人 物 史

柴田勝家 しばた かついえ
生 没 年大永2年(1522)-天正11年(1583)4/24
出 身尾張国愛知郡上社村幼 名-
別 称権六
法 名-
戒 名-
柴田勝義-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者市(織田信秀の娘)
柴田勝里、柴田勝忠、柴田勝春[養子]、柴田勝政[養子]、柴田勝豊[養子]、柴田勝敏[養子]
官 位左京大進、修理亮
役 職-
城 郭末盛城(尾張国)、長光寺城(近江国)、北之庄城(越前国)
参 考 文 献○尾下成敏「柴田勝家の居所と行動」(藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2016年)
関 連 デ ー タ史料にみえる柴田勝家の呼称
柴田勝家の関連文化財
柴田勝家の家臣
柴田勝家 年表
大永2年? 1522?年 -月-日 1歳
柴田勝家が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 7歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 11歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文20年 1551年 3月3日 30歳
織田信秀が死去する。
出典:-

天文23年 1554年 7月18日 33歳
尾張国守護・斯波義統を討った織田信友を討つべく、織田信長が信友の居る清須城(尾張国)を攻め、信長が勝利する。信長勢として参加する。
出典:『清須合戦記』

弘治1年 1555年 10月23日 34歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 8月24日 35歳
稲生(尾張国)にて織田信長織田信行が戦い、信長が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、森可成、佐久間盛重、佐久間信盛丹羽長秀前田利家渥美友勝
織田信行勢:織田信行[大将]、林秀貞柴田勝家
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

弘治2年 1556年 -月-日 35歳
柴田勝家福谷城(三河国)を攻め、酒井忠次と戦う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

弘治4年 1558年 2月28日 37歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 11月2日 37歳
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 39歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄11年 1568年 7月25日 47歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 47歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 47歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 47歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月24日 47歳
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 47歳
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 47歳
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 47歳
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 47歳
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 47歳
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 47歳
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 47歳
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月20日 48歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月28日 48歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 48歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 48歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄13年 1570年 1月24日 49歳
飛鳥井雅敦が本興寺(摂津国尼崎)は雅敦の所領であるので、陣取等をしないよう柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚に依頼する。
出典:(永禄13年)1月24日付飛鳥井雅敦書状(「本興寺文書」『大』10-4、元亀元年2月16日条)

永禄13年 1570年 2月16日 49歳
佐久間信盛坂井政尚森可成、野間長前、蜂屋頼隆柴田勝家、竹内秀勝が、本興寺(尼崎)に対し、同寺および門前において織田勢の陣取りをしないことを連署状をもって伝える。
出典:(永禄13年)2月16日付佐久間信盛他連署状(「本興寺文書」『大』10-4、同年月日条)

元亀1年 1570年 4月23日 49歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 5月10日 49歳
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月12日 49歳
織田信長が瀬田(近江国)の山岡城(近江国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月13日 49歳
織田信長が永原(近江国)に到着する。永原城(近江国)に佐久間信盛を、長光寺城(近江国)に柴田勝家を置く。安土城(近江国)に中川重政を在番させる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月19日 49歳
永原城(近江国)にいる織田信長のもとに見舞いに赴いていた日乗村井貞勝が京都(山城国)に戻る。信長と六角義賢との和議が不調に終わる。信長は美濃国に向け、永原城を発ったとされる。その道中、信長は甲津畑(近江国)にて鉄砲4挺にて狙撃される。
義賢・義治父子は石部城(近江国)を軍勢20000で攻める。
出典:『言継卿記』同年月日・22日条

元亀1年 1570年 5月21日 49歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(5)「千草峠にて鉄砲打ち申すの事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 49歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月21日 49歳
織田信長小谷城(近江国)攻めのため虎御前山(近江国)に陣取る。坂井政尚森可成斎藤利治、市橋長勝、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破光治丸毛長照が雲雀山に陣取る。信長の命により、柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆木下秀吉丹羽長秀等が小谷城の在所・谷々を焼き払う。
出典:『信長公記』巻3(7)「たけくらべかりやす取出の事」

