人 物 史

顕如 けんにょ
生 没 年天文12年(1543)1/7-天正20年(1592)11/24
出 身摂津国大坂
俗 姓(氏)大谷俗 名茶々、光佐
別 称-
院 号 坊 号信楽院
証如
九条稙通[猶父]
如従(庭田重親の娘)
兄 弟 姉 妹顕如、有子(顕妙、本宗寺教什の妻)
配 偶 者如春尼(三条公頼の娘)
教如顕尊准如
所 属 寺 社本願寺[住持]
僧 位 僧 官-
諡 号-
師 匠証如
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ顕如の関連文化財
顕如 年表
天文12年 1543年 1月6日 1歳
辰半刻(8時)、顕如が生まれる。
出典:『天文日記』同年月日、『大谷嫡流実記』「顕如」の項

天文23年 1554年 8月12日 12歳
顕如が得度する。法眼に叙される。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

天文23年 1554年 8月13日 12歳
父・証如が死去する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

弘治1年 1555年 10月23日 13歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 6月5日 14歳
足利義輝六角義賢を介して本願寺顕如に一向一揆と対立している朝倉義景と和睦するよう命じる使者を遣わす。
出典:『私心記』同年月日条

弘治3年 1557年 1月7日 15歳
本願寺顕如が如春尼を娶る。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

弘治4年 1558年 2月28日 16歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 7月17日 16歳
母・重子が死去する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

永禄1年 1558年 9月16日 16歳
子・教如が生まれる。
出典:-

永禄1年 1558年 -月-日 16歳
僧正に任じられる。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

永禄2年 1559年 12月15日 17歳
本願寺顕如が門跡に補任される。勅使は万里小路秀房。三緒袈裟、檜扇、爪紅末広を賜う。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項、『大谷本願寺通紀』巻2「顕如」の項

永禄3年 1560年 -月-日 18歳
*7月5日以前。
長尾景虎の上野国侵攻につき、北条氏康本願寺顕如に武蔵国における一向衆禁制の解除を条件に加賀一向一揆の軍勢を景虎領国の越後国へ侵攻するよう依頼する。
出典:(永禄3年カ)7月5日付下間頼充書状写(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「箱根神社文書」)、永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄3年 1560年 7月5日 18歳
本願寺顕如北条氏康に、長尾景虎の領国越後国へ加賀一向一揆の軍勢を攻め込ませると伝える。また、一向一揆の越後侵攻の条件としてい提示された武蔵国一向衆の禁制解除を喜ぶ。
出典:(永禄3年カ)7月5日付下間頼充書状写(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「箱根神社文書」)、永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄4年 1561年 3月28日 19歳
大坂本願寺にて本願寺顕如が親鸞300回忌法要を執り行う。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永禄5年 1562年 1月23日 20歳
大坂本願寺寺内町にて火災が起こり2000軒余が焼失する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永禄6年 1563年 3月1日 21歳
細川晴元が普門寺(摂津国)にて死去する。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 9月3日 21歳
三河国で一向一揆が蜂起し、徳川家康と争う。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

永禄7年 1564年 3月-日 22歳
徳川家康本願寺顕如が和睦する。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

永禄7年 1564年 9月1日 22歳
朝倉景鏡・朝倉景隆が加賀国に侵攻する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月12日 22歳
朝倉義景が一向一揆が支配する加賀国に総大将として出陣する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月17日 22歳
本折(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「大阪青山短期大学所蔵文書」)他

永禄7年 1564年 9月20日 22歳
鵜谷口(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「花倉家文書」)

永禄7年 1564年 12月26日 22歳
大坂本願寺が焼失する。
出典:『言継卿記』同年12/27条

永禄10年 1567年 9月3日 25歳
別所氏の軍勢1000が番のため大坂本願寺に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月20日 27歳
子・顕尊を本願寺門跡の脇門跡に補任してもらう。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

元亀1年 1570年 4月23日 28歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 7月27日 28歳
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 28歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 28歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 28歳
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 28歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月25日 28歳
福島(摂津国)に陣取る三好長逸三好康長岩成友通を討つため、織田信長が京都より中島(摂津国)に向けて出陣する。淀川を渡り枚方寺内町(河内国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀1年 1570年 8月26日 28歳
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月3日 28歳
足利義昭が中島(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月8日 28歳
織田信長が楼の岸(摂津国)に砦を築き、斎藤利治稲葉良通、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、長谷川与次、水野監物、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 28歳
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 28歳
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 28歳
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 28歳
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 28歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月21日 28歳
長島一向一揆が織田信興が城主をつとめる小木江城(尾張国)を攻め、信興は応戦するも自害する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月12日 29歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 -月-日 30歳
本願寺顕如織田信長に玉澗仲石の軸と白天目茶碗を贈る。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」

元亀4年 1573年 3月20日 31歳
足利義昭上杉謙信武田信玄本願寺顕如との和睦を促す使者・書状を送る。
出典:(元亀4年)3月20日付足利義昭御内書(『上越市史 別編1 上杉氏文書集』1144号)

元亀4年 1573年 4月12日 31歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 31歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 31歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 31歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 2月-日 32歳
鷺森(紀伊国)に御坊を建立する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

