人 物 史

足利義稙 あしかが よしたね
生 没 年文正1年(1466)7/30-大永3年(1523)4/9
出 身-幼 名-
別 称義材、義尹
法 名-
戒 名恵林院殿道舜巌山大居士
足利義視足利義政[養父]日野良子(裏松重政の娘)
兄 弟 姉 妹足利義稙、実相院義忠、慈照院周嘉、水野義純、照禅院了玄
配 偶 者細川成之の娘、山名豊重の娘
足利竹王丸、娘
官 位左馬頭、右近衛中将、参議、権大納言
役 職室町幕府 征夷大将軍
城 郭-
参 考 文 献足利義稙に関する参考文献
関 連 デ ー タ足利義稙の関連文化財
足利義稙 年表
文正1年 1466年 7月30日 1歳
足利義稙が生まれる。
出典:-

応仁1年 1467年 3月5日 2歳
「文正」より「応仁」に年号が改まる。
出典:-

文明1年 1469年 4月28日 4歳
「応仁」より「文明」に年号が改まる。
出典:-

長享1年 1487年 7月20日 22歳
「文明」より「長享」に年号が改まる。
出典:-

延徳1年 1489年 8月21日 24歳
「長享」より「延徳」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 27歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

明応2年 1493年 1月10日 28歳
足利義材が節分の方違のため細川勝久邸に赴く。
出典:『北野社家日記』同年月11日条

明応2年 1493年 1月22日 28歳
辰刻(7-9時)、足利義材が細川義春邸に帰る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

明応2年 1493年 1月25日 28歳
未刻(13-15時)、足利義材が北野社松梅院にて馬を召し、紫野(山城国)を巡る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

明応8年 1499年 2月25日 34歳
長谷寺勧進聖 玄空が、北陸地域のことに詳しく、長谷寺勧進で「越中御所」足利義材のもとへ交渉に赴く十穀僧を連れて尋尊のもとを訪れる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応8年 1499年 11月22日 34歳
坂本(近江国)にて足利義尹と六角高頼が戦い、高頼が勝利する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

文亀1年 1501年 2月29日 36歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 39歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 4月15日 43歳
夜、足利義澄が近江国に逃亡する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 6月8日 43歳
足利義尹が上洛し吉良邸に入る。大内義興が供をする。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 7月1日 43歳
足利義尹が正三位となり、征夷大将軍に再任される。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正6年 1509年 10月26日 44歳
夜、足利義尹が足利義澄の刺客に襲われ負傷する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正8年 1511年 8月16日 46歳
足利義尹、細川高国大内義興が丹波国に逃れる。
出典:『厳助大僧正記』同年月条

永正8年 1511年 8月24日 46歳
船岡山(山城国)にて細川澄元大内義興が戦い、義興が勝利する。
出典:『厳助大僧正記』同年月条

永正8年 1511年 9月1日 46歳
足利義尹が上洛する。
出典:『厳助往年記』同年月条

永正10年 1513年 2月14日 48歳
足利義晴足利義尹が和睦する。この和睦につき、義晴が太刀(真久)、馬を義尹に進上する。
出典:『伊勢貞助記』同年月日条

永正10年 1513年 5月1日 48歳
足利義尹が甲賀(近江国)を発ち、園城寺に入る。
出典:『厳助往年記』同年月条

永正10年 1513年 5月-日 48歳
将軍 足利義稙を細川高国大内義興、畠山尚順、畠山義元が京都に迎える。
出典:『厳助大僧正記』同年5月1日条

永正14年 1517年 閏10月2日 52歳
足利義稙が有馬・塩原(摂津国)に湯治に赴くため、京都を出発する。
出典:『陰徳太平記』巻4「公方義植公有馬御入湯之事」

永正14年 1517年 閏10月22日 52歳
足利義稙が有馬・塩原(摂津国)に湯治より京都に戻る。
出典:『陰徳太平記』巻4「公方義植公有馬御入湯之事」

永正15年 1518年 4月3日 53歳
将軍 足利義稙北野社に参詣する。細川尹賢、一色政具、畠山順高、伊勢貞忠、高倉永家、伊勢貞陸、香阿弥、細川高国、畠山義聴が御供する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 2月15日 56歳
北野社勧進につき、将軍 足利義稙が奉加帳に判を据える。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 3月7日 56歳
夜、足利義稙が京都を密かに抜け出し、南荘に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 3月8日 56歳
将軍 足利義稙が蓄電する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 3月10日 56歳
夜、足利義稙淡路国に入る。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 3月26日 56歳
足利義稙相国寺にて常徳院(足利義尚)の33回忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

永正18年 1521年 6月-日 56歳
足利亀王丸が上洛するため、播磨国を立つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月6日 56歳
申刻(15-17時)、足利亀王丸が播磨国より上洛する。桂(山城国)にて細川高国伊勢貞忠が義晴を迎える。義晴は上京の岩栖院に入る。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『公卿補任』大永2年、『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永1年 1521年 8月23日 56歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永1年 1521年 10月23日 56歳
足利義稙淡路国よりに移る。
出典:『実隆公記』同年月日条

大永3年 1523年 4月9日 58歳
撫養(阿波国)にて足利義稙が死去する。位牌は相国寺恵林院に安置される。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」、『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

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