元亀1年 1570年 9月23日 49歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月25日 49歳
織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正川尻秀隆佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家氏家卜全安藤守就稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 5月12日 50歳
織田信長願証寺(長島)を攻めるため津島(尾張国)に布陣する。中筋口より佐久間信盛、浅井新八、山田三左衛門、長谷川与次、和田新介、中嶋豊後を、大田口より柴田勝家、市橋長利、氏家卜全、伊賀平左衛門、稲葉良通、塚本小大膳、不破光治丸毛長照、飯沼勘平を遣わす。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 5月16日 50歳
願証寺(長島)を攻めるため大田口を攻めていた柴田勝家氏家卜全等が所々を放火し引き上げたところ、一向一揆の攻撃を受け、勝家は負傷し、卜全は戦死する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 9月1日 50歳
佐久間信盛、中川重政、柴田勝家丹羽長秀の志村城(近江国)攻める。織田信長は城攻めの様子を観戦する。志村城が落ちたのをうけ小川城(近江国)の小川孫一郎が人質を出し降伏する。
出典:『信長公記』巻4(4)「しむら攻め干さるゝの事」

元亀2年 1571年 9月12日 50歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 4月16日 51歳
三好義継松永久秀久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長佐久間信盛柴田勝家明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆斎藤利治稲葉良通氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長の軍勢20000を遣わす。
松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 5月11日 51歳
交野城(河内国)の救援に赴いていた軍勢が河内国より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 7月21日 51歳
織田信長が、ひばり山、虎御前山に軍勢を置く。信長の命により小谷城(近江国)に押し寄せ、佐久間信盛柴田勝家木下秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆が城下町を破る。勝家、稲葉良通氏家直昌安藤守就とともに先陣として布陣する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月29日 51歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月-日 51歳
木下秀吉丹羽長秀柴田勝家を慕い、両者の氏から1字ずつをとって羽柴秀吉と名乗るようになる。
出典:-

元亀4年 1573年 2月20日 52歳
織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に、足利義昭の臣・山岡光浄院が籠る石山城(近江国)の攻撃を命じ、勝家等の諸勢が出陣する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月24日 52歳
柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆が、瀬田(近江国)を渡り山岡光浄院が籠る石山城(近江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月26日 52歳
石山城(近江国)に籠る山岡光浄院が、同城を攻める織田家の柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に降伏し、城より退城する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 7月10日 52歳
二条城(山城国)に籠城している足利義昭勢が三淵藤英を除き織田信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月12日 52歳
柴田勝家の交渉により二条城(山城国)に籠城していた三淵藤英が退城する。藤英は伏見(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月14日 52歳
明智光秀が吉田山(山城国)に織田信長の屋敷を建ててはと進言する。これにつき、信長の命により柴田勝家木下秀吉滝川一益丹羽長秀松井友閑、前波七郎兵衛が同地を検分する。吉田兼見とも話し合い、屋敷地の建設は取りやめとする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 52歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。
織田信長勢:明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝細川忠興
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 52歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 52歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 52歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月8日 52歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 52歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 52歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 52歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 52歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 52歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 52歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 52歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 52歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 52歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 52歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 52歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 52歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 9月4日 52歳
織田信長佐和山城(近江国)に移る。柴田勝家六角義治が籠る鯰江城(近江国)攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 10月6日 52歳
一向一揆が立て籠る坂井城(伊勢国)を柴田勝家滝川一益が包囲し、同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正2年 1574年 3月9日 53歳
柴田勝家多聞山城(大和国)の留守居番替として多くの軍勢を引き連れ同城に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月10日 53歳
柴田勝家興福寺に使者を遣わし奈良(大和国)の支配を織田信長より命じられたことを伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月14日 53歳
柴田勝家が寺社および奈良(大和国)の支配を織田信長より命じられたことを記した制札を打つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月17日 53歳
柴田勝家織田信長上洛につき、上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月27日 53歳
織田信長が軍勢3000を率い多聞山城(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、荒木村重佐久間信盛柴田勝家菅屋長頼丹羽長秀蜂屋頼隆塙直政松井友閑が奉行をつとめる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 3月28日 53歳
織田信長東大寺の蘭奢待を5つ切り取る。
夜、八幡、東大寺大仏殿、春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 7月14日 53歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月15日 53歳
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正3年 1575年 4月8日 54歳
織田信長が駒ヶ谷山に陣取る。佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀塙直政三好笑岩が籠る高屋城(河内国)を攻める。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 8月15日 54歳
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、佐久間信盛柴田勝家滝川一益羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀別喜右近細川藤孝原田直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉一鉄稲葉貞通氏家直昌安藤守就磯野員昌、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破光治、武藤宗右衛門、神戸信孝津田信澄織田信包北畠信雄率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月16日 54歳
織田信長が敦賀(越前国)を発し、木芽峠(越前国)、鉢伏城(越前国)の一向一揆勢を追う。
越前一向一揆を悉く成敗する。
府中龍門寺(越前国)に陣を張る。今庄(越前国)に福田三河守を置く。朝倉孫三郎が下間筑後、下間和泉、専修寺の首を持参し降伏を願い出るが、孫三郎の願いを拒絶し、向駿河をもって孫三郎を成敗する。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月17日 54歳
北庄(越前国)にいる織田信長のもとへ勅使・勧修寺晴豊が訪れる。吉田兼見が同道。取次は村井専次。
兼見が柴田勝家原田直政に手縄、腹帯を、細川藤孝に菓子を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月18日 54歳
柴田勝家丹羽長秀津田信澄が鳥羽城(越前国)を攻撃し、500-600名を討ち取る。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月19日 54歳
原田直政滝川一益北畠茶筅神戸三七郎織田信包、氏家直通、武藤舜秀が一揆勢600を討ち取る。
柴田勝家丹羽長秀が朝倉与三の籠る要害を攻める。600余名を討ち取り、100余名を生け捕りのうえ首をはねる。
出典:同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)

