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神 社 史
愛宕山(愛宕神社)(山城国)
あたごさん
祭 神
-
創 建
大宝年間 701-704[伝]
別 称
阿多古神社
関連宗教施設
長床坊、尾崎坊、下坊、西坊
現 所 在 地
〒616-8458
京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
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旧 所 在 地
-
史 料 地 名
-
イ メ ー ジ
-
参 考 文 献
-
リ ン ク
-
愛宕山(愛宕神社)(山城国) 年表
延徳2年 1490年 -月-日
祐厳が
長床坊
を開基。
出典:『寺院記』
明応2年 1493年 10月3日
下京
四条で
愛宕山
の勧進として観世猿楽が行われる。
出典:『言国卿記』同年月日条
大永7年 1527年 2月3日
柳本賢治
が西岡野田城(山城国)を落とし、西岡10ヶ所および西院(山城国)を焼く。
細川道永
は北野経王堂、
北野社
松梅院に布陣する。夜、高国は
愛宕山
に篝火を焚く。
出典:『言継卿記』同年月日条
天文11年 1542年 5月5日
長床坊が祈祷札を幕府に献じる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条
永禄2年 1559年 9月24日
足利義輝
が愛宕山に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 2月25日
愛宕山
西坊(威徳院)が吉田兼見より書籍の一時保管を依頼される。西坊は承諾する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 2月28日
愛宕山
西坊(威徳院)が吉田兼見より書籍を預かる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 3月9日
愛宕山
西坊(威徳院)が吉田兼見より書籍を預かる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正3年 1575年 4月17日
島津家久
が
愛宕山
に参詣。長床坊に宿泊する。
出典:『中書家久公御上京日記』同年月日条
天正4年 1576年 3月14日
吉田兼見の妻と吉田満千代が佐竹秀慶の妻に誘われ
愛宕山
に参詣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正4年 1576年 12月17日
愛宕山伏・但馬が越州より上洛する。
出典:『言継卿記』同年月日条
天正4年 1576年 12月18日
愛宕山伏・但馬が
山科言継
のもとを訪れ書状を持参し、言継より酒を振る舞われる。
出典:『言継卿記』同年月日条
天正4年 1576年 12月19日
愛宕山伏・但馬が
山科言継
のもとを訪れ、越前北ノ庄にいる言継娘の書状を持参し、様子を雑談し、また酒を振る舞われる。
出典:『言継卿記』同年月日条
天正10年 1582年 3月26日
越前国にいる
山科言経
の姉(松尾兵部丞の妻)が、音信として料紙2帖を、言経姉の子・松尾彦三郎が料紙1帖を言経に贈る。使者は愛宕山西坊配下の下総。
出典:『言経卿記』同年月日条
天正10年 1582年 5月27日
明智光秀
が
愛宕山
威徳院(西坊)にて連歌会を催す。参加者は里村紹巴、里村昌叱、明智光慶、兼如、心前、愛宕威徳院(西坊)行祐、愛宕大善院(上坊)宿源、行澄、行澄。
出典:『明智光秀張行百韻』(『続群書類従』17輯上)、『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」
天正10年 1582年 6月3日
細川忠興
が
高松城
(備中国)攻めのため
宮津城
(丹後国)城外の犬堂にて軍勢を揃え
明智光秀
の出陣を待っていたところ、
愛宕山
下坊より
織田信長
が本能寺にて討たれたことを聞き、その菩提を弔うとしてすぐに出家する。
出典:『細川忠興軍功記』同年月日条
天正14年 1586年 6月9日
上杉景勝
が
本圀寺
に逗留する。
木曽義昌
が景勝のもとに挨拶に訪れる。また、
愛宕山
(下坊カ)、
近衛信輔
の使者が訪れる。村上頼勝、
溝口秀勝
が音信として訪れる。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)
天正15年 1587年 3月28日
愛宕山
福寿院にて茶会が行われる。神屋宗湛が参加する。「ミソヤ肩衝」が用いられる。
出典:『見聞書』同年月日条(今日庵文庫編『茶道文化研究』第7輯 宗湛日記)
天正20年 1592年 7月14日
豊臣秀吉
の母・なか(大政所)重病のため、
清水寺
、
愛宕山
、
鞍馬寺
、石清水八幡宮、
北野社
、伊勢内宮、伊勢下宮、
多賀社
、
春日社
、稲荷社、住吉社、
祇園社
、下鴨神社、上賀茂神社、
金剛峯寺
に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)
文禄5年 1596年 閏7月-日
13日に発生した大地震とその後も続く地震により、「一山坊舎」が残すところなく転倒したという。
出典:『義演准后日記』同年月17日条
慶長8年 1603年 1月24日
舟橋秀賢
家中の男女が
愛宕山
に参詣する。
出典:『慶長日件録』同年月日条
寛永9年 1632年 11月16日
中川久盛
が
愛宕山
に青銅の鳥居を寄進する。
出典:愛宕神社鳥居銘文
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