人 物 史

細川政元 ほそかわ まさもと
生 没 年文正1年(1466)-永正4年(1507)6/23
出 身-幼 名聡明丸
別 称九郎
法 名-
戒 名大心院殿雲関興公大禅定門
細川勝元山名煕貴の娘
兄 弟 姉 妹細川政元、洞松院、細川豊久[養子]、細川勝之[猶子]
配 偶 者-
細川澄之[養子]、細川澄元[養子]、細川高国[養子]
官 位右京大夫
役 職室町幕府 管領
丹波国守護、摂津国守護、土佐国守護
城 郭-
参 考 文 献細川政元に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
細川政元 年表
文正1年 1466年 -月-日 1歳
細川政元が生まれる。
出典:-

文正1年 1466年 2月28日 1歳
「寛正」より「文正」に年号が改まる。
出典:-

応仁1年 1467年 3月5日 2歳
「文正」より「応仁」に年号が改まる。
出典:-

文明1年 1469年 4月28日 4歳
「応仁」より「文明」に年号が改まる。
出典:-

文明5年 1473年 5月11日 8歳
父・勝元が死去する。
出典:-

文明5年 1473年 12月19日 8歳
足利義尚が征夷大将軍となる。
出典:『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年)

文明6年 1474年 3月20日 9歳
足利義尚・日野富子が小川に新造した御所に移る。猿楽が催される。
出典:『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年)

文明6年 1474年 4月3日 9歳
細川政元と山名政豊が和睦する。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 7月1日 9歳
山名政豊勢が二条大宮、岩神神社、猪熊・堀川の在家3,4町分を放火する。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 7月2日 9歳
畠山政長勢が三条坊門、猪熊、堀川、油小路を放火する。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 7月7日 9歳
大内政弘が四条坊門大宮の本能寺より猪熊、堀川、油小路辺りに陣取る。畠山義就が大宮二条から三条にかけて陣取る。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 7月12日 9歳
西軍が足軽を出し三条坊門、油小路西面を放火する。東軍は土岐成頼の館等を放火する。
出典:『親長卿記』同年月日条(増補史料大成刊行会編『増補史料大成 親長卿記一』臨川書店、1975年)、『東寺執行日記』同年月13日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 7月26日 9歳
北野南ノ木戸口にて畠山義就勢と山名政豊勢が戦い、政豊勢が勝利する。義就勢の遊佐弥六が討死する。
出典:『親長卿記』同年月日条(増補史料大成刊行会編『増補史料大成 親長卿記一』臨川書店、1975年)、『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 8月12日 9歳
申刻、六角政堯勢として伊庭氏勢1000が上洛する。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 8月18日 9歳
西軍が太秦、西院、西京、梅津を放火する。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明6年 1474年 8月25日 9歳
土岐成頼勢が上洛する。
出典:『東寺執行日記』同年月日条(『後鑑』巻220(『続国史大系』第8巻、経済雑誌社、1904年))

文明18年 1486年 9月13日 21歳
細川政元東寺に立て籠もった土一揆に軍勢を差し向ける。東寺は御影堂を除き焼失する。
出典:『後法興院政家記』同年月日条、『山科家礼記』同年月日条

文明18年 1486年 9月25日 21歳
細川政元が土一揆に軍勢を差し向け追い払う。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

長享1年 1487年 7月20日 22歳
「文明」より「長享」に年号が改まる。
出典:-

延徳1年 1489年 8月21日 24歳
「長享」より「延徳」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 27歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

明応2年 1493年 4月22日 28歳
細川政元香厳院清晃を将軍に擁立する。
出典:『言国卿記』同年月日条

明応2年 1493年 4月23日 28歳
細川政元が畠山尚順邸を焼き払う。禁裏の警固を外様衆に命じる。
出典:『言国卿記』同年月日条

明応2年 1493年 閏4月25日 28歳
細川政元畠山政長を正覚寺城(河内国)に追い詰め自害させる。
出典:『瓦林政頼記』同年月日条

明応5年 1496年 閏2月11日 31歳
奈良(大和国)で細川政元が10日に摂津国に下向したと噂される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月11日条

明応5年 1496年 閏2月15日 31歳
細川政元が17日に摂津国に下向すると噂される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 5月13日 31歳
細川政元に腫物ができたと噂される。尋尊は遊佐弥六と木幡の争いにより宇治橋が落ち往来ができなくなったことをうけて、政元の天下成敗について疑義を記禄に残す。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応8年 1499年 11月22日 34歳
坂本(近江国)にて足利義尹と六角高頼が戦い、高頼が勝利する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

文亀1年 1501年 2月29日 36歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 39歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正4年 1507年 6月23日 42歳
細川政元が湯殿にて香西元長・薬師寺長忠らにより殺害される。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

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