神 社 史

日吉大社(近江国) ひよしたいしゃ
祭 神-
創 建-
別 称日吉社
関連宗教施設-
現 所 在 地〒520-0113
滋賀県大津市坂本5-1-1

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旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
リ ン ク-
日吉大社(近江国) 年表
建武3年 1336年 1月-日 
北畠顕家日吉社聖真子にて新田義貞らと合流する。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

応安1年 1368年 8月29日 
日吉社の神輿が入洛する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 4月20日 
日吉社の神輿が入洛する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 8月3日 
日吉社の神輿が帰座する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応永1年 1394年 9月11日 
足利義満日吉社に参詣する。
出典:『日吉社室町殿御社参記』同年月日条

明応2年 1493年 11月15日 
日吉社の社頭に土一揆が籠る。延暦寺が土一揆勢を攻撃し、大宮・八王子を残し社殿が焼失する。
出典:『言国卿記』同年月15・16日条

天文6年 1537年 3月4日 
日吉社二宮修理のため金春大夫に勧進能をさせるため桟敷を設営。この日、大坂本願寺に桟敷設営費を日吉社が募る。本願寺は「山科に本願寺があった頃なら、日吉社の近くであるので協力も考えたであろうが、今は大坂にあって日吉社からは遠いので応じられない」といって断る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文13年 1544年 7月9日 
水害により大宮の橋が流れ落ちる。
(この日は京都大洪水)
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文22年 1553年 7月28日 
日吉社で祭礼が行われる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『天文二十二年目代秀世諸色帳』同年月日条(『北野天満宮史料 目代日記』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1975年)

天文22年 1553年 12月27日 
延暦寺西塔院が日吉社二宮遷宮につき本願寺証如より奉加として2000疋を得る。
出典:『天文日記』同年月日条

永禄6年 1563年 8月21日 
日吉社退転につき復興のための勧進を許可する綸旨が発給される。
出典:永禄6年8/21付正親町天皇綸旨案(『桂林集』)

永禄6年 1563年 9月13日 
日吉社退転につき復興のための勧進を許可する室町幕府奉行人奉書が発給される。
出典:永禄6年9/13付室町幕府奉行人奉書案(『桂林集』)

永禄12年 1569年 6月18日 
日吉社社家 行丸が日乗のもとへ赴く。行丸は日乗のもとにやってきた山科言継に社頭修理のため本院執行代の申状と社家連署状をもって禁裏奉加奉加の綸旨発給を依頼する。日乗の口添えもあり、言継は長橋局に綸旨発給を申請する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月19日 
興福寺の多聞院英俊が鞍馬寺に参詣する。その後、英俊は比叡山に上る。横川に赴く。西方院にて茶を飲む。大講堂の釈迦如来、普賢堂に赴き、普賢堂では最澄、慈恵の影像を拝す。その後、根本中堂に訪れるも本尊は拝すことができず。なお、延暦寺は「堂モ坊舎ヲ一円ハテキレタル躰」だったという。また僧衆は「大旨坂本ニ下テ乱行不法無限」というありあさまで、それは「修学懈怠」のためえだるという。また、英俊は日吉社を参詣する。「社壇ノ結構」は目を驚かすものであったが、参詣者は稀で、社人・社僧も見当たらないありさまであったという。
ついで、英俊は坂本(近江国)を訪れる。坂本は「家々数多繁昌」に見えたという。小唐崎の「イセ屋」に英俊は宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 9月12日 
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 11月5日 
青蓮院尊朝日吉社再建のことについて、丹羽長秀より許可を得る。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 12月24日 
青蓮院尊朝南光坊祐能延暦寺南谷衆談をもって奉加を募り日吉社大宮を起立するよう命じる。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正11年 1583年 閏1月26日 
大仏師康正に山門三院および日吉社内神体仏像の彫刻を命じる令旨を同内容の綸旨に添えて青蓮院尊朝が発給する。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正11年 1583年 閏1月-日 
神体仏像彫刻の勅許が下りる。
出典:-

天正11年 1583年 3月-日 
日吉社大宮の仮遷宮が行われる。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)、「青蓮院文書」

