人 物 史

義演 ぎえん
生 没 年永禄1年(1558)8/20-寛永3年(1626)閏4/21
出 身山城国
俗 姓(氏)二条俗 名-
別 称-
院 号 坊 号三宝院
二条晴良位子(伏見宮貞敦親王の娘)
兄 弟 姉 妹九条兼孝二条昭実義演鷹司信房
所 属 寺 社醍醐寺三宝院
僧 位 僧 官大僧正
諡 号-
師 匠堯助
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる義演の呼称
義演 年表
永禄1年 1558年 8月20日 1歳
義演が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 5月2日 14歳
義演が参内する。近く理性院僧正の後見のもと得度するとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 5月2日 19歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 22歳
父・二条晴良が死去する。
出典:『系図纂要』「二条家」

天正13年 1585年 7月11日 28歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 35歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄3年 1594年 7月16日 37歳
三宝院義演東寺長者に補任される。
出典:『義演准后日記』文禄5年1月27日条

文禄3年 1594年 7月22日 37歳
大政所(豊臣秀吉の母・なか)が大檀那となり、応其が作事奉行をつとめた東寺塔婆の完成につき塔供養を行う。導師は三宝院義演
出典:『義演准后日記』文禄5年閏7月13日条

文禄5年 1596年 1月4日 39歳
三宝院義演応其に年賀の札と樽を送ってきたので、応其が返礼をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月13日 39歳
三宝院義演伏見城(山城国)にいる豊臣秀頼に巻数を進上する。使者は北村久次。義演は毛利輝元に杉原10帖・末広を送る。毛利家への使者は治部卿法眼。伊達政宗に折と書状を送る。伊達家への使者は大蔵卿上座。門跡領である山城国久多郷の代官である朽木元網に折を送る。
淀殿が義演に縮1巻・杉原20帖を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月25日 39歳
豪盛が大仏千僧会に出仕。豪盛は醍醐寺三宝院義演と雑談する。豊臣秀吉延暦寺を建立してくれたことを義演に物語る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月28日 39歳
三宝院義演が1月29日の大仏千僧会にて導師を勤めるため上洛する。応其が義演に大仏殿奥院を宿坊として提供する。応其は伊賀に赴いていたため留守。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月29日 39歳
豊臣秀吉が母・なかのため大仏殿妙法院にて八宗の僧侶による千僧会を執行する。三宝院義演等が出仕する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月22日 39歳
2月25日の大仏千僧会は空性が導師を勤める番であったが、病のため代わりに導師を勤めて欲しいと三宝院義演に依頼がきたので了承する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月23日 39歳
2月25日の大仏千僧会出仕につき三宝院義演応其に宿坊を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月24日 39歳
三宝院義演が上洛し大仏奥院を宿坊とする。
毛利輝元が義演に500疋を進上する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月25日 39歳
大仏千僧会が行われる。三宝院義演等が出仕する。
義演は宿坊にて応其に会い高野山奥院灯籠堂が炎上したことを聞く。
義演は本尊をはじめ大仏殿を見物し、あまりの広さに驚嘆する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 6月25日 39歳
大仏千僧会が行われる。三宝院義演が導師として出仕する。
義演は明使が伏見に到着すると聞き、伏見(山城国)に向かい明使の行列を見物する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月28日 39歳
三宝院義演が、29日に大仏千僧会に出仕するため、大仏殿応其の坊へ向かい宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月29日 39歳
大仏千僧会が行われる。三宝院義演が導師として出仕する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月9日 39歳
方廣寺大仏の開眼供養開催につき、三宝院義演東寺および応其より呪願の勤仕を依頼されたため、請ける旨を前田玄以に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月18日 39歳
13日の大地震以降、地震が続く状況において、禁裏が大地震に対する祈祷を勤修するよう三宝院義演に命じる。これをうけ義演は醍醐寺の山上・山下にその旨を周知させる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 39歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 1月24日 40歳
三宝院義演が病の青蓮院尊朝に見舞いの使者を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 2月21日 40歳
三宝院義演応其に醍醐寺の塔婆修理に協力するよう依頼し、応其が引き受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月8日 40歳
前触れもなく豊臣秀吉徳川家康が花見として醍醐寺を訪れ、三宝院義演が仰天して迎える。馬場の桜、金剛輪院の桜を観た後、醍醐寺内に入り破損した塔婆を見た秀吉が、1500石を給付する旨を義演に伝える。ついで秀吉が菩提寺の糸桜を観た後、膳を用意し、秀吉・家康とともに詠歌を読む。その後、秀吉は上醍醐まで登り、帰路、馬場にて義演に石木を取ることを禁止する禁制を発給する旨を伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月15日 40歳