天正2年 1574年 4月3日 32歳
大坂本願寺にて本願寺顕如が率いる一向一揆が織田信長に対し挙兵する。
出典:『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 4月11日 32歳
大坂本願寺の一向一揆攻めのため織田信長の命により筒井勢が河内国に向けて出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 4月12日 32歳
一向一揆攻めのため織田信長が遣わした先勢が河内国を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 7月13日 32歳
織田信長信忠父子が願証寺(長島)に籠る一向一揆を攻めるため出陣し、津島(尾張国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月20日 32歳
中島(摂津国)にて荒木村重と一向一揆勢が戦い、一揆勢が勝利する。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

天正2年 1574年 9月29日 32歳
織田信長願証寺(長島)包囲につき、餓死者が続出する。これにより信長に降伏を申し入れ、船にて寺を退散する一向一揆勢が鉄砲にて撃たれる。信長は中江城、屋長島に籠る一向一揆勢の男女20000人を包囲し火をつけ焼き殺す。この戦いで織田勢は織田信広が戦死する。
出典:『信長公記』巻7(10)「樋口夫婦御生害の事」

天正3年 1575年 3月19日 33歳
万福寺(播磨国赤穂郡矢野荘那波大島)誓乗に「本願寺代々次第」を下付する。
出典:『播磨と本願寺』

天正3年 1575年 4月7日 33歳
本願寺顕如が北陸道門徒中に、織田信長大坂本願寺を破却しようとしているので、同寺に籠城すること、さしあたり兵粮を同寺まで調進するようにと命じる。
出典:同年月日付本願寺顕如印判状写(「浄光寺文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』参考)

天正3年 1575年 4月13日 33歳
織田信長大坂本願寺を攻めるため、畿内、若狭国、近江国、美濃国、尾張国、伊勢国、丹後国、丹波国、播磨の国衆、根来寺衆を率い、天王寺、住吉、遠里小野に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月14日 33歳
織田信長大坂本願寺近くの作毛を薙ぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月16日 33歳
織田信長が遠里小野に陣取り、田畠の作毛を刈り取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 6月13日 33歳
本願寺顕如が浄興寺(越後国頚城郡)に上杉謙信の支援が受けられるよう交渉を依頼する。
出典:(天正3年)6月13日付顕如消息(『上越市史 資料編3 古代・中世』898号)

天正3年 1575年 10月21日 33歳
織田信長本願寺顕如三好康長松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。
出典:『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」

天正4年 1576年 2月-日 34歳
願得寺実悟を院家とする。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

天正4年 1576年 4月14日 34歳
本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 4月21日 34歳
織田信長が大坂に城を7つ築く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月3日 34歳
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月4日 34歳
織田信長のもとに木津砦攻めで大坂本願寺に籠る一向一揆勢と戦った原田直政の討死が伝えられる。信長は5月5日に大坂本願寺へ出陣することを決め、分国中に残らず上洛するよう軍勢動員をかける。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月5日 34歳
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 34歳
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 34歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 34歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
根来寺を経由し大坂本願寺に入城しようとした吉野飯貝の一向衆が捕らえられる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月11日 34歳
勧修寺晴豊、甘露寺経元が、本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもとにが勅使として赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月23日 34歳
毛利家が大坂本願寺へ船手をもって兵粮を運び入れるとの風聞を聞いた織田信長安宅神五郎に、もし中国地方より兵粮を運ぶ船が来たならば関船を出して追い落とすようにと命じる。
出典:(天正4年)5月23日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1746号、「萩原文書」))

天正4年 1576年 5月28日 34歳
加賀一向一揆勢の藤丸勝俊・徳田重清・広瀬貞清・高桑武数・奥政堯・山本家芸・窪田綱盛・鏑木頼信・石黒政長・洲崎景勝が金沢御堂の七里頼周・坪坂伯耆入道・広済寺に上杉謙信の出馬を要請する。
出典:天正4年5月28日付藤丸勝俊等連署状(『真宗大谷派金沢別院史 下』6号)

天正4年 1576年 7月12日 34歳
毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英戸川秀安・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉が岩屋(淡路国)を出航し、貝塚(和泉国)に着岸する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)

天正4年 1576年 7月13日 34歳
大坂本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉、宇喜多家の戸川秀安が雑賀衆ととともに津より住吉(摂津国)に出船した際、木津川河口にて織田家の水軍衆に遭遇する。織田方は真鍋貞友、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、野口が300艘にて応戦。14日早朝まで戦闘が繰り広げられる。村上水軍衆の焙烙火矢により織田方の船が焼き崩される。織田信長も当地に向かうが、向った時には毛利勢による兵糧の運び入れが終わっていたため撤退する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)、『信長公記』巻9(5)「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事」、(天正4年)7月27日付吉川元春書状(『上杉家文書』2-646号)

天正5年 1577年 7月9日 35歳
子・准如が生まれる。
出典:-

天正6年 1578年 4月4日 36歳
織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月5日 36歳
織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月6日 36歳
織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月8日 36歳
織田信忠大坂本願寺より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月26日 36歳
九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月17日 36歳
九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月18日 36歳
九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月20日 36歳
浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。
出典:『多聞院日記』同年月日・21日条

