人 物 史

細川勝元 ほそかわ かつもと
生 没 年永享2年(1430)-文明5年(1473)5/11
出 身-幼 名聡明丸
別 称六郎
法 名-
戒 名龍安寺殿宗宝仁栄大居士
細川持之京極高光の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者春林寺殿(山名宗全の養女・山名煕貴の娘)
細川政元、洞松院、細川豊久[養子]、細川勝之[猶子]
官 位武蔵守、右京大夫
役 職室町幕府 管領
土佐国守護、讃岐国守護、丹波国守護、摂津国守護、伊予国守護
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ細川勝元の関連文化財
細川勝元 年表
永享2年 1430年 -月-日 1歳
細川勝元が生まれる。
出典:-

嘉吉1年 1441年 2月17日 12歳
「永享」より「嘉吉」に年号が改まる。
出典:-

文安1年 1444年 2月5日 15歳
「嘉吉」より「文安」に年号が改まる。
出典:-

文安2年 1445年 -月-日 16歳
細川勝元が管領となる。
出典:『応仁前記』巻之上

文安3年 1446年 10月16日 17歳
富樫教家と富樫泰高の対立につき細川勝元は泰家を推していたが、足利三春(義政)が教家を推したため、管領職の辞退を申し出る。
出典:『師郷記』同年月日条

文安3年 1446年 11月14日 17歳
細川勝元が10月16日に管領職の辞退を申し出たが、足利三春(義政)に許されず、この日、管領として出仕する。
出典:『師郷記』同年月日条

宝徳1年 1449年 7月28日 20歳
「文安」より「宝徳」に年号が改まる。
出典:-

宝徳2年 1450年 7月10日 21歳
等持寺の仏殿の柱立・上棟が行われる。足利義政、細川勝元が馬を贈る。
出典:『康富記』同年月日条

享徳1年 1452年 7月25日 23歳
「宝徳」より「享徳」に年号が改まる。
出典:-

康正1年 1455年 7月25日 26歳
「享徳」より「康正」に年号が改まる。
出典:-

長禄1年 1457年 9月28日 28歳
「康正」より「長禄」に年号が改まる。
出典:-

長禄4年 1460年 9月30日 31歳
細川勝元畠山義就討伐につき長谷寺衆徒に軍勢催促状を発給する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年閏9月8日条

長禄4年 1460年 閏9月9日 31歳
長谷寺細川勝元の軍勢催促に応じる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

寛正1年 1460年 12月21日 31歳
「長禄」より「寛正」に年号が改まる。
出典:-

寛正5年 1464年 12月2日 35歳
足利義政の後継者として、浄土寺義尋が還俗し、義視と名乗る。義視は左馬頭に任官。細川勝元を傅役とする。
出典:『細川勝元記』

文正1年 1466年 2月28日 37歳
「寛正」より「文正」に年号が改まる。
出典:-

文正1年 1466年 -月-日 37歳
子・政元が生まれる。
出典:-

文正2年 1467年 1月15日 38歳
細川勝元が軍勢を洞院公数邸に入れたと噂される。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

文正2年 1467年 1月16日 38歳
細川勝元足利義政より畠山政長への合力はしないようにと命じられ、合力を止める。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

文正2年 1467年 1月18日 38歳
畠山義就畠山政長が上御霊神社にて戦う。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

文正2年 1467年 1月19日 38歳
細川勝元山名宗全畠山義就・一色義直・土岐成頼の籠る御所の西に陣取り、取り囲む。
出典:『経覚私要抄』同年月日条

応仁1年 1467年 3月5日 38歳
「文正」より「応仁」に年号が改まる。
出典:-

応仁1年 1467年 5月26日 38歳
細川勝元赤松政則山名宗全を攻める。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

文明1年 1469年 4月28日 40歳
「応仁」より「文明」に年号が改まる。
出典:-

文明5年 1473年 3月18日 44歳
山名宗全が死去する。
出典:-

文明5年 1473年 5月11日 44歳
細川勝元が死去する。
出典:-

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