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事項 |
出典 |
建武3年 | 1336 | 1 | 10 | 後醍醐天皇が東坂本(近江国)に行幸する。 | 『大乗院日記目録』同年月日条 |
明応7年 | 1498 | 8 | 26 | 六角氏が芦浦観音寺に毎月の代参と坂本(近江国)への御用を命じるにつき、芦浦観音寺へ諸関奉行・志那渡宛の過書を発給する。 | 明応7年8月26日付六角氏奉行人連署奉書「芦浦観音寺文書」 |
明応8年 | 1499 | 11 | 22 | 坂本(近江国)にて足利義尹と六角高頼が戦い、高頼が勝利する。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
永正17年 | 1520 | 4 | 28 | 細川高国が坂本(近江国)に着陣する。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
大永7年 | 1527 | 2 | 14 | 足利義晴・細川道永・武田元光が坂本(近江国)に退く。 | 『北野社家日記』同年月日条 |
大永7年 | 1527 | 9 | 19 | 足利義晴、細川道永が長光寺(近江国)より坂本(近江国)及び金宝寺に陣取る。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条 |
大永8年 | 1528 | 5 | 28 | 足利義晴、六角定頼が坂本(近江国)に撤退し、石山寺に陣取る。 | 『厳助大僧正記』同年月日条 |
天文2年 | 1533 | 7 | 2 | 飛鳥井雅綱、山科言継等が尾張国に下向するため京都を出立し坂本(近江国)の善養坊に到着する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文2年 | 1533 | 8 | 24 | 山科言継と言継と同道している飛鳥井雅綱が朝、八時前に朝妻(近江国)を発ち、七時分、坂本(近江国)の濱の坂井源三右衛門の所に到着する。出発時、勝幡(尾張国)よりの輿舁を帰す。 言継のもとへ坂本の大蓮坊、善養坊、仏頂坊が訪れる。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文3年 | 1534 | 6 | 29 | 足利義晴が坂本(近江国)に移る。 | 『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号) |
天文3年 | 1534 | 7 | 5 | 足利義晴が坂本(近江国)にて、北野社松梅院禅光、御霊社別当、本能寺と対面する。 | 『北野社家日記』同年月日条 |
天文3年 | 1534 | 9 | 3 | 足利義晴が軍勢2000を率い坂本(近江国)より上洛する。南禅寺に入る。先駆けは蜷川、大舘晴光・上野与三郎・佐々木治部少輔・一色式部少輔・力阿弥、伊勢貞孝、六角義賢が随従する。義賢は若王子に寄宿する。 | 『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号) |
天文8年 | 1539 | 2 | 24 | 延暦寺東塔・西塔より、坂本関・四屋関が勝手な行いをするため、関所の徴収者を小唐崎に変更したので、東国・北国から大坂本願寺にやってくる門徒衆にその旨を知らせるようにと通知がくる。 | 『天文日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 8 | 13 | 三好利長(長慶)と三好政長の対立のことにつき、六角定頼が坂本(近江国)に赴く。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 8 | 14 | 細川元常が坂本(近江国)に下向する。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 8 | 23 | 坂本(近江国)に滞在中の六角定頼より伊勢貞孝のもとへ馬、太刀、10荷10合が贈られる。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 16 | 万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴くべく、京都(山城国)を出発する。 | 『惟房公記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 17 | 万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴く。申次は朽木稙綱。 | 『惟房公記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 27 | 細川晴元が京都より足利義晴の居る坂本(近江国)に赴く。 | 『惟房公記』同年月28日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 28 | 足利義晴・菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。 細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 閏3 | 11 | 足利義晴が六角定頼へ坂本(近江国)滞在時の支援を謝すべく御内書を発給するにあたり、案文の作成を大舘常興に命じる。常興より案文2案が提出される。 | 『大舘常興日記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 12 | 16 | 聖護院道増が足利義藤の元服に参列すべく、坂本(近江国)に到着する。 | 『光源院殿御元服記』(『群書類従』) |
天文15年 | 1546 | 12 | 16 | 近衛稙家が足利義藤の元服に参列すべく、坂本(近江国)に到着する。 | 『光源院殿御元服記』(『群書類従』) |
天文15年 | 1546 | 12 | 18 | 足利義藤の坂本(近江国)の樹下成保邸での元服につき、加冠役の六角定頼より迎えの軍勢が義藤のいる東山慈照寺にやってくる。義藤は巳刻(9-11時)に慈照寺を出発し、浄土寺、若王子、南禅寺、粟田口、日岡、花山、小山、大津を経由し坂本(近江国)に入る。坂本にて定頼・義賢父子が門外にて迎える。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 12 | 19 | 足利義藤が坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀・飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。 足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。 義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。 | 『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』) |
天文16年 | 1547 | 7 | 19 | 細川晴元・六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴・義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。 | 『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」 |