天正6年 1578年 9月27日 36歳
織田信長九鬼嘉隆の大船を見物するため、京都を発ち、八幡に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月28日 36歳
織田信長が八幡を発ち若江(河内国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月29日 36歳
早朝、織田信長天王寺に到着。佐久間信盛のところにて休息。その後、鷹狩をしながら住吉神社に移る。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月30日 36歳
織田信長に到着する。近衛前久、細川、一色が同道。九鬼嘉隆の大船を見物する。今井宗久のもとに茶を飲み、帰る途中、宗養・宗及・道昵の私宅にも寄る。住吉神社に帰る。住吉神社にて嘉隆を召し黄金10・服・ばくろう2折を与え、かつ1000人ずつ扶持を与える。また、犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫大夫の3人に黄金3枚と服を与える。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月1日 36歳
織田信長が住吉神社から河内国を経由し京都に戻る。安見新七郎のもとで休息する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月21日 36歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月4日 36歳
二条の御殿に滞在中の織田信長村井貞勝を朝廷につかわし本願寺顕如との和睦仲介を依頼する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 11月6日 36歳
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 36歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 36歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 36歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 36歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 12月12日 36歳
本願寺顕如が万福寺(播磨国赤穂郡坂越荘鍛屋村)誓乗に証如御影を下付する。
出典:『播磨と本願寺』

天正7年 1579年 4月6日 37歳
下間頼廉大坂本願寺へ雑賀御坊惣中に雑賀鉄砲衆300名の派兵を再度請う。
出典:(天正7年)4月6日付下間頼廉書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-参考138号、「鷺森別院文書」)

天正7年 1579年 4月6日 37歳
2月5日に毛利輝元が畿内に向けて出勢したのを受け、武田勝頼は織田領の尾張・美濃、徳川領の三河に出勢することを吉川元春に伝える。また、本願寺顕如荒木村重が健在なうちに足利義昭の入洛を成し、畿内静謐を図るよう輝元に諫言するよう元春に依頼する。
出典:(天正7年)4月6日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3117号、吉川家文書)

天正7年 1579年 8月9日 37歳
柴田勝家が加賀国に侵攻し、阿多賀・本折・小松町口を焼き払い、苅田をする。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 37歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 37歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 37歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 37歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 37歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 37歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月29日 37歳
天王寺にて、織田信長勢と大坂本願寺の一向一揆勢が戦う。
出典:『多聞院日記』同年10月6日条

天正7年 1579年 10月15日 37歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 37歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 1月17日 38歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正8年 1580年 2月20日 38歳
織田信長大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月1日 38歳
禁裏より織田信長本願寺顕如の和睦のため、近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が勅使として顕如のいる大坂本願寺に赴く。勅使に佐久間信盛松井友閑が添えられる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 閏3月6日 38歳
織田信長安土城(近江国)より天王寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(3)「大坂退散御請け誓紙の事」

天正8年 1580年 閏3月9日 38歳
柴田勝家が加賀国に侵攻する。勝家は添川・手取川を渡り宮の腰に陣取る。野々市に籠る一向一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 4月9日 38歳
本願寺顕如、如春尼、下間頼廉、平井越後守、八木駿河守が大坂本願寺を退去する。顕如の子・教如は大坂本願寺への籠城を継続する。
出典:『信長公記』巻13(6)「本門跡大坂退去の事」

天正8年? 1580?年 6月9日 38歳
大坂本願寺籠城を継続する教如が、越中・加賀の門徒衆の非協力の状況を糺すため寺内素休と井上善五郎を勝興寺に遣わす。
出典:6月9日付教如書状(『越中真宗史料』一 中世「勝興寺文書」)

天正8年? 1580?年 7月2日 38歳
横田重恒等が、6月9日に勝興寺に遣わされた寺内素休・井上善五郎に、大坂本願寺籠城(「大坂拘様」)を続ける教如の無事と、越中下向後の二人が大坂へ越中の情勢について報告がないため不審に思っていること、松倉城(越中国)に在番している河田長親に大坂本願寺籠城が困難であるため支援を依頼するように命じる。
出典:7月2日付横田重恒他連署状(金龍静『一向一揆論』(吉川弘文館、2004年)史料編-62号 「慈明寺文書」)