三宝院義演が、21日に高野山大塔供養会にて導師を勤めるべく醍醐寺を発す。この日、大和郡山(大和国)にある応其の宿坊に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月16日 40歳
三宝院義演が大和郡山(大和国)を発ち応其の所領がある紀伊国清水に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月17日 40歳
三宝院義演が、清水(紀伊国)を発ち天野越えで高野山に登る。大門の外で下輿し高野山大塔に参詣する。興山寺に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月21日 40歳
応其が差配する高野山大塔の供養会を執行する。導師は三宝院義演
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月22日 40歳
三宝院義演が下山の旨を応其にとどめられ清厳寺での両門徒召請の論議を見学する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月23日 40歳
三宝院義演高野山を下山し清水(紀伊国)に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月24日 40歳
三宝院義演が清水(紀伊国)を発ち大和郡山(大和国)まで赴き当地で宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月25日 40歳
三宝院義演が大和郡山(大和国)を発ち玉水で中食後、醍醐寺に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月3日 40歳
三宝院義演が導師を勤めた3月21日の高野山大塔供養会の礼として応其が義演のもとを訪れる。
義演は応其が訪れたのを機に、豊臣秀吉より醍醐寺塔婆修造料として1500石の寄進を受けたので、応其に塔婆の修造を依頼する。応其はその依頼を引き受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月17日 40歳
伏見城(山城国)において豊臣秀吉秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われる。勅使をはじめ、八条宮智仁親王、伏見宮邦房親王、九条兼孝一条内基二条昭実近衛信輔鷹司信房、九条忠栄、徳川家康以下諸大名、近衛前久照高院道澄、妙法院常胤、三宝院義演、大覚寺宮空性、聖護院興意、梶井宮最胤、曼殊院覚円、一乗院尊政、大乗院義尋、本願寺准如が参列する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 7月17日 40歳
文禄5年閏7月13日の大地震により大破した大仏にかわり大仏殿に安置する善光寺阿弥陀如来(関寺阿弥陀堂に安置)が大津(近江国)に到着する。応其は大津から大仏殿に遷座するにあたり諸門跡の行列を編成の差配をする。
大仏殿に到着後、新造の宝塔に善光寺阿弥陀如来を安置する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月18日 40歳
応其の差配のもと善光寺阿弥陀如来が大津(近江国)から大仏殿に遷座する。その行列には、天台宗・真言宗の僧侶各々50口を先頭に応其、警護の浅野長政が続き、さらに照高院道澄・妙法院常胤・三宝院義演・聖護院興意・梶井宮応胤・曼殊院覚円といった諸門跡が続く。行列を一目見ようと貴賤が群集し、伏見の大名衆は桟敷を構えて行列を眺めたという。
大仏殿到着後は宝塔に善光寺阿弥陀如来が安置される。
この日より、「大仏」を改め「善光寺如来堂」と号す(『鹿苑日録』)。
西笑承兌は大仏は織田信長、大仏を倒した地震は明智光秀、善光寺如来は豊臣秀吉になぞらえる。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月9日 40歳
三宝院義演が『醍醐雑要』を書写し終える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月10日 40歳
豊臣家の奉行が三宝院義演のもとにやってきて柴公事を徴発される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月13日 41歳
前田玄以が送った醍醐寺五重塔修造用の材木150本が醍醐寺に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月20日 41歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。膳には三宝院義演が相伴する。泉水の縄張り、中島に護摩堂1宇を檜皮葺で造り橋を架け、滝を2筋拵えることを義演に伝える。また聚楽第(山城国)より名石を移すと義演に述べる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月22日 41歳
増田長盛前田玄以長束正家が醍醐寺を訪れ、豊臣秀吉の醍醐寺での花見のための仮屋の普請を命じていく。非時を三宝院義演とともにする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月23日 41歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。醍醐寺を再興することを伝え、門跡である三宝院義演に1000石を給付する。その内300を六坊再興に用い、残り700石を門跡の蔵(義演)が納めるようにと命じる。再興につき、金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・五重塔・湯屋・三門の建立を命じる。金堂等の建物は大和もしくは河内の1、2ヶ寺の堂舎を移すようにと命じる。造営奉行は応其に命じる。三宝院門跡の寝殿普請は増田長盛に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月28日 41歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。膳を受けている途中、応其が大和国よりやってきて、伽藍に用いる堂舎の指図を秀吉に見せる。また、醍醐寺鎮守拝殿に、先年、秀吉が興福寺に参詣した折に作らせた舞台・楽屋を移築する旨、応其が提案する。その提案に対し秀吉は、楽屋については、建設予定の寝殿と大きさが似ているため、寝殿に転用するようにと命じる。ついで六坊へ各々50石ずつ給付することを伝える。三宝院の建物は六坊へ下行(移築)するようにと三宝院義演に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月5日 41歳
