人 物 史

池田恒興 いけだ つねおき
生 没 年天文5年(1536)-天正12年(1584)4/9
出 身尾張国幼 名-
別 称勝三郎、信輝、勝入斎
法 名-
戒 名護国院雄岳宗英大禅定門
池田恒利養徳院
兄 弟 姉 妹池田恒興
配 偶 者善応院(荒尾善次の娘)
池田元助、せん、池田輝政池田長吉池田長政、若政所、天球院(山崎家盛の妻)、女(浅野幸長の妻)、女(織田勝正の妻)
官 位紀伊守
役 職-
城 郭犬山城(尾張国)、小里城(美濃国)、花隈城(摂津国)、大垣城(美濃国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第263「池田信輝」の項
関 連 デ ー タ池田恒興の関連文化財
池田恒興の家臣
史料にみえる池田恒興の呼称
池田恒興 年表
天文5年 1536年 -月-日 1歳
池田恒興が生まれる。
出典:-

天文20年 1551年 3月3日 16歳
織田信秀が死去する。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 20歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 23歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 11月2日 23歳
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄2年 1559年 -月-日 24歳
子・元助が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田之助」の項

永禄3年 1560年 5月19日 25歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄5年 1562年 5月-日 27歳
賀留美(美濃国)にて織田信長斎藤龍興が戦う。この戦いに織田信長勢として参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田信輝」の項

永禄7年 1564年 12月19日 29歳
子・輝政が尾張国清州城にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項、『有斐録』「元」

永禄12年 1569年 8月20日 34歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月28日 34歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 9月8日 34歳
織田信長稲葉良通丹羽長秀池田恒興大河内城(伊勢国)の夜襲を命じられる。良通等は西搦手を夜攻めする。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 34歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 34歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

元亀1年 1570年 4月23日 35歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 -月-日 35歳
子・長吉が尾張国犬山にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第267「池田長吉」の項

元亀2年 1571年 9月12日 36歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 38歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 38歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 38歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 38歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 2月-日 39歳
織田信長が、武田勝頼に備えるべく小里城(美濃国)に池田恒興を、神箆城(美濃国)に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 7月14日 39歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正3年 1575年 -月-日 40歳
子・長政が尾張国犬山にて生まれる。
出典:-

天正6年 1578年 10月21日 43歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 43歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 43歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 43歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 43歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 44歳
織田信長有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興元助池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 9月2日 44歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 44歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 44歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 44歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 44歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 44歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 44歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 44歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 2月27日 45歳
織田信長山崎(山城国)に移る。信長は津田信澄、塩川伯耆、丹羽長秀に花隈城(摂津国)攻めるべく当地に赴き、砦を築いて池田恒興元助輝政父子を入れるように命じる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 閏3月2日 45歳
花隈城(摂津国)に籠城中の荒木村重勢が同城攻めのため池田恒興元助輝政が在番していた砦に攻め入る。恒興は荒木勢を退ける。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正9年 1581年 -月-日 46歳
子・長吉豊臣秀吉の養子となり、羽柴を称す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第267「池田長吉」の項

天正10年 1582年 2月9日 47歳
織田信長が信濃国出陣につき、筒井順慶を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・高野山・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、三好康長を四国に遣わすこと、摂津国は池田恒興が留守居としての残り、池田元助輝政兄弟、中川清秀は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、羽柴秀吉は中国地方の抑えとして残ること、細川藤孝忠興父子、一色五郎は丹後国に残ること、明智光秀は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 5月17日 47歳
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 6月2日 47歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月12日 47歳
明智光秀が八幡、山崎(以上、山城国)に布陣する。
羽柴秀吉池田恒興とともに摂津国に軍勢を進める。中川清秀高山重友を先陣をつとめ山崎(山城国)に布陣。以下、羽柴勢は山崎から天神馬場(摂津国)に展開する。秀吉は織田信孝を待つため富田(摂津国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年月日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)

天正10年 1582年 6月13日 47歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

天正10年 1582年 6月27日 47歳
羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興柴田勝家が織田家宿老として知行の宛行いをする。
蒲生氏郷…近江国南郡佐久間分内で1万石
高山重友…摂津国能勢郡内で3000石、近江国佐久間分内で1000石の計4000石
堀秀政…近江国坂田郡25000石(御台所入として)
出典:天正10年6月27日付羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家連署状(『豊臣秀吉文書集』1巻-446・447・448号)

天正10年 1582年 7月5日 47歳
池田恒興が摂津国より上洛し、清水寺に陣取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正10年 1582年 7月6日 47歳
『多聞院日記』に「天下の様」は柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興堀秀政の5人で「分取」る状況であると記される。
出典:『多聞院日記』同年月日日条

天正10年 1582年 7月7日 47歳
織田信長死後の所領分配として、織田信雄に伊勢国・尾張国が、織田信孝に美濃国が、柴田勝家に長浜(近江国)20万石が、羽柴秀吉に山城国・河内国が、羽柴秀長に丹波国が、丹羽長秀に近江国高嶋郡・志賀郡が、池田恒興に河内国十七ヶ所・大坂城(摂津国)が、堀秀政に近江国中郡・織田三法師の傅役が、筒井順慶に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が下京の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月28日 47歳
本圀寺にて羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興が天下を静謐にすることを談合する。
出典:『蓮成院記録』同年月30日条

天正11年 1583年 4月24日 48歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 5月25日 48歳
奈良(大和国)にて大坂城(摂津国)が池田恒興より羽柴秀吉の所有に移り、恒興は美濃国に移ると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月-日 48歳
池田恒興大坂城(摂津国)より大垣城(美濃国)に、池田元助伊丹城(摂津国)より岐阜城(美濃国)に、池田輝政尼崎城(摂津国)より池尻城(美濃国)に移る。
出典:『池田氏家譜集成』

天正12年 1584年 4月7日 49歳
徳川家康領の三河国を襲撃すべく羽柴秀次池田勝入斎森長可堀秀政が楽田(尾張国)を出陣し小牧(尾張国)に陣取る。
出典:『豊鑑』巻2

天正12年 1584年 4月9日 49歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

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