人 物 史

武田勝頼 たけだ かつより
生 没 年天文15年(1546)-天正10年(1582)3/11
出 身-幼 名-
別 称四郎、諏訪勝頼、伊那勝頼
法 名-
戒 名景徳院殿頼山勝公大居士
武田信玄諏訪御料人(諏訪頼重の娘)
兄 弟 姉 妹武田義信、海野信親、武田信之、武田勝頼、仁科盛信、葛山信貞、武田信清、松姫、菊姫
配 偶 者龍勝院(遠山直廉の娘)、北条夫人(北条氏康の娘)
武田信勝、武田勝親
官 位大膳大夫
役 職信濃国守護
城 郭高遠城(信濃国)、躑躅ヶ崎館(甲斐国)、新府城(甲斐国)
参 考 文 献武田勝頼に関する参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ武田勝頼の関連文化財
武田勝頼の家臣
史料にみえる武田勝頼の呼称
武田勝頼 年表
天文15年 1546年 -月-日 1歳
武田勝頼が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 10歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 13歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 9月9日 20歳
織田信長武田信玄に使者を送り娘と信玄の子・勝頼との婚姻を提案する。信玄は婚姻を承諾する。
出典:『享禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)

永禄12年 1569年 10月4日 24歳
武田信玄北条氏康北条氏政父子の籠る小田原城(相模国)の攻略を諦め、同地より撤退する。
出典:(永禄12年)10月16日付北条氏康書状(『上杉家文書』1-585号)

永禄12年 1569年 10月8日 24歳
三増峠(相模国)にて武田信玄北条氏照・氏邦・綱成等が戦い、信玄が勝利する。
武田勢:山高信親
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「山高信親」の項

元亀1年 1570年 4月23日 25歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 10月3日 26歳
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀4年 1573年 4月12日 28歳
父・信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 7月18日 28歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 28歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 28歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 28歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 1月27日 29歳
武田勝頼が明智城(美濃国)に攻め寄せる。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月5日 29歳
織田信長信忠父子が武田勝頼勢に備えるため御嵩(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月6日 29歳
織田信長信忠父子が神箆(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月-日 29歳
武田勝頼が明智城(美濃国)を落とす。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月24日 29歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月-日 29歳
織田信長が、武田勝頼に備えるべく小里城(美濃国)に池田恒興を、神箆城(美濃国)に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月5日 29歳
祖父・信虎が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「清和源氏 義光流 武田」「武田信虎」の項

天正2年 1574年 6月5日 29歳
武田勝頼高天神城(遠江国)を包囲中との報が織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月14日 29歳
高天神城(遠江国)の救援のため織田信長信忠父子が軍勢を率い岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月17日 29歳
高天神城(遠江国)救援のため出勢した織田信長酒井忠次の居城・吉田城(三河国)に入る。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月19日 29歳
織田信長が今切渡より高天神城(遠江国)に向かおうとする。
小笠原氏助が武田勝頼に内通し、武田城を高天神城に引き入れたことから、同城は勝頼が落とす。
高天神城の落城を知った信長は吉田城(三河国)に引き上げる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正3年 1575年 3月-日 30歳
武田勝頼が足助(三河国)に出兵する。これを受け、織田信忠が尾張衆を率い出陣する。
出典:『信長公記』巻8(2)「公家領徳政にて仰付けられ候事」