天正11年 1583年 3月-日 
日吉社大宮の勧進帳がなる。
出典:『華頂要略』附録

天正11年 1583年 5月-日 
青蓮院尊朝日吉社再興の奉加を天台宗諸山学頭に募る。
出典:「青蓮院文書」

天正11年 1583年 6月10日 
日吉社にて日吉祭が行われる。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正11年 1583年 7月1日 
日吉社聖真子念仏堂の勧進帳がなる。
出典:『華頂要略』附録

天正11年 1583年 7月15日 
青蓮院尊朝が横川三光坊に令旨を下し日吉社聖真子の再興を命じる。
出典:『天正本山再興記』,「延暦寺文書」,「青蓮院文書」

天正11年 1583年 7月23日 
佐野宗綱が日吉社三宮本殿造営に奉加を出す。
出典:『東山御文庫記録』

天正11年 1583年 -月-日 
梶井宮最胤が西塔定泉坊詮舜に令旨を下し二宮の再興を命じる。
出典:『天正本山再興記』,「延暦寺文書」,「青蓮院文書」

天正11年 1583年 10月27日 
詮舜が日吉社二宮造営のため杉原家次の許可を得て大和一円(筒井順慶)勧進での勧進許可の綸旨を請う。
出典:『東山御文庫記録』

天正12年 1584年 3月20日 
梶井宮最胤が日吉社再造の奉加を募る令旨を上杉景勝に下す。
出典:「三千院文書」

天正12年 1584年 6月28日 
上杉景勝日吉社再興の綸旨を請けた旨を庁務御坊(三千院)に伝える。
出典:「三千院文書」

天正12年 1584年 10月25日 
青蓮院尊朝日吉社に参詣する。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正13年 1585年 4月19日 
青蓮院尊朝が日吉祭につき座主奉幣使として承仕・善暁を遣わす。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正13年 1585年 4月19日 
日吉祭が行われる。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正13年 1585年 8月5日 
上杉景勝日吉社三宮造営に奉加を出す。
出典:「三千院文書」

天正13年 1585年 8月7日 
祝部行丸が近江国で勧進を企画する。
出典:『桂林集』

天正13年 1585年 8月19日 
上杉景勝日吉社三宮造営のための奉加金子10枚が届く。
出典:『華頂要略』附録祐能記

天正13年 1585年 閏8月10日 
伊達政宗のもとに延暦寺根本中堂・戒壇院と日吉社三宮の勧進奉加依頼が重複し政宗が不審の念を抱いている件について、豪盛が重複した理由を説明し、奉加依頼の綸旨発給日が早かった根本中堂・戒壇院への奉加を改めて依頼する。
出典:(天正13年)閏8月10日付豪盛書状(『伊達家文書』1-334号)

- -年 -月-日 
実善日吉社八王子と神門に植林する。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「実蔵坊」の項(『天台宗全書』)

天正14年 1586年 4月8日 
日吉社大宮の遷宮が行われる。
出典:『天正本山再興記』

天正16年 1588年 -月-日 
浅野長政日吉社大宮の上葺を寄進。
出典:『華頂要略』附録祐能記

天正17年 1589年 -月-日 
新庄直頼が願主となっていた日吉社大宮・聖真子の神輿が完成する。
出典:『天正本山再興記』

天正20年 1592年 -月-日 
重順が妙見堂・日吉社三宮の造営につき本願となる。
出典:『東塔』「竹林院」の項

文禄2年 1593年 -月-日 
日吉社二宮の神殿造営。
出典:『天正本山再興記』

文禄4年 1595年 -月-日 
豪盛が本願として日吉社十禅師社を再興する。
出典:『東塔』「正覚院」の項(『天台宗全書』)

慶長3年 1598年 -月-日 
日吉社聖真子・客人両殿の造営がなり、遷宮が行われる。
出典:『天正本山再興記』

慶長4年 1599年 -月-日 
日吉社二宮の造営がなる。本願は増田長盛
出典:『天正本山再興記』

慶長6年 1601年 5月-日 
日吉社八王子の神田が造営。
出典:『天正本山再興記』

慶長19年 1614年 5月22日 
天台宗僧が駿府城(駿河国)に登城する。南殿において、南光坊天海日吉大社の八王子・三宮で起こった珍事を語る。
出典:『駿府記』同年月日条

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