天正8年 1580年 7月2日 38歳
本願寺顕如織田信長に礼をする。使者は藤井藤左衛門、八木駿河守、平井越後守。勅使の近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が藤井等に付き添いをするため、織田信忠顕如からの礼物である太刀代銀子100枚を贈る。松井友閑佐久間信盛が披露。織田信長は本願寺の使者および勅使に対面せず。
出典:『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正8年 1580年 8月2日 38歳
大坂本願寺に籠城を継続していた教如織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が、信長からの使者として松井友閑佐久間信盛矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。
出典:『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正10年 1582年 1月5日 40歳
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ歳暮の礼として送った使者・平井越後が鷺森本願寺に戻ってくる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月8日 40歳
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ年始の礼として八木駿河を遣わす。
御使として下間仲孝、寺内若狭を安土(近江国)に遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月22日 40歳
岸和田城(和泉国)の織田信張より当春の礼として太刀1腰、鍬2懸、雁1、鱈5が贈られる。信張に返書を送る。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月29日 40歳
本願寺顕如が藤井八郎左衛門を安土(近江国)にいる宮内のもとへ遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月6日 40歳
藤井八郎左衛門が鷺森に帰寺する。
織田信長本願寺顕如の警固として野々村正成を遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月9日 40歳
昨冬の「御縁辺之儀」について、本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ八木駿河、円山内匠を遣わす。
鷺森の警固として野々村正成が到着する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月13日 40歳
織田信張、鈴木重秀の軍勢2000が湊(紀伊国)に出陣する。
重秀の指示により本願寺顕如が信張に10種10荷の代2000疋を、根来在陣衆・和泉国国人衆に樽代を遣わす。使者は河野越中。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月23日 40歳
織田信張が根来寺付近の山口に帰陣する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月24日 40歳
本願寺顕如安土城(近江国)に帰る野々村正成に藤井八郎左衛門を添え遣わし、織田信長に礼を述べる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月1日 40歳
山内(加賀国)の一向一揆を柴田勝家が鎮圧する。
出典:『鷺森日記』同年月5日条

天正10年 1582年 3月3日 40歳
本願寺顕如安土城(近江国)に遣わした藤井八郎左衛門が帰寺する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月18日 40歳
信濃国・甲斐国の侵攻のため霧カ城(美濃国)に在陣中とされる織田信長のもとに、本願寺顕如が音信として川那部右衛門を遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月21日 40歳
松井友閑本願寺顕如に当年の礼として1腰1疋を贈る。使者は等見。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 4月5日 40歳
本願寺顕如が音信として織田信長に遣わした川那部右衛門が信長に対面する。
出典:『鷺森日記』同年月20日条

天正10年 1582年 4月18日 40歳
本願寺顕如が織田信張に音信として1000疋を贈る。使者は河野越中。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 4月20日 40歳
本願寺顕如織田信長に音信として遣わした川那部右衛門が鷺森本願寺に帰寺する。
八木駿河を安土城(近江国)に遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 5月9日 40歳
織田信張が本願寺顕如に音信としてガンザウ桶2個を贈る。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月2日 40歳
本願寺顕如織田信孝へ音信として太刀、馬代鳥目5000疋、道服1、帷子5を贈る。使者は平井越後。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月3日 40歳
5つ時分、より本能寺の変についての情報が鷺森(和泉国)にもたらされる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月4日 40歳
本願寺顕如が信孝へ音信として遣わした平井越後が音信を届けず帰寺する。理由は、本能寺の変により信孝の軍勢が摂津へと陣替えとなったため。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月11日 40歳
本願寺顕如明智光秀に使者を遣わす。ただし、光秀戦死につき使者は光秀のもとに届かず。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 7月1日 40歳
本願寺顕如織田信孝に音信として平井越後を遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 7月15日 40歳
本願寺顕如岸和田城(和泉国)に帰城した蜂屋頼隆に織色10端を贈る。使者は円山内匠
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 8月14日 40歳
堀秀政本願寺顕如に使者として堀六右衛門(蓮照寺)を遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 8月18日 40歳
徳山則秀本願寺顕如に音信として黒梅10端を贈る。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正11年 1583年 閏1月22日 41歳
本願寺顕如が湯治のため有馬(摂津国)に向かうべく鷺森を発つ。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 閏1月24日 41歳
本願寺顕如が有馬(摂津国)に到着する。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月10日 41歳
夜、本願寺顕如が有馬(摂津国)を出立する。神崎より夜船にて橋本(山城国まで赴く。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月11日 41歳
本願寺顕如が入京する。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月12日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月13日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月14日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月15日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月16日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月17日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月18日 41歳
本願寺顕如が京都見物をする。なお、見物先は清水寺北野社、石清水八幡宮、清凉寺、泉涌寺、祇園社、松尾神社。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月19日 41歳
本願寺顕如が宇治(山城国)を見物をする。顕如は奈良(大和国)に宿泊する。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月20日 41歳
本願寺顕如春日社の所々を見物をする。春日社若宮にて行われた太神楽を見物し銭12貫を贈る。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条、『多聞院日記』同年月22日条

天正11年 1583年 2月21日 41歳
本願寺顕如が奈良(大和国)を発ち、三輪神社、長谷寺に参詣する。この頃の長谷寺は在家2・3町続き、左右に旅宿などをする町屋が200軒連なっているという。また観音堂は半作という。顕如は今井(大和国)に赴き宿泊する。
出典:『顕如上人雑記』同年月日条

天正11年 1583年 2月22日 41歳
本願寺顕如が今井(大和国)を発ち吉野に赴き飯貝(大和国)に宿泊する。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月23?日 41歳
本願寺顕如が、飯貝(大和国)の本善寺に赴き桜の樹を見物した後、下市(大和国)の願行寺に宿泊する。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月24日 41歳
本願寺顕如が下市(大和国)の願行寺を発つ。今井(大和国)および山田(河内国)にて1献あり。の慈光寺に宿泊する。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月25日 41歳
本願寺顕如が鷺森本願寺に帰る。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正11年 1583年 2月-日 41歳
本願寺顕如が門末に下付する絵像本尊の大きさを定める。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