天正3年 1575年 5月12日 30歳
武田勝頼の軍勢の先陣が熱田(尾張国)まで進んだと奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 5月13日 30歳
遠江国に侵攻した武田勝頼に対するため、織田信長信忠とともに岐阜城(美濃国)を出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月14日 30歳
織田信長岡崎(三河国)に着陣する。
出典:同年月15日付織田信長朱印状(「細川家文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』509号)、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月15日 30歳
織田信長岡崎(三河国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月16日 30歳
織田信長が牛窪城(三河国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月17日 30歳
織田信長が牛窪城(三河国)に丸毛長照、福田三河守を置き、野田原(三河国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月18日 30歳
織田信長が極楽寺山(三河国)に陣取る。子・信忠は新御堂山(三河国)、徳川家康は高松山、滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀は有海原に陣取る。家康、一益の陣所前に馬防の柵を設ける。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月20日 30歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 30歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)。
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正3年 1575年 5月24日 30歳
21日の長篠の合戦で武田勢が悉く討死したと奈良(大和国)で噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 5月27日 30歳
21日の長篠の合戦で武田勢1000が討死し撤退したこと、それにともない織田信長岐阜城(美濃国)に帰還したと奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 11月14日 30歳
織田信長岩村城(美濃国)に武田勝頼が攻め入ったとの報を受け、急ぎ岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(11)「武田四郎岩村にて失勝利の事」

天正3年 1575年 11月-日 30歳
織田信忠岩村城(美濃国)に攻め寄せた武田勢を破る。
出典:『信長公記』巻8(12)「菅九郎殿岩村御存分に被仰付の事」

天正5年 1577年 10月20日 32歳
武田勝頼が小山今城より大井川を越えて引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月20日 32歳
武田勝頼が小山今城より大井川を越えて駿河国に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月21日 32歳
徳川家康勢が掛川(遠江国)より浜松(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 3月13日 33歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正6年 1578年 5月7日 33歳
春日虎綱が死去する。
出典:-

天正6年 1578年 6月8日 33歳
上杉景勝が、北条高広・景広父子に、武田信豊・高坂虎綱を通して武田家と和睦したこと、武田勢は景勝の指図によって動くことを伝える。
出典:(天正6年)6月8日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1528号)

天正6年 1578年 6月12日 33歳
武田信豊が上杉景勝武田勝頼の海津(信濃国)着陣を伝える。
出典:(天正6年)6月24日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1559・1560号)

天正6年 1578年 6月24日 33歳
上杉景勝武田勝頼に対し入魂の旨を申し入れてきたことに対し勝頼も景勝に同様の関係を望むことを斎藤朝信・新発田長敦に伝える。
出典:(天正6年)6月12日付武田信豊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1543号)

天正6年 1578年 6月29日 33歳
武田信豊が上杉景勝武田勝頼の着陣と路次普請を行っている旨を伝える。
出典:(天正6年)6月29日付武田信豊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1569号)

天正6年 1578年 8月19日 33歳
武田勝頼上杉景勝に対し表裏無き旨を記した起請文を作成する。
出典:(天正6年)8月19日付武田勝頼起請文(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1612号)

天正6年 1578年 8月22日 33歳
徳川家康勢が駿河国に攻め入り、田中(駿河国)にて苅田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月28日 33歳
遠江国にて大地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 33歳
武田勝頼勢が大井川を越えたとの報が牧野城(遠江国)より浜松城にもたらされる。徳川家康勢は見附(遠江国)まで出陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 33歳
遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月1日 33歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月2日 33歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月2日 33歳
武田勝頼勢が、小山(遠江国)、相良(遠江国)方面に移る。松平信康は馬伏塚に布陣し、徳川諸勢は柴原に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 33歳
酉刻(17-19時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 33歳
武田勝頼が、横須賀城(遠江国)の向かいまで軍勢を出す。徳川家康は横須賀城近くにて総勢で勝頼に備える。武田勢は高天神城(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 33歳
夜、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 33歳
武田勝頼勢の物見が横須賀城(遠江国)に現れる。徳川家康は小笠に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月12日 33歳
武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月14日 33歳
武田勝頼勢が大井川を越えたとの注進が牧野城(遠江国)より掛川にいた松平家忠のもとに届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月15日 33歳
武田勝頼勢が青島に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月17日 33歳
武田勝頼勢が島田に攻め入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月18日 33歳
起請文を望む上杉景勝に対し、武田勝頼が起請文を作成し富永清右兵衛尉の目の前で血判したこと、あわせて景勝と関係を密にしたきくことを景勝に伝える。
出典:(天正6年)11月18日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1718号)

