人 物 史

武田信玄 たけだ しんげん
生 没 年大永1年(1521)11/3-元亀4年(1573)4/12
出 身甲斐国幼 名勝千代、太郎
別 称晴信
法 名信玄、機山、徳栄軒
戒 名-
武田信虎大井の方(大井信達の娘)
兄 弟 姉 妹武田竹松、武田信玄、武田犬千代、武田信繁、武田信基、武田信廉、武田信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、武田信実、武田信友、武田勝虎、定恵院、南松院(穴山信友正の妻)、禰々、花光院(浦野友久の妻)、亀御料人(大井信為の妻)、女(下条信氏の妻)、女(禰津常安の妻)、女(葛山氏の妻)、菊御料人(菊亭晴季の妻)
配 偶 者上杉朝興の娘、三条の方(三条公頼の娘)、諏訪御料人(諏訪頼重の娘)
武田義信、海野信親、武田信之、武田勝頼、仁科盛信、葛山信貞、武田信清、松姫、菊姫
官 位大膳大夫、信濃守
役 職甲斐国守護、信濃国守護
城 郭躑躅ヶ崎館(甲斐国)
参 考 文 献武田信玄に関する参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ武田信玄の関連文化財
武田信玄の家臣
武田信玄 年表
大永1年 1521年 11月3日 1歳
武田信玄が生まれる。
出典:-

大永5年 1525年 -月-日 5歳
弟・信繁が生まれる。
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享禄1年 1528年 8月20日 8歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 12歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文5年 1536年 11月21日 16歳
武田信虎が海ノ口城(信濃国)を攻める。武田晴信が参加する。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文7年 1538年 -月-日 18歳
子・義信が生まれる。
出典:-

天文7年 1538年 7月19日 18歳
韮崎において武田晴信小笠原長時・諏訪頼重が戦い、晴信が勝利する。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文7年 1538年 -月-日 18歳
武田晴信が父・信虎の甲斐国帰国を阻み放逐する。
出典:『享禄以来年代記』同年条(『続群書類従』第29輯下)

天文9年 1540年 1月16日 20歳
海尻(信濃国)において武田晴信村上義清が戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文9年 1540年 2月18日 20歳
コアラマ(甲斐国)において武田晴信村上義清が戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文11年 1542年 3月9日 22歳
瀬澤において武田晴信が諏訪頼重・村上義清小笠原長時・木曽義政と戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文11年 1542年 閏3月20日 22歳
平澤において武田晴信村上義清が戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文11年 1542年 9月24日 22歳
武田晴信が諏訪(信濃国)侵攻の成就は諏訪法性上下大明神のおかげとして具足1両・馬1疋、伊奈にて100貫文の地を同神に寄進する。
出典:天文11年9月24日付武田晴信願文(「守矢家文書」『戦国遺文』武田氏編第1巻145号)

天文11年 1542年 9月25日 22歳
武田晴信が信濃国諏訪郡宮川端・安国寺前にて合戦する。またこの合戦に功のあった水上時利・小山田信有・窪寺平次左衛門に感状を発給する。
出典:天文11年9月25日付武田晴信感状写(『戦国遺文』武田氏編第1巻145-146号)

天文11年 1542年 10月7日 22歳
武田晴信が守矢頼真に対し神長職への永代にわたる諸役を免除する。
出典:天文11年10月7日付武田晴信判物(「守矢家文書」『戦国遺文』武田氏編第1巻149号)

天文11年 1542年 10月23日 22歳
大門峠(信濃国)において武田晴信村上義清小笠原長時が戦う。
武田晴信勢:小田切光信(戦死)。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)、『寛政重修諸家譜』巻第395「小田切某(光信)」の項

天文11年 1542年 12月12日 22歳
武田晴信が能浄寺に寺への狼藉、竹木の伐採、敷地内での殺生、寺内地への棟別賦課、門前棟別賦課、押立公事の禁じる制札を発給する。
出典:天文11年12月12日付武田晴信制札(「内藤家文書」『戦国遺文』武田氏編第1巻153号)

天文13年 1544年 2月-日 24歳
武田晴信が諏訪頼重を殺害する。
出典:『享禄以来年代記』同年月条(『続群書類従』第29輯下)

天文13年 1544年 3月14日 24歳
砥石(信濃国)において武田晴信村上義清が戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文13年 1544年 -月-日 24歳
弟・信実が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第146「武田信実」の項の没年・享年より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第146「武田信実」の項

天文13年 1544年 -月-日 24歳
武田晴信清水寺本願 成就院に信濃国平定を祈願する願文を納める。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

天文14年 1545年 5月23日 25歳
塩尻(信濃国)において武田晴信小笠原長時・木曽義昌が戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文15年 1546年 -月-日 26歳
子・勝頼が生まれる。
出典:-

天文17年 1548年 7月19日 28歳
塩尻峠(信濃国)にて武田晴信小笠原長時が戦い、晴信が勝利する。
出典:天文17年7月19日付武田晴信感状(「浜家文書」『戦国遺文 武田氏編』第1巻-254号)他

