人 物 史

明智光秀 あけち みつひで
生 没 年享禄1年(1528)-天正10年(1582)6/13
出 身美濃国幼 名-
別 称十兵衛、惟任光秀
法 名咲庵
戒 名秀岳院宗光禅定門、前日洲条鉄光秀居士、長存寺殿明窓玄智大禅定門
明智光綱お牧の方
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者煕子(妻木範煕の娘)
娘(明智秀満の妻)、娘(明智光忠の妻)、娘、珠(細川忠興の妻)、娘(津田信澄の妻)、明智光慶、筒井定頼、乙寿丸
官 位日向守
役 職-
城 郭坂本城(近江国)、丹波亀山城(丹波国)
参 考 文 献明智光秀に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる明智光秀の呼称
明智光秀の関連文化財
明智光秀の家臣
明智光秀 年表
享禄1年 1528年 -月-日 1歳
明智光秀が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 1歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 5歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 28歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 4月18日 29歳
斎藤道三が鶴山(美濃国)に陣取る。斎藤義龍が乾に陣取る。
出典:『江濃記』「道三最後之事」

弘治2年 1556年 4月20日 29歳
長良川(美濃国)にて斎藤道三斎藤義龍が戦い、道三が戦死する。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 31歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄11年 1568年 6月23日 41歳
細川藤孝・上野清信・明智光秀岐阜城(美濃国)に居る織田信長のもとに赴き、足利義昭の上洛を依頼する。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月16日 41歳
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月25日 41歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 41歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 41歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 41歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄12年 1569年 1月1日 42歳
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 42歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 42歳
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 42歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄13年 1570年 1月26日 43歳
山科言継が京都の明智光秀邸に礼に訪れる。光秀は美濃下向中のため会えず。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月30日 43歳
申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条