醍醐寺五重塔が完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月6日 41歳
醍醐寺五重塔修造のため組んでいた足場をすべて解体する。醍醐寺五重塔に石段を敷く。応其配下・深盛が三宝院義演を訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月13日 41歳
豊臣秀吉が醍醐寺での花見を15日に開催する旨、醍醐寺三宝院義演に申し伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月14日 41歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月15日 41歳
豊臣秀吉が醍醐寺にて諸大名を召し連れ花見を催す。三宝院義演へ銀100枚を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月16日 41歳
15日に開催された醍醐の花見の礼として醍醐寺三宝院義演豊臣秀吉のもとを訪れる。前田玄以が取次をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月17日 41歳
前田玄以が家臣を召し連れ醍醐寺に赴く。三宝院義演より非時を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月20日 41歳
徳川家康三宝院義演に醍醐寺三宝院に咲く牡丹を所望する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月25日 41歳
15日の醍醐の花見で豊臣秀吉が、秀吉・豊臣秀頼・北政所・女房衆らが詠んだ歌の短冊を三宝院義演に贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 4月5日 41歳
伊達政宗が奉行をつとめる醍醐寺楽屋の様子を見舞うため醍醐寺に赴く。醍醐寺三宝院義演が政宗に樽2荷・両種を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月8日 41歳
醍醐寺金堂の普請について豊臣秀吉より早急に建立するようにと応其が言い渡されたことを、応其が三宝院義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月9日条

慶長3年 1598年 5月11日 41歳
応其が宇治平等院の修造を命じられる。三宝院義演より糒袋を送られる。16・17日あたりに醍醐寺に向かうことを義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月20日 41歳
応其が醍醐寺の北にある赤間の福万家に住む。三宝院義演より見舞いとして樽・食籠が贈られる。高野普請の下法師の宿は赤間御陵に20間、醍醐寺より用意してもらう。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月6日 41歳
応其が醍醐寺金堂作事にあたり地鎮祭の執行を三宝院義演に求め、義演より許可を得る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月8日 41歳
醍醐寺金堂の基礎工事を終える。三宝院義演がやってきて、高野法師とともに酒を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月12日 41歳
醍醐寺金堂作事につき造営料が豊臣秀吉より下行されていないので、応其伏見城(山城国)に向かい下行を訴える。しかし、下行がならなかったので、義演にその旨を伝える。夕方、仮屋にて三宝院義演と相談をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月14日 41歳
三宝院義演応其に樽2荷・両種を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 7月3日 41歳
醍醐寺金堂に用いる瓦が石田船入に到着した旨を三宝院義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 41歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 1月22日 42歳
三宝院義演石田三成に杉原10帖・扇1本を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 1月22日 42歳
三宝院義演大坂城(摂津国)にいる豊臣秀頼に祈祷の巻数を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 2月2日 42歳
三宝院義演が醍醐寺(山城国)金堂の造営を応其に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 3月6日 42歳
醍醐寺(山城国)金堂建立のための瓦5000枚余が、石田(山城国)に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 3月7日 42歳
醍醐寺(山城国)金堂建立のため、檜皮師が同寺に訪れる。また、瓦6000枚余が到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 3月8日 42歳
醍醐寺(山城国)金堂建立用の瓦が到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 6月28日 42歳
応其が石山寺(近江国)の造営のため現地に赴いていたが、この日、大仏殿近くの坊舎に戻り、大仏千僧会に出仕するため上洛した三宝院義演と対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月9日 42歳