天文19年 1550年 9月9日 30歳
横田高松が楽巌寺雅方・布下仁兵衛の籠る砥石城(信濃国)を攻める。
出典:-

天文19年 1550年 10月1日 30歳
武田晴信村上義清の砥石城(信濃国)を攻めるが敗れる。5000人が討死したと噂される。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文19年 1550年 10月1日 30歳
横田高松が砥石城(信濃国)攻めを断念し撤退する。村上勢が高松を追い打ちし、高松が戦死する。
出典:-

天文20年 1551年 5月26日 31歳
真田幸綱が砥石城(信濃国)を乗っ取る。
出典:-

天文20年 1551年 10月24日 31歳
武田晴信が平瀬義兼の籠る平瀬城(信濃国)を攻める。
出典:天文20年10月24日付武田晴信感状(彰考館所蔵「感状写」『戦国遺文 武田氏編』第1巻-336号)他

天文22年 1553年 4・5月-日 33歳
清水寺本願成就院は武田晴信が信濃国を平定したのを聞きつけ勧進に赴く。しかし、晴信の陣所を訪れた時には、村上義清が信濃国小県郡を武田家より奪還していたため、晴信は再度平定した後に奉加を納めると約す。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

天文22年 1553年 5月7日 33歳
桔梗原(信濃国)にて武田晴信小笠原長時が戦う。
出典:天文22年6月7日付武田晴信感状(「辻家文書」『戦国遺文 武田氏編』第1巻-372号)他

天文22年 1553年 12月18日 33歳
武田晴信清水寺の祈祷のおかげで川中島の合戦に勝利できたとして黄金10両を清水寺本願 成就院に奉納する。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

天文22年 1553年 -月-日 33歳
山本晴幸海津城(信濃国)を築く。
出典:『海津城主次第』

弘治1年 1555年 10月23日 35歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 9月8日 36歳
真田幸綱・小山田虎満が東天飾城(信濃国)を攻め、同城を落とす。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 38歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 8月25日 40歳
武田信玄が甲斐国客僧中(山伏)に対し、棟別役・普請の免除、遠国への使者を勤めるべきこと、先達引導の際に関銭免除のこと(ただし先達業の時以外は関銭を支払うべきこと)を定める。
出典:永禄3年8月25日付武田信玄朱印状(『山梨県史』資料編5「武田文書 一」201号)

永禄3年 1560年 10月17日 40歳
武田信玄が瑞泉寺(越中国)の内衆・上田藤右衛門に、長尾景虎が上野国に侵攻したので、北条氏康と示し合わせ景虎と交戦することを伝えるとともに、門徒衆と神保氏とで越後国に侵攻するように依頼する。
出典:(永禄3年)10月17日付武田信玄書状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条5 「仏厳寺文書」)

永禄4年 1561年 2月2日 41歳
武田信玄が上野国に侵攻すべく、軍勢15500を率い甲府を発ち、鳥本(上野国)に到着する。
出典:『上野国群馬郡箕輪軍記上』

永禄4年 1561年 9月10日 41歳
川中島(信濃国)にて武田信玄上杉政虎が戦う。武田勢:武田信繁(戦死)、室住虎光(戦死)、山本晴幸(戦死)、初鹿野忠次(戦死)、油川信吉[戦死]、田沢正俊(戦死)、山高親之(信繁の首級奪還)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第147「油川信吉」、同巻第150「田沢正俊」の項、同巻第160「山高親之」の項

永禄4年 1561年 11月22日 41歳
長野業正が死去する。
出典:-

永禄6年 1563年 1月20日 43歳
武田信玄が軍勢35000をもって上野国に侵攻する。
出典:『上野国群馬郡箕輪軍記上』

永禄6年 1563年 2月15日 43歳
武田信玄が新堀城(上野国)を攻める。
出典:『上野国群馬郡箕輪軍記上』

永禄6年 1563年 2月22日 43歳
武田信玄が長野業盛の籠る箕輪城(上野国)を攻め、同城を落とす。
出典:『上野国群馬郡箕輪軍記上』

永禄8年 1565年 5月19日 45歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 9月9日 45歳
織田信長武田信玄に使者を送り娘と信玄の子・勝頼との婚姻を提案する。信玄は婚姻を承諾する。
出典:『享禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)

永禄10年 1567年 7月1日 47歳
武田信玄が後閑信純に軍役定書を発給する。騎馬15騎・槍60本(このうち弓・鉄砲を含むこと)を揃えるよう命じる。ただし、永禄11年9月までは騎馬7騎・槍30本とする。
出典:永禄10年7月1日付武田信玄朱印状写(軍役定書写)「三州寺社古文書三」(『中世法制史料集 武家家法Ⅲ』)

永禄10年 1567年 10月19日 47歳
子・義信が自害する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「清和源氏 義光流 武田」「武田義信」の項