天文16年 | 1547 | 7 | 29 | 足利義藤が細川晴元・六角定頼・義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。 晴元・定頼間で諸事協議がなされる。 | 『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条 |
天文17年 | 1548 | 6 | 7 | 足利義晴・義藤父子が坂本(近江国)より上洛する。 | 『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」 |
天文18年 | 1549 | 4 | 26 | 筒井順昭が坂本(近江国)に赴く。道心と名乗り、延暦寺に赴く。 | 『多聞院日記』同年5月6・18日条 |
天文18年 | 1549 | 6 | 28 | 足利義晴・義藤父子、細川晴元が東坂本(近江国)の常在寺に移る。 | 『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」 |
天文19年 | 1550 | 5 | 11 | 細川晴元、六角義賢の諫言により足利義藤が比叡辻(近江国)宝泉寺に移る。 | 『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」 |
天文19年 | 1550 | 7 | 8 | 細川晴元が坂本(近江国)より馬廻衆らを吉田・浄土寺・北白川(山城国)に出撃させる。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 21 | 足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元は坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 | 1551 | 2 | 22 | 近江国内で六角定頼に反抗する勢力の蜂起があったため、細川晴元が坂本(近江国)から対岸に渡航する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 | 1552 | 1 | 20 | 京において足利義藤が23日に坂本(近江国)から上洛するのではないかと噂される。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 | 1552 | 10 | 3 | 三好長慶が西岡・三鈷寺・灰方・良峯・岩倉(以上、山城国)・坂本(近江国)などを焼き討ちする。 | 『言継卿記』同年月日条 |
永禄1年 | 1558 | 5 | 3 | 足利義輝が軍勢3000余を率い和邇(近江国)より坂本(近江国)の石河の本誓寺に入る。上醍醐に義輝の陣が置かれるのではと噂される。 | 『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月条、『惟房公記』同年月日条 |
永禄1年 | 1558 | 6 | 2 | 三好長慶が勝軍地蔵に城を築き軍勢を布陣させる。4日に足利義輝が坂本(近江国)より入洛するとの風聞をうけての処置という。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条 |
永禄1年 | 1558 | 6 | 7 | 三好長慶が坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸・池田長正・伊丹親興・松永久秀・松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。 足利義輝・細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝・寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺・四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条 |
永禄2年 | 1559 | 4 | 21 | 足利義輝が、坂本(近江国)に到着した長尾景虎に早く上洛するようにと伝える。 | (永禄2年)4月21日付足利義輝御内書(「上杉家文書」『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』-165号) |
永禄9年 | 1566 | 3 | 26 | 今村慶満が木幡・大津・坂本の関所を押領していることについて山科言継が三好長逸・三好康長に訴える。 | 『言継卿記』同年3/27条 |
永禄9年 | 1566 | 12 | 21 | 三好長逸、三好宗渭が六角義賢勢と談合のため坂本(近江国)に赴く。 | 『言継卿記』同年月日条 |
永禄11年 | 1568 | 9 | 10 | 織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。 | 『言継卿記』同年月日条 |
永禄13年 | 1570 | 2 | 30 | 申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京・下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。 | 『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条 |
永禄13年 | 1570 | 3 | 19 | 興福寺の多聞院英俊が鞍馬寺に参詣する。その後、英俊は比叡山に上る。横川に赴く。西方院にて茶を飲む。大講堂の釈迦如来、普賢堂に赴き、普賢堂では最澄、慈恵の影像を拝す。その後、根本中堂に訪れるも本尊は拝すことができず。なお、延暦寺は「堂モ坊舎ヲ一円ハテキレタル躰」だったという。また僧衆は「大旨坂本ニ下テ乱行不法無限」というありあさまで、それは「修学懈怠」のためえだるという。また、英俊は日吉社を参詣する。「社壇ノ結構」は目を驚かすものであったが、参詣者は稀で、社人・社僧も見当たらないありさまであったという。 ついで、英俊は坂本(近江国)を訪れる。坂本は「家々数多繁昌」に見えたという。小唐崎の「イセ屋」に英俊は宿泊する。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
永禄13年 | 1570 | 4 | 20 | 織田信長が朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵、松永久秀、池田勝正(軍勢3000)が従軍する。 | 『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条 |
永禄13年 | 1570 | 4 | 21 | 織田信長が田中城(近江国)に到着する。 | 『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」 |
永禄13年 | 1570 | 4 | 22 | 織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。 | 『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」 |
元亀1年 | 1570 | 4 | 23 | 織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。 | 『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」 |
元亀1年 | 1570 | 4 | 25 | 織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。 | 『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項 |