天正3年 1575年 8月21日 54歳
織田信長が一乗谷(越前国)に入る。
吉田兼見に鮭を贈る。
佐久間信栄が一揆勢500名を討ち取り、10余名を生け捕りのうえ首をはねる。
風尾要害に籠っていた朝倉景健が信長に降伏を申し入れるが、信長は拒絶し、景健は自害する。
柴田勝家丹羽長秀が一揆勢1000余名を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)

天正3年 1575年 9月2日 54歳
織田信長が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を柴田勝家に給付する。大野郡の2/3を金森長近に、1/3を原長頼に給付する。今立郡・南条郡を佐々成政前田利家不破光治に給付する。
明智光秀に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を細川藤孝に給付する。荒木村重に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 11月5日 54歳
柴田勝家が剣神社(越前国)に「殿様御氏神」であるので当社および門前居住地に対し諸役を免除する判物を発給する。
出典:天正3年11月5日付柴田勝家判物(滋賀県立安土城考古博物館編『信長と宗教勢力-保護・弾圧そして支配へ-』)

天正4年 1576年 2月28日 55歳
柴田勝家が、大谷寺・同門前に敷地内の竹木を届けなく伐採しないこと、臨時課役を賦課する者を認めないことを伝える。
出典:天正4年2月28日付柴田勝家判物(『越知神社文書』55号)

天正4年 1576年 5月28日 55歳
加賀一向一揆勢の藤丸勝俊・徳田重清・広瀬貞清・高桑武数・奥政堯・山本家芸・窪田綱盛・鏑木頼信・石黒政長・洲崎景勝が金沢御堂の七里頼周・坪坂伯耆入道・広済寺に上杉謙信の出馬を要請する。
出典:天正4年5月28日付藤丸勝俊等連署状(『真宗大谷派金沢別院史 下』6号)

天正5年 1577年 8月8日 56歳
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 8月-日 56歳
羽柴秀吉織田信長に届け出ることなく北国の陣から無断で撤退し、信長の勘気を蒙る。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 10月3日 56歳
七尾城(能登国)救援のため北陸にいたが帰陣する。
出典:『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正6年 1578年 3月13日 57歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正7年 1579年 8月9日 58歳
柴田勝家が加賀国に侵攻し、阿多賀・本折・小松町口を焼き払い、苅田をする。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 12月5日 58歳
織田信長荒木村重に加担し、有岡城(摂津国)に入城した高山友照を柴田勝家預かりとして北陸に遣わす。
出典:『信長公記』巻12(16)「親王様、二条御新造へ行啓の事」

天正8年 1580年 閏3月9日 59歳
柴田勝家が加賀国に侵攻する。勝家は添川・手取川を渡り宮の腰に陣取る。野々市に籠る一向一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 9月6日 59歳
柴田勝家に圧迫されている加賀一向一揆の藤丸勝俊が、上杉景勝に越中国・加賀国への出馬を請う。
出典:(天正8年)9月6日付藤丸勝俊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2039号)

