寺 院 史

東寺 教王護国寺 とうじ きょうおうごこくじ
本 尊-
創 建-
開 基-
山 号-
宗 派-
別 称-
関連宗教施設-
現 所 在 地〒601-8473
京都府京都市南区九条町1

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旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
東寺 教王護国寺 年表
元慶7年 883年 2月7日 
造東寺塔料として、山城・大和・河内・淡路の三宝布施料稲3,000束、伊賀・伊勢の米400石、遠江・武蔵・上野・下野・能登・因幡・周防の米500石、播磨の米200石、美作の稲4,000束を宛てられる。
出典:『日本三大実録』同年月日条

延元1年 1336年 6月16日 
足利尊氏東寺千手堂を陣所とする。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

永和1年・天授1年 1375年 12月27日 
矢野荘(播磨国)から東寺への年貢輸送は「丹波路」からと定めていたが、矢野荘からの使者は「海道」を利用。関賃を請求する。学衆評定は「海道」の利用に立腹するが、年貢到来後に関賃を支払うことを決定する。
出典:学衆方引付 永和元年『相生市史』第7巻

応永1年 1394年 7月16日 
播磨守護 赤松義則が南都に在陣をしていることを聞き、戦勝祈願として百座不動供を各住坊で修し巻数を作成することが東寺学衆評定で決まる。
出典:学衆方引付 応永元年『相生市史』第7巻

応永1年 1394年 7月25日 
東寺が乗観を使者として南都在陣中の播磨守護 赤松義則のもとへ祈祷巻数を贈る。
出典:学衆方引付 応永元年『相生市史』第7巻

応永1年 1394年 7月28日 
南都在陣中の赤松義則のもとへ遣わした乗観が東寺に帰還する。義則の返事をもたらす。またついでに交渉した陣中夫・千草山材木引・相国寺塔婆材木引の課役免除を義則に交渉。相国寺塔婆材木引の課役については、「一国大儀」のため免除不可となったが、陣中夫と千草山材木引の課役は免除され、義則の書下を賜う。
出典:学衆方引付 応永元年『相生市史』第7巻

文明18年 1486年 9月13日 
細川政元東寺に立て籠もった土一揆に軍勢を差し向ける。東寺は御影堂を除き焼失する。
出典:『後法興院政家記』同年月日条、『山科家礼記』同年月日条

明応9年 1500年 閏6月-日 
甲斐国八幡に東寺の勧進聖・海乗が赴く。
出典:『王代記』明応9年条

大永4年 1524年 1月11日 
行尊東寺金堂再建の勧進聖として諸国で勧進活動をすることが綸旨によって認められる。
出典:大永4年1月11日付後柏原天皇綸旨『大』9-26 同年月日条

大永6年 1526年 10月15日 
東寺勧進聖 行尊が甲斐国八幡へ赴く。
出典:『王代記』大永6年10月15日条

大永7年 1527年 10月25日 
足利義晴東寺法輪院に、細川道永が吉祥寺(山城国)に陣替えする。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 -月-日 
東寺勧進聖 行尊が諸国勧進に赴く。真言宗阿闍梨の者に100疋、「下」の者は10疋を募る。また武蔵国江戸に赴く。
出典:『王代記』大永7年条

享禄5年 1532年 4月4日 
弘法大師七百年忌の勧進として東寺宝菩提院を東国に下向させることを諸門徒中に周知させる室町幕府奉行人飯尾定広松田盛秀の連署奉書が発給される。
出典:享禄5年4月4日付室町幕府奉行人連署奉書(「東寺文書」『室町幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3195号)

天文7年 1538年 3月21日 
東寺にて御影供が執行される。蜷川親俊が御影供を見物する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文18年 1549年 3月-日 
三好長慶東寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年3月日付三好長慶禁制(「東寺百合文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-225号)

天文18年 1549年 6月25日 
六角義賢細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。
晴元は夕方に上洛する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文20年 1551年 2月16日 
山科言継が上洛をした三好長慶松永久秀のもとに大沢掃部を遣わす。東寺にいた久秀は、大沢掃部とともに吉祥院(山城国)を居所としていた長慶のもとに赴くが留守であったため大沢掃部と別れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月7日 
伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。
出典:『言継卿記』同年月8日条

天文20年 1551年 9月-日 
安宅冬康東寺・同境内に軍勢の乱暴狼藉、陣取・寄宿、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火を禁じる禁制を発給する。
出典:天文20年9月日付安宅鴨冬禁制(東寺百合文書WEB「東寺百合文書」ヤ函193)

天文20年 1551年 9月-日 
三好之虎東寺・同境内に軍勢の乱暴狼藉、陣取・寄宿、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火を禁じる禁制を発給する。
出典:天文20年9月日付三好之相禁制(東寺百合文書WEB「東寺百合文書」ヤ函192)