永禄13年 1570年 3月6日 43歳
織田信長の命にて明智光秀日乗が公家衆に知行分の申告をさせ吟味のうえ給付することを伝える。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 43歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 9月25日 43歳
織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正川尻秀隆佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家氏家卜全安藤守就稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月11日 43歳
勝軍地蔵城(山城国)に在陣中の明智光秀が吉田兼見のもとを訪れ石風呂を所望する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 11月15日 43歳
織田信長が勝軍地蔵城(山城国)に在陣する。吉田兼和が信長のもとを訪れる。兼和は明智光秀の陣所に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 1月6日 44歳
明智光秀が吉田兼見への礼として使者を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 1月21日 44歳
吉田兼右が志賀(近江国)にいる明智光秀を見舞う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 2月19日 44歳
明智光秀が吉田兼見に人足を所望する。兼見より人足25名が光秀のもとに派遣される。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 9月12日 44歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 1月19日 45歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が年頭の礼として訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 閏1月6日 45歳
坂本(近江国)にて普請中の明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。兼見は光秀に3荷両種を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 2月25日 45歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月3日 45歳
明智光秀が吉田兼見に、織田信長の上洛が14、15日頃で本能寺に宿泊する予定であることを伝える。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月11日 45歳
織田信長が志賀(近江国)に入る。木戸・田中に砦を築き、中川重政、丹羽長秀明智光秀が在番する。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月12日 45歳
未刻(13-15時)、織田信長が軍勢700程を引き連れ上洛し妙覚寺に宿泊する。吉田兼見が信長への礼に訪れると、明智光秀が奏者として対応する。兼見は信長に織色1面を、塙直政に湯がけ2具を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 4月3日 45歳
織田信長のもとへ礼に吉田兼右が訪れる。明智光秀の執り成しにより兼右は信長との対面が叶う。信長は兼右に金子1枚を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 4月16日 45歳
三好義継松永久秀久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長佐久間信盛柴田勝家明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆斎藤利治稲葉良通氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長の軍勢20000を遣わす。
松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 5月11日 45歳
交野城(河内国)の救援に赴いていた軍勢が河内国より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 6月5日 45歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼右が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 9月15日 45歳
明智光秀が上洛し施薬院全宗の所に逗留する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 9月17日 45歳
勝龍寺城(山城国)にいる細川藤孝のもとに吉田兼見が蓮養坊の知行のことにつき明智光秀に口添えしてもらうよう書状・使者をもって依頼する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 10月24日 45歳
吉田兼見が細川藤孝のもとを訪れ、蓮養坊の知行地のことについて明智光秀への口添えを依頼する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 11月15日 45歳
磯谷久次の子の元服につき、明智光秀が彦四郎と名付ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 12月11日 45歳
明智光秀の美濃にいる親類が山王の敷地に新城を普請したところ体調を崩したので、吉田兼見に病気平癒の祈祷を依頼する。兼見より鎮札、地鎮が贈られる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 12月24日 45歳
吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを見舞いとして訪れる。杉原10帖、包丁刀1が贈られる。兼見は坂本城(近江国)の天守の作事の見事さに驚嘆する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月6日 46歳
岩倉(山城国)の山本、渡辺昌、磯谷久次が明智光秀に叛く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月10日 46歳
山本、渡辺昌、磯谷久次が近江に在陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月11日 46歳
吉田兼見が明智光秀のもとへ見舞いの使者を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月20日 46歳
織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に、足利義昭の臣・山岡光浄院が籠る石山城(近江国)の攻撃を命じ、勝家等の諸勢が出陣する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月24日 46歳
柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆が、瀬田(近江国)を渡り山岡光浄院が籠る石山城(近江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月26日 46歳
石山城(近江国)に籠る山岡光浄院が、同城を攻める織田家の柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に降伏し、城より退城する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月29日 46歳
辰刻(7-9時)、足利義昭方の今堅田城(近江国)を丹羽長秀明智光秀蜂屋頼隆が攻める。光秀は琵琶湖上から攻撃し城を落とす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 3月29日 46歳
賀茂(山城国)に陣所を構える明智光秀のもとに吉田兼見が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 6月28日 46歳
吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを見舞いとして訪れる。兼見は光秀に果李の文台、東門30を贈る。里村昌叱、兼見とで歌仙連歌を催す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月14日 46歳
明智光秀が吉田山(山城国)に織田信長の屋敷を建ててはと進言する。これにつき、信長の命により柴田勝家木下秀吉滝川一益丹羽長秀松井友閑、前波七郎兵衛が同地を検分する。吉田兼見とも話し合い、屋敷地の建設は取りやめとする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 46歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。
織田信長勢:明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝細川忠興
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 46歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 46歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月23日 46歳
明智光秀が、岩倉(山城国)にある山本館の山本実尚を7月24日に攻めると吉田兼見に使者をもって伝える。その後、吉田兼見のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月24日 46歳
明智光秀が岩倉(山城国)にある山本館の周辺を放火する。しかし、この日に山本館は落とせず。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月26日 46歳
織田信長が木戸城(近江国)、田中城(近江国)を攻撃し落とす。両城は明智光秀に給付される。
出典:『信長公記』巻6(9)「大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事」

天正1年 1573年 7月28日 46歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 10月-日 46歳
明智光秀が静原山に籠っていた山本対馬を調略により討ち取る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正2年 1574年 1月11日 47歳
多聞山城(大和国)の留守の番替えとして明智光秀が入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条号

天正2年 1574年 1月17日 47歳
織田信長岐阜城(美濃国)にて細川藤孝、蒲生、青地、池田、松永久秀筒井順慶畠山昭高中川清秀、閉地、関、分部、平塚を饗応する。その席にて、信長が明智光秀の子を順慶の養子とすること、光秀の娘を津田信澄に嫁がせること、細川忠興に光秀の娘を嫁がせることを命じる。
出典:『綿考輯録』巻3

天正2年 1574年 1月27日 47歳
多聞山城(大和国)の留守居番中の明智光秀のもとへ川西佐馬が礼に訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条号