元亀1年 | 1570 | 4 | 26 | 金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒が織田信長に降伏する。 | 『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」 |
元亀1年 | 1570 | 4 | 29 | 織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
元亀1年 | 1570 | 4 | 30 | 越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。 | 『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条 |
元亀1年 | 1570 | 5 | 9 | 織田信長が坂本(近江国)に下向する。 宇佐山城(近江国)に森可成を置く。 | 『多聞院日記』同年月11日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『継芥記』同年月日条、『当代記』同年月日条 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 16 | 浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。 | 『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 19 | 浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。 | 『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 24 | 織田信長が本能寺より出陣し、逢坂を越え下坂本(近江国)に布陣する朝倉景健勢に攻めかかる。浅井長政・朝倉景健の軍勢は延暦寺に陣取る。これをうけ、信長は延暦寺に稲葉良通を遣わし、延暦寺に朝倉勢の引き渡しを求め、引き渡しに応じたならば延暦寺領を還付するよう伝えるが延暦寺は信長の要求を拒否する。信長は下坂本(近江国)に布陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 25 | 織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治、丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正、川尻秀隆、佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝、佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家、氏家卜全、安藤守就、稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。 | 『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」 |
元亀2年 | 1571 | 9 | 12 | 織田信長が延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。 | 『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 1 | 19 | 坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が年頭の礼として訪れる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 閏1 | 6 | 坂本(近江国)にて普請中の明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。兼見は光秀に3荷両種を贈る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 2 | 25 | 坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 6 | 5 | 坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼右が訪れる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 11 | 26 | 細川藤孝が吉田兼見のもとを訪れる。その後、坂本(近江国)に向かう。 藤孝が吉田兼右の堂上免許を足利義昭に取り次ぎ免許を得る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 12 | 24 | 吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを見舞いとして訪れる。杉原10帖、包丁刀1が贈られる。兼見は坂本城(近江国)の天守の作事の見事さに驚嘆する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 6 | 28 | 吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを見舞いとして訪れる。兼見は光秀に果李の文台、東門30を贈る。里村昌叱、兼見とで歌仙連歌を催す。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 7 | 午刻(11-13時)、織田信長が坂本(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正2年 | 1574 | 3 | 17 | 織田信長が志那(近江国)より坂本(近江国)に渡湖する。 | 『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」 |
天正3年 | 1575 | 5 | 24 | 坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は薫衣香10袋を贈る。光秀は兼見に武田家を悉く討ち果たしたと記されている織田信長からの折紙(書状)を見せる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正3年 | 1575 | 6 | 26 | 織田信長が佐和山城(近江国)にて休息する。早船に乗り、坂本(近江国)に到着する。 | 『信長公記』巻8(5)「山中の猿御憐愍の事」 |
天正4年 | 1576 | 1 | 21 | 坂本城(近江国)に帰陣するため京都に入る。白川(山城国)を通過中、吉田兼見が訪れる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 2 | 16 | 坂本城(近江国)にいた明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いに訪れる。面会し夕食をともにする。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 7 | 14 | 坂本城(近江国)に在城中の明智光秀を吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は光秀に帷(越後布)1端を贈る。兼見と面会する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 9 | 7 | 坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。連歌が行われる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 9 | 11 | 坂本(近江国)にいる明智光秀のもとに吉田兼見が礼として訪れる。兼見は光秀に菓子を贈る。光秀が兼見所有の茶碗を所望し、兼見より茶碗を譲り受ける。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 10 | 6 | 織田信長が安土城(近江国)に向けて京都を発つ。京都から坂本(近江国)を経由し船にて安土城(近江国)に帰城する。 | 『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」 |