永禄11年 1568年 12月12日 48歳
北条氏政今川氏真を救援すべく小田原城(相模国)より駿河国に向けて出陣する。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)

永禄11年 1568年 12月13日 48歳
興津(駿河国)にて北条氏政武田信玄が戦う。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)

永禄12年 1569年 1月18日 49歳
北条氏康氏政父子が武田信玄に攻められた今川氏真を救援すべく、小田原城(相模国)より出陣し、心経寺に陣取る。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月25日 49歳
北条氏康氏政父子が清見寺に向けて発向する。武田信玄は軍勢を興津河原(駿河国)に出す。辰刻(7-9時)、北条勢と武田勢が戦い、北条勢が勝利する。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月26日 49歳
北条氏政が三島(伊豆国)を発ち、薩埵山に陣取る武田信玄勢と戦う。
出典:(永徳12年)2月6日付北条氏政書状(『上杉家文書』1-538号)

永禄12年 1569年 2月8日 49歳
足利義昭織田信長によって自身が上洛したことを上杉輝虎に伝えるとともに、武田信玄との和睦を勧める御内書を発給する。使者は智光院。
出典:(永禄12年)2月8日付足利義昭御内書(「上杉家文書」『織田信長文書の研究』上巻 参考p250)

永禄12年 1569年 4月28日 49歳
薩埵山にて北条氏政武田信玄が戦う。武田勢は米倉晴継が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「清和源氏 義光流 武田支流」「米倉晴継」の項

永禄12年 1569年 8月29日 49歳
武田信玄が安房国への使者を勤めることになった覚円房に対し、無事帰国したならば甲斐国山伏年行事職の補任と家1軒の諸役免除を約す。
出典:永禄12年8月29日付武田信玄判物(『山梨県史』資料編5「武田文書 二」202号)

永禄12年 1569年 9月10日 49歳
御獄(武蔵国)にて武田信玄と藤田氏邦が戦う。
出典:(永禄12年)9月10日付藤田氏邦書状(『上杉家文書』1-582号)

永禄12年 1569年 9月10日 49歳
武田信玄が藤田氏邦の籠る鉢形城(武蔵国)を攻める。氏邦が信玄勢を退ける。
出典:(永禄12年)9月10日付藤田氏邦書状(『上杉家文書』1-582号)

永禄12年 1569年 10月4日 49歳
武田信玄北条氏康北条氏政父子の籠る小田原城(相模国)の攻略を諦め、同地より撤退する。
出典:(永禄12年)10月16日付北条氏康書状(『上杉家文書』1-585号)

永禄12年 1569年 10月8日 49歳
三増峠(相模国)にて武田信玄北条氏照・氏邦・綱成等が戦い、信玄が勝利する。
武田勢:山高信親
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「山高信親」の項

永禄13年 1570年 1月16日 50歳
武田信玄が花沢城(駿河国)を攻める。
武田勢:折井次昌、横手信国(戦死)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「横手信国」の項、同166「折井次昌」の項

元亀1年 1570年 4月23日 50歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 8月29日 51歳
東大寺大仏殿の勧進につき奉加に応じるようにと記した武田信玄宛の元亀2年7月16日付正親町天皇綸旨が調えられる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 9月12日 51歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 10月3日 51歳
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀3年 1572年 11月-日 52歳
武田信玄が二俣城(遠江国)を包囲するとの報を受けた織田信長が、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を援軍として浜松城(遠江国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 11月-日 52歳
武田信玄が、中根正照、松平康安、青木四郎兵衛の籠る二俣城(遠江国)を包囲する。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項

元亀3年 1572年 -月-日 52歳
武田信玄が二俣城(遠江国)を攻略する。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 -月-日 52歳
武田信玄が堀江城(遠江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 12月22日 52歳
三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同961「渥美友勝」の項

元亀4年 1573年 1月11日 53歳
武田信玄菅沼定盈松平忠正の守る野田城(三河国)を攻める。定盈・忠正は城兵の助命嘆願のため切腹することを信玄に申し出たところ、信玄は偽って定盈・忠正を許し、城を出てきたところをとらえ、信玄に仕えるように両名に言い渡す。定盈・忠正は信玄の申し出を拒否する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 3月15日 53歳
武田信玄が、捕虜としていた菅沼定盈松平忠正を、徳川家康のもとに捕らえられていた山家三方衆の人質と交換することを家康に提案し、家康は受け入れる。広瀬川にて捕虜・人質の交換がなされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 3月20日 53歳
足利義昭上杉謙信武田信玄本願寺顕如との和睦を促す使者・書状を送る。
出典:(元亀4年)3月20日付足利義昭御内書(『上越市史 別編1 上杉氏文書集』1144号)

元亀4年 1573年 4月12日 53歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

宝永2年 1705年 4月10日 
柳沢吉保により恵林寺にて12日まで武田信玄の133回忌法要が執行される。
出典:『楽只堂年録』同年月12日条

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