天正2年 1574年 2月4日 47歳
生津荘公用について、善法寺が能村甚八郎より7貫文を借銭していたため、数十年にわたり能村が2倍の額の所務を徴収していたが、このたび5石を善法寺が能村に返却したので、公用は善法寺に直接納めるように明智光秀が同寺に伝える。
出典:『石清水文書之六 菊大路家文書』264号

天正2年 1574年 3月17日 47歳
織田信長が志那(近江国)より坂本(近江国)に渡湖する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 9月18日 47歳
飯盛(河内国)にて三好勢・一向一揆と佐久間信盛塙直政筒井順慶明智光秀細川藤孝が戦う。
出典:『綿考輯録』巻3

天正3年 1575年 2月13日 48歳
織田信長清凉寺に、千部経期間中、国質・所質、喧嘩・口論、押買を停止する禁制を発給する。署名は村井貞勝明智光秀
出典:同年月日付村井貞勝・明智光秀連署禁制(「清凉寺文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』497号)

天正3年 1575年 4月4日 48歳
明智光秀が軍勢2000余を率いて南方に出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 5月24日 48歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は薫衣香10袋を贈る。光秀は兼見に武田家を悉く討ち果たしたと記されている織田信長からの折紙(書状)を見せる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 7月3日 48歳
織田信長が禁裏の鞠会を見物する。
禁裏より信長に官位昇進の勅錠があったが断る。ただし、家老衆の任官は受け、松井友閑は宮内卿法印に、武井夕庵は二位法印に、明智光秀は惟任日向守に、簗田左衛門太郎は別喜右近に、丹羽長秀は惟住姓となる。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 8月14日 48歳
越前一向一揆を討ち滅ぼした織田信長のもとへ勅使として赴く勧修寺晴豊と同道していた吉田兼見が明智光秀のもとに見舞いに訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月15日 48歳
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、佐久間信盛柴田勝家滝川一益羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀別喜右近細川藤孝原田直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉一鉄稲葉貞通氏家直昌安藤守就磯野員昌、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破光治、武藤宗右衛門、神戸信孝津田信澄織田信包北畠信雄率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月16日 48歳
織田信長が敦賀(越前国)を発し、木芽峠(越前国)、鉢伏城(越前国)の一向一揆勢を追う。越前一向一揆を悉く成敗する。府中龍門寺(越前国)に陣を張る。今庄(越前国)に福田三河守を置く。朝倉孫三郎が下間筑後、下間和泉、専修寺の首を持参し降伏を願い出るが、孫三郎の願いを拒絶し、向駿河をもって孫三郎を成敗する。
明智光秀は浜手より進軍する。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 9月2日 48歳
織田信長が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を柴田勝家に給付する。大野郡の2/3を金森長近に、1/3を原長頼に給付する。今立郡・南条郡を佐々成政前田利家不破光治に給付する。
明智光秀に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を細川藤孝に給付する。荒木村重に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月1日 48歳
織田信長が片岡藤五郎に、赤井直正の退治の為明智光秀を遣わすので加勢するように命じる。
出典:同年月日付織田信長朱印状(「新免文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』557号)

