
、
福島忠勝
、
池田利隆
、
池田忠継
、
池田忠雄
、
浅野長晟
、
蜂須賀至鎮
、
加藤嘉明
、
森忠政
、
田中忠政
、
生駒正俊
に軍勢を率い、
大坂城
(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊
が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政
が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明
等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎
が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月20日
徳川家康
が
柏原
(近江国)に到着する。
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着し、
豊臣秀頼
が
二条城
(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月21日
徳川家康
が
佐和山
(近江国)に到着する。
井伊直孝
勢が
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 10月22日
徳川家康
が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、
堺
(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が
竹中重利
を召し出し、
福島忠勝
とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、
豊臣秀頼
の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が
淀殿
の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝
勢が
伏見城
(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 10月23日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて
膳所
(近江国)に到着する。船中、
戸田氏鉄
が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は
二条城
(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび
大坂城
(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則
が
豊臣秀頼
に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が
片桐且元
、
藤堂高虎
を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠
よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年 1614年 10月23日
徳川秀忠
が
豊臣秀頼
の籠る
大坂城
(摂津国)を攻めるべく、
江戸城
(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として
酒井重忠
を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項
慶長19年 1614年 10月23日
豊臣秀頼
が
二条城
(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年 1614年 10月23日
前田利光
率いる軍勢20000、
松平忠直
率いる軍勢10000が
下京
(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年 1614年 10月24日
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに、勅使として
広橋兼勝
、三条実條が赴く。
家康が
大坂城
(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠
の使者として
水野忠元
が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より
伊達政宗
、
上杉景勝
、
佐竹義宣
を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月25日
未刻(13-15時)、
山城国
で大地震あり。
二条城
(山城国)にて
徳川家康
が
藤堂高虎
、
片桐且元
を召し出し、
大坂城
(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝
勢が
伏見城
(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠
が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 10月26日
二条城
(山城国)にて
徳川家康
が
豊臣秀頼
のもとにいた
織田常真
と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が
池田利隆
、
浅野長晟
、
鍋島勝茂
等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が
江戸城
(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を
後藤光次
を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月27日
一乗院、喜多院が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に対面する。
宝性院、
片桐貞隆
が家康に対面する。
石川貞政、
池田利隆
が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・
尼崎
(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、
徳川秀忠
の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に
江戸城
(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が
南禅寺
金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、
駿府城
(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は
金地院崇伝
・
林羅山
。
堺
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。
成瀬正成
が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条
慶長19年 1614年 10月29日
徳川秀忠
の使者として
永井尚政
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、
板倉勝重
を介し、家康に
大坂城
(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、
有馬豊氏
勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月1日
島津家久
の使者が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。家久からは、
豊臣秀頼
の使者として長崎往来商人の高屋七郎兵衛が家久のもとを訪れ、秀頼黒印状・脇差(銘 正宗)を持参し、家康による
大坂城
(摂津国)攻めで秀頼に味方するようにとの依頼があったが、家久は関ヶ原の後、家康のおかげで本領安堵を受けているので秀頼に味方することはできないしと、脇差を返却し、使者は商人だったため殺さずに帰したことを報告する。この件は、
本多正純
が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月2日
吉田
(三河国)より
徳川秀忠
の使者として内藤右衛門佐が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月3日
大坂城
(摂津国)の先陣の
片桐且元
が、同城を包囲したことを、
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に
藤堂高虎
が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、