天正11年 1583年 4月8日 41歳
羽柴秀吉下間頼廉に加賀国で一向一揆を起こすよう要請する。
出典:(天正11年)4月8日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「本願寺文書」)

天正11年 1583年 7月14日 41歳
本願寺顕如が、羽柴秀吉への毛利家の使者として安芸よりにやってきた安国寺恵瓊荒木村重に書状を送り、大坂本願寺退散以来無音であったことを謝す。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 8月22日 41歳
有馬(摂津国)に湯治中の羽柴秀吉へ音信として道服2・大樽5、石田三成に綿5把、増田長盛に綿5把を遣わす。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 9月15日 41歳
本願寺顕如が、貝塚動座の礼として羽柴秀吉下間頼廉、寺内若狭、増田照従を遣わす。両名はに到着。頼廉は浅野長政への音信の添状と、岸和田城(和泉国)城主・中村一氏への添状を調える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 9月17日 41歳
貝塚動座の礼として本願寺顕如羽柴秀吉へ遣わした下間頼廉、寺内若狭、益田照従大坂城(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は松井友閑前田利家千宗易津田宗及荒木道薫。頼廉は秀吉より馬を賜る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 9月25日 41歳
本願寺顕如が湯治のため有馬(摂津国)に赴くべく貝塚本願寺を発す。小浜より出航。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 9月27日 41歳
本願寺顕如が有馬(摂津国)に到着する。10月14日迄、有馬逗留。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月14日 41歳
本願寺顕如が貝塚本願寺に戻るべく有馬(摂津国)を発す。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月15日 41歳
本願寺顕如が堺御坊に一宿する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月16日 41歳
本願寺顕如が貝塚本願寺に帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月21日 41歳
根来寺惣分が本願寺顕如に音信として大樽10荷・肴3種を贈る。使者は良永で宇野主水・下間頼廉とともに対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 10月24日 41歳
本願寺顕如が有馬湯治の土産として、羽柴秀吉に錫1対・有馬挽物食籠5つ、浅野長政石田三成に綿10把を贈る。使者は河野越中。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 11月1日 41歳
大坂城(摂津国)へ人質として赴いていた吉川広家本願寺顕如に音信として太刀1腰・緞子10巻を贈る。顕如は宇野主水・下間頼廉とともに広家の使者・森脇又左衛門と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 11月2日 41歳
大坂城(摂津国)へ人質として赴いていた小早川秀包本願寺顕如に音信として太刀1腰・緞子10巻を贈る。顕如は宇野主水・下間頼廉とともに秀包の使者・桂川民部少輔と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 11月20日 41歳
本願寺顕如中村一氏のもとへ益田照従を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 12月28日 41歳
本願寺顕如が歳暮の礼として羽柴秀吉に小袖3・帯3筋を、浅野長政石田三成増田長盛に銭500疋を遣わす。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 12月29日 41歳
北陸に遣わしていた寺内若狭が帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 1月16日 42歳
中村一氏が年頭の礼として貝塚本願寺にいる本願寺顕如のもとを訪れる。顕如は一氏に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 1月18日 42歳
本願寺顕如羽柴秀吉へ年頭の礼として太刀1腰、馬代1000疋を、増田長盛石田三成に500疋ずつを贈る。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 1月21日 42歳
本願寺顕如中村一氏に年頭の礼の返礼として音信を遣わす。使者は下間頼廉下間仲孝
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月22日 42歳
中村一氏が貝塚本願寺にいる本願寺顕如のもとに礼としてやってくる。顕如は一氏と御影堂にて対面し盃を与える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月23日 42歳
本願寺顕如が尾張国に出陣した羽柴秀吉のもとに見舞いの使者を遣わす。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月27日 42歳
長宗我部元親が貝塚本願寺にいる本願寺顕如のもとに年頭の礼として使者を遣わす。顕如は使者と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月7日 42歳
本願寺顕如がお忍びで瀬田(近江国)・宇治(山城国)を見物する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月10日 42歳
3月23日に本願寺顕如羽柴秀吉のもとに見舞いとして遣わした円山内匠が帰寺。内匠より小牧・長久手の合戦や当該地の情勢を聞き及ぶ。内匠は松島城(伊勢)が秀吉のものとなり伊勢国は秀吉が平定し、尾張国も過半は秀吉が抑えたと述べる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月20日 42歳
羽柴秀吉が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に鵜飼八蔵を遣わす。鵜飼は北伊勢での一向一揆蜂起につき、本願寺の関与を問い質す秀吉の書状(下間頼廉益田照従宛)を持参する。秀吉の書状は頼廉・照従宛であったが、顕如が直札をもって北伊勢一向一揆蜂起の不関与を弁明する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月24日 42歳
本願寺顕如羽柴秀吉に陣中見舞いとして河野越中を遣わす。加えて秀吉より問い質された北伊勢一向一揆蜂起の件について、北伊勢坊主中に御書を遣わしよくよく言い聞かせるようにすることを伝えさせる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 5月19日 42歳
本願寺顕如が1月あまり不食の状態であったため、この日、竹田法印が下向し、脈を取り無事を確認する。法印は顕如に薬を調合する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 6月17日 42歳
蒲生氏郷が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に、今後、良好な関係を築きたいと音信を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 7月29日 42歳
赤松広英が本願寺顕如に音信を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月2日 42歳
本願寺顕如が有馬(摂津国)に湯治に赴いた羽柴秀吉のもとに音信として銭1000疋を遣わす。使者は河野越中。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月4日 42歳