天正4年 1576年 1月15日 49歳
明智光秀赤井直正黒井城(丹波国)攻めのため同地に在陣中のところ波多野秀治が背き敗走する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 1月21日 49歳
坂本城(近江国)に帰陣するため京都に入る。白川(山城国)を通過中、吉田兼見が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 2月16日 49歳
坂本城(近江国)にいた明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いに訪れる。面会し夕食をともにする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 2月18日 49歳
明智光秀が丹波国に出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月28日 49歳
二条晴良邸が織田信長の命により報恩寺に移ることになり、その普請を山科言継山科言経葉室長教が見物する。明智光秀が晴良邸の普請奉行を命じられる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月7日 49歳
山科言継二条晴良邸を普請中の報恩寺を見物する。大概完成しており、大工は見えず、壁塗りばかりが行われている状態であったという。貴賎男女も見物していたという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月9日 49歳
報恩寺二条晴良邸の作事がおおよそ完了する。この日、晴良が移徙を予定していたが、悪日のため10日に延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月10日 49歳
未刻(13-15時)、二条晴良昭実父子が報恩寺に造作した屋敷に移る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月14日 49歳
明智光秀が吉田(山城国)を通り河内国に向かう。平野(河内国)に在陣する。(『兼』)
織田信長本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。(『信』)
出典:『兼見卿記』同年月16日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月3日 49歳
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月5日 49歳
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 49歳
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 49歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 49歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月10日 49歳
巳刻(9-11時)、織田信長が大和国一国一円の支配を筒井順慶に任せることを明智光秀万見重元を介して同人に伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月23日 49歳
明智光秀が体調不良のため天王寺城(摂津国)より京都に帰陣する。曲直瀬道三の診察を受ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月24日 49歳
明智光秀の妻が光秀の病平癒の祈祷を吉田兼見に依頼する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月26日 49歳
織田信長明智光秀の病を見舞うため隼原を使者として遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月30日 49歳
筒井順慶明智光秀の病につき興福寺の坊舎7人衆に病気平癒の祈祷を命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 7月14日 49歳
坂本城(近江国)に在城中の明智光秀を吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は光秀に帷(越後布)1端を贈る。兼見と面会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月10日 49歳
明智光秀の妻の体調不良につき吉田兼見に祈祷を依頼する。兼見より祓、御守が送られる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月24日 49歳
明智光秀の妻の体調回復につき、吉田兼見に非在軒を遣わし礼状と銀子1枚を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月27日 49歳
在京中の明智光秀のもとに吉田兼見が訪れる。兼見は光秀に加賀しぼりの手縄を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月2日 49歳
在京中の明智光秀の妻の病気見舞いに吉田兼見が訪れる。光秀は兼見に面会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月13日 50歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日 50歳
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日 50歳
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月17日 50歳
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日 50歳
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 50歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
長尾・淡輪にて滝川一益・筒井順慶・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・細川藤孝が雑賀衆と戦う。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月1日 50歳
織田信長滝川一益明智光秀蜂屋頼隆細川藤孝筒井順慶、若狭衆に鈴木重秀の居城・雑賀城(紀伊国)の攻撃を命じる。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月-日 50歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月22日 50歳
織田信長が香荘に逗留する。雑賀衆に備えるため、佐野村(和泉国)に築城を命じ、佐久間信盛明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉荒木村重を置き、根来寺杉之坊、津田太郎左衛門を定番として置く。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 9月14日 50歳
明智光秀が上洛する。吉田兼見が訪れる。連歌会を催す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 9月15日 50歳
明智光秀、吉田兼見が施薬院全宗のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 9月29日 50歳
細川藤孝筒井順慶明智光秀松永久秀家臣の森秀光・海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を包囲する。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 10月1日 50歳
織田信忠安土城(近江国)を出発し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
松永久秀の与力・森秀光、海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を、明智光秀細川藤孝筒井順慶、山城国衆が攻め、落とす。この城攻めで細川忠興・興元兄弟が天守に一番乗りで攻め入り、城主の森秀光、海老名勝正等150余を討ち取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」、『綿考輯録」巻3

天正5年 1577年 10月2日 50歳
織田信忠が槙島(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月3日 50歳
織田信忠が奈良(大和国)を通り、信貴山城(大和国)に対陣する。
夜、信貴山毘沙門堂が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月9日 50歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将]、松永久通。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月10日 50歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将](自害)、松永久通(自害)。
出典:『多聞院日記』同年月日・11日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月16日 50歳
明智光秀細川藤孝亀山城(丹波国)を攻める。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 10月29日 50歳
明智光秀が籾井城(丹波国)を攻める。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 1月1日 51歳
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が織田信長のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・信忠武井夕庵林秀貞滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重、長谷川与二、羽柴秀吉丹羽長秀、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」