松平清正
、
石川忠総
、
古田重治
、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、
伊達政宗
の使者として
山岡重長
が
徳川秀忠
のもとに到着する。重長は
本多正信
を介し、
豊臣秀頼
の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月5日
大坂城
(摂津国)より
薄田兼相
が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。
松平清正
が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項
慶長19年 1614年 11月6日
未刻(13-15時)、
松平清正
の飛脚が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。清正より、11月5日に
大坂城
(摂津国)より
薄田兼相
が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎
、
浅野長晟
が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項
慶長19年 1614年 11月7日
辰刻(7-9時)、
池田忠継
が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを
徳川家康
に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、
有馬豊氏
が中島に到着する。
近日中に家康が
二条城
(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・
法隆寺
・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮
が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項
慶長19年 1614年 11月10日
徳川秀忠
が永原(近江国)を出立する。
膳所
(近江国)にて
戸田氏鉄
が膳を献じる。
大津
・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて
徳川義俊
、
徳川頼宣
が秀忠を出迎え、対面する。その後、
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月11日
午刻(11-13時)、
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)より
徳川家康
のいる
二条城
(山城国)に赴き、奥御座間にて対面する。秀忠は家康に到着を待ってくれたことを謝す。
家康は
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
、
板倉勝重
、
酒井忠世
、
土井利勝
、
安藤重信
を召し出し、13日に
大坂城
(摂津国)に向かうべく、二条城を発つことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月13日
徳川家康
が大坂(摂津国)に遣わした物見の横田尹松、山城忠久が、夜、家康のもとに戻る。
大坂城
(摂津国)攻めの
天王寺
(摂津国)方面の先陣が城より14・15町のところまで押し寄せていることを報告する。家康は、秀忠の命が出る以前に攻め込むことを堅く禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月15日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)攻めに赴くべく、
二条城
(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠
が大坂城を攻めるべく
伏見城
(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月16日
徳川家康
が
法隆寺
阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、
徳川秀忠
が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として
永井尚政
が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月17日
徳川家康
が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて
藤堂高虎
、
浅野長晟
、
蜂須賀至鎮
、
前田利光
、
松平忠直
、
生駒正俊
、
一柳直盛
・直重父子、
松平清正
、
本多忠政
・忠刻、
古田重治
、桑山元晴、
脇坂安元
、
池田忠雄
等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠
が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として
土井利勝
が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく
天王寺
・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣
率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年 1614年 11月18日
徳川家康
が住吉(摂津国)より、
徳川秀忠
が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は
天王寺
にて父子が面会する。家康は
藤堂高虎
、
本多正信
を召し寄せ、
大坂城
(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より
明石全登
が天王寺に向かって出撃し、
藤堂高虎
、
脇坂安元
が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝
が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項
慶長19年 1614年 11月25日
徳川家康
・
秀忠
父子が
天王寺
に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮
、
浅野長晟
が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。
石川忠総
が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月19日
巳刻(9-11時)、
徳川秀忠
が住吉(摂津国)にいる
徳川家康
の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、
本多正信
、
本多正純
、
藤堂高虎
、
安藤直次
、
成瀬正成
を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房
、
薄田兼相
の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、
浅野長晟
、
池田忠雄
、
蜂須賀至鎮
が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗
の使者・
山岡重長
が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月25日
佐竹義宣
率いる軍勢1500が京橋(摂津国)に布陣し、豊臣勢と鉄砲を撃ち合う。
徳川家康
が、今福に付城を築くため、
上杉景勝
・義宣に対し、翌朝、同地に陣取る豊臣勢を追い払うようにと命じる。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項
慶長19年 1614年 11月26日
上杉景勝
、
佐竹義宣
が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた
矢野正倫
、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が
大坂城
(摂津国)より出勢し、義宣家臣の
渋江政光
率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より
木村重成
、
後藤基次
率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(
須田長義
、水原親憲等)、
榊原康勝
が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年 1614年 11月29日
朝、
蜂須賀至鎮
(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、