羽柴秀吉に烏帽子形城(河内国)の普請を命じられた中村一氏のもとに本願寺顕如が音信として鍬50丁を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 8月8日 42歳
本願寺顕如が新たに成った大坂城(摂津国)に移徙した羽柴秀吉のもとに音信として刀1腰・馬代3000疋を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 9月10日 42歳
本願寺顕如羽柴秀吉の陣所へ音信として小袖を送る。使者は円山内匠。また丹羽長秀に音信として小袖2を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 10月6日 42歳
本願寺顕如羽柴秀吉の帰陣の音信として綿50把を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月5日 43歳
浅野長政中村一氏本願寺顕如のもとへ礼として赴く。顕如は両名に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月9日 43歳
堀秀政本願寺顕如へ年頭の礼として堀采女を貝塚本願寺に遣わす。顕如・教如に太刀1腰・綿5把を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月11日 43歳
本願寺顕如徳川於義伊に小袖2・道服1を、石川数正に小袖2、杉田新兵衛に小袖1を音信として遣わす。使者は寺内相模
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月13日 43歳
本願寺顕如羽柴秀吉に年頭の礼として太刀・馬代1000疋を送る。
大坂城(摂津国)に人質としてやってきた徳川於義伊に随従している杉田新兵衛が貝塚本願寺を参詣する。杉田は懇志を進上する。顕如は杉田と対面し盃を遣わすとともに雑談する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月21日 43歳
前田玄以が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に音信として太刀・馬代・縮10端を贈る。使者は松田政行と門徒の味岡小三郎。顕如は政行と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月22日 43歳
徳川於義伊が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に小姓と石川数正を遣わす。顕如は両人と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 2月24日 43歳
本願寺顕如大坂城(摂津国)にいる織田信雄に音信を遣わす。使者は河野越中。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月9日 43歳
大坂(摂津国)より孝蔵主が貝塚本願寺を訪れる。如春尼の屋敷にて素麺、酒などによりもてなし、六角承禎の宿所に宿泊する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月15日 43歳
本願寺顕如羽柴秀吉に内大臣就任の礼として1腰、馬代20貫を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月16日 43歳
下間頼廉邸の庭で花見に本願寺顕如教如父子が赴く。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月21日 43歳
教如興正寺顕尊兄弟が根来寺・雑賀衆攻めのため大坂城(摂津国)を出立した羽柴秀吉を大津(和泉国)にて迎える。顕如は病のため見舞いに赴けず。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月23日 43歳
本願寺顕如が紀伊国に出征中の羽柴秀吉に礼として下間頼廉、下間豊前を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月24日 43歳
雑賀御坊より本願寺顕如に注進が入り、羽柴秀吉の雑賀・根来寺討伐につき、雑賀御坊寺内・宇治・岡は無事であるが、添・中島はすべて放火された旨が伝えられる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月27日 43歳
本願寺顕如が紀伊国にいる羽柴秀吉のもとに遣わした下間頼廉、下間豊前が貝塚本願寺に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月2日 43歳
本願寺顕如羽柴秀吉のもとへ下間頼廉を遣わす。
前田利家より、先に顕如から寺内相模を音信として派遣したことに対する返礼の使者として金沢在京人・念西の門徒がやってくる。太刀・馬・綿30把・蝋燭50挺が利家より贈られる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月3日 43歳
本願寺顕如が、子・教如興正寺顕尊を紀伊国にいる羽柴秀吉のもとへ陣中見舞いとして遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月4日 43歳
本願寺顕如が遣わした子・教如、興正寺顕尊が土橋平之丞の城内にいた羽柴秀吉と対面する。教如より猩々皮1枚、道服2、銀50枚、顕尊より縮30端、瓶10対を秀吉に贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月5日 43歳
子・教如興正寺顕尊が貝塚本願寺に帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月13日 43歳
本願寺顕如が紀伊国奥郡に出陣中の中村一氏に音信として小袖3、馬、樽3を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月25日 43歳
羽柴秀吉の雑賀・根来寺攻めの軍勢開陣につき、本願寺顕如が子・教如興正寺顕尊とともに茶屋で一献を進上する。秀吉は顕如・教如・顕尊の4人のみで一献を受ける。
施薬院全宗が礼にやってくる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月26日 43歳
赤松広秀が本願寺顕如のもとに礼にやってくる。
顕如がにいるとされる羽柴秀吉のもとに、下間頼廉円山内匠を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月28日 43歳
羽柴秀吉のもとに遣わしていた下間頼廉円山内匠が貝塚本願寺に帰寺する。頼廉・内匠は秀吉より渡辺(摂津国)に本願寺を移すように命じられたことを伝える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月3日 43歳
本願寺顕如羽柴秀吉より渡辺(摂津国)に与えられた寺内屋敷地を請取るため(移転承知の旨を伝えるため)、下間頼廉円山内匠益田照従を秀吉のもとに遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月4日 43歳
羽柴秀吉が天満本願寺の縄張り打ちをする。敷地は中嶋天満宮の会所から東の河際までの7町、北へ5町で、大坂本願寺より広大となる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月6日 43歳
本願寺顕如の体調不良につき遊仙軒が京都より下向する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月6日 43歳
遊仙軒が本願寺顕如の脈を診る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月8日 43歳
本願寺顕如が、岸和田(和泉国)から甲賀(近江国)に移封となった中村一氏のもとに音信として下間頼廉を遣わし、縮20端・道服を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月27日 43歳
雑賀(紀伊国)に下向中の羽柴秀長本願寺顕如のいる貝塚本願寺を訪れる。湯漬で迎える。その後、秀長は雑賀に戻る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 6月1日 43歳
本願寺顕如が5月27日に来寺してくれた羽柴秀長への礼として益田照従円山内匠を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 6月18日 43歳