天正6年 1578年 4月4日 51歳
織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月6日 51歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀が包囲していた荒木氏綱の居城が水が絶たれたために降伏する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月10日 51歳
織田信長明智光秀滝川一益に荒木氏綱の籠る荒木城(丹波国)攻めを命じる。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 4月29日 51歳
明智光秀が播磨国に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月10日 51歳
明智光秀に捕らえられていた波多野秀治が京都(山城国)を通過する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 6月26日 51歳
滝川一益丹羽長秀明智光秀が三日月山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月27日 51歳
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 51歳
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 51歳
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 51歳
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 9月7日 51歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。連歌が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 9月11日 51歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が礼として訪れる。兼見は光秀に菓子を贈る。光秀が兼見所有の茶碗を所望し、兼見より茶碗を譲り受ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 9月-日 51歳
明智光秀が円通寺に明智勢の乱妨狼藉、陣取り・放火、竹木伐採を停止する禁制を発給する。
出典:天正6年9月日明智光秀禁制

天正6年 1578年 9月-日 51歳
津田信澄滝川一益明智光秀細川藤孝忠興父子が長沢義遠の籠る小山城を攻める。
出典:『綿考輯録』巻3

天正6年 1578年 10月21日 51歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月3日 51歳
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月10日 51歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 51歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 51歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 51歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 51歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 1月17日 52歳
吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとへ礼として訪れる。面会する。兼見は光秀に100疋を贈る。夕食をともにする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月23日 52歳
吉田兼見が在京中の明智光秀のもとを訪れる。兼見は光秀に饅頭50を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月28日 52歳
明智光秀が亀山(丹波国)に向かうべく坂本(近江国)を出陣する。出陣準備中に吉田兼見が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月16日 52歳
明智光秀が多喜郡(丹波国)に在陣中。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 6月4日 52歳
波多野秀治・秀尚・秀香が安土城(近江国)に送還され、織田信長の命により磔にされる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月19日 52歳
明智光秀が宇津城(丹波国)を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月-日 52歳
明智光秀細川藤孝忠興父子が嶺山城(丹後国)を攻める。
出典:『綿考輯録』巻3

天正7年 1579年 8月9日 52歳
明智光秀が赤井幸家の籠る黒井城(丹波国)を攻め、同城を落とす。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 52歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 52歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 52歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 52歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 52歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 52歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 52歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 10月24日 52歳
明智光秀織田信長のいる安土城(近江国)に赴き、丹後国・丹波国の平定を報告する。
出典:『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 52歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 2月14日 53歳
明智光秀が奈良(大和国)に居る筒井順慶のもとを訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月26日 53歳
長宗我部元親明智光秀の執奏のもと織田信長に音信として鷹16連、砂糖3000斤を贈る。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 8月7
-
日 53歳
妹・つまきが死去する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

天正8年 1580年 8月19日 53歳
明智光秀大和郡山城(大和国)普請中の筒井順慶を見舞うべく大和国に赴き、成身院に到着する。その後、100ばかりを連れて大和郡山城に赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 8月20日 53歳
大和郡山城(大和国)に滞在中の明智光秀のもとに興福寺が礼として摩尼を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 8月21日 53歳
明智光秀坂本城(近江国)に帰るべく大和国と発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 9月25日 53歳
滝川一益明智光秀が奈良(大和国)に赴く。光秀は吉祥院に、一益は成身院に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 9月26日 53歳
織田信長が大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆に対し所領の指出を命じる。指出にあたっては起請文形式で滝川一益明智光秀宛で提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 10月22日 53歳
大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆の織田信長への所領の指出の結果、興福寺領は19000石、大乗院領は750石、一乗院の寺領は1300石、東大寺領は1500石、多武峰領は8000石、法隆寺領は300石、薬師寺領は2000石とされる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 10月23日 53歳
滝川一益明智光秀が大和国内の寺社領の指出について間違いがなかったことを確認する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 10月28日 53歳
明智光秀が金蔵院にて戒重氏を、ヤケアトにて岡弥二郎を、中坊にて大仏供新屋と高田藤七郎を切腹させる。その後、滝川一益は岡弥二郎の所領に、筒井順慶は高田藤七郎の所領に、光秀は戒重氏、大仏供氏の所領へ赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 11月2日 53歳
滝川一益明智光秀が奈良(大和国)を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 12月19日 53歳
筒井順慶坂本城(近江国)にいる明智光秀のもとに向かう。
出典:『多聞院日記』同年月20日条

