人 物 史

足利義澄 あしかが よしずみ
生 没 年文明12年(1480)12/15-永正8年(1511)8/14
出 身-幼 名-
別 称義遐、義高、阿波御所
法 名清晃
戒 名法住院殿旭山道晃
足利政知円満院(武者小路隆光の娘)
兄 弟 姉 妹足利茶々丸、足利義澄、足利潤童子
配 偶 者阿子(日野永俊の娘)
足利義晴足利義維
官 位左馬頭、左近衛中将
役 職室町幕府 征夷大将軍
城 郭-
参 考 文 献足利義澄に関する参考文献
関 連 デ ー タ足利義澄の関連文化財
足利義澄 年表
文明12年 1480年 12月15日 1歳
足利義澄が生まれる。
出典:-

長享1年 1487年 7月20日 8歳
「文明」より「長享」に年号が改まる。
出典:-

延徳1年 1489年 8月21日 10歳
「長享」より「延徳」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 13歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

明応3年 1494年 12月27日 15歳
足利義澄が元服する。義澄が征夷大将軍となる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

文亀1年 1501年 2月29日 22歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 25歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正4年 1507年 5月6日 28歳
足利義澄相国寺にて鹿苑院(足利義満)の100年忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

永正5年 1508年 4月15日 29歳
夜、足利義澄が近江国に逃亡する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 6月8日 29歳
足利義尹が上洛し吉良邸に入る。大内義興が供をする。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 7月1日 29歳
足利義尹が正三位となり、征夷大将軍に再任される。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正6年 1509年 10月26日 30歳
夜、足利義尹が足利義澄の刺客に襲われ負傷する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正6年 1509年 -月-日 30歳
子・義維が生まれる。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

永正8年 1511年 8月14日 32歳
足利義澄が死去する。位牌が相国寺法住院に安置される。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

大永3年 1523年 8月14日 
足利義晴法住院(足利義澄)の13回忌法要を相国寺法住院にて修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

大永7年 1527年 9月17日 
三好元長伊丹城(摂津国)を攻める。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月13日 
足利義晴細川道永が軍勢20000-30000を率い坂本(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、六角定頼率いる軍勢20000(30000とも)が東福寺に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が下京四条に布陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月25日 
足利義晴東寺法輪院に、細川道永が吉祥寺(山城国)に陣替えする。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

享禄2年 1529年 8月10日 
三好元長が阿波国に帰国する。
出典:『細川両家記』

享禄3年 1530年 8月27日 
細川道永が神咒寺(摂津国)に陣取る。道永に対応すべく、細川晴元高畠長直伊丹城(摂津国)に、池田信正を池田城(摂津国)に、薬師寺国盛を富松城(摂津国)に入れ置く。
出典:『細川両家記』

享禄3年 1530年 9月21日 
細川道永が薬師寺国盛の籠る富松城(摂津国)を攻め落とす。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「細川常桓頼浦上則宗付摂州伊丹富松大物合戦之事」

享禄3年 1530年 10月19日 
富松南(摂津国)にて細川道永高畠長直が戦い、道永が勝利する。道永は富松城(摂津国)に陣取る。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「細川常桓頼浦上則宗付摂州伊丹富松大物合戦之事」

享禄3年 1530年 11月6日 
薬師寺国盛が細川道永に寝返る。道永は細川晴元被官の山中遠江守・瓦林左衛門尉の守る大物(摂津国)を攻め、同所を落とす。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「細川常桓頼浦上則宗付摂州伊丹富松大物合戦之事」

享禄4年 1531年 2月21日 
細川晴元の要請により三好元長に到着する。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 2月28日 
細川道永伊丹城(摂津国)を攻める。道永の攻撃に耐えられなくなった高畠長直が、城を道永に明け渡し池田城(摂津国)に移る。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 3月6日 
細川道永池田城(摂津国)を攻め落とす。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 3月10日 
細川道永にいる足利義澄・細川晴元を攻めるべく淀川を越え、中島(摂津国)に陣取る。先陣を住吉のこまつに陣取らせるが、より出撃した晴元勢に敗れる。諸勢は天王寺、今宮、木津、難波に、道永は中島の内の浦井に、浦上村宗は野田・福島(摂津国)に陣取る。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 3月25日 
細川政之が兵8000を率いに到着する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月5日 
尼崎(摂津国)にいた細川道永を三好一秀が捕縛する。一秀より細川晴元に捕縛の報告があり、晴元は切腹させるように命じる。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 6月6日 
細川道永が大物(摂津国)の広徳寺にて切腹する。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 3月5日 
細川晴元三好元長を成敗するため軍勢催促状を発給する。
出典:(享禄5年)3月5日付細川晴元書状(「末吉文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考13号)

享禄5年 1532年 6月20日 
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

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