遍照院覚栄義演のもとに訪れる。8月12日に方廣寺(山城国)の応其の坊にて灌頂を執行すること、8月13日に豊臣秀吉の追善のため結縁灌頂を執行することを伝える。導師は宝性院。
義演が前田玄以に醍醐寺(山城国)の金堂建立の許可を請う。玄以はすぐに許可を出すと返答する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月12日 42歳
大仏殿の坊舎にて、三宝院義演より灌頂を授かる。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条

慶長4年 1599年 8月13日 42歳
豊臣秀吉追善のため、大仏殿の坊舎にて、応其三宝院義演より結縁灌頂を授かる。東寺の寺僧が残らず出仕したという。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条条

慶長5年 1600年 1月17日 43歳
義演が醍醐寺(山城国)の金堂建立のことについて、応其と談合すべく、演照・演賀を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 1月20日 43歳
応其が醍醐寺(山城国)の金堂造営につき、雑料の目録(見積)を義演に送る。ただし、応其の見積には材木に関する記載がなかったため、材木分についても報告するように応其配下の覚栄に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 1月21日 43歳
応其義演に提出した醍醐寺(山城国)金堂造営の雑料目録(見積)を、義演は前田玄以に送る。ただし、玄以は、朝に丹波亀山城(丹波国)に帰城したため目録は渡せず。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 1月25日 43歳
義演応其より提出された醍醐寺(山城国)金堂造営の雑料目録(見積)を、再度、前田玄以に送るべく演賀・堯政を遣わす。ただし、玄以は、大坂(摂津国)に下向してしまったため渡せず。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 2月9日 43歳
醍醐寺(山城国)の金堂造営につき応其が作成した見積を前田玄以に届けるべく大坂(摂津国)に遣わした演賀・演俊が、義演のもとに戻る。両名は玄以が金堂造営料について了解した宗と、豊臣秀頼への礼を2月15日にするようにと指示があったことを義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 2月10日 43歳
醍醐寺(山城国)の金堂造営について、義演前田玄以による造営料についての認可が得られたことを応其に伝える。
15日に予定されていた豊臣秀頼への礼が延引となる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 3月3日 43歳
応其義演のもとを訪れる。醍醐寺(山城国)の金堂造営料(1700石)の交付を記す折紙を応其が義演に渡す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 3月6日 43歳
醍醐寺金堂の柱立を行う。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 3月27日 43歳
醍醐寺金堂の棟上を行う。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 4月4日 43歳
応其が醍醐寺金堂の造営見舞いとして同寺を訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 4月6日 43歳
醍醐寺金堂造営につき吉日であるので瓦葺を開始する。覚栄が無事の建立を祈願するため醍醐長尾宮宝殿へ千句の懐紙を奉納する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 4月18日 43歳
醍醐寺金堂の棟札を三宝院義演が執筆する。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 5月1日 43歳
醍醐寺金堂が高欄を残し完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月2日 43歳
醍醐寺金堂奉行の覚栄が、大仏師をともない三宝院義演のもとを訪れ、非時を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月7日 43歳
大坂城(摂津国)にいる応其のもとに三宝院義演が書状を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月11日 43歳
応其が9日に金堂が完成した醍醐寺を訪れる。三宝院にて三宝院義演より非時を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月19日 43歳
前田玄以より三宝院義演に醍醐寺塔修造および金堂造営に用いた足場用の材木を大仏殿に運送するようにとの命が下る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月21日 43歳
19日に前田玄以より命じられた、醍醐寺塔修造および金堂造営に用いた足場用材木を、寺領民を人足として徴発し大仏殿まで運送させる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月29日 43歳
三宝院義演大坂城(摂津国)に使者を派遣し、醍醐寺領内での軍勢の乱暴狼藉等を抑制する禁制を請う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月30日 43歳
増田長盛長束正家前田玄以連署で醍醐寺領内での軍勢の乱暴狼藉・放火・山林竹木伐採・田畠の作毛刈り取りを禁じる禁制が大坂城(摂津国)より発給される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 8月3日 43歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日につき不動供を修す。
奉行(伏見城奉行の石田正継?もしくは増田長盛長束正家?)より、伏見城(山城国)より脱出した徳川家の落ち武者を発見した場合、捕らえるようにとの命が下る。義演はその旨を寺領の民に周知させる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月5日 45歳