天正9年 1581年 1月23日 54歳
織田信長が京都にて馬揃を催すにつき、明智光秀に差配を命じる。
出典:『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」、『立入左京亮入道隆佐記』

天正9年 1581年 2月28日 54歳
織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正10年 1582年 2月9日 55歳
織田信長が信濃国出陣につき、筒井順慶を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・高野山・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、三好康長を四国に遣わすこと、摂津国は池田恒興が留守居としての残り、池田元助輝政兄弟、中川清秀は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、羽柴秀吉は中国地方の抑えとして残ること、細川藤孝忠興父子、一色五郎は丹後国に残ること、明智光秀は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 3月5日 55歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 55歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 55歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 55歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 55歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 55歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 55歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 55歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 55歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 55歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 55歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 55歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 5月11日 55歳
神戸信孝が四国に渡海すべく、軍勢を率い住吉(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(24)「阿波国神戸三七御拝領の事」

天正10年 1582年 5月15日 55歳
徳川家康穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』

天正10年 1582年 5月17日 55歳
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。 光秀は安土城(近江国)より坂本城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月20日 55歳
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 5月26日 55歳
明智光秀が居城・坂本城(近江国)より出陣し、亀山城(丹波国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」

天正10年 1582年 5月27日 55歳
明智光秀愛宕山威徳院(西坊)にて連歌会を催す。参加者は里村紹巴、里村昌叱、明智光慶、兼如、心前、愛宕威徳院(西坊)行祐、愛宕大善院(上坊)宿源、行澄、行澄。
出典:『明智光秀張行百韻』(『続群書類従』17輯上)、『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」

天正10年 1582年 5月29日 55歳
織田信長が上洛し、本能寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(30)「信長公御上洛の事」

天正10年 1582年 6月1日 55歳
夜、明智光秀が重臣の明智秀満明智光忠、藤田行政、斎藤利三と談合し、織田信長を討つこと決意する。亀山城(丹波国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻15(31)「明智日向守逆心の事」

天正10年 1582年 6月2日 55歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月2日 55歳
明智光秀山岡景隆を勧誘するが、景隆はその誘いを断り、勢多橋を落として、居城・瀬田城(近江国)を自焼し、山中に逃亡する。
出典:『信長公記』巻15(34)「江州安土城御留守衆有様の事」

天正10年 1582年 6月3日 55歳
明智光秀坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月3日 55歳
細川忠興高松城(備中国)攻めのため宮津城(丹後国)城外の犬堂にて軍勢を揃え明智光秀の出陣を待っていたところ、愛宕山下坊より織田信長が本能寺にて討たれたことを聞き、その菩提を弔うとしてすぐに出家する。
出典:『細川忠興軍功記』同年月日条

天正10年 1582年 6月4日 55歳
明智光秀安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。
4日の大和国より筒井順慶の一手として光秀のもとにやってきた南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月5日 55歳
大坂(摂津国)にて神戸信孝丹羽長秀蜂屋頼隆が、明智光秀の聟・津田信澄を殺害する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月10日 55歳
筒井順慶のもとに遣わした明智光秀の家臣・藤田伝五郎が、大和郡山城(大和国)にて切腹する。
出典:天正10年6月10日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-430号)、『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月11日 55歳
本願寺顕如明智光秀に使者を遣わす。ただし、光秀戦死につき使者は光秀のもとに届かず。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月12日 55歳
明智光秀が八幡、山崎(以上、山城国)に布陣する。
羽柴秀吉池田恒興とともに摂津国に軍勢を進める。中川清秀高山重友を先陣をつとめ山崎(山城国)に布陣。以下、羽柴勢は山崎から天神馬場(摂津国)に展開する。秀吉は織田信孝を待つため富田(摂津国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年月日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)

天正10年 1582年 6月13日 55歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

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