寺 院 史

法隆寺(大和国) ほうりゅうじ
本 尊釈迦如来尊
創 建推古天皇15年 607年[伝]
開 基推古天皇、聖徳太子
山 号-
宗 派聖徳宗
別 称斑鳩寺
関連宗教施設-
現 所 在 地〒636-0115
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1-1
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献法隆寺に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
法隆寺(大和国) 年表
白雉2年 651年 -月-日 
法隆寺の覚盛が芦浦観音寺を中興したとする。
出典:『大安寺三綱記』

天文16年 1547年 4月19日 
三宅城(摂津国)攻略につき音信として巻数・香水代100疋を贈ってくれた法隆寺に三好政長が返礼の書状を送る。
出典:天文16年4月19日付三好宗三書状(「法隆寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-192号)

永禄8年 1565年 -月-日 
中井正清が大和国法隆寺にて生まれる。
出典:-

永禄8年 1565年 11月-日 
法隆寺に、三好勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、寄宿について停止する旨の禁制を三好長逸、加地久勝、岩成友通三好宗渭の連署で発給する。
出典:永禄8年11月日付三好長逸等連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1214号「法隆寺文書」)

元亀2年 1571年 7月3日 
夕方、松永久通多聞山城(大和国)に帰城する。松永久秀法隆寺に引き上げる。
出典:『多聞院日記』同年月4日条

元亀2年 1571年 7月4日 
夕方、松永久秀が箸尾(大和国)から引き上げ、法隆寺、龍田(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

天正5年 1577年 1月6日 
一乗院尊政が供の者200名を連れ、矢田より法隆寺に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 9月26日 
織田信長が大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆に対し所領の指出を命じる。指出にあたっては起請文形式で滝川一益明智光秀宛で提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 10月22日 
大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆の織田信長への所領の指出の結果、興福寺領は19000石、大乗院領は750石、一乗院の寺領は1300石、東大寺領は1500石、多武峰領は8000石、法隆寺領は300石、薬師寺領は2000石とされる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月17日 
徳川家康中井正清より提出された興福寺(大和国)南大門、法隆寺(大和国)の御持堂・聖霊院・法華堂の棟札写4通を見て、各棟札には大工名が入っているのに、方廣寺(山城国)大仏殿の棟札にはそれがないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

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