人 物 史

堀秀政 ほり ひでまさ
生 没 年天文22年(1553)-天正18年(1590)5/27
出 身美濃国茜部本郷幼 名菊千代
別 称久太郎
法 名道哲
戒 名高嶽道哲東樹院
堀秀重-
兄 弟 姉 妹堀秀政多賀秀種、堀利重、堀三政、女(生駒一正の妻)、女(堀直重の妻)
配 偶 者-
堀秀治、堀親良、村上但馬守、近藤政成
官 位侍従、左衛門督
役 職-
城 郭佐和山城(近江国)、北之庄城(越前国)
参 考 文 献堀秀政に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる堀秀政の呼称
堀秀政の関連文化財
堀秀政 年表
天文22年 1553年 -月-日 1歳
堀秀政が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 3歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 6歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 18歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 9月12日 19歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 21歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 3月4日 24歳
吉田兼見が安土城(近江国)に在城中の織田信長のもとに礼に訪れる。取次は村井専次。兼見は堀秀政に進物として下緒10筋を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月5日 24歳
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 24歳
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 24歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 24歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月13日 24歳
吉田兼見が本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもと(本陣)に見舞いに訪れる。兼見は信長に御帷2(越後布 白アサギ)を贈る。堀秀政が披露。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 8月2日 24歳
大坂本願寺より加賀国遣わされた使者が京都に捕縛された件で堀秀政が上洛する。秀政と村井貞勝は使者の在京時の宿泊地を捜索し、灰屋、針屋と判断する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 8月3日 24歳
堀秀政村井貞勝が2日に捕らえた大坂本願寺の使者を、両名が安土城(近江国)に連行する
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月13日 25歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日 25歳
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日 25歳
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月17日 25歳
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日 25歳
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 25歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月2日 25歳
織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政不破光治丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月-日 25歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正6年 1578年 10月21日 26歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 26歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 26歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 26歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 26歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 4月8日 27歳
織田信長が播磨国に不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近堀秀政津田信澄を遣わす。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 5月27日 27歳
織田信長安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論を行う。浄土衆の勝者とし、日蓮衆の普伝、塩屋伝介を死罪とする。また、日蓮衆1000人程を久遠院に追い入れる。妙覚寺をはじめとする京都の日蓮衆の諸寺連署で、安土城での宗論は日蓮衆の負けであること、今後、他宗に対し法難をしないこと、日蓮衆が宗派として存在することを忝く思うことを誓う起請文を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出させる。起請文の連署者は、本能寺日幸、本圀寺日佑、妙覚寺日諦ほか。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 5月28日 27歳
安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論につき、日蓮衆側が5月27日付で宗論に敗れたことを認める起請文と連署状を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出したことを受け、その案文を村井貞勝に送り、正文の1通を知恩院に、もう1通を織田方で保管するとともに、洛中・洛外に触れ回るよう指示する。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 8月22日 27歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 27歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 27歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 27歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 27歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 27歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 27歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 27歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 27歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 閏3月16日 28歳
織田信長安土城(近江国)の構の南の新道の北の田地を埋めキリシタンに屋敷地を与える。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正9年 1581年 1月1日 29歳
安土城(近江国)の構の北、松原町の西の海端に馬場を築くべく普請を開始する。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻14「御馬場普請の事」

天正9年 1581年 3月9日 29歳
織田信長が和泉国の知行方を改めるため、堀秀政を遣わす。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 5月10日 29歳
織田信長の命により津田信澄蜂屋頼隆堀秀政松井友閑丹羽長秀の検分のもと槙尾寺を破却する。
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正9年 1581年 9月3日 29歳
織田信長が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より堀秀政を大将に小姓衆・近江衆の丹羽長秀蒲生氏郷京極高次多賀常則・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より北畠信雄滝川一益、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から筒井順慶、黒田へ福住が攻め込む。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月6日 29歳
北畠信雄滝川一益丹羽長秀堀秀政等が御代河原(伊賀国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月10日 29歳
伊賀国を攻めている織田信雄の軍勢が同国内の寺社を焼き討ちする。滝川一益堀秀政が佐野具(伊賀国)より出勢した伊賀国衆の足軽と戦う。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月11日 29歳
佐野具城(伊賀国)に北畠信雄が入城する。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月15日 29歳
筒井順慶の伊賀国攻めの攻め口の諸城20ヶ所余が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 10月10日 29歳
伊賀国見物のため織田信長信忠父子が同国赴く。信長はアラキノ宮(伊賀国)に滞在する。信長・信忠父子の御座所を滝川一益北畠信雄丹羽長秀堀秀政が設える。
出典:『多聞院日記』同年月13日条、『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正10年 1582年 3月5日 30歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 30歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 30歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 30歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 30歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 30歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 30歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 30歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 30歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 30歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 30歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 30歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 5月15日 30歳
徳川家康穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』