三宝院義演板倉勝重に年頭の巻数を書き、200疋を送る。松田勝行に巻数・100疋を送る。ちや阿へ杉原10帖・両金小扇3本を送る。使者は井内経紹。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月7日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼に太刀・馬代300疋、淀殿に杉原10帖・帯1包、大蔵卿局に帯を送る。使者は三河寺主。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月10日 45歳
三宝院義演西笑承兌に杉原10帖、扇1本を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月13日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼の祈祷として不動供百座を執行する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月15日 45歳
卯刻(5-7時)、大坂に向けて醍醐寺を出る。伏見京橋より乗船。未刻(13-15時)、大坂に到着する。井内経紹・山田長運・井内経信・三河寺主が供奉。人足は50人程度。片桐且元・小出秀政に太刀1腰・馬代300疋を送る。両人のもとに三宝院義演自ら訪れ、且元の出迎えを受けたが秀政は留守のため対面できず。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月16日 45歳
辰刻(7-9時)、豊臣秀頼の御殿にて大般若経の転読を行う。転読の後、斎を受ける。施主の大名を参加する。布施として三宝院義演は銀子20枚・小袖1重を賜う。良家衆は銀子3枚、平民衆は銀子2枚を賜う。義演供奉の僧は3300疋を賜う。また賄料として米2石を賜う。その後、秀頼と対面し、盃を受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月17日 45歳
辰刻(7-9時)、三宝院義演が醍醐寺に向けて森口より出発。橋本にて休息。未刻(13-15時)醍醐寺に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月19日 45歳
片桐且元三宝院義演に太刀、馬代300疋、天野樽1荷を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月21日 45歳
二条昭実三宝院義演に樽3荷、3種を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月23日 45歳
長谷寺の中性院専誉が三宝院義演のもとにやってきて杉原10帖を贈る。根来寺を再興すること伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 2月3日 45歳
醍醐寺にて三宝院義演豊臣秀頼の誕生日祈祷を行う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 2月19日 45歳
摂関家の九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房、門跡の妙法院常胤、三宝院義演、梶井宮承快、青蓮院尊純、随心院増考、伏見宮邦房の名代・庭田重定、覚深の名代・亮淳とともに徳川家康に礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長7年 1602年 2月29日 45歳
父・浄明珠院の月命日仏事を行う。
西笑承兌、閑室元佶、文珠院勢誉が訪れる。3人より徳川家康の醍醐寺訪問予定が伝えられ驚く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月6日 45歳
三宝院義演が聖宝御精進供を備える。
義演が板倉勝重に樽、1折を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月7日 45歳
三宝院義演が聖教目録を箱に納め整理する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月9日 45歳
三宝院義演が聖教目録に合点を入れ納める。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月16日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼に杜若、竹子を進上する。
根来寺中性院専誉の極官についての勅許を勧修寺光豊に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月17日 45歳
三宝院義演前田玄以に病の見舞いとして樽を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 3月18日 45歳
甚目寺座主職について金蓮院演照が松平忠吉に訴えるべく三宝院義演に添状の発給を請い義演が認める。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 4月4日 45歳
三宝院義演東寺金堂建立中の文珠院勢誉のもとに見舞いとして杉原10帖、扇を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 5月1日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼のために愛染護摩祈祷、不動護摩祈祷を修す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月4日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼へ当月の祈祷の巻数、樽3荷、菓子折(金銀絵入り)、蒸し竹子を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月14日 45歳
未刻(13-15時)、三宝院義演が醍醐寺を出発し、伏見(山城国)より乗船し、翌日の寅刻(3-5時)、大坂に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月15日 45歳
