歴史の目的をめぐって

   地 名 の 歴 史

坂本(近江国) さかもと
初 見-
近江国
志賀郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院常在寺
城 郭坂本城、宇佐山城
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
坂本(近江国) 年表
和暦 西暦 事項 出典
建武3年1336110後醍醐天皇が東坂本(近江国)に行幸する。『大乗院日記目録』同年月日条
明応7年1498826六角氏が芦浦観音寺に毎月の代参と坂本(近江国)への御用を命じるにつき、芦浦観音寺へ諸関奉行・志那渡宛の過書を発給する。明応7年8月26日付六角氏奉行人連署奉書「芦浦観音寺文書」
明応8年14991122坂本(近江国)にて足利義尹と六角高頼が戦い、高頼が勝利する。『厳助往年記』同年月日条
永正17年1520428細川高国坂本(近江国)に着陣する。『厳助往年記』同年月日条
大永7年1527214足利義晴細川道永・武田元光が坂本(近江国)に退く。『北野社家日記』同年月日条
大永7年1527919足利義晴細川道永が長光寺(近江国)より坂本(近江国)及び金宝寺に陣取る。『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条
大永8年1528528足利義晴六角定頼坂本(近江国)に撤退し、石山寺に陣取る。『厳助大僧正記』同年月日条
天文2年153372飛鳥井雅綱山科言継等が尾張国に下向するため京都を出立し坂本(近江国)の善養坊に到着する。『言継卿記』同年月日条
天文2年1533824山科言継と言継と同道している飛鳥井雅綱が朝、八時前に朝妻(近江国)を発ち、七時分、坂本(近江国)の濱の坂井源三右衛門の所に到着する。出発時、勝幡(尾張国)よりの輿舁を帰す。
言継のもとへ坂本の大蓮坊、善養坊、仏頂坊が訪れる。
『言継卿記』同年月日条
天文3年1534629足利義晴坂本(近江国)に移る。『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)
天文3年153475足利義晴坂本(近江国)にて、北野社松梅院禅光、御霊社別当、本能寺と対面する。『北野社家日記』同年月日条
天文3年153493足利義晴が軍勢2000を率い坂本(近江国)より上洛する。南禅寺に入る。先駆けは蜷川、大舘晴光・上野与三郎・佐々木治部少輔・一色式部少輔・力阿弥、伊勢貞孝六角義賢が随従する。義賢は若王子に寄宿する。『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)
天文8年1539224延暦寺東塔・西塔より、坂本関・四屋関が勝手な行いをするため、関所の徴収者を小唐崎に変更したので、東国・北国から大坂本願寺にやってくる門徒衆にその旨を知らせるようにと通知がくる。『天文日記』同年月日条
天文8年1539813三好利長(長慶)三好政長の対立のことにつき、六角定頼坂本(近江国)に赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539814細川元常坂本(近江国)に下向する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539823坂本(近江国)に滞在中の六角定頼より伊勢貞孝のもとへ馬、太刀、10荷10合が贈られる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542316万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴くべく、京都(山城国)を出発する。『惟房公記』同年月日条
天文11年1542317万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴く。申次は朽木稙綱『惟房公記』同年月日条
天文11年1542327細川晴元が京都より足利義晴の居る坂本(近江国)に赴く。『惟房公記』同年月28日条
天文11年1542328足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
天文11年1542閏311足利義晴六角定頼坂本(近江国)滞在時の支援を謝すべく御内書を発給するにあたり、案文の作成を大舘常興に命じる。常興より案文2案が提出される。『大舘常興日記』同年月日条
天文15年15461216聖護院道増足利義藤の元服に参列すべく、坂本(近江国)に到着する。『光源院殿御元服記』(『群書類従』)
天文15年15461216近衛稙家足利義藤の元服に参列すべく、坂本(近江国)に到着する。『光源院殿御元服記』(『群書類従』)
天文15年15461218足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸での元服につき、加冠役の六角定頼より迎えの軍勢が義藤のいる東山慈照寺にやってくる。義藤は巳刻(9-11時)に慈照寺を出発し、浄土寺、若王子、南禅寺、粟田口、日岡、花山、小山、大津を経由し坂本(近江国)に入る。坂本にて定頼・義賢父子が門外にて迎える。『厳助往年記』同年月日条
天文15年15461219足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。
足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。
義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。
『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』)
天文16年1547719細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」
天文16年1547729足利義藤細川晴元六角定頼義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。
晴元・定頼間で諸事協議がなされる。
『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条
天文17年154867足利義晴義藤父子が坂本(近江国)より上洛する。『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」
天文18年1549426筒井順昭が坂本(近江国)に赴く。道心と名乗り、延暦寺に赴く。『多聞院日記』同年5月6・18日条
天文18年1549628足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」
天文19年1550511細川晴元六角義賢の諫言により足利義藤が比叡辻(近江国)宝泉寺に移る。『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」
天文19年155078細川晴元坂本(近江国)より馬廻衆らを吉田・浄土寺・北白川(山城国)に出撃させる。『言継卿記』同年月日条
天文19年15501121足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。『言継卿記』同年月日条