池田忠雄
、
戸川達安
、
花房正成
、
石川忠総
、
九鬼守隆
が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、
向井忠勝
が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が
大坂城
(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が
浅野長晟
に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として
成瀬正成
を遣わす。
家康が
安藤直次
を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項
慶長19年 1614年 11月30日
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
、
永井直勝
が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、
徳川家康
の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月1日
豊臣勢が高麗橋を焼き落そうとしたため、
石川忠総
がそれを阻止しようと高麗橋に進軍し鉄砲を撃ち合う。これをきいた
徳川家康
は佐久間政実、山城忠久を遣わし、制止を試みるも戦闘は停止しなかったため、
永井直勝
が、再度、忠総に加勢すべきか停戦を促すか家康に尋ねたところ、命令のない攻撃は禁止すると応え、加賀爪忠澄を忠総のもとに遣わし、忠総の攻撃を止める。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月2日
徳川家康
が茶臼山(摂津国)に赴く。4日に当地へ陣を移すという。家康は単騎で
大坂城
(摂津国)近くまで赴き、敵勢の様子を確かめる。これを聞き、
徳川秀忠
が平野(河内国)より家康のもとに合流する。
本多正信
、
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
のみ供をする。申刻(15-17時)、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月3日
成瀬正成
、
安藤直次
が、
徳川義俊
・
徳川頼宣
の陣所となる
天王寺
(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠
が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽
・
大野治長
よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、
本多正純
、
後藤光次
のもとに到着する。
池田忠継
、
森忠政
を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。
井伊直孝
勢は
大坂城
(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 12月4日
徳川家康
が住吉(摂津国)より
天王寺
茶臼山に陣替えする。
徳川秀忠
が平野(河内国)より岡山に陣替えする。
徳川義俊
、
徳川頼宣
が
天王寺
(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、
松平忠直
・
本多富正
・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて
大坂城
(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は
安藤直次
を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝
勢が大坂城の
真田信繁
の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。
徳川秀忠
の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。
本多正純
の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は
藤堂高虎
の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 12月6日
徳川家康
が住吉(摂津国)より茶臼山(摂津国)に赴く。
徳川秀忠
も岡山より茶臼山に赴き、家康と合流し対談する。
藤堂高虎
、
本多正信
が家康と対面する。
夜、秀忠の使者として
土井利勝
が家康のもとを訪れ、家康と密談する。
成瀬正成
、
安藤直次
、
安藤重信
が物見として
大坂城
(摂津国)の周囲を検分する。重信が秀忠のもとに帰還後、午刻(11-13時)に甲山で季節外れに蛙が大量発生し喰い合いする奇怪な場面に遭遇したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月8日
大坂城
(摂津国)より
織田有楽
と
大野治長
の返状が
徳川家康
のもとに届く。
本多正純
、
後藤光次
が密かに家康に披露する。長益使者は村田吉蔵、治長使者は米村権右衛門。牢人衆の宥免があるか、秀頼の国替えがどこを希望しているか、開城の条件などを協議する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月9日
藤堂高虎
が
徳川家康
と
大坂城
(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重
の書状が家康に届く。
本多正純
が披露する。
家康が
永井直勝
、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が
松平忠直
の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重
が
島津家久
に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項
慶長19年 1614年 12月10日
伊奈忠政、北見五郎左衛門が
徳川家康
に堰、川堤の完成を報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月10日
夜、
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)の諸口に向けて守将の姓名を入れた矢文を放ち降伏すれば赦免することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月11日
徳川家康
が間宮新左衛門、
島田直時
、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって
大坂城
(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎
、
井伊直孝
、
前田利光
の陣場で堀をつくる。
黒田長政
が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟
が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月13日
徳川家康
が
中井正清
に、
大坂城
(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は
本多正純
に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康
が
松平正久
、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、
藤堂高虎
・
松平忠直
等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって
大坂城
(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月17日
徳川秀忠
が
水野忠元
、稲富重次をもって
佐竹義宣
の陣所の高所より石火矢(大砲)を
大坂城
(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟
が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月19日
徳川家康
・
徳川秀忠
父子と
豊臣秀頼
の間で和睦がなる。
家康が
藤堂高虎
、
仙石忠政
と対面する。
家康が松平甲斐守、
前田利光
、
松平忠直
、
加藤明成
、
福島忠勝
、松平河内守と対面する。
家康が
南光坊天海
と対面する。
家康が落馬して負傷した子・
頼宣
の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長