寺沢広高本願寺顕如のもとを訪れる。下間仲孝が顕如に取り次ぎ、顕如は広高と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 6月23日 43歳
本願寺顕如が天野の金剛寺を見物する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 43歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月27日 43歳
本願寺顕如佐々成政の対治のため北陸在陣中の羽柴秀吉に陣中見舞いとして河野越中を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月30日 43歳
羽柴秀吉より寺地として得た中島(摂津国)に本願寺(天満本願寺)を移転する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月27日 43歳
本願寺顕如大坂城(摂津国)に帰城する豊臣秀吉を大坂城門外にて礼をする。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月3日 43歳
松井友閑が初めて本願寺顕如のもとに礼に訪れる。友閑に今井宗久が同道する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月8日 43歳
本願寺顕如教如興正寺顕尊羽柴秀吉のもとに礼に訪れる。座敷にて湯漬け、三之膳でもてなす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月10日 43歳
脇坂安治、宮木藤左衛門が本願寺顕如のもとに礼に訪れる。安治・藤左衛門に顕如は子・教如興正寺顕尊とともに対面する。
石田三成が顕如のもとに礼に訪れ、顕如に1腰・馬を、教如に太刀・馬代を、顕尊に1腰・馬代を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月12日 43歳
施薬院全宗今井宗久・今井隼人を同道して本願寺顕如のもとに礼に訪れる。全宗は顕如・教如興正寺顕尊に銀5枚を贈る。顕如は子・教如、顕尊とともに全宗・宗久・隼人に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月14日 43歳
羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成増田長盛大谷吉継千抛筅斎施薬院全宗今井宗久、今井宗薫等が随従する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 9月23日 43歳
本願寺顕如が湯治に赴く。子・准如下間頼廉、宇野主水が随従する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 10月8日 43歳
本願寺顕如が湯治より天満本願寺に帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 10月15日 43歳
長宗我部元親大坂城(摂津国)より土佐国に帰国につき本願寺顕如のもとへ桑名太郎左衛門を遣わす。元親帰国の世話をしている今井宗久も訪れる。元親は顕如に太刀1腰、馬1疋(栗毛)を贈る。
妻・如春尼に細川忠興女房衆より音信として鮭1疋、鯛20枚、饅頭1折、折樽5荷が贈られる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 10月23日 43歳
羽柴秀吉大坂城(摂津国)帰城につき、本願寺顕如教如興正寺顕尊が川向かいにて出迎える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月9日 43歳
妻・如春尼が仙洞御所見物のため上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月12日 43歳
妻・如春尼が天満本願寺に帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月20日 43歳
19日に小早川隆景吉川元長に着津したのをうけ、本願寺顕如が隆景、元長に馬2疋(羽柴秀吉よりの馬と教如よりの馬)を贈る。使者は下間頼廉
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月25日 43歳
小早川隆景吉川元長が帰国に先立ち本願寺顕如のもとへ礼に訪れる。隆景より1腰・5000疋、元長より1腰・虎豹皮3枚・馬代銀2枚が顕如に贈られる。元長の使者は吉川又五郎。
中村一氏が礼に訪れる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月3日 44歳
本願寺顕如羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。下間頼廉が供をする。
堀秀政森忠政が顕如のもとを訪れる。頼廉が取り次ぐ。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月8日 44歳
本願寺顕如教如興正寺顕尊下間頼廉長宗我部元親のもとを訪れる。元親は9日、土佐国に向けて出港予定とされる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月9日 44歳
九鬼嘉隆津田宗及本願寺顕如のもとを訪れる。下間頼廉が取り次ぐ。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月12日 44歳
石川数正、石川半次郎が本願寺顕如のもとを訪れ、顕如に馬、太刀を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月17日 44歳
本願寺顕如羽柴秀吉に見舞いとして大蒲100を贈る。使者は円山内匠
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月22日 44歳
円山内匠が貝塚本願寺に戻る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月23日 44歳
本願寺顕如が子・興正寺顕尊のもとを訪れる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月3日 44歳
羽柴秀吉聚楽第(山城国)普請につき、本願寺顕如が音信として河野越中を遣わし、鍬100挺を贈る。
禁裏への当年の礼として河野越中を遣わし、例のごとく10合10荷の代銀100目を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月晦日 44歳
本願寺顕如が4月1日の祝儀として羽柴秀吉のもとに円山内匠を遣わし袷2を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 4月3日 44歳
本願寺顕如が湯治のため十津川(大和国)に赴くべく、天満本願寺を出立する。今井(大和国)に逗留する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 4月5日 44歳
本願寺顕如が下市(大和国)に赴く。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 4月6日 44歳
本願寺顕如が下市(大和国)を発つ。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 4月8日 44歳
本願寺顕如が十津川(大和国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 4月27日 44歳
本願寺顕如が十津川(大和国)より天満本願寺に帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 6月1日 44歳
天満本願寺の地築が始まる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 6月4日 44歳
天満本願寺の地築につき石を据える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 6月17日 44歳
上杉景勝直江兼続が千坂景親(景勝使者)・大石綱元(兼続使者)を、天満本願寺の本願寺顕如教如のもとに音信として遣わす。景勝はそれぞれに太刀1腰・馬1疋を、兼続は馬1疋を贈る。
出典:『宇野主水日記』同年月日条