天正6年 1578年 11月19日 33歳
武田勝頼勢が島田より田中に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月25日 33歳
武田勝頼が遠江国より引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月30日条

天正6年 1578年 11月29日 33歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月30日 33歳
松平家忠牧野城(遠江国)に鉄砲衆20名を置く。11月25日に武田勝頼が引き上げたので、徳川家康勢も浜松城(遠江国)に引き上げる。松平信康は三河国まで帰国する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月9日 34歳
武田勝頼吉川元春に、荒木村重織田信長に謀叛したことについて、毛利家の本意に属すことであり、足利義昭を奉じて速やかに京都へ出勢すべきことを毛利輝元に諫言するように伝える書状を発給する。
出典:(天正7年)1月9日付武田勝頼書状写(『戦国遺文』武田氏編5巻-3067号、吉川家文書)

天正7年 1579年 2月21日 34歳
2月1日の越後府中(御館)における上杉景勝の戦勝を祝す書状を武田勝頼が景勝に遣わす。
出典:(天正7年)2月21日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1771号)

天正7年 1579年 4月6日 34歳
2月5日に毛利輝元が畿内に向けて出勢したのを受け、武田勝頼は織田領の尾張・美濃、徳川領の三河に出勢することを吉川元春に伝える。また、本願寺顕如荒木村重が健在なうちに足利義昭の入洛を成し、畿内静謐を図るよう輝元に諫言するよう元春に依頼する。
出典:(天正7年)4月6日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3117号、吉川家文書)

天正7年 1579年 4月23日 34歳
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月25日 34歳
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月26日 34歳
夜、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月27日 34歳
徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月28日 34歳
松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 34歳
松平家忠徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月18日 34歳
徳川家康勢が二山(駿河国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月19日 34歳
徳川家康家臣の牧野康成・掛川衆が向井正重の籠る持船城(駿河国)を攻め、同城を落とす。向井正重、向井政勝が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井正重」の項・「向井政勝」の項

天正7年 1579年 9月25日 34歳
武田勝頼勢が府中(駿河国)に軍勢を移す。これにより徳川家康は井籠まで軍勢を引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月28日 34歳
松平信一徳川家康に帰陣を勧め、家康は井籠より牧野城(遠江国)に引き上げることとする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月30日 34歳
徳川家康牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月1日 34歳
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月19日 34歳
徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し掛川城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月22日 34歳
卯刻(5-7時)、遠江国で地震が発生する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月24日 34歳
徳川家康掛川城(遠江国)より牧野城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月25日 34歳
北条氏政武田勝頼の領国である甲斐国を攻めるべく小田原城(相模国)を出陣し、三島(伊豆国)に陣取る。勝頼も足軽を三枚橋(駿河国)に繰り出し対峙する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月24日 34歳
酒井忠次松平家忠武田勝頼勢が田中(駿河国)にまで進んできたことを伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月26日 34歳
浜松城(遠江国)に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月27日 34歳
松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月28日 34歳
武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月29日 34歳
武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月9日 34歳
武田勝頼が伊豆国より甲斐国に戻る。
出典:(天正7年)12月15日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3215号、野口家文書)

天正8年 1580年 5月5日 35歳
徳川家康が朝比奈信置の籠る持船城(駿河国)を攻める。徳川勢は石川数正勢が32人討ち取られるなど損害を出し、家康は掛川(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日 35歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月22日 35歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が小山(遠江国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月23日 35歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、石川数正が田中(駿河国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月24日 35歳
本多忠勝勢が小山城(遠江国)を攻める。忠勝は敵3人を討ち取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月25日 35歳
徳川家康勢が小山城(遠江国)を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月26日 35歳
徳川家康勢が掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月27日 35歳
徳川家康勢が浜松城(遠江国)に帰城する。国衆に対し、陣番を怠ることがない旨を誓う起請文を提出させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 8月6日 35歳
武田勝頼上杉景勝に栃尾城・三条城(越後国)の攻略と越後国静謐を祝す書状を発給する。
出典:(天正8年)8月6日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3395号、上杉家文書)