が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。
井上之房
、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『
菅氏世譜
』
慶長19年 1614年 12月20日
徳川家康
・
秀忠
父子と
豊臣秀頼
の和睦につき、徳川勢・豊臣勢ともに鉄砲の撃ち合いを止める。双方、堀際の戦死者の遺体を回収する。
豊臣方の人質請取のため、
後藤光次
、寺田将監(
本多正純
家老)が
大坂城
(摂津国)に赴く。豊臣方は
織田有楽
の子と
大野治長
の幼児を人質として差し出すが、光次は治長の子息について幼児を出したことに激昂し、嫡子を差し出すように交渉する。治長は幼児を改め治徳を差し出す。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 12月21日
朝、徳川勢による
大坂城
(摂津国)の堀埋め立てが始まる。
出典:『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 12月24日
日の出前、茶臼山(摂津国)の
徳川家康
の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。
松平正久
、
板倉重昌
、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠
は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、
本多正信
、
土井利勝
が家康のもとに残る。
織田有楽
、
大野治長
が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。
京極忠高
も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に
藤堂高虎
、
本多正信
が列席する。家康は有楽、治長に
大坂城
(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。
前田利光
、
福島忠勝
、
浅野長晟
、
鍋島勝茂
、
細川忠利
、
寺沢広高
、
池田利隆
、
池田忠継
、
池田忠雄
、
森忠政
、
有馬豊氏
、
稲葉典通
、
京極高知
、
山内忠義
、
堀尾忠晴
、
加藤明成
、
南部利直
、
毛利秀就
、
毛利秀元
、
吉川広家
、
福原広俊
、
松平忠直
、松平忠昌、松平信吉、
榊原康勝
、
本多忠朝
、
本多忠政
、
松平清正
、
本多康紀
、
松平忠利
、水野勝成と対面する。
家康が
南光坊天海
、
金地院崇伝
と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が
佐和山
(近江国)を
井伊直孝
に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月25日
辰刻(7-9時)、
徳川家康
が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、
二条城
(山城国)に到着する。
板倉勝重
が迎える。茶臼山の陣所には
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
が残る。
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。
徳川義俊
、
徳川頼宣
も岡山に在陣する。
織田有楽
、
大野治長
、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月27日
岡山に在陣している
徳川秀忠
の使者として
土井利勝
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月3日
午刻(11-13時)、
徳川家康
が
駿府城
(駿河国)に帰城すべく
二条城
(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、
膳所
(近江国)に到着する。
膳所城
(近江国)城主の
戸田氏鉄
が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長20年 1615年 1月8日
徳川家康
が
名古屋
(尾張国)に逗留する。卯刻(5-7時)、鷹狩に赴き、申刻(15-17時)に戻る。
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)の堀埋め普請について、諸勢をもってあたるといえども、二ノ丸の堀の幅が40-60間、深さが3-4間があってすぐには完了しないことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月10日
徳川家康
が
岡崎
(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
徳川秀忠
の使者・
永井尚政
が家康のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)の堀埋めについて進捗状況を報告する。16・17日には大方堀埋めが完了することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月12日
徳川家康
が
岡崎
(三河国)に逗留する。
徳川秀忠
の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、
織田有楽
邸の家屋、西ノ丸、
大野治長
邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が
佐竹義宣
陣所に発砲したこと、義宣・
渋江政光
、屋代、
水原親憲
の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月15日
埋め立てていた
大坂城
(摂津国)の船場口の船入が入潮により元の通りとなる。
諸勢3人扶持役として土俵1つずつを大坂城の二ノ丸の堀向いに置く。
出典:『当代記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月15日
堤により天満川が堰止められたままの状態のため、西国からの船の出入りができないため、このままであれば商売ができないと町人が迷惑をする。
出典:『当代記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月18日
岡山にいる
徳川秀忠
の使者として青山重政が
徳川家康
のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)二ノ丸までの堀埋め普請が完了し、本城のみ残ったことを報告する。秀忠は19日に
伏見城
(山城国)に移る予定であることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月19日
申刻(15-17時)、
徳川秀忠
が岡山の陣所より
伏見城
(山城国)に移る。
大坂城
(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、
松平忠明
、
本多忠政
等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、
本多正純
、
安藤重信
が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月28日
徳川秀忠
が
二条城
(山城国)を発ち、
膳所
(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条
慶長20年 1615年 2月1日
徳川家康
が中泉(遠江国)に逗留する。家康のもとに
本多正純
が大坂(摂津国)より到着する。正純は
大坂城
(摂津国)の二ノ丸、三ノ丸、堀、門、櫓を悉く崩し埋めたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月6日
大坂城
(摂津国)攻めにつき、
井伊直孝
勢が
彦根城
(近江国)より出陣する。
出典:『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長20年 1615年 4月7日
大坂城
(摂津国)攻めにつき、
石川忠総
勢が
大垣城
(美濃国)より出陣する。
出典:『石川忠総家臣大坂陣覚書』
慶長20年 1615年 4月8日
大坂城
(摂津国)攻めにつき、
石川忠総
勢が
大垣城
(美濃国)より出陣する。
出典:『石川忠総家臣大坂陣覚書』
慶長20年 1615年 4月9日
夜、
大野治長
が弟・
大野治房
の従者に左脇を脇差にて刺され負傷する。
出典:『駿府記』同年月12日条
慶長20年 1615年 4月10日
徳川秀忠
が
豊臣秀頼
の籠る
大坂城
(摂津国)を攻めるべく、
江戸城
(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に
