城 郭 史

高松城(備中国) たかまつじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒701-1335
岡山県岡山市北区高松558−2
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク清水宗治杉原家次
高松城(備中国) 年表
天正10年 1582年 3月15日 
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 5月8日 
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月17日 
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月18日 
羽柴秀吉が得居通幸に高松城(備中国)を水攻めにしている旨を伝える。また、そのうちに瀬戸内海にて得居に警固船の動員を依頼するので、その心づもりでいるようにと伝える。
出典:天正10年5月18日付得居通幸宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-418号)

天正10年 1582年 5月19日 
羽柴秀吉が溝江長澄に備中国攻めのことや村上水軍衆が味方となっていることを伝える。うち高松城(備中国)攻めについては、「この城は平城であるので数年かけて普請をしていて堅くなっており、かつ三方が深田のため攻め口がないことから、周りに堤を築き、近くの川を切って水攻めにした」とし、さらに現状は「端城の土居に水が打ち寄せている状況」で「そのうち落城するだろう」と述べる。
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 6月3日 
細川忠興高松城(備中国)攻めのため宮津城(丹後国)城外の犬堂にて軍勢を揃え明智光秀の出陣を待っていたところ、愛宕山下坊より織田信長が本能寺にて討たれたことを聞き、その菩提を弔うとしてすぐに出家する。
出典:『細川忠興軍功記』同年月日条

天正10年 1582年 6月4日 
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

慶長10年 1605年 6月22日 
花房正幸高松城(備中国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正幸」の項

城郭リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.