人 物 史

清水宗治 しみず むねはる
生 没 年天文6年(1537)-天正10年(1582)6/4
出 身-幼 名才太郎
別 称長左衛門
法 名-
戒 名清鏡宗心
清水宗則-
兄 弟 姉 妹清水宗知、清水宗治、難波宗忠
配 偶 者石川久孝の娘
清水宗之、清水景治、難波宗定、娘(中島元行の妻)、娘(駒木根清右衛門の妻)
官 位-
役 職-
城 郭高松城(備中国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ清水宗治の関連文化財
清水宗治 年表
天文6年 1537年 -月-日 1歳
清水宗治が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 19歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 22歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄9年 1566年 2月5日 30歳
興善寺(美作国)にて遠藤秀清・俊通兄弟が三村家親を鉄砲にて狙撃し、家親は死亡する。
出典:『陰徳太平記』巻40「三村家親事」

元亀1年 1570年 4月23日 34歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月14日 35歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

天正1年 1573年 7月28日 37歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 3月15日 46歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 5月8日 46歳
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月17日 46歳
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月19日 46歳
羽柴秀吉が溝江長澄に備中国攻めのことや村上水軍衆が味方となっていることを伝える。うち高松城(備中国)攻めについては、「この城は平城であるので数年かけて普請をしていて堅くなっており、かつ三方が深田のため攻め口がないことから、周りに堤を築き、近くの川を切って水攻めにした」とし、さらに現状は「端城の土居に水が打ち寄せている状況」で「そのうち落城するだろう」と述べる。
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 6月4日 46歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

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