早朝、三宝院義演が、大蔵卿局の案内のもと、淀殿に瀑布10端、大蔵卿局に瀑布5端、いちやへ2端を贈る。その後、大蔵卿局より樽2荷、両種、外飯1荷が贈られる。義演は小出秀政に帷子3つ贈る。片桐且元にも贈ろうと考えたが、伏見滞在中にて会えず。
午末刻(13:00直前)に四天王寺に参詣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月16日 45歳
三宝院義演大坂城(摂津国)にて大般若経を転読する。
義演が大坂の織田有楽斎亭を訪れる。義演は長益のことを「秀頼卿御親類執事」と日記に記す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月18日 45歳
三宝院義演が伏見(山城国)にいた片桐且元に錫5双を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月20日 45歳
三宝院義演板倉勝重に帷子1重を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月21日 45歳
三宝院義演板倉勝重に楊梅1折を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 6月1日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼のために醍醐寺灌頂堂にて理趣三昧、愛染百座を修す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 6月29日 45歳
方廣寺にて大仏千僧会が執行される。1番は真言宗で三宝院義演が導師をつとめ、第2番は天台宗で曼殊院良恕が導師をつとめる。3番以下は、通常通り。
義演は出仕後、東寺金堂の作事を見物する。
二条昭実邸を訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 6月29日 45歳
方廣寺にて大仏千僧会が執行される。1番は真言宗で三宝院義演が導師をつとめ、第2番は天台宗で曼殊院良恕が導師をつとめる。3番以下は、通常通り。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 7月26日 45歳
徳川家康の母・於大の方の病気回復を命じる23日付の綸旨が三宝院義演のもとに到来し、醍醐寺の山上・山下に祈祷の執行を触れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 7月29日 45歳
三宝院義演板倉勝重、松田政行に八朔の礼として100疋を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 8月3日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日につき大般若経を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 8月4日 45歳
徳川家康の母・於大の方の病気回復祈祷が結願を迎える。巻数を伝奏に進上する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月1日 45歳
三宝院義演東寺金堂建立に棟札を書く。文珠院勢誉は「本願」とされる。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 9月3日 45歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日につき大般若経を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月16日 45歳
大坂城(摂津国)にて三宝院義演が大般若経を転読する。豊臣秀頼は義演と対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月18日 45歳
三宝院義演が、石山寺供養は23日で決定なのか大坂(摂津国)にいる片桐且元に問い合わせるため侍を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月19日 45歳
片桐且元が伏見(山城国)に到着する。石山寺供養は23日で決定である旨を三宝院義演に返答する。且元が義演に小袖1重を進上する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 10月2日 45歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に戻るべく伏見城(山城国)を発す。醍醐を通過した際、三宝院義演より菓子折1合を贈られ、輿より降りて礼をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 10月11日 45歳
文珠院勢誉三宝院義演に、豊臣秀頼より東寺金堂の本尊新造が命じられたことを伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長7年 1602年 10月16日 45歳
遍照院覚栄東寺金堂の本尊新造につき、大仏師・康正、康猶をともない三宝院義演のもとを訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長8年 1603年 3月17日 46歳
義演が永観堂(山城国)、慈照院(山城国)を見物する。醍醐寺への帰路、知恩院(山城国)の作事を見物する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月5日 48歳
三宝院義演豊臣秀頼への祈祷のため大般若経の転読を行う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月7日 48歳
三宝院義演豊臣秀頼へ年頭の礼として馬代300疋・太刀1腰を、淀殿に杉原20帖・帯1包を、千姫に杉原20帖・帯1包・巻数を、大蔵卿局に帯1包を、片桐且元に杉原30帖を送る。使者は井内経紹。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月10日 48歳
豊臣秀頼の命により新造された九条兼孝の邸宅を三宝院義演が見物する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月14日 48歳