天文20年1551222近江国内で六角定頼に反抗する勢力の蜂起があったため、細川晴元坂本(近江国)から対岸に渡航する。『言継卿記』同年月日条
天文21年1552120京において足利義藤が23日に坂本(近江国)から上洛するのではないかと噂される。『言継卿記』同年月日条
天文21年1552103三好長慶が西岡・三鈷寺・灰方・良峯・岩倉(以上、山城国)・坂本(近江国)などを焼き討ちする。『言継卿記』同年月日条
永禄1年155853足利義輝が軍勢3000余を率い和邇(近江国)より坂本(近江国)の石河の本誓寺に入る。上醍醐に義輝の陣が置かれるのではと噂される。『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月条、『惟房公記』同年月日条
永禄1年155862三好長慶が勝軍地蔵に城を築き軍勢を布陣させる。4日に足利義輝が坂本(近江国)より入洛するとの風聞をうけての処置という。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄1年155867三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄2年1559421足利義輝が、坂本(近江国)に到着した長尾景虎に早く上洛するようにと伝える。(永禄2年)4月21日付足利義輝御内書(「上杉家文書」『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』-165号)
永禄9年1566326今村慶満が木幡・大津坂本の関所を押領していることについて山科言継三好長逸三好康長に訴える。『言継卿記』同年3/27条
永禄9年15661221三好長逸三好宗渭六角義賢勢と談合のため坂本(近江国)に赴く。『言継卿記』同年月日条
永禄11年1568910織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。『言継卿記』同年月日条
永禄13年1570230申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条
永禄13年1570319興福寺の多聞院英俊が鞍馬寺に参詣する。その後、英俊は比叡山に上る。横川に赴く。西方院にて茶を飲む。大講堂の釈迦如来、普賢堂に赴き、普賢堂では最澄、慈恵の影像を拝す。その後、根本中堂に訪れるも本尊は拝すことができず。なお、延暦寺は「堂モ坊舎ヲ一円ハテキレタル躰」だったという。また僧衆は「大旨坂本ニ下テ乱行不法無限」というありあさまで、それは「修学懈怠」のためえだるという。また、英俊は日吉社を参詣する。「社壇ノ結構」は目を驚かすものであったが、参詣者は稀で、社人・社僧も見当たらないありさまであったという。
ついで、英俊は坂本(近江国)を訪れる。坂本は「家々数多繁昌」に見えたという。小唐崎の「イセ屋」に英俊は宿泊する。
『多聞院日記』同年月日条
永禄13年1570420織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条
永禄13年1570421織田信長が田中城(近江国)に到着する。『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
永禄13年1570422織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年1570423織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年1570425織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項
元亀1年1570426金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」
元亀1年1570429織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。『言継卿記』同年月日条
元亀1年1570430越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条
元亀1年157059織田信長坂本(近江国)に下向する。
宇佐山城(近江国)に森可成を置く。
『多聞院日記』同年月11日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『継芥記』同年月日条、『当代記』同年月日条
元亀1年1570916浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
元亀1年1570919浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
元亀1年1570924織田信長本能寺より出陣し、逢坂を越え下坂本(近江国)に布陣する朝倉景健勢に攻めかかる。浅井長政・朝倉景健の軍勢は延暦寺に陣取る。これをうけ、信長は延暦寺に稲葉良通を遣わし、延暦寺に朝倉勢の引き渡しを求め、引き渡しに応じたならば延暦寺領を還付するよう伝えるが延暦寺は信長の要求を拒否する。信長は下坂本(近江国)に布陣する。『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
元亀1年1570925織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正川尻秀隆佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家氏家卜全安藤守就稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
元亀2年1571912織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条
元亀3年1572119坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が年頭の礼として訪れる。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年1572閏16坂本(近江国)にて普請中の明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。兼見は光秀に3荷両種を贈る。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年1572225坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年157265坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼右が訪れる。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年15721126細川藤孝が吉田兼見のもとを訪れる。その後、坂本(近江国)に向かう。
藤孝が吉田兼右の堂上免許を足利義昭に取り次ぎ免許を得る。
『兼見卿記』同年月日条
元亀3年15721224吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを見舞いとして訪れる。杉原10帖、包丁刀1が贈られる。兼見は坂本城(近江国)の天守の作事の見事さに驚嘆する。『兼見卿記』同年月日条