天正8年 1580年 11月20日 59歳
織田信長のもとに、柴田勝家の使者が到着し、加賀国の一向一揆勢の大将19人をはじめ多くの一向衆を討ち取ったことを報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正9年 1581年 2月24日 60歳
柴田勝家柴田勝豊、柴田三左衛門尉が越前国より上洛し、織田信長に太刀(銘 国光)、馬代銀1000両、金300両、蝋燭1000挺、奉書紙1000束、綿1000把、絹500疋を進上する。信長は茶会にて勝家をもてなす。勝家は茶釜(銘 姥口)を所望し、信長手渡しで勝家に茶釜を賜う。
出典:『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正9年 1581年 2月28日 60歳
織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正9年 1581年 3月15日 60歳
小井手城(越中国)を上杉景勝が攻めていることを聞いた織田信長が、不破光治前田利家原長頼金森長近柴田勝家にすぐに越前国へ帰国し救援するよう命じる。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月24日 60歳
佐々成政が神通川・六道川を渡り、中田(越中国)に陣取る。小井手城(越中国)を攻めていた上杉景勝河田長親同城より撤退する。
長親が松倉城(越中国)にて死去する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正10年 1582年 1月16日 61歳
熊野(紀伊国)にて佐久間信盛が死去する。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 3月1日 61歳
山内(加賀国)の一向一揆を柴田勝家が鎮圧する。
出典:『鷺森日記』同年月5日条

天正10年 1582年 3月11日 61歳
小島職鎮・唐人親広が指揮する一揆勢が、富山城(越中国)城主で主君の神保長住を攻め、城を乗っ取る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 6月2日 61歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月4日 61歳
明智光秀安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。
4日の大和国より筒井順慶の一手として光秀のもとにやってきた南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月13日 61歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 6月27日 61歳
羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興柴田勝家が織田家宿老として知行の宛行いをする。
蒲生氏郷…近江国南郡佐久間分内で1万石
高山重友…摂津国能勢郡内で3000石、近江国佐久間分内で1000石の計4000石
堀秀政…近江国坂田郡25000石(御台所入として)
出典:天正10年6月27日付羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家連署状(『豊臣秀吉文書集』1巻-446・447・448号)

天正10年 1582年 7月6日 61歳
『多聞院日記』に「天下の様」は柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興堀秀政の5人で「分取」る状況であると記される。
出典:『多聞院日記』同年月日日条

天正10年 1582年 7月7日 61歳
織田信長死後の所領分配として、織田信雄に伊勢国・尾張国が、織田信孝に美濃国が、柴田勝家に長浜(近江国)20万石が、羽柴秀吉に山城国・河内国が、羽柴秀長に丹波国が、丹羽長秀に近江国高嶋郡・志賀郡が、池田恒興に河内国十七ヶ所・大坂城(摂津国)が、堀秀政に近江国中郡・織田三法師の傅役が、筒井順慶に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が下京の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 11月21日 61歳
足利義昭が上条宜順斎(政繁)・須田満親に宛てて上杉景勝柴田勝家と和睦するよう命じる御内書を発給する。
出典:(天正10年)11月21日付足利義昭御内書(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2604・2605号号)

天正10年 1582年 12月-日 61歳
長浜城(近江国)城主の柴田勝豊が羽柴秀吉に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

天正11年 1583年 閏1月12日 62歳
滝川一益織田信孝徳川家康柴田勝家が一味して雪解けとともに畿内に攻め入ると奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 3月17日 62歳
羽柴秀吉柴田勝家に備えるため賤ケ岳(近江)に砦を拵える。
また、秀吉は上杉家家臣・須田満親に滝川一益の持つ伊勢国の諸城を攻撃していることや、賤ケ岳に着陣したことを伝え、あわせて能登国・越中国に攻め入るよう要請する。
出典:(天正11年)3月17日付豊臣秀吉書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2701号)

天正11年 1583年 4月9日 62歳
柴田勝家の近江国侵攻につき、筒井順慶羽柴秀吉より出陣を促されたため出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月19日 62歳
佐久間盛政率いる柴田勝家勢の先陣が、羽柴秀吉方の賤ケ岳砦を攻め、同砦を守る中川清秀を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正11年 1583年 4月20日 62歳
織田信孝羽柴秀吉を裏切り、柴田勝家に寝返ったと奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月21日 62歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正11年 1583年 4月22日 62歳
柴田勝家北之庄城(越前国)に帰城する。
羽柴秀吉が府中城(越前国)に着陣する。
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)

天正11年 1583年 4月23日 62歳
羽柴秀吉柴田勝家の籠る北之庄城(越前国)を攻める。
この日、勝家は自害したと奈良(大和国)にて伝えられる。(『多』)
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)、『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月24日 62歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

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