寺 院 史

芦浦観音寺(近江国) あしうらかんのんじ
本 尊十一面観世音菩薩
創 建白雉2年 651年[伝]
開 基聖徳太子・秦河勝[伝]
山 号-
宗 派天台宗
別 称-
関連宗教施設-
現 所 在 地〒525-0002
滋賀県草津市芦浦町363-1
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク芦浦観音寺の関連文化財
芦浦観音寺(近江国) 年表
- -年 -月-日 
聖徳太子・秦河勝が芦浦観音寺を開基したと伝える。
出典:-

白雉2年 651年 -月-日 
法隆寺の覚盛が芦浦観音寺を中興したとする。
出典:『大安寺三綱記』

明応7年 1498年 8月26日 
六角氏が芦浦観音寺に毎月の代参と坂本(近江国)への御用を命じるにつき、芦浦観音寺へ諸関奉行・志那渡宛の過書を発給する。
出典:明応7年8月26日付六角氏奉行人連署奉書「芦浦観音寺文書」

永禄11年 1568年 9月-日 
織田信長芦浦観音寺に、織田勢の濫妨・狼藉、陣取り・放火、竹木伐採を停止する禁制を発給する。
出典:永禄11年9月日付織田信長禁制(滋賀県立安土城考古博物館『信長と宗教勢力-保護・弾圧そして支配へ-』)

天正10年 1582年 10月6日 
丹羽長秀芦浦観音寺の本知行分470石と志那渡船のことについて安堵する。
出典:天正10年10月6日付丹羽長秀安堵状(「芦浦観音寺文書」)

天正11年 1583年 -月-日 
梶井宮最胤が西塔定泉坊詮舜に令旨を下し二宮の再興を命じる。
出典:『天正本山再興記』,「延暦寺文書」,「青蓮院文書」

天正11年 1583年 8月1日 
羽柴秀吉が芦浦観音寺の知行480石を安堵する。
出典:天正11年8月1日付羽柴秀吉安堵状写(「芦浦観音寺文書」)

天正11年 1583年 10月27日 
詮舜が日吉社二宮造営のため杉原家次の許可を得て大和一円(筒井順慶)勧進での勧進許可の綸旨を請う。
出典:『東山御文庫記録』

天正13年 1585年 8月8日 
羽柴秀吉芦浦観音寺に内裏作事の用途として米500石(京升での)の調達を命じる。
出典:天正13年8月8日付羽柴秀吉朱印状(「芦浦観音寺文書」)

天正15年 1587年 9月28日 
豊臣秀吉が蔵入地である高島五カ荘・善積荘・新保中荘の13195石8斗5升の運上を芦浦観音寺に命じる。
出典:天正15年9月28日付豊臣秀吉朱印御蔵入目録(「芦浦観音寺文書」)

天正20年 1592年 1月3日 
豊臣秀吉が近江国諸浦の水夫を全て調べ上げ、上・中・下のランク付を行い、浦ごとに5分の1ずつ徴発し、出征させるよう、芦浦観音寺・早川長政・石川光元に命じる。
出典:(天正20年)1月3日付豊臣秀吉朱印状(「居初寅夫家文書」)

天正20年 1592年 1月-日 
観音寺詮舜・石川光元・早川長政が大津村水夫200人のうち35人を朝鮮出兵に従軍させることを決める。なお出征する水夫1人につき、妻子扶助分として2人扶持、本人に2人扶持を与え、また上クラスの水夫には10石を、中クラスの水夫には8石を、下クラスの水夫には6石を与えることを示す。35名の水夫は2月1日に聚楽第(山城国)へと向かうことを定める。
出典:天正20年1月日観音寺詮舜・石川光元・早川長政連署加子徴発状(「木村忠之家文書」)

慶長3年 1598年 6月18日 
豊臣秀吉芦浦観音寺に宛てて「江州湖上往還之船定条々」を定める。
出典:慶長3年6月18日付豊臣秀吉朱印状(「芦浦観音寺文書」)

慶長5年 1600年 4月8日 
毛利輝元宇喜多秀家徳川家康の連署をもって芦浦観音寺朝賢宛に観音寺知行分の芦浦村内420石が安堵される。
出典:慶長5年4月8日付徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元連署安堵状写(「芦浦観音寺文書」)

慶長5年 1600年 9月20日 
池田輝政福島正則の連署をもって芦浦村への軍勢の狼藉、山林の伐採、放火刃傷質取を禁止する禁制を発給する。
出典:慶長5年9月20日付池田輝政・福島正則連署禁制(「芦浦観音寺文書」)

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