元亀4年1573628吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを見舞いとして訪れる。兼見は光秀に果李の文台、東門30を贈る。里村昌叱、兼見とで歌仙連歌を催す。『兼見卿記』同年月日条
元亀4年157377午刻(11-13時)、織田信長坂本(近江国)に着陣する。『兼見卿記』同年月日条
天正2年1574317織田信長が志那(近江国)より坂本(近江国)に渡湖する。『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」
天正3年1575524坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は薫衣香10袋を贈る。光秀は兼見に武田家を悉く討ち果たしたと記されている織田信長からの折紙(書状)を見せる。『兼見卿記』同年月日条
天正3年1575626織田信長佐和山城(近江国)にて休息する。早船に乗り、坂本(近江国)に到着する。『信長公記』巻8(5)「山中の猿御憐愍の事」
天正4年1576121坂本城(近江国)に帰陣するため京都に入る。白川(山城国)を通過中、吉田兼見が訪れる。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576216坂本城(近江国)にいた明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いに訪れる。面会し夕食をともにする。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576714坂本城(近江国)に在城中の明智光秀を吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は光秀に帷(越後布)1端を贈る。兼見と面会する。『兼見卿記』同年月日条
天正6年157897坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。連歌が行われる。『兼見卿記』同年月日条
天正6年1578911坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が礼として訪れる。兼見は光秀に菓子を贈る。光秀が兼見所有の茶碗を所望し、兼見より茶碗を譲り受ける。『兼見卿記』同年月日条
天正6年1578106織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。京都から坂本(近江国)を経由し船にて安土城(近江国)に帰城する。『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」
天正7年1579117吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとへ礼として訪れる。面会する。兼見は光秀に100疋を贈る。夕食をともにする。『兼見卿記』同年月日条
天正7年1579228明智光秀が亀山(丹波国)に向かうべく坂本(近江国)を出陣する。出陣準備中に吉田兼見が訪れる。『兼見卿記』同年月日条
天正7年157953早朝、織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。山中より坂本(近江国)を経由し、船にて安土城に帰城する。『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」
天正8年1580821明智光秀坂本城(近江国)に帰るべく大和国と発つ。『多聞院日記』同年月日条
天正8年15801219筒井順慶坂本城(近江国)にいる明智光秀のもとに向かう。『多聞院日記』同年月20日条
天正10年158263明智光秀坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。『多聞院日記』同年月日条
天正10年1582613山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」
天正11年1583524夜、筒井順慶坂本(近江国)にいる羽柴秀吉を見舞うため大和国を発つ。『多聞院日記』同年月日条
天正11年1583526大乗院尋憲から多聞院英俊への書状に、羽柴秀吉のいる坂本城(近江国)に、礼に訪れる諸国の大小名の数が多いと記される。『多聞院日記』同年月日条
天正11年1583527青蓮院尊朝羽柴秀吉に会うため坂本(近江国)に向かう。秀吉に緞子1端、一柳直次に30疋、杉原家次に10疋を贈る。『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)
天正11年1583528青蓮院尊朝坂本(近江国)から志賀(近江国)を経て山越に帰京する。『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)
天正12年15842-羽柴秀吉坂本(近江国)に移る。『宇野主水記』同年月日条
天正12年158479羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。
分部光嘉より織田信雄の軍勢が神戸(伊勢国)に攻め入ったとの報を受けた秀吉は、神戸に軍勢を送るとともに、織田信包へのその旨を周知するように光嘉に伝える。
『宇野主水記』同年月日条
天正12年15849羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。『宇野主水記』同年月日条
天正12年15841020羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。『宇野主水記』同年月日条
天正12年15841024青蓮院尊朝坂本(近江国)の亮信の宿所を訪れ3種3荷を贈る。『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)
天正12年15841117羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158537羽柴秀吉坂本(近江国)に下向する。『兼見卿記』同年月日条
天正13年158588巳刻(9-11時)、佐々成政の対治として、羽柴秀吉が軍勢8000ばかりを率い京を発す。秀吉は坂本(近江国)に着陣する。『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条
天正13年158589羽柴秀吉が、朝早くに坂本(近江国)を出発し、高島(近江国)に着陣する。『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条
天正13年1585閏817羽柴秀吉坂本(近江国)に着陣する。『兼見卿記』同年月日条
天正14年1586128浅野長晟が近江国滋賀郡坂本にて生まれる。-
天正14年158667上杉景勝が大溝(近江国)を出立し、坂本(近江国)に宿泊予定のところ、石田三成の勧めにより、逢坂を越え京都の本圀寺に宿泊する。天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)
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