天正10年 1582年 5月17日 30歳
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月20日 30歳
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 6月2日 30歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 30歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

天正10年 1582年 6月27日 30歳
羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興柴田勝家が織田家宿老として知行の宛行いをする。
蒲生氏郷…近江国南郡佐久間分内で1万石
高山重友…摂津国能勢郡内で3000石、近江国佐久間分内で1000石の計4000石
堀秀政…近江国坂田郡25000石(御台所入として)
出典:天正10年6月27日付羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家連署状(『豊臣秀吉文書集』1巻-446・447・448号)

天正10年 1582年 7月6日 30歳
『多聞院日記』に「天下の様」は柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興堀秀政の5人で「分取」る状況であると記される。
出典:『多聞院日記』同年月日日条

天正10年 1582年 7月7日 30歳
織田信長死後の所領分配として、織田信雄に伊勢国・尾張国が、織田信孝に美濃国が、柴田勝家に長浜(近江国)20万石が、羽柴秀吉に山城国・河内国が、羽柴秀長に丹波国が、丹羽長秀に近江国高嶋郡・志賀郡が、池田恒興に河内国十七ヶ所・大坂城(摂津国)が、堀秀政に近江国中郡・織田三法師の傅役が、筒井順慶に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が下京の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 8月14日 30歳
堀秀政本願寺顕如に使者として堀六右衛門(蓮照寺)を遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月29日 30歳
吉田(山城国)にて丹羽長秀堀秀政金森長近等が世上静謐のことを議す。
出典:『天正日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月24日 31歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 7月4日 31歳
雑賀衆の案内により紀伊から貝塚(和泉国)に移る。雑賀衆のうち貝塚までは平太夫、根太夫、明道、船頭の佐之助が、嘉祥寺までは刑部助、刑部大夫、刑部大夫弟が案内する。
羽柴秀吉へ音信として円山内匠を遣わし大樽10を贈る。浅野長政石田佐吉堀秀政羽柴秀長にも書状を遣わす。ただし長政には以前に送った音信が留守のため渡せなかったので、下間頼廉の書状にて音信として銀5枚を贈る。
岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月7日 32歳
徳川家康領の三河国を襲撃すべく羽柴秀次池田勝入斎森長可堀秀政が楽田(尾張国)を出陣し小牧(尾張国)に陣取る。
出典:『豊鑑』巻2

天正12年 1584年 4月9日 32歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 1月9日 33歳
堀秀政本願寺顕如へ年頭の礼として堀采女を貝塚本願寺に遣わす。顕如・教如に太刀1腰・綿5把を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 33歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月15日 33歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻める。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 7月16日 33歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻め、外城を落とす。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 9月3日 33歳
羽柴秀吉が大和国へ向かう。
秀吉が分国中で国替を実施。大和国の筒井定次を伊賀国に、大和国を弟・秀長に、高山重友を明石(播磨国)に、堀秀政佐和山(近江国)から北之庄(越前国)30万石に、中川秀政を三木(播磨国)に移封する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月3日 34歳
堀秀政森忠政本願寺顕如のもとを訪れる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 6月2日 34歳
上杉景勝が大聖寺(加賀国)を出立し、金津において堀源介の振舞をうける。金津川、九頭竜川を越え、北之庄城(越前国)に到着。堀秀政の饗応を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正15年 1587年 1月1日 35歳
豊臣秀吉堀秀政に九州攻めの陣立書を発給する。陣立書に秀吉は3月1日に出陣の旨が記される。
出典:天正15年1月1日付豊臣秀吉朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

天正15年 1587年 1月25日 35歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 35歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 35歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 35歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 35歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 35歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 35歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 35歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 35歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 35歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 35歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 35歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 35歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 35歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 35歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 35歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 35歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 35歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 35歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 35歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 35歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 35歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 35歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 4月16日 36歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「霜ののち なほあはれん 松がえの ちよの縁や 今しげる覧」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 -月-日 36歳
子・近藤政成が生まれる。
出典:-

天正17年 1589年 11月-日 37歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。堀秀政は軍勢5300で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 5月27日 38歳
堀秀政小田原城(相模国)早川口の陣中にて死去する。
出典:-

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