天文21年 1552年 1月28日 
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文21年 1552年 12月-日 
三好長慶東寺に三好勢の乱妨・狼藉禁止、山林竹木の伐採禁止、東寺への寄宿・陣取り禁止、東寺への矢銭・兵糧米徴収の禁止を記した禁制を発給する。
出典:天文21年12月日付三好長慶禁制(「東寺百合文書」ヤ函195 東寺百合文書WEB)

天文22年 1553年 7月30日 
足利義藤が北山(山城国)より北野社右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の上野信孝と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。
三好長慶が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、東寺にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月7日 
三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月21日 
東寺塔造営の奉加を募るため、東寺にて空海着用の袈裟・念珠・脇息・剃刀箱・水瓶を出展する。山科言継が空海の遺品を見物するべく東寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 11月22日 
東寺塔の作事始めとして儀式を執り行う。
出典:『言継卿記』同年月24日条

永禄8年 1565年 12月20日 
東寺の本願 賢広が山科言継のもとを訪れ雑談する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月21日 
山科言継一条内基を訪れ、東寺本願 賢広から依頼のあった土佐国での勧進裁許を申請する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄13年 1570年 3月21日 
東寺にて御影供が行われ京都の老若が群参する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 3月21日 
中御門の誘いのにより山科言継、勧修寺頭弁、薄が東寺御影供に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正11年 1583年 3月21日 
東寺にて弘法大師750年忌として曼荼羅供が行われる。
出典:『御湯殿上の日記』同年月日条

天正19年 1591年 11月14日 
豊臣秀吉より東寺の造営奉行を命じられた応其が東寺の塔を再興。一重分ができる。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月29日 
大仏殿の瓦下地が完成し、瓦葺きを開始する。西洞院時慶が東寺再興と大仏殿造営の順調な進捗をみて「雖末世奇特ノ事共也、大閤御威光又木食興山上人生相不思儀ノ事也、」と豊臣秀吉応其を評する。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月14日 
勅勘により近衛信尹が薩摩国に配流となったことを受け、この日、信尹は京都を出立する。東寺まで島津忠恒が送り、同寺にて細川幽斎と会う。
出典:『三藐院記』同年月日条

文禄3年 1594年 7月16日 
三宝院義演東寺長者に補任される。
出典:『義演准后日記』文禄5年1月27日条

文禄3年 1594年 7月22日 
大政所(豊臣秀吉の母・なか)が大檀那となり、応其が作事奉行をつとめた東寺塔婆の完成につき塔供養を行う。導師は三宝院義演
出典:『義演准后日記』文禄5年閏7月13日条

文禄5年 1596年 閏7月9日 
方廣寺大仏の開眼供養開催につき、三宝院義演東寺および応其より呪願の勤仕を依頼されたため、請ける旨を前田玄以に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月13日 
大地震につき食堂・食堂中門・講堂・灌頂院・南大門・北八足門・東小門・鐘楼が転倒、四方の築地はすべて倒壊する。塔婆・鎮守八幡宮・御影堂・御影堂四足門・御影堂唐門・灌頂院の門2宇・慶賀門・宝蔵・不開門は損害なし。ただし、御影堂・御供所は少々ゆがむ。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 8月30日 
応其東寺伽藍復興のための材木を確保するよう高野衆に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 2月26日 
東寺五重塔に落雷。心柱が燃える。応其高野山法師ら大仏殿より駆けつけ鎮火する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 5月17日 
高台院の命による東寺(山城国)の金堂建立につき、地割がなる。奉行は応其
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 6月1日 
高台院の命による石山寺(近江国)の観音堂修復につき、岩間の山木を伐採する。奉行は応其
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月13日 
豊臣秀吉追善のため、大仏殿の坊舎にて、応其三宝院義演より結縁灌頂を授かる。東寺の寺僧が残らず出仕したという。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条条

慶長7年 1602年 3月15日 
文珠院勢誉東寺金堂建立の奉行となる。この日、釿始が行われる。
出典:『義演准后日記』同年月19日条条

慶長7年 1602年 4月4日 
三宝院義演東寺金堂建立中の文珠院勢誉のもとに見舞いとして杉原10帖、扇を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 6月29日 
三宝院義演が金堂の作事を見物する。下重軒が完成し、上重組物の用意をしている状況。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 8月29日 
東寺金堂の建立は豊臣秀頼によるとされる。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 10月11日 
文珠院勢誉三宝院義演に、豊臣秀頼より東寺金堂の本尊新造が命じられたことを伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 10月16日 
遍照院覚栄東寺金堂の本尊新造につき、大仏師・康正、康猶をともない三宝院義演のもとを訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長9年 1604年 -月-日 
遍照院覚栄東寺南大門の奉行をつとめる。
出典:『義演准后日記』慶長10年2月5日条

慶長10年 1605年 4月20日 
東寺南大門完成につき、本願である文珠院勢誉が棟札の板を三宝院義演に進上し、棟札の文章の執筆を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

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