天正8年 1580年 9月20日 35歳
武田勝頼佐竹義重をはじめとする関東諸家の足利(下野)侵攻にあわせ、上野国に向けて出陣する。
出典:(天正8年)10月12日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2051号)

天正8年 1580年 10月-日 35歳
武田勝頼が河田備前守・大胡民部左衛門が守る膳城(上野国)を攻め、同城を落とす。
武田勢:山寺信昌、柳沢信兼、横手信俊
出典:『寛政重修諸家譜』巻第162「山寺信昌」の項、同163「柳沢信俊」の項

天正8年 1580年 10月-日 35歳
武田勝頼が膳城(上野国)攻めで抜け駆けをした柳沢信兼を切腹に処し、信兼は切腹する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第163「柳沢信兼」の項

天正8年 1580年 -月-日 35歳
武田勝頼が膳城(上野国)攻めで功のあった横手信俊に、柳沢信兼の名跡を与える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第163「柳沢信俊」の項

天正9年 1581年 1月3日 36歳
武田勝頼高天神城(遠江国)の後詰をするとの風説につき、織田信忠岐阜城(美濃国)を発し、軍勢を率い清須城(尾張国)に入る。
出典:『信長公記』巻14「武田四郎高天神城後巻き横須賀城番手の事」

天正9年 1581年 3月22日 36歳
徳川家康岡部元信の籠る高天神城(遠江国)を攻める。徳川勢が元信を討ち取り、家康は高天神城を落とす。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、松平康元松平康次松平清宗松平康安小栗忠政、成瀬久次、渥美友勝、板倉定重(戦死)、岩瀬氏則(首級5)。
岡部元信勢:岡部元信[大将](戦死)。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項、同21「松平清宗」の項、同26「松平康安」の項、同52「松平康元」の項、同81「板倉定重」の項、同961「渥美友勝」の項、同963「岩瀬氏則」の項

天正9年 1581年 3月25日 36歳
徳川家康高天神城(遠江国)を兵粮攻めにしているところ、城から逃亡者が出る。逃亡者に対し家康は攻撃を加え、本多忠勝は首級22を、榊原康政は首級40余をあげる。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正9年 1581年 11月10日 36歳
新府城(甲斐国)普請につき上杉景勝より祝詞と3種・柳50を贈ってきたことに対する礼状を武田勝頼が出す。あわせて北条家家臣で戸倉城主(伊豆国)の笠原範定が武田家に寝返ったことにともない出征中であることを景勝に伝える。
出典:(天正9年)11月10日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2202号)

天正9年 1581年 12月19日 36歳
武田勝頼新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:(天正9年)12月26日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2259号)

天正9年 1581年 12月24日 36歳
武田勝頼新府城(甲斐国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(8)「武田四郎甲州新府退散の事」

天正10年 1582年 2月1日 37歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 37歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 37歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可・団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 37歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可・団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月16日 37歳
鳥居峠にて今福筑前守と苗木久兵衛が戦う。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月20日 37歳
武田勝頼上杉景勝に謀叛を起した木曽義昌の討伐に向かい苦戦している旨を伝えるとともに援軍を依頼する書状を発給する。
出典:(天正10年)2月20日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3660号、上杉家文書)

天正10年 1582年 2月28日 37歳
武田勝頼・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月1日 37歳
織田信忠が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月2日 37歳
織田信忠が仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、森長可・団忠正・毛利秀頼・川尻秀隆・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日 37歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日 37歳
卯刻(5-7時)、武田勝頼新府城(甲斐国)を自焼する。その後、小山田信茂を頼り、岩殿山城(甲斐国)を目指す。
出典:『信長公記』巻15(8)「武田四郎甲州新府退散の事」

天正10年 1582年 3月7日 37歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 37歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

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