天正7年 | 1579 | 1 | 17 | 吉田兼見が坂本(近江国)にいる明智光秀のもとへ礼として訪れる。面会する。兼見は光秀に100疋を贈る。夕食をともにする。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正7年 | 1579 | 2 | 28 | 明智光秀が亀山(丹波国)に向かうべく坂本(近江国)を出陣する。出陣準備中に吉田兼見が訪れる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正7年 | 1579 | 5 | 3 | 早朝、織田信長が安土城(近江国)に向けて京都を発つ。山中より坂本(近江国)を経由し、船にて安土城に帰城する。 | 『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」 |
天正8年 | 1580 | 8 | 21 | 明智光秀が坂本城(近江国)に帰るべく大和国と発つ。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正8年 | 1580 | 12 | 19 | 筒井順慶が坂本城(近江国)にいる明智光秀のもとに向かう。 | 『多聞院日記』同年月20日条 |
天正10年 | 1582 | 6 | 3 | 明智光秀が坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 | 1582 | 6 | 13 | 山崎(山城国)にて織田信孝・羽柴秀吉と明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。 織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友、中川清秀、堀秀政、池田恒興、羽柴秀長、黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰、木村重茲、中村一氏、加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。 明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗、伊勢貞興(戦死)、安田国継。 敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。 秀吉は勝龍寺城に入城する。 | 『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」 |
天正11年 | 1583 | 5 | 24 | 夜、筒井順慶が坂本(近江国)にいる羽柴秀吉を見舞うため大和国を発つ。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 | 1583 | 5 | 26 | 大乗院尋憲から多聞院英俊への書状に、羽柴秀吉のいる坂本城(近江国)に、礼に訪れる諸国の大小名の数が多いと記される。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 | 1583 | 5 | 27 | 青蓮院尊朝が羽柴秀吉に会うため坂本(近江国)に向かう。秀吉に緞子1端、一柳直次に30疋、杉原家次に10疋を贈る。 | 『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正11年 | 1583 | 5 | 28 | 青蓮院尊朝が坂本(近江国)から志賀(近江国)を経て山越に帰京する。 | 『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正12年 | 1584 | 2 | - | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に移る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正12年 | 1584 | 7 | 9 | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に到着する。 分部光嘉より織田信雄の軍勢が神戸(伊勢国)に攻め入ったとの報を受けた秀吉は、神戸に軍勢を送るとともに、織田信包へのその旨を周知するように光嘉に伝える。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正12年 | 1584 | 9 | 晦 | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に到着する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正12年 | 1584 | 10 | 20 | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に到着する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正12年 | 1584 | 10 | 24 | 青蓮院尊朝が坂本(近江国)の亮信の宿所を訪れ3種3荷を贈る。 | 『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正12年 | 1584 | 11 | 17 | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に到着する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 3 | 7 | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に下向する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 8 | 8 | 巳刻(9-11時)、佐々成政の対治として、羽柴秀吉が軍勢8000ばかりを率い京を発す。秀吉は坂本(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 8 | 9 | 羽柴秀吉が、朝早くに坂本(近江国)を出発し、高島(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 閏8 | 17 | 羽柴秀吉が坂本(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 1 | 28 | 浅野長晟が近江国滋賀郡坂本にて生まれる。 | - |
天正14年 | 1586 | 6 | 7 | 上杉景勝が大溝(近江国)を出立し、坂本(近江国)に宿泊予定のところ、石田三成の勧めにより、逢坂を越え京都の本圀寺に宿泊する。 | 天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号) |