酒井重忠
を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項
慶長20年 1615年 4月12日
豊臣秀頼
が牢人へ金銀を配り、武具の用意を命じる。
出典:『駿府記』同年月16日条
慶長20年 1615年 4月13日
織田有楽
・尚長父子が
名古屋
(尾張国)にいる
徳川家康
のもとを訪れる。長益・尚長は、
豊臣秀頼
の軍勢の状況について、牢人衆を三手に分け、
大野治長
・
後藤基次
で一手を、
木村重成
・
渡辺糺
・
真田信繁
・
明石全登
で一手を、
大野治房
・
長宗我部盛親
・毛利勝永・仙石秀範で一手をなしていることを伝える。
家康は、14日の昼には
桑名
(伊勢国)に赴くことを事前に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月21日
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月26日
徳川秀忠
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに赴き、対面する。4日28日に
大坂城
(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月27日
徳川家康
の使者として
本多正純
が
伏見城
(山城国)にいる
徳川秀忠
のもとに赴き、4月28日とされていた
大坂城
(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月28日
豊臣秀頼
勢10000が郡山・龍田・
法隆寺
(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。
大和郡山城
(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、
大野治房
・槙島昭光が豊臣勢を率い、
堺
(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条
慶長20年 1615年 4月29日
浅野長晟
が信達(和泉国)にて
大野治長
の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、
大野治房
・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・
塙直之
・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の
上田宗箇
、
亀田高俊
、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。
徳川家康
は長晟の戦功を賞し感状を発給する。
松平正久
、秋元泰勝、
後藤光次
が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条
慶長20年 1615年 5月5日
巳刻(9-11時)、
徳川家康
が
二条城
(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:
松平定勝
、
青木信安
。
家康が淀(山城国)にて
細川忠興
に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。
本多正信
、
藤堂高虎
、
土井利勝
、
安藤重信
がその協議に参加する。
小笠原秀政
が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝
が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎
勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長20年 1615年 5月6日
八尾(河内国)にて
藤堂高虎
と
長宗我部盛親
が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・
藤堂高刑
[藤堂高虎勢](戦死)・
桑名吉成
[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて
井伊直孝
・
木村重成
・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、
内藤政勝
(戦死)。
岩田にて
榊原康勝
と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・
松平忠明
・
伊達政宗
の徳川勢と
後藤基次
・
薄田兼相
・
渡辺糺
の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、
徳川家康
・
徳川秀忠
は枚岡(河内国)に陣取る。7日の
大坂城
(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長20年 1615年 5月8日
豊臣秀頼
は
大坂城
サキ島の堀西方にある唐物倉にて
淀殿
・
大野治長
・
速水守久
等とともに残り、徳川家に和を乞うが、
井伊直孝
・
安藤重信
が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、
大蔵卿局
、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、
速水守久
、速水出来、津川左近、
大野治長
、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、
松平忠直
が、
真田信繁
、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、
徳川家康
が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、
二条城
に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』・『言緒卿記』同年月日条(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)
慶長20年 1615年 5月9日
徳川秀忠
が岡山の陣所を発ち、
伏見城
(山城国)に入る。
大坂城
(摂津国)に残されている金銀を調査するため
安藤重信
、
青山忠俊
、阿部正次が大坂(摂津国)に残る。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 5月12日
徳川家康
・
秀忠
が豊臣勢の落人の追捕を諸代官・諸大名に命じる。
豊臣秀頼の娘(7歳)が
京極忠高
のもとを捜索したところ発見される。秀頼に男子がいることが判明し、捜索するように触れが回る。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 5月24日
徳川家康
が
後藤光次
を召し出し、豊臣家より没収した金銀を調査するように命じる。光次は大坂(摂津国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 6月2日
安藤重信
、
後藤光次
が豊臣家の没収金28060枚、銀24000枚を京都に移送し、その量を
徳川家康
に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 6月8日
徳川家康
が
松平忠明
を召し出し、大坂(摂津国)にて50000石を加増し、総じて100000石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 7月6日
松平清正
が
大坂城
(摂津国)東北櫓の跡を掘り起こしたところ黄金43枚、竹流し金数十、金盆、金炉、金箸、金壺の諸器を発見する。清正は
松平正久
、
後藤光次
を介して
徳川家康
に進上する。この金器は
淀殿
の玩弄品であるとされる。家康は秀忠のいる伏見(山城国)に持参するようにと伝え、清正に下賜することとなる。
出典:『駿府記』同年月日条
元和6年 1620年 -月-日
保科正光が
大坂城
(摂津国)の城代となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正光」の項
寛永14年 1637年 12月16日
松平信綱、
戸田氏鉄
が
大坂城
(摂津国)に入り、阿部正次、稲葉重綱とともに議し、大坂城に保管している大砲・弾薬の回漕を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項
慶安1年 1648年 6月26日
保科正貞が
大坂城
(摂津国)の定番となる。幕府は正貞に摂津国豊島郡・河辺郡・能勢郡・有馬郡内で10000石を加増する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正貞」
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