三宝院義演大坂城(摂津国)で祈祷を行うため50余人(うち経衆は15口)を召し連れ醍醐寺を出発。伏見より乗船(3艘)する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月15日 48歳
亥刻(21~23時)、三宝院義演が大坂に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月16日 48歳
三宝院義演が、大坂城(摂津国)に登城し、豊臣秀頼への祈祷として大般若経を転読する。
午刻(11~13時)に宿坊へ帰り、17日参内する予定ができたためすぐに上洛する。しかし、帰路で参内は延期の旨、連絡が入ったため、醍醐寺に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 1月21日 48歳
豊臣秀頼の息災を祈祷するべ、22日より三宝院義演一人で大般若経の転読をすることを決める。それにつき、大坂城(摂津国)へ使者を遣わし撫物を取りに行かせる。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 1月22日 48歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経240巻を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 1月22日 48歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経170巻を転読する。秀頼より息災である旨返事が来る。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 1月23日 48歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経90巻を転読し結願を迎える。
以心崇伝が義演のもとに訪れたので、非時を伴にする。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 2月3日 48歳
三宝院義演豊臣秀頼の誕生日(3日)につき大般若経の転読を行う。義演一人で130巻を転読する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 2月5日 48歳
覚栄三宝院義演に扇6包を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 2月18日 48歳
三宝院義演が『醍醐寺要録』巻1の執筆を開始する。「序」「濫觴部」と書き進め、醍醐寺の始まりについて記す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月20日 48歳
東寺南大門完成につき、本願である文珠院勢誉が棟札の板を三宝院義演に進上し、棟札の文章の執筆を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月15日 48歳
三宝院義演が大坂(摂津国)に赴くべく、卯刻(5-7時)、醍醐寺を出立。伏見(山城国)より乗船し、午刻(11-13時)、大坂に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月16日 48歳
三宝院義演大坂城(摂津国)に登城し、大般若経を転読する。法会後、豊臣秀頼に対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月17日 48歳
三宝院義演天王寺に参詣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月29日 48歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読を、辰刻、醍醐寺にて開始する。導師は三宝院義演。名代として養源院成伯が訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月1日 48歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月2日 48歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月3日 48歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月4日 48歳
豊臣秀頼の立願による大般若経の真読が醍醐寺にて行われる。巳刻(9-11時)、結願する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 6月28日 48歳
飯道寺岩本が入峰の礼として三宝院義演のもとを訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 8月8日 48歳
督が8月11日に姫路(播磨国)に下向につき、三宝院義演に路次の安全祈願として銀子2枚を進上する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長12年 1607年 1月6日 50歳
池田輝政三宝院義演に節分の祈念を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月1日 56歳
三宝院義演が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月2日 56歳
照高院道勝、三宝院義演駿府城(駿河国)に登城し、南殿にて徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月5日 56歳
公家衆・諸大名が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
家康が照高院道勝と三宝院義演を召し、本山派・当山派の双方に出入りする山伏について裁定を下す。不動院(武蔵国)は追放と裁許がなされる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 58歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 67歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永3年 1626年 閏4月21日 69歳
三宝院義演が死去する。
出典:-

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