天正14年 1586年 6月26日 44歳
天満本願寺の御影堂柱立が始まる。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」

天正14年 1586年 6月28日 44歳
天満本願寺の御影堂棟上が行われる。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」

天正14年 1586年 7月19日 44歳
天満本願寺の御影堂棟上式が行われる。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」

天正14年 1586年 7月29日 44歳
在京中の羽柴秀吉に八朔の礼として帷子3、紅帯を贈る。使者は湊口半左衛門。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 8月3日 44歳
親鸞木像を天満本願寺の阿弥陀堂から御影堂に移徙する。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」

天正14年 1586年 8月19日 44歳
天満に造営した興正寺の御堂の棟上が行われる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 9月9日 44歳
本願寺顕如羽柴秀吉に重陽の節句の祝儀として小袖を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 9月28日 44歳
湯治のため、本願寺顕如、顕如の妻・如春尼、子・准如が有馬(摂津国)に赴く。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月14日 44歳
有馬(摂津国)に湯治に赴いていた本願寺顕如、顕如の妻・如春尼、子・准如が天満本願寺に帰寺する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月30日 44歳
大坂滞在中の徳川家康が、本願寺顕如、教如、興正寺顕尊に音信として松平忠右衛門を遣わし、顕如に1腰、馬を、教如・顕尊に馬を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 11月3日 44歳
朝早く、本願寺顕如、顕如の妻・如春尼が後陽成天皇への譲位を見物するため忍びにて上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 11月13日 44歳
本願寺顕如教如興正寺顕尊が参内する。顕如は准后に、教如は僧正に任じられる。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正14年 1586年 11月27日 44歳
本願寺顕如が痢病を患い通仙院に逗留する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 12月27日 44歳
豊臣秀吉教如のもとに赴き茶湯に訪れる。また、秀吉が本願寺顕如を見舞う。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正18年 1590年 7月-日 48歳
本願寺顕如が門末に下付する絵像を作成する絵所を設置する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項

天正19年 1591年 1月20日 49歳
豊臣秀吉本願寺顕如に天満本願寺からの移転を命じる。場所は北は下鳥羽から南は下淀までの間で所望の地を与える旨を言い渡される。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 1月22日 49歳
本願寺顕如、如春尼、教如准如興正寺顕尊の饗応を受ける。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 閏1月8日 49歳
これより先、豊臣秀吉本願寺顕如に1万石を給付する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 2月3日 49歳
天満本願寺の御堂において准如が得度する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 3月-日 49歳
豊臣秀吉本願寺顕如に本願寺を京都西六条へ移転するよう命じる。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

天正20年 1592年 2月-日 50歳
本願寺(京都六条)の釿始が執行される。
出典:『紫雲殿由縁記』

天正20年 1592年 9月23日 50歳
豊臣秀吉本願寺顕如のもとに茶湯に赴く。その後、大仏殿に赴き、さらに大坂城(摂津国)へ向かう。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月18日 50歳
本願寺(京都六条)にて移徙供養が執行される。
出典:『紫雲殿由縁記』

天正20年 1592年 11月24日 50歳
報恩講の仏事の最中、本願寺顕如が中風により死去する。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

天正20年 1592年 11月24日 
報恩講の仏事の最中、本願寺顕如が中風により死去する。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

文禄1年 1592年 12月10日 
七条東河原にて顕如の葬礼が行われる。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

文禄1年 1592年 12月25日 
顕如の遺骨が大谷本願寺の旧地に納骨される。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

寛文2年 1662年 2月-日 
顕如准如の墓が大谷本廟の左右に築かれる。
出典:『紫雲殿由縁記』

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